2021年7月2日金曜日

『NAM総括 運動の未来のために』(吉永剛志著 航思社)を読む(1)

 


吉永さんとは、面識があったような、とおぼろげな映像が脳裏に浮かんでくる。ひとりではなく、もう一人の誰か、二人でいっしょにいて、こちらと挨拶をかわしたさいの立ち姿だ。宮地さんとふたりで全国集会に向かった、と本書にあるから、隣にいたのは宮地さんなのかもしれない。お顔は、まったくおもいだせないのだが、その会ったことがあるはずだという記憶を確認しようと、NAM事務員のころ使っていたノートパソコン、パソコン用の手提カバンにはいっている、そのカバンの表側についた物入から、数枚の紙きれをとりだした。20026月の全国集会あとの、評議員や事務員が参加した会議の場で、各自が住所と氏名を記入した用紙のコピーがとられ配布されたものが、そこに残ったままのはずだったからだ。柄谷行人らの自筆サインにまじって、吉永さんの署名もある。ならば、もっと記憶にあっていいのにとおもうのだが、そこで何が話し合われたかさえほぼ皆無な記憶だ。

 

NAMで私が関わったことどもの記憶も、20年近くがたって、きっかけがあたえられなければ、思い出すのも難しい。手元にのこしてあるパソコンから、当時のメールを再読することもできるし、事務員のさい、京都での事務局長だった杉原さんが、記録に残っていたメールや会員名簿などのはいったファイルを作って、新東京事務局に送ってくれていたものも保存されているはずだから、パスワードをおもいだせれば、私が参加する以前のNAMの当初から解散までの顛末が反映されたMLリストが閲覧できるはずである。しかしもちろん、そんなモチベーションはない。が、それがないのは、もう終わったからではなく、私のなかでは終わってないので、振り返る必要が邪魔になるからである。そういう意味では、いまなお反芻している記憶はあるのだ。

 

たとえばその全国集会あとの会議での、たしか休み時間だったとおもう。ラウンジのソファで、会計係であった当時まだ20代前半だったであろう関口君と休んでいると、柄谷がやってきた。たぶん、会議でも、NAM会員の年会費の件が話し合われたのかもしれないのだが、いきなりこう切り出したのだ。

「会費を無料ではだめなのか?」(言葉は正確ではない。)

私は一瞬きょとんとしたが、関口君がすぐに、「それは無理です。」と返答した。ちょうど私たちが、倉数さんが事務局長になった新事務体制が直面したのが、会員更新に伴う年会費徴収手続きだったからだ。たしか、財政の帳簿みたいのをみて、私が、このままの推移だと、予算がなくなって、サーバー代金など払えなくなるのじゃないか? と事務所メールで問題提起したのではないかとおもう。それに対し、たしか倉数さんは、そうですね、だから1万円にしたら、とか返信したような。さらに、現在はコンサルタント会社の社長をやっているという生井さんは、いや10万円でも高くない、とか言い出して。記憶間違いになっているかもしれないが、そこらへんから、いったいどういう感覚の人たちなんだ、と私が突っ込みメールを書きはじめ(あとで倉数さんから直接、人格破壊だ、とかの批判をいただくことになったが…)、そもそも事務が決める話ではないのだから、財政のシユミレーションを作って評議会に問題提起したらどうなんだ、という話になったとおもう。(本書によると、二千円から三千円の値上げになっている。)しかもそこに、近いうち導入するかもしれない地域通貨Qとの組み合わせと、どう事務作業を簡略化するかの話が付け加わっていったような。そういう背景の中で、柄谷の、「無料」という提案が、私的な場面でだとはいえ、投げ出されたのだったとおもう。だから、もしかして、円では無料で、すべてQでの年会費でいいのではないか、という含意だったのかもしれないのだが、記憶ではわからない。

 

しかし私がここでそんなエピソードを引き出したのは、埋もれた一場面を紹介したかったからでなく、NAMの解散にいたる、いわゆる左翼運動の「生々しさ」の伏線として喚起されてくるからである。Q組織のどさくさがNAMに波及して、もう表のメールでは何が起こっているのかさっぱりわからなくなりはじめた頃だったろう、旧事務員としてなおオブザーバー役で評議会などのセンターメールを閲覧できた私の見れる何かのメールリストに、「スターリン主義者」だの、「こんな奴に乗っ取られたNAMはもう終わりだ」(言葉は正確ではない)、と、抜粋された文章が、誰かから、どこかから、転送されてきたのだ。私は直観的に、「スターリン主義者」の「こんな奴」とは、私のことだろうと推察した。そして即座に、「これが私のことであるのは明白です。以後慎みます。」とオブザーバーであることを超えて返信した。あとから考えて、摂津さんのことかな、とおもいもしたが、むしろ、私が見ることのできるところにわざわざ転送したのが、摂津さんだったろうとおもわれた。私の勘違いではなさそうなのは、あとで、なお芸術系のプロジェクトで残っていた岡崎乾二郎さんらとの会合で、田口くんからその柄谷の口真似で揶揄されもしたからである(半分は、冗談でだが)。

 

柄谷は、Q組織では、実務をになった事務労働側についたわけだ。がNAMでは、事務側を批判する権威側の立場にたった。そしてその事務を仕切って影響をふるっているかのようにみえた私をやり玉にあげるシーンがでてきたわけだ。全国集会での会議をこえて、私と、会計の関口君のところにやってきたのは、そのときすでに、そういう認識の下地があったということだろう。常識的に考えて、社会的立場としても日雇いのような植木職人にすぎない私が、NAMを仕切るとか乗っ取れるとかありうるはずもないはずだが、そう思いこむのには、ジャーナリズム世界で著名な活躍をしている者の被害妄想なんだろうな、と私は思う。そう思わせる伏線については、あとで言おう。(というか、すでに似たようなことは、摂津さんが主宰したHPかどこかで提出してきている記憶があるが…)

 

ここにある事態を一般化して、吉永さんの言葉で引用付言してみれば、

 

NAMはヴァーチャルだから、現実の社会的諸関係から脱しようとする自律した個人の集まりとされた。しかしそれが集まってプロジェクトを作るとなると、それではすまない。誰もがアドヴァイスやコンサルティングや社外取締役的な立場に収まって発言するだけであれば、それは気持ちがいいだろうが、そうはいかない。どうしても、使う、使われるの非対称な関係が発生する。現実の場であるので、使われる側は定常的な実務が、使う側はリアルな責任が発生する。…(略)

 QとNAMの対立のきっかけも私見では以上のことが原因だ。しかしこれは一般にそういうもので、これに処するにはもはや理論や組織技術、政治技術ではなく、人の器・度量しかないのかもしれない。理論的あるいは経験的に豊かな人に教示を請いたい。私にはここまでの認識が今のところ限界だ。>(p273~274)

 

しかし私の認識では、吉永さんが本著作の最後で希望的にとりあげた岡崎さんが主宰していた、芸術系プロジェクトも、結局はそこで自然消滅になったのだ。岡崎さんは、柄谷はニコニコしていなければならない、とか言っていたし、岡崎さんは、おおらかな人である。私は、だからそれは、「人の器・度量」が問題なのではない、と認識する。「使う、使われる」という用語は漠然すぎて、私のこの件での感覚ではもっと狭く、ヒエラルキーという用語をしたくなるような構造がはらむ問題だ。広い用語でなら、知識人と大衆とかといったほうが近くなる。インテリ同士でプロジェクトをくむ、たとえばこの吉永さんの著作を編集していくような作業ならばまだ成立しても、どんな相手なのだかはっきりしない匿名的な人たちを集めた組織で、フェアな関係を目指してことをなそうとしたら、認識差や動機の温度差が生じてくるのは不可避であろう。Q組織でどたばたがはじまったと伝え聞いたとき、私はそれはNAMに波及し、いずれはRAM(芸術系プロジェクト)にも来るだろうと認識していた。金太郎飴みたいに、どこを切っても同じにみえたのである。そしてなんでかは知らないが、私は知識人と大衆を媒介するような位置にいるようだったので、私が手をひけば、両者がバラバラになって、もとの理念としての組織形態は解散する方向にぶれていくことになるのは論理必然だろう、と洞察していた。そういう意味でなら、柄谷が「こんな奴に乗っとられたNAMは終わりだ」との認識は正解なのだろうが、それは、私のあずかり知るところではない。

 

柄谷は要するに、NAMでは最後、大衆を切り捨てて「前衛」でやり直すと言ったわけだ。あのメールでの謝罪後、沈黙を決めこんだ私は、若い関口くんに、いまごろ柄谷はNAMを解散して新しいNAMの合作をしているとおもうよ、と言い、関口君は「そんなことはありえない」とびっくりした返答をしたことがあったが、吉永さんの著作で、浅輪さんを担いではっきりとそう動こうとしていた、とあると確認できる。が、この著作では触れられていないが、新代表の田中さんは田中さんで、柄谷を切って、NAMに集まった人たちと再結集した運動組織をたちあげる合作もしていたはずだ。そういう証拠をたまたま東京の事務所で私がみつけた、というような文もどこかに書いた覚えがある。

 

しかし以上のような問題点も、吉永さんの大枠の問題、<「権力を特定の人間に集中させない」「中心があって中心がない」という組織を作ることの圧倒的な困難>、ということに帰着するだろう。が、私が言っているのは、それにも、前提がある、ということだ。「前衛」的に、意があらかじめある程度は通じ合えるインテリの間でだけでなら、それは可能ではあるだろう。それが「困難」になるのは、匿名的な大衆なり民衆を巻き込んだ組織でありたいのならば、ということだ。そして私自身は、その「困難」を回避した「前衛」になど、興味がない、ということだ。

 

NAM内でのメールでも私は言っていたとおもうが、『原理』がめざす組織は、要はフリーメーソンみたいなものでは、というのが、私の解答だった。ただ、秘密結社ではないメーソン、貧乏人でもはいれるロータリークラブ、といったイメージ。ボスのいないイタリアのマフィア組織、といってもいい。ネット組織上の前例では、「副島隆彦の学問道場」などがうかがえるが、中心がある、ということになるのだろう。

 

<NAMは「NAM原理」の承認(「契約」といわれた)に基づく個人の自由連合だったわけだが、その妥協を許さない最大限綱領たる「NAM原理」から「外」に出ることで、現実の文脈との妥協を伴いながらの闘争が可能となる。例えば「NAM原理」では、「議会による国家権力の獲得とその行使を志向しない」とされているが、議会制民主主義へのはたらきかけを目的とするプロジェクトも充分可能だ。わりと柔軟だったのである。>(P272から273)

 

私が重きをおいているのは、吉永さんの上のような注釈の部分になるのだろう。「中心があって中心がない」というよりも、「在野」があって、その関係の濃密度なところが、中心的に働く、そのように見えてくる、という感じだ。だから、吉永さんは、「現場」というと、活動家の現場のこと、つまり対抗運動の「中心」としてなりうるものを掲揚しているが、私の「現場」は、あくまでそこらの資本主義下の労働現場そのものみたいなものだ。そこで、矛盾がでてくるのだから、そこで闘うという大衆の当たり前が前提ではないのか、と。

 

もう少し比喩をつかえば、国家官僚の佐藤優がNAM会員であったとしても、それは会員本来の姿でもありうるのだ。私は佐藤優にはむしろ批判的であるけれども、いまはともかく、外交官だった当時、彼は柄谷の著作や認識思考を使用・利用しながら活動していたという。解散後、柄谷は佐藤とも何度か対談している。彼がNAMの会員であっても、驚くには値しない、というのが私の理解だ。彼はキリスト教徒であるが、NAMには、仏教徒のお坊さんだって入会していた。それらがどういうことなのか、そっちの在野の意味をくみ取って考えるほうが、私には大切なことであり、その現実受容がなければ、頓珍漢になるのではないか? 吉永さんは、「中心」のモデルとして、湯本さんをとりあげているようにみえる。岡崎さんの芸術系の会合での報告によれば、湯本さんは、その後イタリアの修道院にはいってしまった、あるいははいろうかと言っている、みたいなのがあった。私には、チンプンカンプンな世界の出来事だ。湯本さんとも、たしかTQCのイベントでか面識があって、こちらの記憶は、その顔がはっきりしている。たしか、背が高くて、上から私をみおろしていた。その静かだが鋭い眼光は、私を吟味するようだった。

 

この吉永さんの、この著作を紹介するブログに、編集にたずさわった若い研究者の考察が紹介されている。そこでは、東浩紀のツイッターからの文句が冒頭引用されて、その「ゲンロン」での、「批評空間」でなされた以後の批評・文学史のことが言及されてもいる。私自身のブログでも言及したことがあるが、その東の現代文学・思想・批評史には、佐藤優の名はない。しかし好き嫌いはともかく、中上健次の後釜は、佐藤なんだ、というのが私の理解の仕方である。もう、基準の違う見方をしなくてはならない。というか、そもそも、NAMを、その「原理」を、そう取り込める広さであらかじめ読んでいた、ということでもあるのだろう。

 

柄谷本人はどうだか、知らない。

長くなってしまったので、いったんここでこのブログを閉めるが、以上のようなことは、すでにどこかで、摂津さんの主催したHPなどで言及してきたことである。まだ、以前への言及を繰り返さないと話を作れないところもあるが、次回は、その東の最近の『ゲンロン11』での特集などをふまえて、新しい装いで言語化できたら、とおもう。ちなみに、その「ゲンロン11」は、蛭田さんから、先月、借りてきたものである。そういうふうに、なお、人間関係はつづいている。フェイスブックでつながっている、もとNAM会員も結構いるし、京都の後藤さんとも、年賀状のやりとりをしている。結婚し、お子さんもできたと手紙をもらっている。吉永さんも、パパになったとか。私の息子は、高校3年生になる。

 

NAMの原理は、遺伝子だったはずだ。ならば、解散など、ありえないというべきである。私はおもうんだが、少なくとも、私くらいの世代で参加した人は、いま交流がなくとも、心が、通じてないですか?

2021年6月27日日曜日

ワクチン接種


近親者でも、ワクチン接種がはじまった。

母は、一回目では腕が痛い程度だったそうだが、二回目では、体調わるくなって、寝込み状態になったそうだ。老人ホームにいる認知症の父も、入居上の義務として打たれることになって、寝込み状態になっているそうだ。その父を受け入れている施設に務めている弟も、二回接種をおえて、半身がおかしい感じがすると、言っているそうだ。

そう電話での話で報告する兄は、私がこのブログでいろいろ言っている影響があって、なお受けてはいない。その兄の報告だから、実際はどんな感じなのか、わからない。が、どれも、想定的な副作用の内にはいる症状だろう。

女房の実家の方は、ゴールデンウィーク中にあった甥っ子の結婚式での話からすると、みな接種したのではないかとおもわれる。統計的には、貯蓄ある上流階級にいくほど接種希望者が増え、貧乏人になっていくほど、打ちたがらない人が増える傾向がある、と記事になっていた。だから、貯えなく、失うものがない若い人ほど、接種にこだわらないのだろう、とのコメントもあった。女房の実家の方は、失うものがたくさんあるような上流階級の部類にはいるだろうし、RNA研究は40年もの時間をかけた蓄積があるから安全なんだ、との知的確信にも裏付けられているようだ。

では我が家は? いくつもの持病をもつ女房は、打たなくてはいけないとかいいながら、なかなか打たない。私の話が疑心暗鬼を引き起こさせることもあるのだろうが、やはり、去年は手術つづきで、人工的な関与が、怖くなっている気がする。だから、家系的には打たなきゃとせかされながら、接種を拒否できるなにか明確な理由を欲しがっているようにも見えた。そこで、以前、有機野菜などを購入している生活クラブはどういう方針意見を打ち出しているんだ、と聞いたことがあって、それに何もだしていない、と女房は答えていたのだが、そんなことはないだろう、と、最近、スマホで検索してみた。すると、やはり、ワクチン接種には慎重だった。

生活クラブのような思想的団体からすれば、ワクチンが安全であろうがなかろうが、人為的なものを無暗に接種することは避けるようになるのは当然になるのだろう。ただ今回のコロナ状況の場合、全体の命がいま危ない、という話になっているので、拒否の方針をだす、というところまでいくわけにはいかないのだろう。

また、陰暴論とされるワクチン拒否の論拠については、河野大臣が、ひとつひとつ、反論をだしていた。反論になりえているのか疑問がつくのもあるが、具体的にとりあげてくれているだけでも、対話の構えを感じて、与党の政治家としてはマシなんではないか。

で、日本人全体の接種状況となると、やはり、半々くらいな推移になりそうな。やはり、というのは、以前のブログで、日本人は文化的には、自然のままに、現状を変えていく人為性にはくみしにくい傾向があるから敢えて接種はしない人も多くなるだろうと、いいもしたからである。ワクチン予約もすぐにも空きがでるようになったようで、ゆえに対象年齢をさげ、しかも、職域接種とかの方策がとられる。こうなってくると、打つことのほうが空気に、(日本的な)自然になってくるので、ずるずるべったりで、9割ぐらいの接種率になったりして。オリンピックもやるようだし(しかし、これも、決断かどうかはあやしいので、外圧ひとつでひっくりかえるかもしれない)、一億総玉砕的な事態にもなりかねないのが、日本的自然(じねん)ということだろう。

アメリカなどでは、保守派が打たない傾向らしいが、それは思想的・主体的な決断だろうから、なんといわれても打たないのだろう。トランプ自身はいち早く打っていたわけだが、彼を支持したプロテスタント系の原理主義的団体たるアーミッシュなども、打つわけがないのではないか。調べていないので、推察にすぎないが。

ちなみに、こうした日本の状況を、ひと昔前は、天皇制といって、批判していく言説があったわけだ。しかし、いまはこの言葉を使わなくなった。宮台真司氏や東浩紀氏など、どうみても、これまで天皇制という用語で言われてきたことを状況認識しているわけだが、なぜか、使わない。そのかわりに、國分功一郎氏が提起してきた「中動態」という言葉を使っているようだ。『ゲンロン11』では、東氏は、はっきりと、「ずるずる感」という言葉で「中動態」を比喩している。「ずるずるべったり」とは、たしか、中野重治の日本批判の用語で、それを、柄谷行人氏が、とりあげて流布させてきたものだと、理解している。が、その相変わらずということが今回のコロナ、オリンピック騒動で露わになってしまっても、「天皇制」とは、いわない。

が、東氏の「原発事故と中動態の記憶」を読み、宮台氏のYoutubeでの発言などを加味すると、おそらく、次の二つの認識からのようだ。

① 「中動態」的な無責任状態が、日本だけでなく、主体的なとされた欧米もふくめ、世界史的な規模になっていること。ゆえに、天皇制という用語は、その特殊な文脈によって、問題とすべきところを隠蔽するに加担してしまう。

② 「天皇制」という用語を使うことによって、せっかく下火になった左翼の騒音みたいなものの封印を解いて、復活させてしまうリスクがある、と状況読みしているらしいこと。

私は、どちらの認識も、理解できるが、実践的には、「天皇」という用語を自粛してしまうことがいいことなのか、なお疑問におもう。私にあっては、もっと検討をようする。(「中動態」と「天皇制」とは、現象様態としては似てきても、まずは別である、という認識区別は必要になってくるとおもう。)

その怨霊封印された左翼の最後の一抹の流行りであったかもしれない柄谷氏の運動組織について、会員だった吉永剛志氏が、『NAM総括 運動の未来のために』(航思社)を上梓している。それまで左翼活動とは無縁であった私には、まず「総括」という言葉に面食らってしまうのだが、最近読み終えて、「総括」という用語にはらまれることになった「生々し」さはなく、むしろ、目配りのきいた「概括」になっていることに共感すると同時に、物足りなさを感じる。もう少しは、生々しかったような。

しかしこの書籍への論評は、東氏の『ゲンロン11』でも、赤軍を素材にした漫画とかの特集もあったので、それらとからめて、次回に書き込めれば、とおもう。

2021年6月4日金曜日

コロナの展開

 


子どもたちがマスクをつけはじめて、一年半ぐらいが、過ぎようとしている。このままいくと、2年、をこしていくのだろう、とおもわれる。その健康的な問題についてはさておき、なんで、我慢できているのか、私には、不思議でしょうがない。

小学生へサッカーの指導をしていた経験から、一般的に、3年生半ばくらいまでは、言うことをきかせるのが難しい。後半になってくると、本能的な反応だけでなく、だいぶ頭で考え動けるようになってくる。といっても、それも指導方針によるのか、強豪チーム、あるいは試合に勝てるチームなどは、2年生くらいから、チームプレー、戦略的な戦い方をみせてくる。弱小チームのコーチとしては、その年齢の子どもたちに、いったい、どうすれば、あんな大人の言うことをきいたサッカーをさせられるのか、いまもって、よくわからない。まあ強いチームには、幼少のころから親と一緒にサッカーをみていたりして、すでにイメージや知見をもっている子が多い、というのもあるとしても、スキゾ的なのが自然にみえる年ごろの子たちにあっては、逆に、奇異にみえてしまう。しかし、強豪チームには、すでに伝統的な雰囲気があるので、そこにはいると、子どもたちでも敏感に、その空気に反応して大人しくなるのかもしれない。

マスクをつけるのも同様ではないか? 生理的には、あつくて、息苦しくて、仕方ないはずである。が、ほぼすべての子が、公園で遊んでいるときもつけている。べつに、大人がみているわけでもないのに。息子のイツキだったら、ぜったいに途中でマスクを放り投げて、遊んでいることだろう。口すっぱくいっても、ききはしないだろう。が、それが普通だ、とおもう親のほうがまれになってきたのか、いまの若い親御さんたちは、とにかく我が子に、マスクをつけさせることに成功している、ということになる。どれほど、ご家庭で、統御していくのだろうか?

テレビのクイズ番組だったか、閑散とした地域のとあるアパートに集まるその数人の大人たちの集団は、なにをそこでしているのでしょうか? というのがあって、答えは、子どもの電話相談なのだった。秘密がもれないように、電話の受けても素性を秘めて業務にあたるのだそうだ。で、コロナ禍にあって、相談内容がかわってきた、と。以前は、学校に行きたくない、だったのが、行きたい、という話にかわった。そして、自分たち子どもがいつもマスクをつけているのに、なんで、つけていない大人たちがいて、おかしいじゃないか、という声も多いのだとか。

では、この子どもの声、大人はちゃんとしていない、の訴えをきいて、街中でマスクをつけていない私は、どう答えるだろうか? サッカーの指導中などは、仕方がないのでつけるようになるだろうが、それでも、私は、ミーティング上で、こんな話をきかせるかもしれない。マスクつけるつけないにも、ほんとうは、意見がいろいろあります。にもかかわらず、あたかもつけること以外の選択はありえないかのごとく素通りして世の中がすすんでいるから、君たちは、マスクをつけていない大人を幾人もみかけて、大人は嘘をついている、とおもうようになってしまう。他の文化国では、そんなささいなことでも、大人どうして意見をぶつけあう光景がみられるそうです。そういうところでは、建前がないから、大人は嘘をついている、なんて、子どもたちもおもわないよね。だって、そもそも、サッカーやりながらマスクして、苦しくない? だまってて、いいの? 大人たちだけでない、なんで、君たちが、自分の本当の意見を、口にしないのだ?

*スマホのヤフーにひっかかってくるニュースをみているだけでも、以前なら、陰暴論として退けられていた話が、科学的な、あるいは事実的な根拠をもった推論として散見されるようになってきた。ウィルス人為説が表にでてきて(例えば夕刊フジ)、新ワクチンに関しても、いろいろな観点から検証があがってきているようだ。大阪大学の研究所によれば、毒がないだろうと新ワクチンでも標的製造されたウィルスの突起部分が、善玉の中和抗体だけでなく、むしろ重症化させる悪玉の抗体も発生させている、ことを発見した、そうだ。ただし、コロナにかかるのではなく、ワクチン接種の場合は、善玉の抗体のほうが量的には多くできるので、打った方がいい、と言っているのだが、量が、問題になるのか? 私は、抗体というのは、自然体系として、体全体がそう変身するのかとおもっていたのだが、突っ込んで調べてみたくなる視点だ。右腕はよくても右の人差し指はだめ、というような話なのか、それとも、バリアが薄いとか濃いとか、十分な量に達する達しない、という話なのか? ただ、この「女性自身」のコメントにもあるとおり、「感染増強抗体」という観点から、ワクチン打ったら人類おわるぞ、と訴えているノーベル賞学者もいるわけで。人工RNAの残留部位問題も、表にでてきたようだ。さらに、つばさの党の党首が、武漢の研究者からの情報として、youtubeではもう削除されるからと、独自のサーバーを創設して、訴えはじめた。最悪の陰暴論が、本当だった、と。この党首自身が、情報操作される標的になったという可能性もあるだろうから、私はすぐには信用しないけれども、GAFAが、相当な検閲をしているようだ、ということは、こんなブログを書いていても、身につまされる経験をしている。「憲法論議」と題したこのブログの一ページが、いったん削除されもしたのである。グーグルからのメール通知によると、ウィルスを流布させているという報告があり、審査の結果確認できたので削除する、他にもあったら、ブログ自体を閉鎖する、とあった。私は、自分が何を書いたのか忘れたし、もうそのページがなくなっていたので、どこかにリンクをはったかな、と思い出そうとしてみた。ウィルスを拡散させているというなら、知らない間に、はったリンクからだろう、と想像したからだ。が、その日の夕刻、再度の審査の結果、問題はないとなったので、復元した、とメールがくる。なんだいこれは? 私は、審査は、ロボットが自動的にやっているのだろうな、と想像していたが、人手をかけているのか? ほんとに検閲なら、プラットフォームをかえるか、ともおもっていたし、またそういう推察もあって、電子出版という発表手段も確保しようとしていたのだ。グーグルのブログは、ハッカーの標的になってもいるだろう。私の以前のパソコンは、おそらく、空き領域をのっとられて、おかしくなって壊れたのだと、推察している。このブロガーから、侵入してくるのではないか、と。

個人が、言論の場を確保するのが容易になった時代から、困難な時代に展開されはじめているのかもしれない。

試作電子出版本


知人と共作した10年くらいまえの絵本に、値をつけて電子出版してみた。シン・エヴァンゲリオン批判の書下ろしをつけ加えて。まだ試作段階だが、少しづつ、編集技術をあげて、世間に訴えたいものを、発行していけたら、とおもっている。

BCCKS / ブックス - 『人を喰う話』菅原正樹 摂津正 いつき著

*epub版をダウンロードしたほうが、読みやすくなるようです。

他にも、その電子や紙の媒体を発行できるbccksのプラットフォーム上に、<知人書謀>、と名打って、無料本も閲覧できるようにしてある。

知人書謀 - Powered by BCCKS / ブックス

2021年5月27日木曜日

コロナと労働

 


ゴールデンウィークあけから、練馬区のほうの街路樹刈込の作業にはいっている。エンジン・バリカンで、オオムラサキやサツキの生垣を刈っていくのだが、歩く距離のながいこと。70過ぎの職人さんと二人で、刈っては竹ぼうきで掃除、を繰り返していく。もう何キロ、歩いていることか。まだ、まだ、ある。夏には、10メートルほどの高さのユリノキの街路剪定もやってくれ、という。2年ぶりだかに落札できた役所仕事を、練馬区にある会社の若社長が、とりあえず義理で私のほうにまわしただけだろう、とおもっていたが、そうでもないらしい。「爺さん二人でじゃ、無理だよ。」と言うのだが、なんとか手伝いをみつけてやってくれ、という。自分のいる会社の若社長のほうの、新宿区のプラタナスも連続してやるはめになったら、つづけざまに200本以上、ひとりで毎日、のぼらなくてはならなくなる。「みな仕事がないなかで、うれしい悲鳴ですよね。」とも言われるのだが、体がもつのか。

 

今の街路樹作業には、まだ二十代も後半であろう若いガードマンがついている。本来は、倉庫でフォークリフトなども操作する運転手なのだそうだが、コロナで休みになり、知り合いの紹介で、この業務についているという。いまは、下水からもコロナが検出されているから、水道とかの工事現場もなくなって、ガードマンの仕事も減っているのだそうだ。

 

一服時のジュース代をだしてやって、道路に座りこみ、話している。勝手に車はよけていくから、パッカー車の後ろに立っての規制などいいから、休め、と言ってやる。ひとり業務なのに、一服時間があったり、そのジュース代をだしてもらえることじたい、めずらしいのだろう。15年前くらいまでは、現場の責任者の親方が、他の職人たちのぶんまでジュース代をだして、若いものに、ひとりひとり注文をとらせて、買いにいかせていた。10人以上いたら、その注文を覚えるのが大変だが、現場に参加できてくると、その一人一人と一対一の関係で注文の品を結びつけるようになるので、暗記はいらなくなる。現場の環境が、態度をかえさせ、それ自体が、訓練なのだった。がじきに、各業者ごとに自らの一服代を負担するように申し合わせができる。私も親方から、うちの職人以外の一服代の請求をだすな、と言われもした。若社長ともなると、10時と3時の一服時間さえもあやしくなる。まして、よそから派遣されてくるガードマンのことなど、かまわない。現場からは、一体感がなくなり、ガードマンも、いわれたことしかしなくなる。みな、バラバラだ。職人的な徒弟制というよりは、仕事によってかかわるだけの経営者と従業員としての、ヒエラルキーだけが浮かび上がる。それが、自明化される。だから、この若いガードマンは、びっくりしたのだ。そういう世の中もあるのか、現場の責任者とジュースを飲める時間があるということがありうるのかと。私はあえて、というか、世の変化への抵抗をこめて、自腹を切って一息コーヒーを買ってやっている。いやこの歳になると、若いものに、違う世の中がありうるのだと知らせる、教育的実践をしている、感じだ。ガードマンは、気づいたことを、自らやるようになる。

 

が、販売機もコンビニも近くにない道路では、勝手に休んで、と100円硬貨だけわたすことになる。若いガードマンは、コーヒーなどは買わず、そのまま着服しているようだ。コロナ状況がつづいて、生活費を稼ぐのも、大変になっているのだろう。

 

私の身の回りでも、陽性反応がでたりで、コロナが近づいてきていると認められる。埼玉の春日部の叔母家族が、みな陽性者になったときいた。しかし、統合失調の診断を受けて引きこもっている40歳にはなるだろう、私の従弟から発熱症状がでたというのだから、奇妙な話である。そして、一緒に仕事をしている職人さんの娘が一昨日だか、陽性と結果のでた友人の濃厚接触者ということで、自宅待機になったそうだ。娘さんに症状がでたり陽性反応がでたら、私もコロナにかかった、と認識すべきだろう。職人さんと同じハンドルを握って運転してもいるのだから。

 


日本では、陽性者を増やすと面倒になるので、検査をしない。関わりたくないという事なかれ主義だ。が、スウェーデンなどでは、一緒にすごしていたらかかっているのが当たり前だと認識すべきなので、わざわざ検査などしない、という。しなくても、その保証の対象者になる。身近なまわりものたちも、誰もがかかりうる風邪みたいなものと接してくるそうだ。がこちらでは、かかわりたくないと、排除の気配だ。

 


私は、お店にはいるときや、電車やバスにのるとき以外は、ほぼマスクをつけない。暑くて、やっていられない。人通り多い、でかい団地街のど真ん中で刈込仕事をしているが、まだ誰も文句はいってこない。職人さんは、仕事中、運転中でもマスクをしている。娘さんがうるさくて、こわいんだよ、と言っていたが、そのコロナを警戒していたはずの娘さんが、濃厚接触者となった。奥さんは、糖尿病で、インシュリンを打つ生活だ。職人さんも、心臓の薬を毎日のんでいる。2LDK暮らしだ。

 

個人の気のゆるみがあるから緊急事態になったのだのと、政府や都知事や、街中をぶらついている者の街角インタビューでも答えている。なんとも、ふざけた話だ。自然を、なめている。毛虫の猛威がわからなくても、どこにでも生えてくる雑草の勢いをみればわかるだろう。個人になど、人間の力など、どうにもならない。遺伝的相性(環境)がよかったら、ウィルスは増殖をはじめ、悪かったら、場所をかえていくだろう。そもそも、中国の奥地でまどろんでいたコロナにとっては、いい迷惑な話だ。いきなり都会にひきずりだされて、パニックになっている。ワクチンは、パニックをあおっているだけかもしれない。場所(人)を替えるだけでなく、自らを変えていく。

2021年5月5日水曜日

コロナ下の哲学


 まだこのブログ上で言及はしていなかったが、私が、コロナをめぐる論考で一番いいとおもったのは、國分功一郎氏と大澤真幸氏との討議『コロナ時代の哲学』(左右社)。

とくに、國分氏が、かつて、大澤氏が別問題でとりあげていたチンパンジーの科学実験を呼びおこして、コロナ禍でのソーシャルディスタンスがかかえこむかもしれない類的現実への考察は、鋭い。

その國分氏が、東大にはいるかもしれない高校生なりへの一般講義が、youtube上で公開されたようだ。

上記作と重なるところもあるが、やはり、ここでメモしておこう。


<國分功一郎「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」ー高校生と大学生のための金曜特別講座>

2021年4月25日日曜日

花粉、ウィルス、量子(4)


前回ブログで、日本のコロナ状況では、ロックダウン的な処置など必要なく、臨時法的な医療体制の拡充をするほうが先決だ、という趣旨の発言をした。
 
これと似たような提言を、慈恵会大学病院の大木隆生氏が、自らyoutube番組をたちあげて広報しているのを知った。安倍や菅の助言者でもあるらしく、そういう話を総理官邸にしても、結局は受け入れられなかったと。

大木提言3(https://youtu.be/yl_zmErgY2U)、他

大木氏のたとえでいえば、水道の蛇口をしめるだけで、水を受ける入れ物がおちょこのまま、バケツとかにしようとしない、それは、ゼロコロナをめざすという方針のもと、あってはならないことと、否認されてしまうのだろうと。氏は、総理はその体制作りの意をくみとっても、まわりの厚生省や医師会などがもしものときの責任をとりたくなく、政権批判が役目とされるマスコミが圧力をかけつづけるために、患者増大を前提としたような処置はすることができなくなるのだろうと、推察している。

私は、大木氏のコロナ認識に、根底的なところで仮説的な疑義をもっており、それがこうしたブログでの意見整理になっているわけだが、いわゆる世界で説かれる陰暴論以外で、なぜやりたくもなかったらしくある政権側が、結局は過剰な防疫体制を強いられているかを説明しているのにであったのは、これがはじめてなんではないか、とおもう。説得的な話だ。が、あてはまるのは、日本だけなのではないか、とおもう。さらに、もし安倍や菅が、本当に大木氏の意見を肯うならば、覚悟をもってやればいいだけだ。が、そうしないのは、なにももっと上位の、世界陰謀論者からの指令などではなく、たんに、意志がなく、また、それが科学的にも根拠がありうる認識だとの当否を判断できる、教養訓練がまったくないからであろう。実際には、中学生レベルでもマスメディアで説かれることがおかしいとは、公表折れ線グラフをみれば見てとれることだし、非常事態宣言でもまだ生ぬるく遅い、といってきた学者たちの、手遅れになれば何十万が死ぬぞ、との認識というより脅しが、いったい何回はずれたか、ということも経験済みなはずだ。

田中宇氏が、またコロナPCR検査でのインチキを説明しているが、たとえ世界的な陰謀を企んでいる勢力があったとしても、日本になど、指示などする必要もないだろう。していたら、バレバレになって、陰謀どころでもなくなる。とはいえ、DNAのらせん構造を発見したワトソンの本では、CT値、増幅回数は25回でもすごい、みたいに記述してあったから、40回だの50回だのは、キチガイ沙汰なんではないだろうか?

しかし今回私が書き留めておきたいのは、以上のようなジャーナルな話ではない。

ウィルスとは、粒子のことなどではなくて、細胞の状態のことである、という生物学上の新しい仮説のことである。(『生物はウイルスが進化させた』武村政春著 講談社BLUE BACKS)

これは、新型コロナのウィルスが原因なのではなく、それをそうさせる身体や環境のほうに原因があるのではないか、と仮説しているこのブログの趣旨にかなう。原因ではなく、状態のほうが問題なのだと。量子が、粒ではなく、状態であるように。(ここから、量子論を、情報論へとゆきつかせる最近の思想状況もでてくるようなのであるが…)

<これはすなわち、「ウィルス粒子」と「ウィルス」は分けるべき概念なのだということである。別の言い方をすれば、「ウィルスの本体はウィルス粒子ではない」ということである。
 それでは、いったい何が「ウィルスの本体」なのか? 「ウィルス粒子を作るもの」こそが、ウィルスの本体なのだ――ヴァイロセル仮説は、そう主張しているのである。
 ウィルス粒子を作るもの。それこそが「ウィルス粒子に感染した細胞」である。>

ヒトも含めたDNAを格納している細胞核は、ウィルス感染した細胞内のウィルス工場が進化したものなのではないか、ともいわれるが、まだこのレベルの世界は、「ブラックボックスのままなのである」そうである。この素人への解説本を読んでいるだけでも、そんな世界に人工RNAなどを投下していいのかい、と疑わしくおもえてくるのだが…。