2009年3月28日土曜日

草の根の意地と、安全管理


「「我々ロックフェラー財団がウーマンリブ運動に資金を提供したんだよ。我々が新聞やテレビで大いにこの運動を盛り上げたんだよ。その大きな理由は2つある。1つ目は女性が外に勤めに出ると所得税が取れるので税収が増える」後述しますが、連邦所得税の全額はロックフェラー家を始めとする国際金融資本家の懐に入るようになっています。ニコラスはそこまでは言っていませんが、所得税収が増えると彼らの懐が温かくなるという筋書きなのです。「2つ目は家庭が崩壊するので、子供の教育が母親から学校やテレビに移っていく。我々が子供をコントロールしやすくなる」とニコラスは、ロックフェラーが女性の権利向上を積極的に支援した理由を、アーロンに説明したのでした。」(菊川征司著『闇の世界金融の超不都合な真実』徳間書店)


WEC決勝戦で、決勝打を放ったイチローは、「無の境地でいきたかったんですけど」と断りながら、もし自分がこの延長戦ツーアウト2・3塁の場面でヒットを打ったら「俺もってるじゃん」との雑念を抱いていたという。そう色々なことを考えてしまう場合は打てないもんなんですが、と付け加えながら。そしてのちのインタビューでは、「神が降りてきましたね」と解説していたようだ。イチローが「持っている」もの、とは、新聞でのカッコつきで推察挿入された「運」という確率(数学)的な用語というより、まさに<憑き物>、先のブログで引用した芸術家の文章で紹介されるところの荻生徂徠のいう「鬼神」、つまりより宗教的な意味合いに近いものだろう。そんな超越論的な感覚が、技術(=理論)を磨いて(=統制して)いるのだ。神は光とともにあったと信じたアイシュタインが、自ら作った理論が神の居場所をなくしてしまったら、自分は間違っているかもしれないとまた新たに理論を練り直し始めるように。その厳格さだけが、確率をまぐれ(運)ではなく、必然=格律として人々を説得(=信じ)させるのだ。でそのイチローはまた、「日本のために勝った」とも言う。イチローの神は、国家的、あるいはわが同族=共同体的なものなのだろうか?

*原監督が優勝後のインタビューで、まさに「正々堂々」「潔く」という日本男児的な言葉使いをしていた、のには驚いた。ただそのイデオロギー的機能は逆説的に働いたようで、勝ちの意識に緊張しているよりは負けてもともと、みたいな余裕ある兄貴分の態度が、選手たちに安定感と自由な意識を与えた、ということになったのかもしれない。

「向こう30年、日本に手をだせないような勝ち方をしたい」と韓国戦に際し豪語するところからはじまった、一昨年のイチローのWBC参戦への決意は、なおさら韓国選手およびその同国ファンを奮い立たせる結果になったのだが、その驕りはオリンピックのメダル数を競うような、国別対抗的な意識、それを保証する経済進歩的な国力への後釜を無意識にもひきずって発言してしまったものなのだろうか? 野村監督のような管理野球を嫌い、日本シリーズで優勝できなかった一番の悔しさを「あんな野球に負けたくなかった」ともらす彼が、国家体制的な態度を引き受けているとは考えにくい。むしろ、前者の驕りと後者の嫌悪は地続きで、イチローは韓国のような国策(管理)的な野球体制では勝てないもの、を日本の野球文化にみてきた、ということではないのだろうか? かつて日本人にとって野球とは、そのベースボールの日本語訳どおり、貧しい子供たちが野原や空地で時間を忘れる、ブラジルでのサッカーのような社会的位置にあったのではないだろうか? 少年野球から甲子園そしてプロ野球への組織化といえども、そのリゾーム的な草の根の思いとネットワークが下地になっているのである。大リーグへと闘争=逃走した選手たちが、その文化形成での悪い面を批判してゆくけれど、この厚みをもった地層から自分たちが育ってきていることを自覚している。それが、自然的な熟成を飛び越えて、社会主義国のオリンピックでのメダル確保を目指させているような国策的な速度でおいつこうとしても、それは基本・原理的な態度として無理なのだ、俺たちに勝てるわけがないのだ、似て非なるものなのだ、……そうイチローは言いたかったのではないだろうか? いや、日本の選手たちが、韓国に勝ったからといって、日の丸をマウンドに立てる仕草をするとはおもわれない。優勝したイチローは日の丸を背中に羽織って駆け回るようなやんちゃさをみせるけれども、彼のいう日本とは、国家(=管理)とは亀裂を走らせるものだろう。私には、WBCの最後にみせたあの<センター返し>の一打は、「草の根の意地」に見えたのである。

しかしこの自然な歩みの厳密さと厳格さを合理化して(はしょって)、わかりやすい神がかりで人を操作=支配しようとするのが国家である。すでにオバマに政権が移ったアメリカでは、国民をなだめ動員する大掛かりな物語操作(イデオロギー)が発動されているようだ。いまだその後塵を拝している日本では、まさかイチローの言葉にあやかって「神風」の神話がでてくるともおもわれないが、しかしいまだ真剣み切実さの足りない能天気さに、「遅れたものが先になるだろう」ような両義的な可能性が残存している、ということなのかもしれない。イチローは資本家(企業)に管理されてWBCに出場できない大リーガー選手のことを「かわいそう」と思うという。アメリカの選手は、サッカー界と同様、お国(ボランタリー)のためというより個人(プロ)のため、という社会的位置にいる。イチローの発言はプロチーム(個人主義)としては後発国としての遅れを露呈させてくると同時に、そうは時代の流れに操作はされきれていない共同体的な心性を明かしているのだ。つまりここにも、草の根が残っている。国家官僚をはじめ、冒頭引用した国際的な金融資本家も、インテリ的な小手先の制度的操作で人々が管理できると信じているらしい。しかし女性が社会に進出し、子供がテレビを見るのは、そんな陰謀の結果ではないだろう。彼らのイスラエル建国がパレスチナの住民を思い通りに操作しきれずに終わってきているように、社会に進出した女性や子供が今後どう動くかは、地震のメカニズムに似た「スランプ(自然の巻き返し)」のしのぎ方によるだろう。ニーチェは、そこを「ロシア的泥酔」として、冬眠する熊のようにひたすら眠ってやり過ごすことを説いたのだが……。もちろん、それは何もしない平和ボケ的な昨今の日本人の態度とは似て非なるものだ。安全カラーコーンと安全バーで囲ってあるその外ならば、そこで何が起きているかも気にかけずに談笑して通り過ぎ、あるいはその現場の真下でクレーン車をものめずらしそうに親子で見学している人々のような態度とは。それならば、韓国での工事現場でのように、外見的な安全対策がなにも講じてないような町の人々のほうがニーチェの哲学に近いだろう。何もなければ、自分の目で、それがどんな危険をもった場所なのかが見えてきてしまうだろう、ならばそこは足早に駆け抜けたり近寄らないようにするだろう。実際、日本での安全管理など、事故が起こったときの言い訳作りのようなもので、それを信じて安心している通行人をみると、現場の人間はアホかと思ってしまうのである。動物的な本能が、つまり自然力が退化している……。「昨日撮ってもらった写真なんですけど」と現場代理人をやりはじめた親方の息子が事務デスクから携帯をかけてくる。「ノーヘルの人いるんですよ。それ使えませんから。」と役所への提出書類の不備を指摘してくる。それは私が年上の職人に、肥料まきの作業なんだから、タオルを頭に巻いた今の姿のままでいい、いちいち現場写真だからってヘルメットとりにいかなくていいですよ、と断って撮ったものだった。被写体が作業員ふうな若造ならともかく、面構えだけで職人とわかる人にそんな形式の強要は礼儀知らずだというのが私の意見である。そして実際、役人でもそんな常識や教養は持っていて、機械的な所作をするものは下っ端なのだけど。しかしともあれ、どんなレベルであっても、ロックフェラーのような資本家や国家官僚に負けないようにするとは、そうした形式化を排して動物的な本能を失わないと意志することがまず第一なのだ。この自然に近い厳密さ厳格さだけが、スランプを素早く脱出させるのである。王貞治はスランプのときの対処として、「ボール球を振らないよう気をつける」ことをあげていた。じたばたせず、じっとしていることに集中するのだ。それが冬の厳しさに準備した熊の冬眠であり、「ロシア的泥酔」というニヒリズムを脱する方策なのである。WBC中、試合の流れを止めてしまうような状態だったイチローは、こうもインタビューに答えていた。「普段と変わらない自分でいることが僕の支え。この支えを崩すと、タフな試合の中では、自分を支えきれなくなってしまう」と。不調の中でもイチローが動じずじっとしていなかったら、おそらく日本代表は優勝までいけなかっただろう。それは何もしないで待つ日本的諦念感とは似て非なるものであり、むしろそれが、リーダーシップという実践的態度につながっているのだ。

でははたして、この世界的な危機のなかで、日本の政治家や官僚はどう行動しているだろうか? テポドンひとつにじたばたしはじめて、これから起こることのための言い訳作りのために、機械的な手続きをふんでいるだけなのではないだろうか? やたら動いているが、実はなにもしていない。北朝鮮が、人工衛星を運ぶロケットの破壊は「宣戦布告」とみなすと明白に挑発しているのに、なんでその挑発にのって動いてしまうのか? ほんとうに、戦争で答える覚悟があるというのか? それを受け入れさせる説得力=信仰を国民にみせているのか? むしろ、こんなあっけらかんとした挑発の裏には、なにかあるのではないかと勘ぐるのが普通ではないのだろうか? 北朝鮮の政府が、「正々堂々」と「潔く」戦いをのぞんでくるとは思われない。ほんとうは、誰が戦争をしたがっているのか? 本当に挑発(=結託)しているものが他にいるのではないか……われわれの本能は、厳しい冬を眠ってしのぐ熊のように目覚めているだろうか?

2009年3月21日土曜日

資本主義論理下の、フリーターと移民労働者


「「小さな差異」が単一の普遍世界の中に併存するポストモダンの精神に慣れてしまった日本の政治エリートには、新自由主義と保守主義の路線の違いが「小さな差異」にしか見えず、「大きな物語」をめぐる闘争であることに気づかなかったのだ。」(佐藤優著『テロリズムの罠 左巻』角川書店)




夕食時になると、今年6歳になる息子の一希は、「ご飯がこわいよう」と言って、食べることをボイコットするときがしばしばある。まだ口にしたときのないもの、新しいものに挑戦する意欲が弱いのは性格的なものがあるとしても、やはりお菓子やチョコレート、そしてアイスクリームを食べることに慣れているからそう駄々をこね始めるらしい。「もうお菓子をあげませんからね!」と女房にどなられても、私が帰宅し、パンツいっちょで食卓につき、風呂の湯がたまるあいだ、空腹しのぎにとコンビニで買ってきた一口ケーキやアイスのたぐいを食べていると、ものほしそうに近寄ってき、「ママにみつかったらどうなる?」というと、ネズミのようにさっとそれを手に取って食卓の下にもぐりこんで食べ始めるのだった。私としては、過度にご飯ぎらいになってしまうのは問題だけど、そうでないならおいしいとおもうものを精一杯食べさせてあげたいと思うのだ。それはテレビのニュースで、いわゆる幼児を虐殺された父親が、「もっとアイスクリームを食べたい時にたべさせてあげればよかった」と後悔している手紙を葬儀の時に読み上げているのをきいて、私のニヒリズムがそう反応させているのかもしれない。……「チョコレートやお菓子だけじゃなくて、ご飯も食べれない子どもたちが世界にはいっぱいいるんだよ」「もしパパが怪我や病気で仕事ができなくなって貧乏になったらどうするの?」そんな話を、一希は想像するのを拒否するように考えないふりをして逃げる。しかしこれは、一般的にいって、日本の文化進度からして、もどることのできない趣味や欲望になっているのではないだろうか? そして、それが知識=歴史物語にもなってしまっているのではないだろうか?

佐藤優氏は、派遣村に象徴されてきたような若者の現状を、国家保守的立場から批判的に擁護=理解している。――「現下日本で生じているニ○○万円以下の給与生活者が一○○○万人を超えるなどという事態は異常だ。この状態では、労働者が家庭をもって、子どもを産み、教育を授けることが、経済的理由から不可能になる。世代交代を視野に入れた場合、労働力の再生産ができなくなるということだ。これでは日本の資本主義システムが崩壊する」(『テロリズムの罠 右巻』)……しかし、それでも再生産できる人々がいる、あるいは日本に呼び込まれ、なお呼び込まれようとしているのではないだろうか? そしてそれが、資本主義の論理矛盾した力学なのではないだろうか? たとえば、私の知り合いの日系を中心とした南米からの人たちは、日本の若者なら結婚し出産などしないだろうという条件下で、しかもこの外国で、結婚し、子どもを産み育てている。むろん、六畳間に、3人、2DKだとしても、その2部屋に5・6人で暮らしながら。この日本で出会ったお互いが外国人どうしでも。それができるのも、つまりそんな相互扶助ができるのも、彼らの出自的な文化的進度が、その趣味的な感性が、その生活を可能にさせているのだ。そして資本主義とは、このそれぞれの「文化的進度」という時差を労働力として活用=消尽してしまうほどのものなのではないだろうか? それは論理的には「再生産」を可能にさせておかなくては存立できないとしても(日本での若者たちとの関係でのように――)、外国人(移民)にはそんなヒューマンな論理一貫性など求める必要もない(=使い捨てればよい)ほどの生産の稼動をめざしてしまうものなのではないだろうか? そしてそのことを、佐藤氏が引用している箇所でマルクスが示唆していることではないのか?……<他方において、いわゆる必要なる欲望の範囲は、その充足の仕方と同じく、それ自身歴史的な産物であって、したがって、大部分は一国の文化段階に依存している。なかんずく、また根本的に、自由なる労働者の階級が、いかなる条件の下に、したがたって、いかなる習慣と生活要求をもって構成されてきているかということに依存している。したがって、他の商品と反対に、労働力の価値規定は、一つの歴史的な、そして道徳的な要素を含んでいる。だが、一定の国にとって、一定の時代には、必要なる生活手段の平均範囲が与えられている。>(マルクス『資本論』・前掲書より孫引き引用)

日本国民を救っているのは、日本人なのだろうか? これまで、工場生産を、南米からの日系を中心とした人々が担ってきた。これから、福祉などの分野では、また人間的な再生産を考慮せずともよい移民労働者が導入されてくるのだろう(言い換えれば、そんな心配せずとも再生産してしまう、それができる、ゆえにもっと搾取しえる他の文化だ、ということだ)。またそれが、経済界からの要請だ。いや、日本の「文化的進度」(=「文化段階」)からの要請だ。そしてそこに、「道徳的な要素」がはらんでくる。息子の一希は、この「道徳」を、受肉化することができるだろうか? 具体的には、六畳一間で3人の相互扶助的生活がもはやできないかもしれない感性(慣習文化)下において、倫理的にふるまえるだろうか? 教育とが、まさにそこでこそ反復されなくてはならないのに、私はそれを、教えることはできるのだろうか?

*私がかつてJapan as No.1下にフリーターとして働いていた頃の拙文『「労働時間」をめぐって』は、その頃の労働運動の標語が当然の「賃上げ」から不況時の「職の確保」に変わってしまったが、その「運動」が<単に文化的な「限度」を受容しただけの、いわばその価値規定の確認におわっているのではないかという疑義>は、いまでも有効なのではないかと思える。

日本人がどこまでアトム化されてしまったかはわからない。国内にいる移民労働者のような助け合いや贈与の精神が希薄になって生活力が弱体化してしまったのは確かなようだし、またかつてこの「ダンス&パンセ」でも紹介した古物商長嶋氏の発言にもあるように、共通したものとは後退してもなくならない前提なのだ、というのも真実である気がする。かつて、「相対的な他者との関係の絶対性」という起点から、「単独(者)―普遍」という外部への回路を説いた思想があった。そしてアソシエートとは、この単独者たちの連合だと。その思想はある意味、外国人とかというより身近な隣人との関係への注視により、生活上的には日常的にすぐ隣で出会ってしまう日本人同志との自己批判的なつるみあいいがみあいに終結した。国家のことなど普段考慮にもない生活者と同じようにあまりに当たり前な様態として。それはその思想が、当たり前なことを重視したのだから、当たり前な話であった。ならば、いまなら、いやいまでも、ポストモダニズムと整理されるだろうこの思想の起点は、もはや無効になったということなのだろうか? しかし、ナイーブな日本人の私を、危ない外国人から外国の友人たちが守ってくれていたのは、まさに私がナイーブな誠実さを保っていたからで、それが彼らの相互扶助と贈与の精神に交感したからではないだろうか? そして世界に無知な私が、そんな世界に入っていったのは、国家路線を捨てたフリーターであったからで、私が香田証生氏のように、あの歌舞伎町の店でもみたアラブの刀で首を落とされていてもおかしくはない……いやさらに、私が昔気質の残る職人世界に残ってこれたのも、私が非国民的な日本人的ナイーブさを保持していたからではないか? 私は、そこからはじめなくてはならないのではないだろうか? やはりつまりは、あくまではじきだされた、非国民の、時代遅れな、錯誤した、個人として…<進め、進軍! ああ駄目だ俺は、時間がとまってしまった>とボナパルティズム下を片足で生きた、フランスの詩人ランボーのように…。

2009年3月14日土曜日

WBCアジア予選から、その世間事情


「…こうして予想外の要素の混入がなければ新しい技術の発見もありえないわけです。ここで徂徠は技術という技術は破綻することが宿命づけられているといっているのでしょうか。いや、その反対に徂徠は、このようにけっして一義的に絞り込めず予測もしえない事象の生起、因果の偶発性を、にもかかわらずけっして偶発的なものではないとみなす――信じる――こと、そうした「理論的信」こそが技術者の行動を正常に制御し技術の向上を促す原理となりうると述べているのです。不可能で制御しがたい偶発性(そう受容してしまう知覚の錯乱性)を、にもかかわらず必然として繋ぎ止めるために要請される存在それが鬼神です。つまりここでもわれわれは、それ(その因果性)を経験的には知覚しえないが、しかし、それがたしかに在ることを知っているという、パラドキシカルな認識に出会うことになる。」(岡崎乾二郎著「確率の技術/技術の格律」)


WBC、アジア予選、その決勝、韓国vs日本。以前にもこのテーマパークで言及した、原監督の日本野球道の戦術にがっくりした。むろん私が言っているのは、8回裏にセンターへヒット出塁したイチローを、二番の中嶋にバントで送らせる、というその典型的な作法についてである。見ているほうすら、スポーツの高揚感が萎縮させられる。

あの場面、ピッチャーをはじめとした野手は、相当な緊張感をもって守備体制に望むことになる。足の速いイチロー、その日2本の安打を放っている中嶋、つづくクリーンアップ、一点差。盗塁、エンドラン、バント、それらをいつやるか、相手方のだす徴候を斜視で推測しながら、一球一球心構えの割合整理をおこない守備位置を微妙にずらしたりもするだろう。遊撃手だったなら、まずはゲッツーに備えて二塁ベースよりに移動する定位置が基本となるが、それが盗塁と予測するならほぼそのままの位置でエンドランに備えながら重心を二塁側へ移しきらないように気を配り、エンドランとして予測するなら守備位置を少し深めにとって一塁走者が走るみかけの牽制だけではなく、ほんとうに走ってくるのか、バッターは本気で振ってくるのか、それを早く判断できるよう、ほぼ90度の視界を全的に把握すべく集中していなくてはならない、バントでくるならば、その打球が一塁側か三塁側かで次に走り出す方向が逆になる。要するには、心を分割する構えの複雑さに、隙やぶれ、迷いがでやすくなるので、エラーの確率もぐっとますのである。

が、バッターはなんと、はじめからバントの構えを見せて打席に立った。高校野球レベルでも、これは信じがたい話である。原監督は中嶋が打席に入る前、なにか耳元でいい、それをテレビ解説者は、おそらくイチローの走塁を気にすることなく自由に打て、そしてイチローも相手の隙をみて自由に単独スチールを狙わせていく作戦だろう、と発言した。それが、勝負事として、オーソドックスな推論である。がなんと、原監督が選んだのは、少年野球レベルの作戦で、バントはバントとして的確に成功させるために、つまりやりやすいように始めからその構えをとってやれ、という指示だったのだ。これは勝負事としては、はじめから相手に手の内をみせて、そして歩兵の自分は自己犠牲で殉死し次の大物に体制を整えてやり、やおらおでましになったこの大将が正々堂々と勝負をのぞむ……この背後にあるのは、負けてもよいとする潔さの美学である。私には、戦艦大和の玉砕作戦か、とおもえる。つまり、勝つ気がないのだ。韓国側は、まず信じがたかったのではなかろうか? これはダミーか? それともバスターでのヒットエンドランか? しかしあの速球投手にバスターなど成功させるのは困難である。一球目バント失敗。そしてまたなんと、バントの構え。ピッチャーは安心し、単にバントをやらせ(成功させ)てあげればいい、と開きなおれるだろう。0対0ならまだしも緊張はつづくが、1点差あるのだ。このバッターでは気分転換的にリラックスし、次のバッターでの勝負に集中力を組み立てていくだろう。案の定、次の3番バッターには、解説者でもホームランを警戒して投げないだろうといわれた配球、内角へのストレートで凡ゴロにし止める。……二次大戦中、日本軍のいつも同じの突撃攻撃に、信じがたいおもいをこえて「気味の悪さ」を感じたという、諸外国の将校の発言を私は思い出す。




原監督、あるいは彼をWBC日本代表の監督に選んだ野球界のお偉い人たちが理解できないのは、この相変わらずの頭の固さが、どれほどの迷惑(失望)を選手(兵士)やファン(人民)に与えているのか、ということだ。それは、数学的な緊張、確率の世界の現実、厳しさにこそ、スポーツをするものや見るものの快楽もが約束されている、という人間的な事態である。イチローでさえ、たとえ最初のうちにヒットを連続できたとしても、最終的には3割の確率に落ち着くのだ。それはサイコロをふればふるほど1の出る目の確立が6分の1になってくるのと同じだ。しかしこの一定の現実のなかで、なぜこの場面でヒットがでるのか、その驚きと快感は奇跡的な事実なのだ。そうやってこの緊張の中で打撃不振だったイチローがセンターへはじき返したのに、その緊張をとぎらせるように、様式化された典型的な方法が脈絡もなく導入される。まるで監督やそのお偉い人たちが部外者なように。が、その人たちが世間を支配しているのだ。私は桑田真澄氏の言葉を思い起こす。「たとえプロ野球の監督になって日本一になっても、なにも変わらないし、変えることはできないんですね。だから僕はもっと上を目指す。」……たしかに、WBCに見られる事態は、野球界をこえて心配すべき世間事情を予測させる。

2009年2月20日金曜日

現状認識と実践、ビジョンに向けて――高校野球部同期会から


「競争が短期的に混乱をもたらすことは、第一部でもふれたが、談合がこのような状況で何かの役割を果たしうるとしたら、それなりに存在意義がある。仕事が少ないときに、首を切るよりも少ない仕事を分け合うのは、短期的な混乱を避けるためには有効な方法であろう。しかし、このような役割を果たすためには、現在の談合の仕組みは問題がある。「荒天に弱い」談合は、第三者の介入を招き、構造的な汚職を生み出すばかりで、必要な調整機能を十分には果たさない。また、談合は、「共存共栄」という言葉がしばしば使われるように、「現状維持」を目標とする傾向にある。短期的に摩擦を避けるのならばともかく、そうした状況でも中・長期的にみて必要な構造的調整への橋渡しが果たせなければ、市場での競争に対比できる調整の仕組みとしては不完全である。」(武田晴人著『談合の経済学』集英社)

高校時代の野球部同期生で会おうということになって、伊香保温泉にいってくる。ちょうど街路樹の剪定作業で、水を吸いあげていない固い小枝に鋏をいれていたものだから、右手が相当しびれてきている。冬場はもういつもこうだ。夜は痛みで寝付かれない。この職業病には湯治もいいかもしれんと、温泉につかった後はあんまさんに指圧もしてもらった。

野球の思い出話や他愛のない話をはじめながらも、やはりというか、運動部あがりといえど群馬のエリート校出の皆だから、私ぐらいの年齢だと、すでに会社でも重要なポジションについていたり、経営者にもなったりしているものもいるから、今回の金融危機をめぐる話が中心になった。…ラグビー部にいた○○は、リーマンつぶれて無職になったけど、数十億円の個人資産を持ってるぜ。最近オーナーになってる競走馬がG1で優勝したそうだよ。AIGに勤めているライトの守備についていたものは、政府の管轄下にはいったそんな会社と今どき取引する客もないから、暇だという。いま転職のオファーがいくつかきているけど、どこに身売りされるか見守ってから考えることになるな。地銀に勤務しているキャプテンは、他領域の取引拡大のために新しく派遣されてきた支店長のいびりに耐えかね、この俺でさえドクターストップがかかって2週間も休むことになったんだぜ。弱者の気持ちがわかるようになった点ではいい機会だったけど、そんなときにこんな事態がおきて、リストラされるかとおもったよ。そして市役所に勤めているピッチャーのものに、公務員はいいよな、となるのだった。

しかしやはり、一番危機的に大変なのは、サードを守っていた製造業の社長なようだった。ちょうど消費量が統計的に増大する、12月のクリスマス商戦にあわせて5月から生産してきたものをこれから船で出荷、というときに起きたのだった。100人いた従業員を50人に減らした。コンデンサという部品だが、一定的にはBRICS向けの生産だけど、たとえばブラジルとかの携帯電話じゃ機能がしゃべるだけに限られてるから、部品数が少なくて利益がでないんだ。そして派遣は駄目とかになると、外国との競争に勝てない。東南アジアの労働者は未熟だとかいうけど、そんなのは嘘だよ。これまでは家電と自動車工場との繁忙期のずれが、派遣労働者の移動を可能にしたセフティーネットになっていたけど、同時につぶれた。だけど派遣が悪いんじゃない、たしかに経理上彼らは人件費じゃなくて消耗品の項目で処理されるけど、問題はそんなんじゃないんだ。中間の搾取者がわるいんだ。あいつらはむかしのヤクザでもしないピンはね率でもうけてベンツ乗り回している。その分を保険とかのセフティーネットに貯蓄していればいいのに。郵政の民営化だって、やりっぱなしで、それからのことを考えてなかったじゃないか? 縦につぶしたものをこんどはどう横につなげるのかも考えていなくてはいけない。大臣は任期がきてすぐやめるから、党でそういうことを持続的に考えてもらいたい。選挙では地方の利害がらみの得票活動になっても、実際には国策的にやらないともたないよ。いったい構造改革ってなんだったんだ? 派遣村の村長はしっかりしてるみたいだから、俺は連合をつぶすぐらいのことをしてもらいたいよ。正社員の既得権が問題になるんだから。農業だって、いまは工場で農産物ができるし、山でフグも作れる。しかしいまの制度では外国のプランテーションに対抗できないから商売にならない。JAをつぶすぐらいのことをしなくちゃだめだ。地方の問題にしても、群馬は北関東州の州庁になるかもしれないのに、高崎と前橋で利害争いして議論中断して、じゃんけんで決めればいんじゃないか?……と、一度官僚をふくめた既得権益世界(閨閥)を切るために、政権が自民党から民主党に移行し、のちに政策的に結合した新しい政党が出来ていくことが、ほぼみなの望む方向のようらしかった。

で、私は何を望むだろう? いい高校いい大学をでていい企業にはいっていくという国家官僚路線からドロップアウトした私は? たしかにいま、土建業という利権の世界に住んでいるとしても。フリーターの自己責任? 正社員より時給がいいから派遣社員を選んで、寮を追い出されたときの所持金が数百円、そんな奴らを基準に社会福祉を考えていいのか? と野球部同期会でも議論された。しかし、Japan as No.1のバブル期に、これが世界一の暮らしかと馬鹿ばかしく自ら椅子とりゲームから降りたホームレスな競争回避な行為に、国家的なビジョンの萌芽がないのだろうか? 実際、そんな世界に散ったフリーター世代から、NGOや職人たちの無名的な活動が芽をだしはじめているようにもおもう。国家は、まずそんな自らの戦後が生んだ個人を支援すべきところに教育や予算を含めた方向性を定めるべきだ。日本政府は結果論的に、イラクで斬首された香田証生氏とアフガンで銃殺されたペシャワール会の伊藤和也氏を区別した。しかし彼らと、ワールド・サッカーの現役競争から辞退した中田英寿氏をもその国家的なビジョン=論理を明確に手にするためにも区別すべきでない。それが、やるときはささいなこと(利害対立や思想上の差異)にこだわらない、<実践的>ということではないだろうか? つまり、何をという目的(内容・結果)というより、どんな立場(論理・過程・文脈・態度)でやるのか? 幸い、日本はそれをラディカルに支援する憲法9条を保持している。それは、国家(官僚)がだめならば自ら銃を持って引きずり下ろすことを保証したアメリカの開拓精神=憲法と同様、積極的な市民の力なのではなかろうか?

2009年1月28日水曜日

韓流と民衆


「民主主義は、それ自身の活動の不変性にのみ依存する。思考の権威を行使することに慣れている人々にとっては、ここには恐怖を引き起こす原因が、したがって憎悪を引き起こす原因がある。しかし、知性の平等な力を<とるに足らない人々>と共有することのできる人々においては、逆に、勇気を、したがって喜びを引き起こすことができる。」(『民主主義への憎悪』ジャック・ランシエール著/松葉祥一訳 インスクリプト刊)

去年4月、職人仲間で韓国はソウルへいくというので、その予備知識のためにもと、韓国の歴史ドラマをみはじめてからおよそ一年。周2本のDVD観賞をこなすことで、ようやく3本の作品を見終えることができた。子供が寝静まった夜半に起きるのは大変でもあったが、私も韓流にはまったのだろう。『朱蒙』『薯童謡』『商道』の3ドラマ……といえば、どれもイ・ビョンフン氏が演出や監督に関わった作品である。他にも歴史ものの第一回目とうをみたものもあったのだが、俳優同じでも演技やセリフが臭く、なぜか結局この演劇界出身で大手テレビ局に所属していたというベテラン監督のものに見入ることになったのだった。
何故私は面白く見ることになったのだろう? 子供のころ、よく親といっしょにNHKの大河ドラマを見ていたが(最近は見ていない―)、面白く感じるそこになにか違いがあるような気がする。記憶にある印象だけで敢えて言ってみれば、日本のドラマが人間心理劇的な展開であるのに、韓国のそれらは神話原型的な反復であるということだ。ぺ・ヨンジュン出演の『太王四神記』の高句麗王はやたらと哲学的な物思いにふけはじめるが、それも近代的な心理劇を超えている。つまり個人の話にはならないのだ。イ・ビョンフン氏は平田オリザ氏との共同演劇の試みの際に、「韓国側が書いた台詞の中にドラマチックで詩的な表現が多かったんですね。反対に日本の場面を見ると、言葉も少なく、内容も詩的ではなく、ひじょうにリアルで日常的な内容が多かった。」と発言しているが(日韓交流通信)、この「詩」と「日常」という言葉の対比にも、私が感じる違いが重なっているのかもしれない。だとしたら、なぜ近代の個人(日常)心理を捨象した、そんな時代錯誤な前提、神話的に定型化された詩的誇張のほうこそが説得的な迫力をもって私を捉えたのだろう?



これらドラマの人間の価値判断の下敷きにあるのは、いわば封建的な主従(位階)の役割である。『薯童謡』ではこの役割と戦っていく男女の恋愛劇がストーリに設定されているけれども、革命(破壊)的なものではない(その点他のドラマの男女間と同様)、体制の筋を守りながらの闘争が前提である。「私には王子のいうことは理解できないが、王子に従っていく」という『朱蒙』の忠臣たち。「自分が王になったら何をするかばかり考えていた王子は無能な怠け者にみえた。そして自分は、どうしたら王になれるかばかり考えていた。」とその世襲(正統)の現実に圧しつぶされていく『薯童謡』での百済の暴君。より近代に近い『商道』の世界は、下克上の隙もないほどの官僚社会に覆われているが、役人としての公務をも兼務することになった商人の苦境を救うのは、王との直接的な主従関係からくる信頼である。そしてその彼が信条として手放さないのは、「商売とは金ではなく人を残すことだ」という師匠の言葉であり、ゆえに利益主義的に価値を目的化させた商い組織ではなく、官僚(目的)組織下では無能だと解雇されそうな、酒好き女好きの「とるに足りない人々」を再編し再起していくのだ。このような封建主従的なドラマの下地は、職人世界にいる私をして親近感を抱かせ、確かに私はこんな世界の中でこういう人物たちと一緒に仕事をしているなあと思わせるのだった。とすれば、封建主従的な人間関係と、人間を越えた神話的な定型世界との、どのような折り合いが私の心を揺さぶるのか? そしてもしこの感動が私の属する時代遅れな特殊性(職人世界)に限定されるわけでもなく、韓流としての<われわれ>をも考慮可能な一般性を孕んでいるとするのなら、私<たち>を動かしているものの正体とはどのようなものなのだろうか?

<われわれの見るところでは、一九六八年を頂点に一九八九年まで続いた世界革命は、集団としての社会心理を不可逆的に変容させてゆくプロセスであった。この革命は近代化の夢との訣別を決定的にした。すなわち、人間の解放と平等を求める近代の目標追及を終わらせたのではなく、資本主義世界経済を構成する国家がそうした目標の達成に向って着実に前進することを容易にし、保証する存在であるとは、もはや見なされなくなったということなのである。>(『転移す時代』I・ウォーラスティン編/丸山勝訳 藤原書店)
<現在でも、共産主義やマルチチュードの民主主義の希望を支えているのは、このヴィジョンである。それによれば、ますます非物質的になってきている資本主義的生産の形態、コミュニケーションの世界への集中化によって、今後新しいタイプの「生産者」の遊牧民(ノマド)が形成されることになる。またそれによって、帝国の障壁を爆砕するのに適した集団的知性、集団的思考力、感情、身体運動が形づくられることになる。〔しかし〕民主主義が意味するところを理解することは、このような信念を諦めることである。>(『民主主義への憎悪』 ランシーエル)

国家の能力に対する「市民の信認は消滅してしまっている」ような状況下では、「他の集団、他の共同社会(ゲイマインシャシュト)が示す優先順位が説得力を増してくるのは当然である」とウォーラスティンは認識している。革命的ではない<私>たちが新しき「他の集団」(マルチチュード)ではないだろうから、ならば、実質的な強度をもった制度としては破壊喪失されてしまったけれども、その形骸として痕跡する封建遺制(=ゲマインシャフト)へのノスタルジアに衝き動かされているのだろうか? おそらくポピュリズム(流行)として半分はそんな反動なのだろう。日本人にしてみれば、韓流の堰を切った『冬のソナタ』は懐かしくも神話風な学園物語だし、そして韓国人にしてみれば、歴史ドラマの主たる舞台は失われた風土、今の北朝鮮なのだから。韓国人には、自分たちが長いものに巻かれて捨ててきてしまった朝鮮人としての精神をなお固持している北側への負い目があると指摘されたりもする。つまりそのような自己(国家)への揺らぎが、日本人/韓国人両者の違いを超えて、より確からしい歴史体制(過去)を召還=償還しようとしているのかもしれない。しかしならば、この保守安定への希求には、反動といってすますわけにはいかない、人の営みとして正当な償いが潜在している、いやつきまとっているのではないだろうか?

ランシエールは、「民衆(「とるに足りない人々」・「分け前なき人々」)」という概念は、「構造的な意味において理解されなければなりません」と述べる。――<この語が意味するのは、労働に明け暮れ苦しみにあえぐ住民のことではありません。今日、除外された者と呼ばれている人々のことではありません。「分け前なき人々」とは、一般に、統治する資格をもたない人々によって形づくられる潜在的な全体を指します>と。いわば「民衆」というのは、表(ちまた)に現れる現象意識的なものではなく、目に見えない無意識的な構造として働くものなのだ、ということだ。この保守反動を批判するランシエールの著作『民主主義への憎悪』を去年の推薦3作品にあげた柄谷行人氏は、「平等主義」とは「各人の嫉妬」や「復古主義的な願望」ではなく、精神分析的な「抑圧されたものの回帰」なのだという。(『at14号』「権力論」)ゆえにこの強迫反復は、<人を強いる「力」、倫理的な至上命令として出てくるのだ>と。私には、この仮説の是非を判断することはできない。ただ韓流の歴史ものを三つばかり見た私の感想には、ノスタルジー(復古)には回収されない、もっと生き生きとした、「とるに足りない人々」と喜びを分かち合える生活観が介抱されてあるような気がするのである。それは、私に元気を与える。

2009年1月5日月曜日

世界のあとさき


「このように隠然とした資本の理論に沿って考えると、世界が多極化に向かうことは、これまで高度成長の対象から外れていた中国やロシア、インド、ブラジルなど、大国だが先進国ではない諸国にとって、経済成長のチャンスがもたらされることになる。逆に、ロシアや中国、インドなどが「社会主義陣営」の中に組み込まれ、欧米資本が入りにくかった冷戦時代と同じ状態が続く限り、これらの大国には経済成長の機会も少ないということになる。
ビルダーバーグ会議に象徴される欧米資本家たちが世界の多極化を目指しているとしたら、それはアメリカだけが世界の経済成長を牽引する従来の経済体制から脱却し、他の大国が経済成長できる素地を作るためだろう。資本の理論が秘密主義にならざるを得ないので、世界システムに関する分析は仮説の連続になってしまうのだが、私はそのように考えている。」(田中宇著『非米同盟』文春新書)


元朝参り、田舎の神社に賽銭投げて、願い事は何だと息子の一希にきくと、「戦争がおきませんように」と答える。年末のテレビ番組の「ドラえもん」を二人で見ていても、その番組企画、スペースシャトルにのる若田光一さんに手紙を送ってお星様に願い事をとどけてもらおう、というのをきくと、自分も送りたい、と言い出す。どんなお願いをお星様にするのだ、ときくと、「世界のみんなに事件がおきないように。」と答える。私が新聞やテレビをみながら、外国の紛争や国内の幼児が巻き込まれる殺人事件について口にしているのを耳にすると、聞くのもいやなように逃げていくのが普段の一希なのだけど。「なんでママが子どもを殺すの?」「なんで戦争はおこるの?」と聞かれて、理由というよりもそれが起こったさいに記事としてわかっている事情を話してやるにしても、まったく腑に落ちてこないようだった。少なくとも、家庭に恵まれている子どもにとって、その両親からの愛情が考えていくための基礎公式になるからか、悟性的な計算(推論)では理解できない事態なのだろう。ただ子供たちにとって、嫌な事件だということが、なにか身を持って理解できてしまうことなのかもしれない。チェチェンでの戦争に際し、両親をロシア兵に殺された子どもは、その兵士もまた大統領の子供のような存在なのだから、悪いことをたくらんだ大統領だけを山に幽閉しておくだけでいいじゃない、と言っていた。自分のように子供が悲しむのだから、それ以上の悲しみを増したくはないと解決策を説くのである。

年初からして、経済危機を越えて、というよりそれを巻き込んで政治的にきなくさい臭いが立ち上がり始めた。私は、パレスチナの現実の複雑さを知らない。ただ子供と過ごす時間が、明日にはなくなるかもしれぬ貴重な時間のように思えてくる。そしてそれに溺れることが、国内の、身近に生起してくるもろもろの出来事によって批判されてくるのを感じる。「派遣切り!」と若者が包丁を振り回して捕まった事件の起きる少しまえ、女房と私と一希はその六本木ヒルズの森ビルにいたのだった。今年高校受験を迎えるはずのペルーの友人の息子は、日本の中学卒業と同時にペルーにもどることになるという。大手町の弁当屋に勤める彼の奥さんは、今年になって派遣会社が変更になって、時給が900円から800円になった、正月休みというのも一日もない、と言う。

しかし、日本という外国で生きる彼・彼女たちには、そんな中でも後ろ向きになるのではない前をみつめる姿勢=術が、生きる習性として身についているようにも感じる。子供の教育に対しても、ごく自然なように、姉がいるアメリカ、友人のいるフランスの高校へ、と選択肢を拡げて視野に入れてくる。私が彼らとつきあってためになるのは、暗さに甘えない元気と他の思考へのきっかけをもらえることだ。

つまり、さて世界はどうなるか、ではなく、さて私は世界をどうしようか、ということである。

2008年12月12日金曜日

金融危機と資本主義と<私>たち


「夜明け前が一番暗いというのは、今の難局が循環的なものだという考え方です。しかし今回の金融・経済の危機は、ひょっとしたら循環的ではなく、歴史の転換点かも知れない。金融や経済だけではなく、社会的、政治的、あるいは文化的な転換点かも知れないという思いがぼくにはあります。生き方や価値基準が問われているということですね。特に、金銭的利益以外の価値が問われている気がします。また政治的、外交的にはアメリカの覇権と基軸通貨としてのドルにどういう変化が起こるか、注意が必要でしょう。
循環的ではないと仮定すると、5年後、10年後の自分をイメージして、今を考えることが重要になるかもしれません。広い意味での投資感覚、みたいなことです。10年後のために、自分のどの部分、どの資質、どの技術に投資するのか、ということかな。滝に打たれるみたいな精神論じゃだめですね。ミもフタもなくスキルやキャリアが問われている傾向はより強まるので、投資という言葉をもっと広く捉えて、自分自身を含めた資産価値を高めないと。」(村上龍・朝日新聞朝刊2008/12/09「朝日ネクスト」全面広告より)

上の引用は、シティーバンクやらソニー銀行やらが集まって、円高株安で危機状態の今こそ投資をしてもらおうと金融機関共同の折込広告に掲載されたものである。お金の投資話ではなく、むしろ実存的な自己投企の話で作家の村上氏は返答しているのだが、私はこの態度を、イロニーの最終形態は真面目である、というものとして面白くおもう。また私自身、村上氏のように現状認識し、将来的なスタンスをとる。ゆえに、今日も一時、90円を割り込む円高が進んだようなので、円安のとき円に還元していた円利益でドルを買い替えして、98円で投資金額が回収でき100円になればこれまでの利益20万円が確保回収できるから、その時点でまた円を買い戻す、という戦術でいこうか、とかさっき考えたが、やめにした。理由は、はした金で面倒くさいことをしたくないし、日本バブル以後の為替チャート図をみてみても、来年そうそう1ドル=100円になるかもあやしそうだからだ。さらなるリスクを背負って投資し現時点での損失を回収しようとなんてケチな考えをおこすよりも、ほぼプラスマイナスがゼロになるあたりの相場なら、いったんはさらなる円高が進んでも、また戻ってくるだろう、そのとき解約、という時点では、まだシティーバンクはつぶれてはいないだろう……と。で、おろした金で買い物をしよう、それは、自己投資(=投企)のために。

といっても、いま41歳の私の10年後というのは……今日も、高い樹木、というか、他の造園会社がゴンドラユニックを使って変に手長ザルのようにしてしまった、つかまる枝のないケヤキをハシゴひとつでよじのぼっていく剪定作業をしてげっそりしているが(無事生還できてほっとする)、植木屋さんとしてまともに体が動くのは、55歳ぐらいまでだな、というのが感想である。だいたいそれくらいで、高木は無理だとやめる人がおおい。民間手入れ専門的な親方はべつ、低い木を選べるから。となると、もうこの歳では、専門のスキルで生きよう、というのは手遅れ、だろう。しかし私には、あとの世代に残しておきたいものがあるような気がするのだ。そして、40歳を前にして結婚し、息子もできた。私が知っているのは、この時代だけだ。知っているとは、予測する資格はある、ということを含む。逆に言えば、10年後の世界について、私は語る(参加する)資格を失うのである。それは、古典となった作品を、その当時の気持ちで読むことはできない、という誠実な態度(前提)と同等である。おおざっぱに言って、<私>たちは近代人であり、何百年か続いた資本主義システム下で自我や欲望を形成されてきたものなのだ。が、これからの子どもたちはどうなるのだろう? 息子の一希は時代(システム)の転換期にあたり、中年以後、新しいシステムに入っていく、ということになるだろう。

< さらに、A局面、B局面というような景気の循環が、長期的持続のシステム(資本主義システム)の移行期とも偶然一致しています。そのことが、状況をいっそう悪化させているのです。
 実際、私はこの30年間で5世紀にわたって続いてきた資本主義システムが最終段階に入ったのだと考えています。これまでの景気循環における様々な局面と、現在の局面が根本的に違うのは、資本主義はもはや、物理・化学者のイリヤ・プリゴジンがいうところの“システムを作る”ことができない状態になっているという点です。あるシステムがそのような状態に陥ると、生物学的、科学的、社会的な変調をきたすことが多すぎて、均衡に戻ることができず、岐路に立たされることになるのです。
 そうなると状況は混沌として、それまで支配的だった力ではもはや世界を統御することができなくなり、“闘争”が始まります。それはシステムの支持者と反対者の闘争ではなく、むしろ次のシステムを決定するためのプレーヤー全員の闘争となるのです。“危機”という言葉はこうした場合にこそ使われるべきだと思います。今、私たちは“危機”的状況にあり、資本主義は終焉に向っているのです。……(中略)……
 10年経てばもう少し状況は見えてくるでしょう。30~40年後であれば新しいシステムはすでにできあがっているはずです。そのときのシステムは、平等で再配分ができるものではなく、今の資本主義よりもさらに暴力的な搾取のシステムとなっている可能性もあります。>(イマニュエル・ウォーラステイン発言・『クーリエ・ジャポン』2008/12月号)

<私>たちは、「資本主義(金融危機)」以後の世界(世代)へ向けて、どのような「自己投企」ができるのだろうか?