2021年8月18日水曜日

ワクチン接種をめぐる

 


ワクチン接種の模様が変わってきたようだ。

親戚関係的な身の回りでは早い時期にすでにすましていたが、最近は職場・仕事関係でも受けに行く人が多くなった。ゼネコンなどの現場に入っていると、打たざるをえなくなってくるそうである。営業づきあいでも、打ってなければ話し合い現場に参入しにくい、とかもあるようだ。

 私の勤め先でも、若社長や団塊世代職人さんが接種したのは知っているが、親方や奥さんのほうはどうか知らない。マスクをつけるのも普段意識していないから、私自身がなお接種していないことに、プレッシャーは感じない。そもそも、コロナは、話題にもならない。が、手伝いにいっている造園屋では、みな仕事まえの打ち合わせや、お客さんまえではマスクをつけるように言われるし、ワクチンもみな受けはじめ、一回目は終えている。ここでは、圧力はないが、気兼ねみたいのがでてくる。私は原則的に受ける気がない、とゆえに表明もしている。

 が家では、お昼のワイドショーばかりみている女房が、陽性者・重傷者が増加している状況が怖くなってきたのか、「なんであなたは受けないの?」と聞いてきた。「あなたがかかって世話するようになるのは私なんだからね。まわりに迷惑がかかるのよ」とか、「イツキがかかって帰ってきそうだわよね」とか言ってくる。手術後の以前までは、もう体をいじられるのが嫌な感じだったし、子どもには受けさせないほうがいい、という意見だったように伺えたが、変わってきたらしい。コロナにかかるかかからないか、ワクチン接種するかしないかは私にはどうでもいいので、つまりそんな健康だのなんだのはなんでもいいので、女房が怖がってパニックになるようなら、一緒に受けてみるか、という気にもなってきた。(持病ありでいい歳をしている女房は受けてもかまわないというか、受けたほうがいいのではとおもっているのだが、一人では受ける勇気がでない、ということなのだろう。)

 

が、ごく最近では、テレビでも、接種率の7割を超えているようなアメリカの州でも、「ブレークスルー感染」がでてきているだの、3回目が必須だのと騒がれてくるようになったので、また女房の判断はぶれてきているようだ。「ワクチン受けてなくて、かかって死んだり重症になるのはその本人だろ。受けてた人はそうならないというのなら、それでいいじゃないか。病気になって医者はじめ周りが世話するようになるのは当たり前だ。爺さんや障碍者たちにだって、人に迷惑をかけていいのです、それを気にしない世の中が素晴らしいと世間でも言われてきたじゃないか。木に登って落ちて死ぬのは植木屋本人だ、安全帯つけろヘルメットつけろと杓子定規にものをいって、いざそういう事件がおきたら安全対策を怠っていたからと金だそうとしない役人対処と同じだな。木から落ちたくて落ちるやつなんているわけないんだぜ。人間を信用しないことが前提になっている発想じゃないか」、というようなことを女房にいって、また屁理屈をいう、とか言われていたが、もうそう反旗を翻す気がお互いなくなってくるような感じだ。

 インドからのデルタ株だけでなく、ペルーからのラムダ株とかいうのも、日本女性が感染していたというのが羽田空港で検出されたというニュースもあった。デルタはまだインド=ヨーロッパ語族経由だが、ラムダは、マンモス追いかけてベーリング海峡から北米、南米へと降りていったモンゴル系のインディオたちの間で変異していったものかもしれない。ならば、東アジアではなぜか流行を抑えていた、ファクターXというのも、効かなくなる可能性もあるのかな、と思いながら、ころころ変わるニュースのバカらしさを超えて、なんだか面白くなってきたような自分を感じる。帰省もせず、ほぼこのお盆休みは東京の家にいて、こんなブログを書いているのだが、実験する勇気がわいてくるような。こっちにおいでよ、デルちゃん、ラムちゃん、俺の体をたたき台にして、お話してみないか?(このウィルスは女形なのだろう。)

      がこの下書きを書き終えたところで実家の兄から電話がき、母の認知症が高じたのか、隣家と雨どいの件で大喧嘩になっていると連絡がはいる。お盆休みまえも聞かされていたので、現場職人の私が見に行くことに。お昼にでかけ、原因を三つみつけて二点修復し、残り一点は隣家の方での手直しになるので、その現場写真とやり方を弟に教えて、夕方帰ってくる。入用至急だ。

 ※

私が、いまのコロナ状況とワクチン技術に抱いている疑問点の主要なものは、以下のことになるかもしれない。

 ①大阪大学関係の研究所の発見で、ワクチン設計にあたり標的としたコロナの突起部分の遺伝子情報でも、実際の生体との反応で、中和抗体という善玉の抗体だけでなく、ADE(抗体依存性増強現象…中和抗体がきれるとより感染悪化が発生しやすくなる、とされる。ノーベル賞受賞者の医学者も警告を発していたが、河野大臣は陰謀として否定している)を引き起こすような悪玉の抗体もが形成されていることを突き止めた件があったわけだが、これは、作成される善玉の方が多く悪玉の方が少ないから大丈夫という実用性をこえて、前提となっていた仮説が根本から崩されたことを意味しないのか?

 ②私は、日本ではなお感染状況がひどくなくても、世界ではひどいらしいままなのだから、医療体制を拡充する準備をしておくべきだと言ってきたが、そういう意見を述べるネット上のコメントなどで、そんなことはできないのはもうはっきりしているのだ、素人にやれるほど医療現場はやさしくはない、というものをだいぶ散見した。本当か? 手術するわけでもないのだから、医大生でも、ベテランをサポートしながらマニュアル技術を学んでいくことはできるだろう。交代でおこなう名簿や数人のチーム形成や、訓練の期間も、半年以上はあったことになる。他の国がコロナ専門の野戦病院のようなものを作れたのに、日本ではできません、というのは、国家の無能を表明していることになるのではないか? この点は、前回の日本サッカー界問題とも、通底してくるだろう。この決断を遂行していく主体の脆弱さの体制のことを、ジャーナリズム界では、「未完のファシズム」とも表現しているのかもしれない。以前は単に「天皇制」という用語が、広義で使用されていたわけだが。だからここに、前々回の「中動態」をめぐる議論が重なってくる。狭義の天皇制は変革しなくてはならないことが明白であっても、広義の天皇制には、掬い取らなくてはならない意義が、世界(主体)文脈上みえてきている、ということになるからだ。たとえば、近代法的に、昭和天皇が裁かれ、その首が敗戦後、飛んでいたとしよう。ならば、近代主体的には、もうその子には責任はない、と免罪されるだろう。が、人間にとって、それは本当であり、それですまされることなのだろうか? 自然現実では、すんでいない(「すみません」)のではないだろうか? ある意味、昭和天皇の首が飛ばず、「免責」されてしまったがゆえに、次なる平成・令和の天皇は、近代法を超えて、新しくどんな責任の取り方が自分たちにありうるのか「引責」し、模索してきたのではないかという印象もでるのだ(実際的には、昭和天皇の責任問題が曖昧なままにされてきただけなので、つまり責任のあるなしがあやふやなまま来たので、免責も引責もありえない中途半端状態が続いている、ということだろう)。狭義の天皇制からなら、そんな真面目な子どもたちだけではなく、ヘソだしダンス以上のとんでもない子息がでてきて、それが日本国民の象徴です、となりうるわけだから、変革は必要になる。が、それだけの思考範囲だと、人間の自然性を裏切った近代解決で終わりです、という話であり、世界の戦後の問題は、むしろそこからどうしたらいいのか、ということであったろう。たとえば、鳩山由紀夫元総理が主体的に動こうとしたら、すぐにもつぶされたという一件があった。八月革命で民主が主権をとったというなら、そんなことはありえない。実際には、天皇の首は落とされたのではなく、そこに首輪がつけられて手綱はアメリカ(連合国)が握っている、というのが、国連憲章でも記述された体制であったろう。これが日本国民の象徴的な姿なのだから、よく見ておけ、ということが、見せしめ的にも繰り返されてもきたわけだ。が、だからといって、首輪をつけられた象徴と戦って主権回復したぞ、とナショナリズムな文脈だけで遂行されれば、最近アフガンを奪還したタリバンみたくなる。いやタリバンには、イスラム教という、一国家をこえた大義文脈があるわけだ。だからそれと同様、世界的に開かれた文脈をもって、内政=内省的な問題もが解決されなければ、となる。その大義(文脈)のひとつが、主体を問う、ということであるだろう、ということだ。(そしてもう一つが、「世界資本下の労働」問題になろう、ということだ。)

 ③遺伝子操作ワクチン技術は、わからないことを、わかっていることに還元して考えていく思想の技術である。麻薬は、自分がわからなくなっていくことに肯定(快楽)していく思想であるとしたら、この技術の思想は、わからないことを否認して安心していこうという思想である。比喩的にいえば、わかることは、見えることは、X染色体とY染色体の組み合わせたる、男と女という二対である。わからない範囲も、そのどちらかに振り分けて理解していこうとする。が、RNAレベルで、性差にかかわる遺伝子は、おそらくそれなりの数であるであろうことが予想されるのではないだろうか? だとしたら、その組み合わせは、かなりの数で、二組どころではない。おそらく、LGDを自称する人々などは、それを身体内で感じているのであろう。まさに、レインボーの旗のように、性差はグラデーションみたくなる。ということが、ジャーナリズム世界でも明るみにでてきたということは、この遺伝子操作ワクチンが前提としているような技術水準の身体内世界が、人の現象としても現れるようになってきた、ということであろう。ならば、思想的に、いまのワクチン接種推奨の発想は、LGD問題に象徴されるような、未知なる多へと開かれた思想に、逆行していることになるのではないだろうか? それは、技術水準をこえて、イデオロギー対立をはらんだ階層間の対立でもあるのだろうか?

 

 女子医大に通う女房の話によると、病院の入り口に置かれた消毒液、手洗いをするもののところに、お子さんはつけないでください、というような案内が貼られるようになったらしい。消毒液をつけた手指を口にもっていって体内にとりいれたら、腸内細菌が減って回復せず、色々な病気にかかりやすくなることが指摘されてきたからだ。皮膚表面でも、自分を守ってくれる細菌や微生物も多いのだとか。以前なら、そんなことをいうと、陰暴論だ、と言われていたはずである。もしかして、そのうち、お子さんにはマスクをつけさせないでください、となるかもしれないが、これは、張り紙をつける箇所もない外での話になるから、無理ではあろう。が、育ち盛りの子が、マスクをつけて充分な酸素を脳みそに吸収させえないと、微妙な脳障害をおこすようになってくるというのは、本当の話なのではないかと思っている。

      <…ニューヨーク大学の微生物学教授で、ヒト・マイクロバイオーム研究の第一人者であるマーティン・J・ブレイザーは、『失われてゆく、我々の内なる細菌』(2015年)において、肥満、若年性糖尿病、喘息、花粉症、食物アレルギー、胃食道逆流症、がん、セリアック病、クローン病や潰瘍性大腸炎、自閉症、湿疹などの「現代の疫病」は、抗生物質の乱用や帝王切開、消毒液の使用などによって、免疫系や病気への抵抗性に重要な役割を果たしているマイクロバイオータ(常在細菌)が消失しつつあることと関係が深いと指摘する。>(小塩海平著『花粉症と人類』岩波新書)

 が、新型変異ウィルスが、本当に猛威をふるってきたら、マスクでもワクチンでも、実存的な選択を迫られる。マスクをつけて病気になりますか、つけないで病気になりますか、ワクチン打って病気になりますか、打たないで病気になりますか、というような。クマに崖までおいつめられて、崖から飛び降りるか、クマに向かって立ち向かうか、というような選択。どちらの選択をしても、もう碌なことはないという。接種後に死亡したとされる数は、さきほど厚生省のHPをのぞいたら、ファイザーとモデルナでの合計で、830人を超えるくらいであるらしい。韓国では、若い軍人が接種後になくなって、因果関係を政府が認めた。670人ぐらいが接種後死亡者数らしい。同じ人種でも、韓国の方が率が高いということは、韓国のデータの取得が正しいと予想し、その率で日本に当てはめれば、死亡者推定数は、もっと倍増するのかもしれない。が、いまのところは、接種してもたいしたことがない人が大半、接種しなくても無事な人が大半なわけである。いや、打っていたら重症化しなくなるんだ、という記事やニュースが、ちょっと前までだいぶあったのに、打った人の間で広がるブレークスルー感染やら、ビデオドットコムニュースでの神保さんも、打ったら重症化が防げるというのが医学的にもはっきりしておらず、ただ治療技術があがったのが理由なのかもしれないと言われてきている、と報告している。

 ころころ変わる世情につきあっていても、きりがないだろう。

 <そういうわけで、私の個人的な感懐としては、スギ花粉症は、日本という国が、私たち庶民やその周囲の環境を置き去りにして経済成長を追い求めたことに対する警告であると思われて仕方がない。荒唐無稽な思いつきに思われるかもしれないが、本書で縷々述べてきたように、花粉症という疾患は、単なる健康問題ではなく、現代人のわがままな振る舞いによって環境生態系との間にねじれが生じ、そのきしみやゆがみが私たちの身体反応に変化をもたらし、結果として花粉症という歴史的産物として表出したものと考えるほかない。したがって花粉症対策を講じるにあたっては、地球生態系との関係修復を視野に入れた人類史的なタイムスパンが必要となる。>(小塩海平著『花粉症と人類』 岩波新書)

      環境問題に関して付言すると、私は、CO2の削減のために環境を守ろうとなる科学には依拠しない。それならば、氷河に向かう地球のサイクルや、太陽の活動の周期など、もっと大きな系によって、地球の大気圏内温度が、人間の活動などものともせず、変化に影響をあたえるとするのも、やはり科学であるのだから、科学が、根拠になるとは思っていない。来年はその大きな系によって温度が下がったら、そらみろこっちが科学だ、という話の、やりあいにしかならないからである。私には、ただ、自分の記憶にある風景が凌辱されるのを見るのは心が痛む、その実存的な一点からの批判が基礎になる。中上健次は、ユンボで掘る土とスコップで掘った土は違う、といった。その発言の真意は、テクノロジー(道具)一般には還元できない、人間(自然)としての列記とした差異があるということだ。中上の路地の消滅と、アマゾンの森の消滅は、そうした心の痛みにおいて、人間やその内に棲息する常在細菌を含めた他の生態系らの保全と回復を要求してくるのだと思っている。

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