2023年3月17日金曜日

ドキュメンタリー観賞――『大洪水の前に』(2)


先週、千葉の生活クラブ関連の映画観賞会で、環境問題にまつわる活動家たちの作品を二つみた。ちょうど前回ブログで、斎藤幸平氏の『大洪水の前に』感想を書いていたので、映画観賞後の意見交換でも、それをふまえた意見を述べることになった。あくまでそれらの映画情報だけからの枠の中での私の意見になるが、前回ブログの応用みたいな感じになるのだろうか。以下は、そのとき述べた意見に、論述になるようブログとして少し付加したもの。

 

まず観賞したのは、

     『THE NEW BREED』。…「貧困や環境破壊などの問題解決のために事業を行う、新時代の社会起業家たちの挑戦を追ったドキュメンタリー。」と紹介記事。

     ELEMENTAL 生命の源 ~自然とともに~』…「今の時代で最も過酷な環境課題に対峙し、解決のために奮闘する、「水のガンジー」と讃えられる活動家ラジェンドラ・シンなど、3人の活動を追ったドキュメンタリー」と紹介記事。

 

①をめぐって――一貫して気になってきたのが、英語のノリだ。Z世代と呼ばれる企業する若者たちのペラペラと感じられる早口なしゃべり。3つの活動(アメリカでのアパレル業を通じたホームレス支援、南米はチリでの要らなくなった魚網をリサイクルしてプラスチック製のスケボや眼鏡フレームなどの製造、アフリカはウガンダでの就労開発としての裁縫教育活動)―が交互に紹介されていくが、挿入される音楽も軽快なノリだ。こちらが日本人だからなのか、途中、スペイン語での漁師との話や、アフリカでのおばさんたちの話し振りには間があって、その挿入にほっとしてくる。ノリがよくても、その波に入っていけず、逆に退屈感はでて、眠くなる(と、他にも寝てしまったという感想があった)。最後に、白いTシャツにWORDS NOT WALLという文字をプリントしたのを着た若者の、資本主義批判の英語でのスピーチが出てきたが、どうみてもヒスパニック系で母国語はスペイン語だろうという発音だったが、それはTシャツの言葉と矛盾するのでは、と思えた。教習を修了したアフリカ女性の中での中心人物の感謝の演説も、通訳がいて聞き手は同郷の女性たちなのに、英語でしゃべっているのにも違和感が。このドキュメンタリーを見ていると、活動内容とは別に、結局は、それをも含んだ大きなサイクルの中で、くるくると回っているだけなのではないか、と思えてきた。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』ではないが、同じ思考信条の中で、同じリズムの中でくるくる回っているという風になっているのではないかと思えてきた。数学・物理の世界で、三体問題というのがあるが、それはまだ未解決だというのだが、お手玉やジャグリングでは、三体以上の物体の動きを把握している。これは問題を解いている、とは言わないのか? 自分で作った頭の中の問題を解けない解けないと悩んでいるような。空を見上げれば、太陽と月がすぐそこに、あんなに大きく見えている、ジャグリングできそうではないですか? そうやって、古代の人たちは、ニュートンやアインシュタインの物理学の法則のことなど知らないのに、天文のことを知りピラミッドとか作ってきたわけでしょ? だけど、あのペラペラしゃべる英語のノリで、実は自分たちの問題の中で解けない解けないとくるくる回っている感じになっているのが現実なのではないか、と思えてきました。

 

②をめぐって――これも、①の感想の続きみたいになるのですが。まず、この映画の中では、3つのエピソード、活動が紹介されているのですが(インドはガンジス川の汚染を受けてダム工事などを中止させていく人たち、カナダのインディオかエスキモーの娘さんを中心とした油田パイプライン敷設への抗議反対運動、温暖化やスモッグの問題を自然観察による物理応用によって開発したアイデア技術製品によって解決していこうとするベンチャー活動家)、この3つを一緒の活動と見做して一括りにしたこの映画の編集方針・技術という活動も実ははいっていて、つまりは4つの活動の紹介になるのだと思います。そして前者2つの反対活動と、後者2つのテクノロジー的な活動とは、別ものなんではないでしょうか? つまり、心の問題と、テクノロジーや企業による活動というのは、一緒に考えられるのか? 環境問題というと、CO2がどうのとその数値が問題となるが、ガンジス川が汚れているなんて、数値を測らなくても見ればわかりますよね。心が痛むでしょう。数値が下がればいいのだというなら、下がれば、これまでの開発を続けていても大丈夫だという話になる。貝殻の形をもして上空に風を巻き上げれば大気が冷やされたりスモッグが消えていくなんて、結局は人間のいま分かっている範囲でのシミュレーションにすぎません。気象や地球のマントル活動やその内部のことなど、何もわかっていない。自然を模せばいいというなら、新幹線だってカワセミの嘴の形を参考にしているし、原発だって太陽の真似だからいいという話になる。自分の庭の枯れ葉が風で吹き飛ばされてきれいになっても、どこか見えないところで吹き溜まりができていますよね。問題が他所へゆくだけではないのか? この問題でベストセラーとなった斎藤幸平の『人新生の資本論』の前の作品では、「和気あいあい」というマルクスの言葉が引用されているのですが、資本主義の体制やシステムが変わっても、心の問題がそのままなら、生活実感としては変わり映えしないのではないか?

 

※ このブログとして付記すれば、斎藤幸平著『大洪水の前に』の後書きで、ジジェクは、もうそんな「心」、つまり、本源的な自然も破壊されてないのだ、と認識前提したわけだ。シンセサイザーを使ったYMOが出てきたとき、坂本龍一は、たしか村上龍との対談で、もう人間の感性など壊れてなくなっていく、みたいな議論をしていたが、そういう前提認識を思い起こす。が、本当だったのか? 本当の話だと、ジジェクは、遺伝子工学を「ブレークスルー」な技術として認定したわけだ。が、私の量子力学による「観測問題」理解では、「ブレークスルー」などあり得ない、ということを、カントの「物自体」という形而上学的前提としてではなく、物理学的な自然認識として突きつけられてしまったのだ、ということになるのだが。 

また②映画で、カナダやアメリカで環境破壊へのデモ運動を続ける娘さんの母、インディオかエスキモーのお母さんは、以前みたパレスチナ映画での母親のように、こう述べていたのが印象的だった。「若い頃は、何も知らなかったから、過激に反対した。が、白人の方が、私たちより不幸なのだと気づいた。彼らは、生まれ故郷を追い出されてここに来たのだから。」(と、過激な娘に、自分の経験を語って聞かせたのだった。)


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