2011年8月13日土曜日

科学・社会・人間

「…それは数学基礎論といって、非常に専門的技巧を要するのですが、その仮定を少しづつ変えていったのです。そうしたら一方が他方になってしまった。それは知的には矛盾しない。だが、いくら矛盾しないと聞かされても、矛盾するとしか思えない。だから、各数学者の感情の満足ということなしには、数学は存在しえない。知性のなかだけで厳然として存在する数学は、考えることはできるかもしれませんが、やる気になれない。こんな二つの仮定をともに許した数学は、普通人にはやる気がしない。だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない。」「…それはアイシュタインが光の存在を否定しましたから。それにもかかわらず直線というふうなものがあると仮定していろいろやっていますね。物理の根底に光があるなら、ユークリッド幾何に似たようなものを考えて、近似的に実験できますから、物理公理体系ですが、光というものがないとしますと、これは超越的な公理体系、実験することのできない公理体系ですね。それが基礎になっていたら、物理学が知的に独立しているとは言えません。…(略)…何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾と水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやってたほうが幾分利益があればできるものです。もし建設が一つでもできるというなら認めてもよいのですが、建設は何もしていない。しているのは破壊と機械的操作だけなんです。だから、いま考えられるような理論物理があると仮定させるものは破壊であって建設じゃない。破壊だったら、相似的な学説があればできるのです。建設をやって見せてもらわなければ、論より証拠とは言えないのです。」(『対話 人間の建設』岡潔・小林秀雄著 新潮社)



書店にいくと、原発事故後、それに関連した色々な書籍が山積みされてある。といっても、そうした現象も東京など大都市圏だけで見られることなのかもしれないが。そうしてあったなかのひとつ、スチュアート・ブランド著『Whole Earth Discipline 地球の論点』(仙名紀訳 英治出版)を手にしてみた。かつて、アート系のグループに参加して、その作者の'68年の名著『Whole Earth Catalog』と類したものを作ろうというプロジェクトに関わったことがあったので、そのタイトルからこれはなんだろう、とおもったのである。読んでみて、びっくりした。原書がフクシマ原発事故の数年前に書かれたものということもあるが、ゆえになおさら、それ以前の原発推進派の論の立て方がこういうものかと知って。日本で翻訳出版されたのは事故後であるのだが、訳者はあとがきではそのことに敢えてなのかまったくふれない。……「本書の魅力は、人類が直面している難問に多面的に取り組み、その解決を図ろうという壮大な発想と、取り組み方を克明に分析しているところにある。彼がとくに力を入れているのは、「原発」「遺伝子組み換え」「地球工学」など、一般的にはタブー視されていることだ。その根源には、気候変動がもたらす危機感がある。彼は「反核」から「親核」に変節するのだが、そのぶれを告白して恥じない。」と、その作者のカリスマ性を強調するのみである。しかし、当人個人の魅力のことなほぼ全く知らない門外漢の者がこれを読むと、その現代の先端実用科学を評価していくこの言論を、もうどう受けとめていいのか、頭が混乱、思考停止になるばかりである。おそらくフクシマ以前に読んだのなら、この混乱はなかっただろう。それぐらい、フクシマ以前と以後とでは、思考の在り方を変えてしまう何かが起きた、ということなのか? 訳者が言及しないのも、できない、ということなのか? 作者本人がフクシマの原発事故に関し、どう対応しているのかは知らない。ただ、作者が評価して説き、日本での実行にも言及してみせる核燃料リサイクルや高速増殖炉の技術に関する箇所などを読むと、作者が本当に調べて書いているのかさえ、疑問におもえてくる。事故後、われわれ凡人でもが知ってしまったひとつには、そうした政府権力側の説くリサイクル美談が、実はすでにして実際的に破綻し、いくつもの事故を起こしており、ほんとうに実践してしまったら恐ろしいだろう、ということがある。そしてその程度のことは、ちょっと調べればわかってしまうはずのことなのだが、本書のように楽観的なのはどうしてなのか、凡人には不可解になるのである。そしてそのいま誰の目にも明らかになった一事が、なお凡人には無知なままの、「遺伝子組み換え」や「地球工学」といった分野での作者の意見をも、疑わしく覚えさせてしまう。それとも、フランスのジャック・アタリ氏が説くように、フクシマの事故は自然災害と東電のミスであって、原子力技術自体には問題がない、ということだろうか?(日本人が原子力を扱うにしては無能だとしても、もっと無能かもしれない人間が手に取るかもしれない、という人間的現実は考慮する必要がない、ということだろうか?) 本書では、放射能の閾値に関しての議論にも言及がある。どうも低線量でも用心する<予防原則>という考え方はヨーロッパのものであって、しかもそれは医学的態度、というより、哲学的に前提とするべき基本態度、としてあるようだ、ということが知れる。ビル・ゲイツやロックフェラーの活動を肯定的に紹介する作者が、むしり低線量は体にいいのだ、と受け入れるアメリカ側のそれ、と見て取れる。となると、哲学の背景には政治・経済的利害関係があるとするのが一般だとする教養にたてば、この両者の背後には、ロスチャイルドvsロックフェラーという2大勢力の争いがあるのか、ゆえに作者は原発推進側の資料しか受け入れていなのか、そう操作されているということなのか、とも勘ぐりたくなってしまう。

一昨日、原発批判の映画監督・鎌仲ひとみ氏と、福島県で活動している小児科医の山田真氏との講演・対談をきいた。鼻血や下痢をする子供の症状を放射能と結びつけて発言するのには慎重になるべきだと山田氏は説きながら、現在福島県で一番問題なのは、医学的な真実いかんよりは、社会的な差別なのだ、と指摘する。「東京の山谷地区と似てきているんです」という。大阪の釜ヶ先はいつのまにかその地域に入ってしまうような地続きだが、東京の山谷は隔離されて別世界だ。そしてその別世界で、人々がマスクをせず普通に生活している。おそらくマスクをしないのは、ここが普通だとおもいたい意識のゆえなのではないか、と言う。放射能が危ないとか、避難したほうがいいとかは、現地では口にできない。そんなことをいうのは郷土のことをおもっていないからだ、と戦時中の日本での非国民のような雰囲気があるのだ。地産地消ということで、学校の給食もみな福島県産だ。そうしたことに疑問を述べる教師は、いま次から次へと強制退職させられている。鎌仲氏も、阿蘇山で福島県の子供たちを受け入れてキャンプをしている知人の話しとして、その子供たちが、「俺たちは死ぬんだ」「結婚して子供をうむことはできない」、ともらすという。それは被曝で差別された広島の人々と同じだと。まず本当のことを知り、危険でもたくましく生きていくことが可能だ、という広島の人たちの話しを福島で設ける企画をやろうかと考えているという鎌仲氏に対し、山田氏は「だからそれは、安全神話を説く人たちと同じことに…」「いや安全じゃないけど生きていける……」、そう二人が口ごもる場面もみられた。実際、鎌仲氏のアイデアは、氏がボケとして批判する山下教授の、自身が被爆者でもあるだろう長崎出身者の説法と似てくるのである。真実(科学)はわからない。数年後からしても、その症状が放射能が原因かどうかわからない、となお議論延々となるようなのだから、それはわかるわからない、という科学の問題ではなく、社会の問題なのだろう。だからそれは、いわゆる科学に依拠しない、社会的、人間的態度として、その対処を考えていかなくてはならない。が、それは簡単明解なことなのではないだろうか? 思いやりをもつこと、単にそれだけではないのだろうか? 権力側が思いやりを持つ、とはどういうことだろうか?

お盆明けに、また支援団体の運転手役として、こんどは福島県にゆくことになった。自分で作った作物を放射能検査しなくてはならない農家をまわって、その話しをきき、バザーへの仕入れをする活動だそうだ。「まず福島県にいってください」と山田氏は説く。人との交流じたいが、そこを隔離差別することから防ぐだろう。

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