2021年2月15日月曜日

原子力、量子コンピューター、RNAワクチン(1)――文学から


量子論関連から、分子生物学的関連へと、少しずつ読書が移行しはじめた。

たしか、量子論をめぐる本を読みはじめたのは、河中郁男氏の『中上健次論』をこのブログで書評するにあたり、そこでの「観点」という批評用語を、これは量子力学から援用してきた概念ではないかと連想し、そう自身でも比喩的に言及してしまったから、比喩ですますわけにもいかず、少しは知っておかなくてはと思い直したからだった。

いわば、文学から、量子論へと入ったわけである。が、この推移は、恣意的ではない、ということも、のちにわかってきた。量子力学の創始にかかわり、コペンハーゲン解釈派の棟梁のようなニールス・ボーアが、当時の「心理学」で考察されてきていることが量子力学のアポリア、ボーアが「相補性」といって解決していく事態と同型的だと発言してもいるからである。その「心理学」とは、文学的には、「意識の流れ」と呼ばれていくような文学技法、内面の同一性というより、その偏移の描写をしはじめた動向と言い得るだろう。ジョイスやプルースト、フォークナーに受け継がれていくような問題意識である。だからそういう意味では、すでに河中氏が意図したかもしれない量子力学的「観点」は、すでに小説技法として実装されていたわけだ。が、20世紀初頭からのそれら文学が、シュレディンガー的な波動方程式、つまり、量子を波としてみてみる「観点」からだったとしたら、河中氏が中上の小説にみる「観点」とは、ハイゼンベルクの、それをむしろ粒としてみる見方、行列力学的な、不確定性原理的なものと言えるのかもしれない。秋幸は、エネルギー準位が変わって突然「量子飛躍」をおこして次なる軌道へと出現する電子のように、変貌していくのだ。もちろんどちらも、波であり粒子であるという、量子の同じ性質を違った方式において導いたものである。

ところで、20世紀初頭に出来てきた量子力学と、戦後のDNA発見によって隆盛してくる分子生物学の分野は、理論的にも、人脈的にも、つながっていたようだ。DNAらせん構造発見チームの責任者であったような元物理学者の人物は、アメリカの原子爆弾の開発にもたずさわっている。理論的にも、DNA中の原子や分子の配置を推察していくに、X線撮影や量子力学的な数式計算が必要になってくるらしい。私はまだブルーバックから読み始めている段階だし、大学のその分野の入門過程ぐらいの水準しか理解できないだろうが、それでも、いま遂行されようとしているRNAワクチンに対する、素人的疑問が次から次へとわいてくる。しかも現場職人をやっているから、たとえば、マイナス70度でキープしなくてはならない液体を、室温の注射会場での手渡し作業でとどこおりなく設計どおり実現できるものなのか、作業員レベルで疑わしくなる。温度があがったら、その液体の性質は、どうなるのだ? 何度の上昇までならOKなんだ? 空気に触れるリミットタイムは?…そういうレベルでも、新ワクチンの疑問に答えている記事を知らない。昨夜、党名を「つばさの党」に変更した党首が、ユーチューブでの動画でそれに近い疑問を投げかけていたのをみかけただけである。即時的な副作用ではなく、中・長期的な、世代間にわたる副作用が問題焦点となってくるのも、この遺伝子編集ワクチンの原理上、要請されてくる解明点だろう。が、それは、わからない、と学者は口をそろえる。わからないのに、やるのか? すぐ身近でもばたばた人が死んだり重症化でもしていたら、イチかバチかでやってみる必要はあるし、人々も納得するはずだ。が、実際には、非常事態宣言をだしても、二度目は通じず、街の混雑は平常通りだ。実感とかけはなれた政策が遂行されている、ということだ。だから、感染者の統計をみても、このワクチンを義務化できるかどうか微妙なので、自由意志で、とか言っている。が、忖度社会において、つまり天皇制下において、自らの選択など実現できるのか? 知り合いの、老人を自宅訪問してやっている女性介護士は、注射受けなかったら、仕事をさせてもらえないだろう、と言っている。たぶん、積極的に打ちたい人は大勢ではなく、打つ人の大半は半強制、で多くは、日本人の人為性を嫌う伝統的なメンタリティーからして、打たないのではないか、だから、50%&50%くらいの割合になるのでは、と私は推察している。だから、集団免疫、と以前はだいぶたたかれていた考えを実現しようとするには、判断微妙な割合になるかな、と。しかも、現時点で、感染者が減ってます、となっている。このままいくと、一般者の接種は6月か、といわれているが、打つ必然性が実感にはさらになくなり、頭で理解できた人だけの自主性で。だけどオリンピックだ、と自主接種要請のメディア世論は激しくなり……ユーチューバーじゅんちゃんがいうように、科学的に判断しようにも信用データがない、オリンピックを前にGo toキャンペーンも復活し、というわけのわからない日本的状況がさらに加速しそうな。

打つことを奨励している人たちは、全体の感染リスク軽減という統計的理解を前提としている。子宮頸がんワクチンで子供を産めなくなった女子高生の話を思い起こすと、統計ではなく、やはり実存、がんにかかってから対処するという覚悟のほうがいんではないのか? と私はおもってしまう。それなら、観念できるが、健康だった人が注射でいきなり不全に、というのは、不条理すぎて納得・観念などできないだろう。が、他の世界の国々の人びとは、そう遂行しているのだという。この納得の仕方は、私には、というより、日本人一般は理解できないだろう。だから、中止のままで現在にいたっているのだろう。コロナ新ワクチン推奨派は、その子宮頸がんワクチンをこえて、現状の科学実践を受け入れるよう日本人の態度を変えるよう啓蒙すべきだ、と言ってもいる。が、先端科学技術の原爆を落とされた民衆にあっては、そんな直に肯うことなどできない、というのは、世界の民も、論理も理解できるはずだ。だから、その平和のためには原子力はいい、ワクチンはいい、など半端なことなどせず、研究はすすめても実践は慎重にゆく、と明確にすればいい。そうすれば、世界の趨勢の反対にポジション取りする先進国としての、つまり違った「観点」からのデータを、信用に値するものとして提供できる。

私は打つ気はないが、アトピーの子供はどうしたらいい? 自主判断はいいとしても、高校生に、どうアドバイスするんだ?(アレルギー体質者は副作用が高い、と指摘されてもいる。)―こういう話を女房にすると、あなたはぎゃあぎゃあさわぐ、と毛嫌いされる。いやおまえの安倍だの森だのといった世俗の話より学問の話のほうがマシで持続的だろう、と私はおもうのだが。もしかして、今度の虫垂炎手術で、ワクチンを打つよう医大から説かれていたりして、神経質になっているのだろうか? 60歳以上のババアに打って、死んでくやつが死んでいけばいいんだよ、実際これから年寄りから先に打ってくっていってるじゃない、というのが、女房の意見なのだが、なんでそんな意見が世間で通るとおもっているのか、普通の意見だとおもいこんでいるのか、私には不可解で、驚くばかりなのだった。

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