2021年8月14日土曜日

アスリートの責任とは――中動態ということ


オリンピックがはじまり、テレビで選手たちが競技するのを目にするようになって、私は、なんだかすまないような感じになってきた。とくに、サッカーでの日本代表対南アフリカ戦まえ、コロナ陽性者がでて試合開催が危ぶまれるなかで、南アフリカ代表の監督が、「私たちはギロチン台にたたされているようなものだ」とインタビューに答えているのをきいて、とてもいたたまれない気持ちになってきた。実現した試合など、とても見る気になれなかった。

そこで私は、ちょうどフェイスブック上で、アフリカ系であろう、1905年生まれというウマールさんという方からの友達リクエストを承認したら、次々と、ナイジェリアとかイスラム教徒であろう方々からの申請がきて数十人のフェイスブック・フレンズが膨れ上がったところだったので、何かメッセージをださねば、という感じになってきた。

 そこで、以下の英文メッセージを、かつて住んでいた団地から東京の高層ビル群を撮った初日の出の写真とともに、だしてみた。

 Tokyo Zombiecs 2020 is open! I feel bad for athletes. They are fighting. ButWho with? What for? By whom?

 英語の単語やフレーズが、実際にどういう含蓄で伝わるのかがわからない私は、この「すまない」という感じを、どう英語で表現したらいいのかを考えあぐねた。スマホでだが色々例文などを調べて、どうもこの一番の慣用表現、I feel bad for…が近いのかな、という気がしたので、それを使うことにした。なんで考えあぐねたかというと、「すまない」と感じるのが「私」なのかどうか、判然と感じられてこないからである。そしてこの慣用表現を選んだのも、もしかして、確かに文法的には<I>という主語がはいっているけれども、それは慣用的な無意識に沈んでしまっていて、英語をネイティブで受け取る方々は、無定的な共同性で感受するのでは、と想像されてきたからである。

かつて文芸批評家の柄谷行人は、志賀直哉の私小説を翻訳するに、I feel とするのは正確ではなくて、It feels in me…とすべきなのだ、と話していたことがある。日本語でなら、主語なしで「感じた」と書きえるが、英文では難しい。早稲田大の文芸科の授業で、渡部直己が、フランス語でなら、なんとか表現できるようになるんだけどどうやって? という質問があって、仏文にいったらどうなんだとフランス語の先生からいわれてもいた私が返答しなくてはという感じになって、「On(人々)」とか答えたら、「正解でよかったね」と言われたことなども思い出す。

 この「すみません」という感じは、ベネディクト・アンダーソンが、日米戦にあたり、「菊と刀」で、日本人の特殊性のように分析してみせた問題であるが、戦後の哲学のなかで、それにとどまらない問題なのではないか、と指摘されてきたことである。ホロコーストで生き残ってしまった人が、悪いことなどしたわけでもないのに、理由もなく罪悪感に襲われる。歳をとってから、突然自殺してしまう人などもいるのだという。レヴィナスなどによって考察されてきた。そして逆に、この災害的な事態において発生してくる人々の無定の連帯的な有り様を、「災害ユートピア」として把握するソルニットなどがあらわれてきた。私は、そのように、推定というか、感じている。そしてつけ加えれば、最近ふと、なのだが、同世代が特攻などで死んでいった三島由紀夫も、生き残って「すみません(すんでいない、終わっていない)」という罪悪感におそわれて、そこに発生する連帯感に、「天皇」という言葉をあてはめようとしたのではないか、と思えてきた。だとしたら、私には、なんでそこで「天皇」なのかがわからない。同じ世代でも、日本人のことだけで、それに殺されていった他の国の人々のことまでもが念頭にあがらなかったのか、というのが、「災害ユートビア」的視点からの疑問になる。そして、戦場に出て、生き残ってしまって帰ってきた日本人は、「沈黙」した。私は、村上春樹がだした「父」をめぐるエセーを通じても、その問題にふれた。「沈黙」するのは、罪を感じているからだ。が、それを引き起こしたのが「私」であると感じられていないとしたら? 近代法的に罰をあたえても、本人には自覚ができない状態での出来事なので、また繰り返してしまう現実性が滞留している。ラスコーリニコフは、法的に裁かれたが、殺人の反省などできなかった。しかし省察はしていただだろう。そして時間のたつなかで、理由もなく改悛したみたいになる。これは、志賀直哉が、意味もない気分で父と「和解」したのに似ている。この事態が、いいわけではない。が、近代的な主体性の思考範囲では、そこにある問題を解決できないどころか悪化させてしまうことが症状として露呈してきた世界の中で、もう一度人間の自然性を直視してみよう、という視点の一つとして、最近は「中動態」という用語が再燃しているわけだ(私は「量子論」の再燃も、その曲がった棒を逆にもどす一環であろうと考えている)。

 國分 …先ほどの放火のお話をお聞きになられて、「いやちょっと放火はまずいだろう」と思う人はみなさんのなかにも当然いらっしゃるでしょう。しかしじつはこの方の問題行動は放火だけじゃないんです。家じゅうの大事なものを片っ端からぶち壊すなど、さまざまな問題を抱えていた。

 けれども不思議なことに、一度それらの行為を外在化し、自然現象のようにして捉える、すなわち免責すると、外在化された現象のメカニズムが次第に解明され、その結果、自分のしたことの責任を引き受けられるようになってくるのです。このことが、当事者研究によってわかってきた。とても不思議なことですが、一度免責することによって、最終的にきちんと引責できるようになるのです。

 逆に、最初からこれはおまえがやったんだろうと責めるのでは、引責にも解明にもつながらない。そうしていると結局また同じことをしてしまうのです。そもそも本人もなぜ自分はこんなことをしてしまうのかと思っていて、自分を責めているのです。その気持ちが解明を妨げているのかもしれません。だからいったん免責をすることによって、自分はいったい何をしたのか、そのとき自分はいったいどんな感じであったのかを研究してみる。それが責任への道を拓く。>(『<責任>の生成――中動態と当事者研究』國分功一郎・熊谷普一郎 新曜社)

 日本国民の大半はおそらく、オリンピックが開催されるとは思ってもいなかっただろう。たしか開催の判断が迫られる数か月まえ、リベラル系のユーチューブなどで、電通の社員やオリンピック関係者が漏らしてきたとされる話を受けて、中止は決まっているが建前上公表できないだけだ、だから早めに明確に公表して損害を減らしていくべきだ、それから、IOCは中止にしたいが日本側がごねている、それから、いやIOCはこれで食っているのだからやめるわけもなく日本が引きずられているんだ、とか意見が飛び交うなかで、陽性者数が増加しはじめ、また緊急事態宣言だ、理由はどうあれいくらなんでもこれではできないんじゃないの、という世論的な成り行きのなかで、えっ、やんのかい、と強行されていった、ように私にはうかがえた。私も、やるとは思ってなかった。無茶苦茶な話になるので。が、決行され、すると、戦争突入と同じだ、無条件降伏だ、みたいな意見がでてき、閉会し、敗戦した、とかも言われる。これまでで一番のメダル数だったとのマスメディアの報道も、すぐに消え、コロナ重症者数も激増になり、パレードなど開催できるわけもないだろうから、たしかに、ムードは敗戦だ。

としたら、オリンピックに参戦したアスリートは、前大戦に召集された兵士と同じような立場という話であり、戦場にいき、生き残って帰還してきたことになる。そして、「沈黙(戦争後遺症)」に陥る。わけのわからない罪悪感におそわれながらも、それを処理できない。戦場の兵士やアスリートが、その罪の意識を事前に解消しようと、つまり加害者立場を回避しようと、ボイコットなどできない。できないのは、実際的にできないというよりも、論理上できない。自分が実際的に逃げられても、裏切ってしまった、自分だけ生き残ってしまった、という無定の連帯感が論理の前提になっているからである。もちろん、これは仮説である。

だから、当事者ではない私たちが、なおその災害から距離のある人々が、戦争を回避させなければならないのだ。ブラジルでのオリンピックが決まったとき、その国民の大半が反対デモに押し寄せた、という報道があった。そんな金持ちのために金を使うなら、自分たちのために使え、と。日本では、コロナ以前に、オリンピックに反対の考えを持つ人々自体が少数であろう。いやもう、うすうすはいらない、と感じているが、それを意識にのぼらせてはいない。これは、私たちの問題であり、アスリートの問題ではない。いまアスリートは、違った形で、ラスコーリニコフのように、沈黙の中で考えさせられているだろう。もちろん実際には、次から次へと資本の競技に追い立てられて、その暇もなく鬱屈を堆積させていくのだろうが。その後遺症を他人事と排除するのか、我が事として考えてみるのか。私たちと一緒に考えてくれ、当事者として考えなおしてくれ、と連帯的な言葉をだせるのかどうか。糾弾するのがいいのか?

 私は、イラク戦争が起きた時、「自衛隊員を見殺しにするな!」という幟を自作して、それを息子をのせたバギーにつけて反戦デモに参加した。女房は、それでは、戦争に反対なんだか賛成なんだかわからないじゃない、と口にした。集合場所でであった主催者の活動家たちも、その幟をみて、目を見張った。その息子は、来月、公務員試験を受ける。それは、自衛官も含まれる採用試験である。いまなら、女房にも、その反戦の意味は明白であろう。「息子を見殺しにするな!」ということなのだから。

 次回は、「息子の進路」と題して、そこらへんの考察を付記するだろう。

3 件のコメント:

suzuken2002 さんのコメント...
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suzuken2002 さんのコメント...

20年前、「自衛隊を見殺しにするな!」というエッセイは確かに重要だったと思います。実際、イラク戦争の現地に派遣された自衛隊員は、今回のブログ記事でも示唆されているように戦死者とはならなかったとしても潜在的な戦死としてのPTSDに多くが陥ったそうです。(ちなみに、国会においては、その問題を指摘してきたのは、旧日本社会党の政治家らです。)しかし、10年前からはどうか。自衛隊員が(当時の天皇明仁・美智子夫妻とともに)日本国民から戦後初めてのような水準で「歓迎」されたらしい東日本大震災からは。その点について、私は以前に正樹さんと関口さん宛てのメールで、久田将義著『原発アウトロー青春白書』という本にある福島県地元出身の原発作業員の若者の声を紹介しました。原発作業員からすれば、自衛隊員は「上」からやって来たムカツク存在に過ぎないという捉え方が、その本ではされていたかと思います。田舎の農家の次男三男の就職先としての自衛隊、よりも「下」の階級が既にできているということです、と、私はメールでお伝えしました。その後、現在の自衛隊員が派兵されようとしているのは、最終的には中国との戦争でしょう。その危機を予感しつつ今も「見殺しにするな!」と、叫べばどうなるか。もう、より安全に、自衛隊員がなるべく死なないように戦争をやってくれ、という意味を持つだけでしょう。そして自衛隊員の代わりには、沖縄の先島の住民達が死ぬのでしょう。私は、一昨年の末に太陽肛門スパパーンの反五輪をテーマとしたライブに参加したときにも、そういうことを考えました。彼らは福島県出身の自衛官で1964年東京五輪のマラソン代表だった円谷幸吉を持ってきた。円谷は「参加することに意義がある」とも言われた五輪に参加して、銅メダルを得ますが、しかし、次のメキシコ五輪では金メダルを期待されて、心身の疲労の末、自殺したわけです。その円谷の有名な遺書を絶賛したのが三島由紀夫ですが、左翼バンドであるスパパーンの花咲政之輔氏も、円谷に仮託して反五輪を訴えたわけです。正樹さんと同世代の同じ大学出身者らしくも、でもあるでしょう。しかし、そのライヴの感想として私が誰にも伝えなかったこともあります。それは、君が代の演奏を聞くのがつらかった、ということです。もちろん花咲氏は明らかに反天皇の立場から、音程を乱したり、色々パロディを加えて「批判」していた。それでも、君が代そのものの生理的なおぞましさが消えることはなく、聴いているのがつらかった。そこまで、花咲氏が意図していたでしょうか。聴衆は、皆さん笑っていました。立場というより感性の違いとして、正樹さんも私と同じには感じないでしょう。サッカー日本代表戦での君が代について、以前のメールで伺った言葉からも。

>としたら、オリンピックに参戦したアスリートは、前大戦に召集された兵士と同じような立場という話であり、戦場にいき、生き残って帰還してきたことになる。
東日本大震災で「活躍」した自衛隊員の場合と同様、今回のオリンピックの舞台は、日本国です。だから日本の「アスリート」について、この「召集」という比喩が、端的に間違いです。そもそも、私は単にコロナが流行しているから東京五輪に反対なのではなかった。それが真っ赤な嘘と血と金で塗り固めた五輪でしかないから、反対でした。そして、1964年五輪からして、戦争指導者だった昭和天皇が「平和の象徴」として鳩を飛ばして再デビューすることが根本的な目的だったことを見逃すことができないように、今回も徳仁天皇夫妻のための五輪であった。より直接的には、JOCの委員長をやっていた竹田恆和という旧宮家で、明仁上皇のはとこ(自動車で死亡事故を起こしたこともある)が近代五輪の「祖国」フランス当局から五輪招致をめぐる贈賄疑惑からの捜査を受けていて、訴追されかねない状態にまで追い込まれている。今回の東京五輪を日本、東京が拒否できなかった根本的かつ最終的な動機は、そこにあると認識しています。
・JOCが弁護費用2億円負担 五輪招致で疑惑の元会長に(2021年8月8日)
https://www.asahi.com/articles/ASP876QNGP7NUTQP029.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%EF%BC%88%E4%BA%94%E8%BC%AA%EF%BC%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF,%E3%81%84%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
ご存知の通り、私は、大西巨人の徴兵拒否を闘争とみなさなかった認識を尊重しています。(ちなみに、上記花咲氏は、大西巨人について、大砲好きだということからしておかしい、危ない、等と言っているそうです。)同時に、大西が新人賞を除く文学賞を否定し、ボイコットしたことも尊重するのです。21世紀に入ってから日本語に定着したと思われる「アスリート」という単語自体、この国で1980年代から芸術家、特には音楽家を「アーティスト」と呼んで崇めてきたことの続きとしてありますが、日本語として「アーティスト」「アスリート」と呼ばれるようになった時点で、彼らを下層階級の英雄(から逃げようがない立場の人間)とは、もう言えないし、見なしてはならないのです。1964年東京五輪を挟んで「お座敷小唄」を大ヒットさせた亡きムード歌謡歌手の子息の音楽家(ギタリスト)が自身のいじめ問題から開会式の作曲担当を辞任したこともその象徴です。これが、韓国の五輪野球の代表選手が銅メダル以上で徴兵免除を得られた(がしかし逃してしまった)というあの話なら、まさに「ボイコットなどできない。できないのは、実際的にできないというよりも、論理上できない。」ということになります。アメリカからフェイクニュースで潰されようとしているキューバの代表として金メダルを獲得したボクシングヘヴィー級選手にも、恐らく同様のことが言えるでしょう。

>これは、私たちの問題であり、アスリートの問題ではない。いまアスリートは、違った形で、ラスコーリニコフのように、沈黙の中で考えさせられているだろう。
しかし日本の「アスリート」はもう「円谷幸吉」には、「実際的」にも「論理上」なれないし、ならないのです。そして私も、ただ「アスリート」批判だけしているわけではない。むしろ「アスリート」がもう昭和のスポーツ選手とは違うのだとわかっていない人々を、批判しています。また、正樹さんが「私たちの問題」というなら、まずは、「アスリート」未満でしかない高校球児を「徴兵」してしまう「私たち」の問題から考えるべきだ、とも思います。その地点からならば、元高校野球キャプテンだった正樹さんの同意を共有することも、できないでしょうか。(というより、正樹さんの「アスリート」への意見自体が、多分にご自身の過去の野球体験の現在への投射ではないでしょうか。)私自身は、自分が中学生の時から日本の高校野球は間違いだと認識していて、自宅のテレビの高校野球は消すようにしており、しかし最近ふとしたきっかけでプロ野球をよく見るようにはなってから、夜中にBSで流れていたダルビッシュ有の東北高校時代のノーヒットノーラン試合の再放送を何となくつけてみて、ダルビッシュも含めた選手たちの動作のあまりのぎこちなさに驚愕しました。多数の選手にPTSDをも残してきた大会だが、選手の動きはADHD(多動性症候群)的です。あまりにロボットなアマチュアの動作でしかなく、ダルビッシュ本人が自称するような「高校野球マニア」でなければ、「楽しむ」なんてできるはずもない。いや「私たち」は「楽しむ」よりも「応援」しているのでしょうが、あれを「下手だな」と笑うのも、大事で、必要な過程ではないでしょうか。自分は何も野球なんて、できないですよ。でもあそこにみられる身体構造を笑って、そして、そこから改めて、悲しんで、「私たちの問題」として高校野球問題をどう解決するか、一人の成人日本国民として、そしてプロ野球ファンとして、責任意識は持ちたいです。引用されている國分功一郎氏の発言をとりあえず「私たち」に引きつけるなら、あの高校球児の(自ら責任主体であろうとする)身体構造をどう捉えるかの問題にも、なりはしませんか。

suzuken2002 さんのコメント...

>東日本大震災で「活躍」した自衛隊員の場合と同様、今回のオリンピックの舞台は、日本国です。だから日本の「アスリート」について、この「召集」という比喩が、端的に間違いです。
に念のため補足です。日本の「アスリート」は国内において優先的にPCR検査をいつでも何度でも受けることができたし、陽性となった際に入るための病床も当然に用意されていた。そこがこの日本の、この世界の現在の本当に「戦場」「最前線」なのですか?私も上のコメントでは、比喩(文学)として成り立つか、という基準に一応「おつきあい」して応答してしまっていますけど(コロナ問題が出現した後に東京五輪に反対し始めた人々への疑問自体は、私の立場からも多々あるのでもあり)、読み返すと、なぜそんな「おつきあい」の必要もあるのかとも、自ら疑わしくなります。そんな「おつきあい」もしてくれない、ただの無関心な他者----つまり、あなたは「戦場」をただの比喩として言っているのであって、コロナ病棟こそ比喩ではなくより純粋に現実に野戦病院ではないですか? 従軍していて、自分は逃げられても別の誰かが苦しむだけだと非常に強く感じて「戦場」に残って、たとえコロナが去っても多くのPTSDが発生することが非常に高い確率で予想されるのは、どう見ても、「アスリート」より、医療従事者、福祉労働者ではないのですか?----と、問うてくる他者に直面した場合、正樹さんは、答える言葉はありますか?