手伝い先の造園会社の、大学出の若者が、映画『オデュッセイア』が面白かったというので、観賞してみた。ちょうど、群馬の実家に母介護のため帰省したさい、前橋市の映画館で、IMAX字幕版がやっていたので、その最新の技術でみたくもなった。
もちろん、テレビコマーシャルを通してか、評判になっているとは知っていたが、それでの印象は、ハリウッドは昔はよくイエスやモーセの生涯、あるいはギリシア・ローマ古典もののスペクタルな作品を作っていたよな、しかしもうスペクタルなものを見る気はいまいちだな、というものだった。それらは、幼少のころ、テレビでたまたま見てしまった映画群だったろうが、そのなかで、私に一番心に残っているのが、『バラバ』という作品だった。たしかイエスと一緒に磔にされていて、なんで罪もなさそうなあなたがこんな目にあっているのかというような話をしながら、イエスを信じてゆくようになるのだ。そして、民衆の声によって、イエスの代わりに磔から釈放され、その磔において見出した信仰に苦しみもがきながら人生を終える、そんな映画だったとおもう。私は、この物語に、激しい衝撃ではなく、静かな、謎かけのような衝撃を与えられ、今もって、これは、あれは、なんだったのか、と考え続けているのである。
だから、まあ久かたぶりのハリウッドのスペクタクルでも、みてみようという、確認の気持ちがでてきたのである。この映画の監督が、『オッペンハイマー』や『ダークナイト』、『インセプション』等の作品(私はアマゾン・プライムで見たのだけど——)も手掛けていたノーランという名前の人だと知ったのは、観賞後だった。
が、見るまえに、たまたまスマホのニュースで入ってきた、東浩紀の動画コメントをみてしまった。東はそこで、神を信じていた民衆の信仰心を逆用した「トロイの木馬」という人間の知恵が、人びとの信仰を崩したこと、そのことが世界自体を崩壊させてしまったこと、そして史実的にも、ギリシア文明が復活するには、その後ほぼ2000年がかかったのだ。では現代はどうなのか、と問うていた。ちょうど、前回のブログで、エリック・ホッファーの、「山を動かす技術のあるところでは、山を動かす信仰はいらない」というアフォリズムのことに言及し、執行草舟が『人生のロゴス』で述べたホッファーの「逆説」というものの、信憑性とその度合い・あり方を、私は再調査していたところでもあった。ので、東の解釈は、あまりに時宜にかないすぎていた。
実際、映画をみると、ノーラン自身が書いたという脚本(セリフ)からして、そうとしか思えない。映画鑑賞後、スマホの動画で、宇野常寛のチャンネルをみた。その議論のなかで、宇野が、そうして「父の回帰」という物語にいくというのはつらいなあ、と発言していた。が、脚本では、父が帰って来ても、暗黒の時代に入っていくのが提示されているのだから、それはあくまで原神話での話にすぎず、ノーランの問いと答えではないだろう。といっても、その議論では、映画産業の行き詰まりの過程のなかで、作家性ということ、そして古典のスペクタルものが導入反復されてきた事態を、両義的であれ肯定する評価文脈での意見であった。だから、そこでの批評家は、もしノーランがすぐ次作を制作できたときはすごい、と見立てる。が、産業ではなく、あくまで人間個人が、自身の悩める人生において解決の糸口をつかめなくては意味などないのだから、作ってしまったら、嘘になるだろう、単なる職業作家的な意識の上での問いかけだったか、となってしまうではないか、と私は仮説する。いまわれわれが「信仰」の問題に直面しているとしたら、そんなたやすく解答など得られるわけもないのが、正直な前提であろうから。まだ読んでいないが、手元には、『世界は「宗教戦争」に突入した』(佐藤優・吉村治彦著 ビジネス社)というのもある。
もしノーランを信じていいのなら、彼は、暗黒時代へ向けて、次のような認識を提示してみせた。夫(オデュッセイア)の物語は消えてなくなったのに歌はのこった、それはどうして? と問う妻に、夫は答えた、文字は消えても歌は残るからだ、と——たしか、そのようなセリフでのやりとりが、最後にあったはずだ。私は、考えさせられた。
次は、当時の伝記で、『アメリカのオデッセウス——エリック・ホッファー』とも表記された、ホッファーの、「信仰」をめぐる考察をさぐろう。

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