2011年8月28日日曜日

「食べる」vs「食べない」を克服するために 2

昨日27日土曜日、東京は台東区でおこなわれた市民集会に参加してきた。主催は<核・原子力のない未来をめざす市民集会実行委員会>だそうで、その第二回目。講師として、元原子炉設計者の田中三彦氏、子供を被曝から守る福島ネットワークの中手聖一氏、京都大学原子炉実験所の小出裕章氏。前回ブログで、その小出氏が、「食べる」派の論理を訴えているのではないか、と私は示唆したが、ちょうどその集会での資料に、小出氏がチェルノブイリ事故後に書いた文章があった。(1989.1/12)。今回は、どうも生活クラブかなにかの冊子に寄稿したのだろうその「弱い人たちを踏台にした『幸せ』」と題し、「汚染された食べ物を誰が食べるのか」と副題されたその文章を引用・紹介してみることにする。市民集会の講演では、そうしたたぐいの話にはふれていなかったが、その短いエセーは、生活思想といったもので、全文紹介したくなるような話である。なお、その紹介あとに、東和町の菅野氏から購入した『脱原発社会を創る30人の提言』(コモンズ)からも、私の心にふれたニ、三の記述を追加しておこう。 (引用中の/は、実際文章上では行変えを意味します。)

小出裕章氏………<残念ながら、チェルノブイリの事故は、すでに過去形で起ってしまいました。そして、そうであるかぎり、食糧が汚染することももう避けられません。従って、いま私たちに許されている選択は、汚染した食糧はいったい誰が食べるべきなのかというたった一つしかないのです。/日本はいま、世界一の金持ち国ですから、いざ本気になれば、それなりに汚染食糧を国内に入れないようにすることは可能です。でも、日本に入ってこなかったからといって、放射能で汚染した食糧がこの世からなくなってくれるわけではないのです。それは、他の誰かが食べさせられることになるだけです。>

<私的にことになりますが、私は一五年前から、連れ合いと二人で生活するようになりました。でも、この猛烈な差別・選別の競争社会の中で、『わが子』をもつということに強い抵抗を感じ、子供を作らずに長いあいだ二人で過ごしてきました。しかし、さまざまな葛藤の末に子供を作ることを決心し、五年前に太郎を、その後、次郎、三四郎と三人の子供を迎えました。彼らが私たちのところにやってきてから、私は改めて子供の個性の多様さ、そして面白さを知ることができました。(正直いうと、あまり面白すぎて、もう毎日へとへとです。)そして、どの子供もその多様さを尊重しながら、公平に個性を伸ばしたいと、ますます強く望むようになりました。/次郎は、生まれながらにいわゆる先天的な障害を背負って生れました。それは次郎の個性であり、それをただそのまま受け入れて、次郎とともに生きて行くことを私は切望しましたが、残念ながら、私たちが次郎の生命を守れたのはわずか半年しかありませんでした。/一人ひとりの子供たちは、自らの個性を選択して生れて来るわけではないのに、次郎の場合がそうであったように、生物体としての個性の面でも現実の社会はまことに過酷なものです。その上、私たちは、私たち自身に責任がある社会的な面での差別・選別を子供たちの上に何重にも重くのしかけています。>

<チェルノブイリ事故以降、私は自分自身の手で汚染の実態を調べてきましたし、放射能の恐ろしさについても、誰よりもよく知っているつもりです。私は、もちろん、放射能で汚れた食べ物を食べたくありません。しかし、日本という国は、原発を三六基も動かし、一人当たりでは世界平均の二倍以上のエネルギーを浪費している国です。そして、私自身はこのニ〇年、原子力利用に反対してきたとはいえ、いま現在、原子力の電気を利用するこの国に生活している事実を否定できません。また残念ながら、今の私には、日本が拒否した場合の汚染食料を貧しい国々に押しつけることを、具体的に阻止する力も方策もありません。そうであるかぎり、私には放射能で汚れた食べ物を自らが食べる以外の選択はできませんでした。/私は、チェルノブイリ事故以前から、スパゲッティはイタリア屋、チーズはヨーロッパ産を好んで食べました。事故以降、それらが汚染されていることをもちろん私は知っていますが、私はそれらを敢えて避けずに、食べ続けています。原子力を選択するとはどういうことなのかを自分の身体に刻み込むために、そして、その痛みを忘れないことによって一刻も早く原子力を廃絶させるために、私はその選択を続けたいと思っています。/もちろん、一人ひとりの選択は多様であるべきで、すべての人々に私と同じ選択を迫るつもりはありません。当然のことながら、日本の国内で汚染食糧をどう取り扱うかという問題も、とても大切な問題です。しかし、日本の国に汚染食糧を入れないように求めることだけは決定的に間違っていると私は思います。>

<私に手紙をくれた子供たちはどの子もとても深くものごとを考えています。そのすべてをこの紙面で紹介できないのが残念ですが、彼らが出し続けている学級通信にはこんなことも書いてありました。「ぼくたちは、今いろいろなことを考えようとしているけど、おとなになったら、今のおとなみたいに考えなくなるんじゃないかなあと思いました。」私は、全世界の子供たちに、そして原子力を選んだことに責任がない大人たちには、汚染食糧を食べさせたくありません。そのために日本の大人たちはいったい何をすべきなのか、そして何をしてはならないのか、皆さん一人ひとりにもう一度考えて欲しいと思っています。>

明峰哲夫氏(農業生物学研究室)………<「天国」では、人は自然の姿のうち自分に都合のよい部分だけ”つまみ食い”してきました。明るい、温かい、美しい、清い……。「故郷」では生きるためには、自然がみせるすべての姿をそのまま受け入れなければなりません。/人が自然と一体となって生きるには、自然は自分と不即不離の関係にあり、その不都合な部分だけを捨てることはできないという覚悟が必要です。自分の身体の一部が具合悪くなっても、それだけを捨てることができないように。/「3.11」により、土も海も汚染されてしまいました。人は、そこからひとまず退却しなければなりません。けれども、汚染が比較的軽微な周辺地域では、そこにとどまるという選択もあります。「邪悪」なものは徹底して「排除」するという感性は、私たちが「天国」で身につけてきたものです。「故郷」では、「邪悪」なるものも「受容」できる感性が必要です。/ここで大切なことは、何が「邪悪」なのか、「邪悪」をどの程度受け入れるべきかは、基本的にはその人の判断で決めるということです。「天国」では、その判断は政治家や科学者に委ねられていました。「故郷」では、その判断は一人ひとりの人間の選択として行われるのです。ここでもまた人は”胆力”とでもいうべき総合的な判断力と決断力が試されます。/「故郷」の再生。そのためには何よりも種子と、それを播く人が必要です。私たちはまた明日になれば、種子を播き続けなければならないのです。>(「天国はいらない、故郷を与えよ」)

秋山豊寛氏(ジャーナリスト・宇宙飛行士)………<利権集団は、機会さえあれば、自らの利益を拡大しようと狙っています。その集団は、国際的ネットワークに支えられています。今回のレベル7の原発事故にしても、このあと「焼け太り」を狙っているのは確実です。浜岡原発の一時停止などは、あとで二歩前進するための一歩後退にすぎません。「敵強ければ、すなわち退く」という昔ながらの兵法に従っただけ。ノドもとを過ぎて人びとが熱さを忘れるのを待っているのです。…(略)…最大の問題は「経済成長がなければ、豊かになれない」という認識です。現在の世界のシステムが、ほぼ、こうした認識を基本につくられているという意味で、この部分は強敵です。しかも、「成長にはエネルギーが不可欠」という言説が伴っています。/ここで問い直さねばならない基本的テーマが浮かんで来ます。/「私たちは、経済成長がなければ豊かになれないのか」/「豊かさ」を「どのように捉えるのか」は、ここ数十年、基本的な問いかけとして、ことあるごとに登場しました。「ものの消費に基づく経済の成長には限界がある」という問題が提起されたのは、1970年代初めでした。/その後、ソビエトの崩壊や中国の変化など地球表面での「市場」の拡大は続き、「成長の限界」は、まだ「臨界」に達するには余裕があるような空気が支配しています。「原発ルネッサンス」などという言説が隆盛を極めたのは、つい最近のこと。「脱原発」への道のりは、険しく、厳しいのです。/とはいっても、希望はあります。それは、人びとの気づきです。洗脳され、「それしかない」と汚染された脳を清浄化することです。さらに多くの人びとが真の豊かさに気づくことから、「脱原発」は始まるはずです。>

渥美京子氏(ジャーナリスト)………<電力だけでなく、東京の食を担ってきてくれた福島の大地。汚れてしまったから、汚染されていない土地の食べものを買って食べましょうという発想を、私は拒否したい。危険な原発を福島に押し付け、豊かさと便利さを享受してきた東京の人間は、大地の汚染をどう引き受けるかを考えなくてはいけない。もう子どもを産むことのない私は、福島の彼らが作ってくれたものを食べようと決めた。/だが、それは覚悟だけでできることではない。台所に立つたびに、容易なことではないと実感する。私には中学生の息子がいて、できるだけ汚染されていない大地で採れたものを食べさせたいと考えている。キュウリやトマトなら産地を分けて別の皿に盛ればいいが、ご飯はそうはいかない。炊飯釜が2つ必要になる。野菜の煮物は別々の材料を用いて、別々の鍋で作ることになる。/とんでもない手間がかかる。生活に即した実現可能な方法を考えなければ、日々の忙しさにかまけて覚悟倒れになりかねない。放射性物質を除去するための調理方法の研究や、免疫力を上げる食事の工夫も、これからの課題となるだろう。/悲しい現実ではあるが、放射能の時代を生きることになってしまった。現実を見据え、できるかぎりのことをしながら、前向きに生きるしかない。/これ以上、東北人を死なせてはいけない。そのためには、彼の地の恵みに育ててもらったおとなが責任を取るしかない。覚悟して食べるのだ。未来はその延長線上にのみ開かれる。>

*追記報告; 冒頭写真は、福島氏の街路樹。事故後、放射能対策として、新しく植え替えて、その下に、ひまわりを植えたのだろう。庁舎のまわりでは、平均して毎時1~2マイクロシーベルトだったが、排水溝にたまった松の枯葉近くでは、3マイクロを超えていた。

グループが測ってきた放射線量の主な地点のものを、以下にメモしておこう。単位はみなマイクロシーベルト毎時である。:いわき市夏井川河口0.2、ひろの町0.7、夏井川上流0.14、東和町0.3、山際町(福島第一より30km地点)1.68、浪江町(21km地点)9.1―――ちなみに、この10万円ちょっとするという線量計では(東和町で使用のものは100万円をこえるというものだった)、東京の練馬区東大泉近辺で0.1マイクロをこえ、私が住む中野区上高田の団地でも、似たようなものだった。子どもの遊ぶ砂場でも同じ。ただ、団地の建物内に入り風がふくと、その数値が0.13とあがるところが、やはり何かそこにある、というリアりティーを感じさせてきた。



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