2021年4月4日日曜日

電子出版とゲンロンの場


電子出版なるものをやってみようかと考える。
植木仕事も減ってきたので、生活の足しになる手段をさぐらなくてはならない。

また、日記がわりにつけているこのブログとはべつに、まとまった論考を保存しておく場所も必要だ。以前は、ヤフーのジオシティーズがあったが、スマホでのブログやツイッターなるサービスがでてきて、もう個人のホームページの時代ではなくなったのだろう。一昨年だったか、ジオシティーズのサービスは終わった。

そこで、電子出版といえば、アマゾンのKindleということで、ちょっと検索的に調べてみた。私でも、登録アップはできそうだ。代行業者にたのむと、数万円かかるらしい。が、アメリカのアマゾンに対し、源泉徴収は免除処置ができても、こちらの税金を閲覧できる許可みたいなのをあたえなくてはならないらしい。気味がわるい。さらに、ほとんどの検索記事や広告では言及してなかったのだが、月一度業務されるアマゾンから日本の銀行への為替手数料や振り込み手数料みたいので、それぞれ2千円ずつくらい、つまりは月に4千円以上の、年にしたら、5万円近くの経費が発生するらしい。新生銀行経由なら、振り込みの方の手数料はかからなくなる、とも言われている。が、ほんとに資本の世界に牛耳られていく感じで、気味がわるい。売れるわけでもないデータの、オープンな保存場所としては、ハードルがある。赤字になっていくというより、こつこつとぶんどられていくことに飼いならされていく、その躾を受け入れますか、と問われてくるような感じだ。ツイッターやインスタグラムといった、手短・直観的な習慣には飽き足らない階層の人たちに、どこか現実的とおもわせる障壁ハードルを設けてやって、それを超えて何かやった感を味合わせて手なずけていくやり口、といおうか。

他にも、電子出版のプラットフォームはあるみたいなので、さぐってみよう。

ところで、そんな試行の一環で、はじめてキンドル・アプリをスマホに導入し、無料サンプル文章を閲覧し、そして、東浩紀氏の『ゲンロン戦記』電子版を購入してみた。

気軽に読めるものならば、慣れれば、気にならなくなるらしい。とにかく、電気文字みたいのは、目と首がすぐに疲れてくるので、私は敬遠していた。すぐにページを指でめくらなくてはならないところが、漫画本読んでるみたいで、面倒くさいが。

で、その東氏が、情報発信を無料ではやらないことの意味を、思想・哲学的に説いている。会社を経営しているのだから、お金をとるのは必要な当たり前で、そこに、意味づけする余分な必要があるのか、と私などはおもう。他で金を稼げて、生活に困っていないのならば、無料提供でもいいが、そうもいかなくなることが予想されるので、なんとか百姓(何でも屋)的にあがかなくては、というのが私の有料への動機だ。東氏の会社のHPでの無料文章をみると、その意味付けに、柄谷行人が引用されているらしい。無料だと、そこまでの情報しかわからないわけだが、おそらく、柄谷氏の、フロイトが精神分析で金をとった、というところからの考察などが参照されているのだろう。無料だと患者に負い目をあたえて、医者本人への転移的な現象を発生させてしまうので、距離を保った関係を維持するために、金をとるのだと。たしかに、無料でワイワイ騒いでいる人たちは、対象に転移的な感情を抱いているだろう。が、東氏は、「交換」という、最近の柄谷氏の「世界史の構造」からの用語をもちだしているようだから、ちょっと違う観点が、意味付けに導入されているかもしれない。「商品(有料)」ではなく「贈与(無料)」のほうが「交換」としては可能性がある、と転回したといえるかもしれない最近の柄谷立場を、東氏がどう自身の経営(有料)的な活動に挿入したのか、いまのところ、私には不分明である。

その東氏の、「ゲンロン」を読むような知識大衆層の人数は、多くて2万人、ぐらいなようだ。普段は、1万冊売れればいい方、ぐらいか。たしかホリエモンとのユーチューブでの対談で、ホリエモンの方が、無料動画の閲覧数はどんどんあがっていっても、有料のメルマガまでとってくれる観衆というのは、2千人の壁があって、それを超えない、と発言していた。だいぶまえの数値だが、芥川賞をとった人の作品も、普通的に売れて2千部とかだった。大江健三郎クラスの作品が、たしか2万部販売がベスト、みたいな話もきいたことがある。

要するに、日本の人口規模で、知的大衆とは、2千人くらいで、何かでちょっと上増しになっても、2万を超えるぐらいまでしか増加しない、ということだろう。私は以前から、それが、人類における自然生態系的な確率分布なのだろうな、と思っている。相当少ないが、知的好奇心、言いかえれば直観的でなく、言語媒介して持続的な、手短でない時間のかかる論理を営む人の割合は、歴史的にも地理的にも、そんな程度なのだろうと。人は、肥大した脳みそを使っていないと不快感がでてきてしまうので、芸術や文化活動、あるいは科学的な探究をしつづけなくてはならないのだとおもうが、それでも、言語活動の領域に携わざるをえなくなる人の割合は、多くはならない。そしてその割合には階層があって、光の波長スペクトルみたいに、グラデーションがあるだろう。しかしたとえば、そんなある階層のゲンロン人たちが死んでしまっていなくなれば、やはり同じ割合まで、残った人口の中から、そこの知的階層に携わざるをえなくなってくる人々が現れてくるのだ(と、私はおもっている)。だから、インテリであることは、偉いことでもなんでもない。自然が、なんでかしらぬが、そういう生態系を産出してくる。バランスをとろうとする。にもかかわらず、高給取りがいて、格差がとんでもない資本社会になっているわけだから、自然に反することはなはだしい、と私は考えている。だからもちろん、この状況に、自然はバランスをとろうと動くだろう。

とにかく、だいぶな人たちが、プロではなく、お百姓さんにならないと、やっていけない世界がやってきている。

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