2021年2月21日日曜日

原子力、量子コンピューター、RNAワクチン(2)ーー哲学から


このタイトルで考察をはじめてみようとおもったのは、すぐ先の将来へと開発されている科学技術、原子力(爆弾、発電所)技術の延長としての「量子コンピューター」、遺伝子設計操作としての「RNAワクチン」開発などに現れるアポリアが、人体に悪い、とかいう話ではなくて、量子研究において直面した<観測問題>にあるのではないか、と気づいたことによる。その難問を回避した科学技術実用化への人類の進歩は、原子力が制御しうるものではないという災害を予兆として幾度も体験しながら、その危機が人体や生態系といったマクロな広がりのなかで理解されているため、その被害影響を直接的に受けてはいない、被災を実感できる領域の外にいる大半の人々に支持されているかのようだ。

よって、私がいま素人の手探りで進めているのは、具体的な現場としてのこの三つに象徴される技術が、本当に、量子的現実として通底しているものなのか、のまずは確認作業になる。原子力と、量子コンピューターならば、まだ関連はみやすい。が、新型コロナと称されるものを抑えるために実施されはじめたmRNAワクチン等の、分子生物学的な成果の延長となると、関連は不透明である。DNAからRNAからタンパク質へ、というセントラルドクマの逆を行かせて人為物を細胞内に進出させる技術のどこで、どのように量子的現実がかかわってくるかは、量子生物学という分野はあるけれども、なお不明なままである。わかっていることは、細胞内の出来事、相互作用は、わからない、アメリカでのワクチン開発に携わった日本人医学者の言葉では、「ブラックボックス」になっているということである。だから、抗体反応が発症したかいなかの治験者の統計結果をもとに、その有効性を判断するということになる。が、たとえば、植木職人の私が、雑草を枯らすのに、ラウンドアップ、今ではグリホサートとか呼ばれる除草剤を使ったとしよう。この会社の企画は、自社製品の除草剤では枯れない農産物の種を遺伝工学的に開発し、しかも、その農産物からは種が収穫できないよう自殺遺伝子が組み込まれているため、途上国の農家が、毎年、除草剤と種をセットで購入しなくてはならないようにすることであった。もちろん、除草剤自体、環境にも人体にも毒である。しかし、それを撒いて草が枯れるならば、その企図どおりなのだから、その限りでは、問題はないだろう。では、効かなかったら? 草が、枯れなかったら? 問題は、そこにある。ということは、たとえ効いた、有効だったとしても、それを超えて、問題があるということだ。抗体反応という、限定された観測装置の結果をこえて、観測される以外の影響があるはずであり、それは、見ようとしていなかったり気づかれなかったら、いわば、わからない、ということになる。細胞内は、様々な物質が過密状態になっている。そこに進入した(できた)RNAによる、設計図を実現するための材料調達は、偶然任せであろうといわれている。たまたま近くに接していたものはすぐに、動き回ってもなかなか必要物質に出会えない場合は、設計構築は遅くなる。早ければ数秒で実現されるが、おそいと、数分の場合もあるそうだ。しかし、そのうじゃうじゃ状態が、どのような物質連関によって存在しているのかは、「ブラックボックス」だというのである。これはなお比喩的にしかならないとはいえ、A地点からB地点へと行く(現れる)電子の軌道過程はわからない、つまりこの物質で満たされているはずの空間で何がおこっているのかは「ブラックボックス」のままだ、という量子的現実と似ている。

※※※ 

昨日の毎日新聞の朝刊で、歴史学者の加藤陽子氏が、東京オリンピック開催是非の件に関して、次のように書いている。

<…日本の政策決定でよく目にする「言霊対応」は、もはや許されない状況となった。日本と世界の感染状況に対応し、科学的知見に裏付けられた、科学的検証に堪えうる施策が実施できるかどうか。ここに、開催可否の基準が置かれるべきだろう。この場合の科学的知見は、公開性かつ共有性が担保されていなければならない。科学に基づいて判断がなされた、と内外から信頼される政治決定が求められる。>(2021/2/20)

世界大戦で敗戦していった日本の時事過程を鑑みて、上のように反省的・自戒的な発言を繰り返していくのは当然だ。しかし、より広く、科学を成立させてきた認識基盤に問題があるとしたらどうだろう? 原爆開発までいった量子的現実が突き付けたのは、そういうことではないのか? この大枠的問題への意識は、このブログでも紹介した物理学者の佐藤文隆氏の指摘があった。しかしいくらなんでも、他にもあるだろうとさぐってみると、廣松渉氏の仕事が、そここそを哲学的に考察しているのだと気づかされた。廣松氏の、『世界の共同主観的存在構造』は、量子論的現実にふれた科学認識の当否を主題化しているともいえるのだそうだ。私はこれをまだ読んではいないが、その知的大衆向けの解説本、『科学の危機と認識論』(紀伊国屋書房/1977年発行)からの抜粋を、以下に引用しておこうとおもう。が、氏の認識射程は、もちろん、量子コンピューターなりのいまの技術成り行きまでには届いていない。アインシュタインらが突き付けた認識のアポリア、EPRパラドックスと言われたものが矛盾ではなく現実だと観測実証されたのが1980年以降、それがEPR相関、と実用的に認識しなおされて言いかえられ、量子コンピューター開発につながっているわけだが、そうした現在までの過程で、廣松氏の暗示した三つの方向性のうちの悪いものが、ひとり突っ走っている、という見立てになるのではないかとおもわれる。私は、氏が指示する理論的方向は、思弁なんではないかといまは退けるが、もう一つの方向、「日常的な世界概念の場面でのゲシュタルト・チェンジ」をさぐる日常的な実践に興味がある。理論的思弁が、そこに、関われるとはおもわないのだ。

<――ところが、その後、素粒子論が盛行する時代になると、これは日常的な世界概念との接点が弱いので、一般人にとっては別世界のことのようにしか思われない。そのうえ、場の量子論そのものの論理構成が多分に古典的なそれに近い。だから、近代的自然観の危機というよりも、逆に、近代科学的自然観の勝利のようにうけとめられがちだった。そのうえ、原子力の開発の成功といったことが重なったので、いよいよ科学万能みたいに世間では考えがちであった。
――しかし、実は、素粒子論の行き詰まりがその帰結なんだけれども、素粒子論の基礎方程式であるところの場の量子論の論理構制、それを支える発想そのものが、近代的自然観の悖理を糊塗するものになっているわけだ。つまり、場の量子化によって、物質の波動性と粒子性という深刻な矛盾を表面から除去し、もっぱら量子の質点力学みたいなかたちで処理してしまう。ここでは、観測者の問題が絡むあの相対性理論はさしあたり棚上げされたかたちになっているし、場の相互作用的関係の第一次性はハミルトニアンの機械論的な加算の論理にすりかえられているし、また場の状態の確立波的な遷移も、それにともなって決定論的な一義的必然性で扱われる仕掛けになっている。
――素波理論ないし素場理論のかたちにおいてではなく、素粒子論というかたちで展開されたことそのものに問題があったといえるかもしれないな。
――さっきも言った通り、素粒子論は場の量子化に立脚しているわけだから、そういう言い方は見当はずれになると思う。
――無茶な言い方になるかもしれないけど、ニュートン物理学で一応はうまくいったために、それが立脚している発想の基本的な枠組みの矛盾や不当な前提がなかなか自覚されず、アインシュタインやハイゼンベルグの登場を俟たねばならなかったのと類比的に、場の量子論・素粒子論が一応はうまくいったために、或る意味では相対性理論や量子力学から逆行しているような発想の枠組に立脚しておりながら、その自己矛盾や不当前提が自覚的に克服されにくい結果になった。このため、実体複合型の存在了解や悟性的抽象の機械論的な発想が却って定着したきらいがある。こういう事情を指摘できそうだね。
――確かにそう言える面があることは認めるけれども、物理学者たちのなかにはかなり以前からそういう自覚をもってやってきた人たちがあるわけで、だから単なる方法論的自覚の問題ではない。事柄そのものがそれだけ困難だと考えるべきだろう。場の量子論では駄目だということ、素粒子論は原理的に行き詰まっているということ、この自覚が生まれてからもう相当に時間が経っているのだし……
――で、君としては、現場での問題もさることながら、日常的な世界概念の場面でのゲシュタルト・チェンジが総体的に進展していかなければ、一点突破・全面展開という具合にはいかないと考えるわけだね。
――まあそういうわけで、そこで認識論的・存在論的な省察ということ、それもいわゆる専門の哲学屋たちのスコラ談義としてではなく、現場の科学者たちとの対話可能性をもったというか、現場の科学者たちにとっても一つの手掛りになりうるような、そういう認識論の確立が待望されるわけだ。>(一般者向けにわかりやすく、ということでか、対話式になっている。)

※以前のブログで、副島氏が量子コンピューター開発をめぐって指摘した「三体問題」なるものに私はなお量子論関連の読書上出会っていない、と記述したが、素粒子論の現場で問題化されているのだということを、廣松氏の上の著作から知った。以下そこも、引用しておく。

<――それというのも、元来、ハミルトン函数というのは、三体問題の解法から由来している。つまり、太陽と地球と火星というような三つの天体が相互的に作用しあいながら運動するとき、どういうぐあいになるか、というかたちの問題だ。二体間の関係ならニュートンの運動方程式からすぐ解けるが、はじめから三体を扱うと解けなくなってしまう。そこで、二体間をまず考えて解いておき、第三の影響は補正ということでつけ加えるわけだが、第三の影響がきわめて小さい場合にはそれで何とか摂動を処理できるのだけれども、強い相互作用がある場合にはもともと無理なんだ。
――最初のうちは素粒子が独立みたいに考えられていたときにはよかったが、新しく発見された素粒子の強い相互作用が問題になってくると、ハミルトニアンでは駄目だということだな。
――そう言っていい。摂動論の古典力学的な論理ではとうてい処理しきれない。こういう実体主義的な発想ではなく、初めから相互作用や相互転化を考える論理、項に先立つ関係の第一次性に即する論理、これが必要になってくる。>

量子コンピューターは、この「相互作用」をあつかう。DNAやRNAは水素結合であって、水素原子とは、陽子という素粒子が一つ、ということだ。量子生物学では、この陽子のトンネル効果などがウィルスの細胞内での相互作用に利用されているのではないか、と推察しているわけだ。しかしそのミクロなレベルの力関係は、観測できるようなものではなく、観測することそれ自体が対象に変異をおこさせてしまうという、認識上のアポリアなのである。

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