2024年12月29日日曜日

『家の哲学』(エマヌエーレ・コッチャ 松葉類訳 勁草書房)と『庭の話』(宇野常寛 講談社)を読む


高校の頃に最初に書いた小説『家庭』というタイトルを、『家と庭』と変更して、その過去を現在と将来に投機的に融合させて書き直してみるのが、余生の作業になるだろうと、考えはじめだしていた。しかし、自分ひとりでは見通しがつかないので、何かに出会えないかな、とおもっていた矢先、まず図書館で、一冊目に出会う。千葉市の中央図書館で本を借りてから、ぶらっと、館員が選んだ新書購入の棚に目配りしながら素通りしようとしたら、『家の哲学』というタイトルが目に飛び込んできて、そのまま借りた。その帰り、千葉駅ビルの上階にあるくまざわ書店に立ち寄ってみたら、こんどは『庭の話』という本が積み上げられているのに出会い、購入してきた。

 

一方は、「家」といい、もう一方は、「庭」という。しかしどちらも、似たようなことを言っているような気がする。用語が違うのは、おそらく、文化的なバイアスと、まず意識しなくてならないその文脈(誰に向かってまず話すか)、なんではないかと思う。考察しようとしている現状の認識は同じに近いだろう。一方は、その行き詰まりを「庭」的といって「家」を志向し、もう一方は「家」的と批判して「庭」を志向している。が、その打開策に必要な思考転換のキー概念として、家の中や庭に訪れる様々な事物や多種他生物とのアニミズム的な交換、身体の変容といった観点を導入しているのだ。

 

どちらにも、フランスの庭師、「動いている庭」を提唱したジル・クレマンへの言及がある。

そこを引用して指摘しよう。長くなるが。

 

<森を家の事柄へと変容させることは、家の経験を別の視点から改変することも意味している。木々がこのように領域を侵犯してくるように表れてきたことで、バルコニーには、それまでミラノで見たことのなかった、虫と鳥の半獣神が住むことになる。あたかもわたしたちと異なる種へと住まいが開かれていることによって、居住可能な空間、あるいは生態系の観念そのものが爆発したかのようだ。わたしが木々にアパートを開くと、木々は彼らの家を鳥と虫たちに開いたのだ。ある種が現前しても、他の種が追いやられることにはもうならない。ある種が住みつくことによって、他の種が来て定住することが可能になる。家は多種がもつれあう装置となる。各々の種の家は、他の種の身体である。したがって、あらゆる家は、つねに他者たちの家であり、他の生きものたちがすでに占拠していた空間なのだ。

 このような家空間の観念的革命が、わたしたち木々との関係を再定義することによって可能となるというのは、偶然のことではない。住居はつねに街に関連づけられてきたわけではない。長らく、自分の家にいることは、街に暮らすことや、街に定住したいということとは同義でなかった。住居はノマドであり、旅することができ、石材よりも動物に由来する材料で建てられることの方が多かった。家を都会的で、安定した、土地に定着した、それゆえ無機質なものとしてきたのは、庭である。人類が自分の運命を木々や、ある場所に現れた多年生の植物と結びつけることを決めたとき、住居は旅をやめ、あらゆる植物とまったく同じように、領域に固定された。ある意味で、都会のあらゆる住居、動かない安定的な場所としてのそれは、植物的な思い上がりのようなものに属すると言いうることになる。(略)

 

 庭によって、それゆえ農業によって、街に住居をつかまえておくことができるようになったという考えは、長らく人類にとって重要だった。(略)「都会の革命」は農業であり、食料を同じ場所に長期間たくわえ、保存する可能性がもたらしたものにほかならない。街は庭から発生したものである。

 この洞察――もっと最近では、ジル・クレマンによってふたたび主張された洞察――を真面目に受け取るならば、変様するのは家の観念そのものだ。実際には、わたしたちの住む家は根本的に、多種的なプロジェクトである。植物と木々がある場所にしか、住居は存在することができない。反対に、わたしたちが客間で育てる観葉植物は、街の外に存在する植物を想起させるのではなく、わたしたちの家が、植物の生活形式と結びついたために動くのをやめたという事実を明らかにするのである。植物への愛によって、わたしたちはノマド主義と手を切ることができたし、庭への執着によって、自分の住居を街として組織することができた。庭は都会という組織の反対物ではない――その本来の核なのだ。>(『家の哲学』「庭と森」)

 

このコッチャの言い回しを、正確に理解できているのか不安なのだが、わたしなりにこの「家と庭」(という小説という形)をめざすブログの文脈で要約すれば、こういうことだ。動いてきた植物を愛し、執着することによって、人は定住した、そのかわり、失われたノマドな郷愁的な本能を、家の中に動きを取り入れることで、つまり家の考えを変容させることで、家が単なる囲いではなく多事物と他生物とのアニミズムな交換=交感あふれる豊な場所に変えていく実践が行なわれたのだ。だからそう人を動くように仕向けたのは、<動かない庭>だった、と。

 

たぶんなのだが、イタリア人のコッチャが「家」と言いたがるのは、「オイコス(家政)」という概念の豊かさを回復させたい西洋哲学的な文脈(伝統)があるからなのではないか、とおもう。宇野常寛も、「庭」という概念を検討するさい、gardenyardcourtといった西洋の概念と日本の古語的意味を対比させている。西洋的には、庭、というと、囲われた園(外と内をわけたもの)、というニュアンスが強く、日本の古語では、それらが分けられていない能動的な場所なのである(が、日本の近代造園学会ではこの古語の意味が無視されてきて、まったくもって西洋概念一辺倒で狭くさせられて、ランドスケープ造園とやらが、ゼネコン的に実地・現場も支配している)。だから西洋概念では、庭という言葉が狭く、オイコスの連想を維持する家という言葉の方が、広いのではないかと推察する。(が、ヘブライ語で、「エデン」という語が、日本の庭の古語に近い両義性としてあるようである、と、大澤真幸の「世界史の哲学」だかに言及があったと記憶する。)

 

が、だとしても、つまりどちら両者の更新概念の意図は重なり似ている提唱だとしても、そこから実践へ向けての提議となると、だいぶ変わってくることになっているのかもしれない。とくにコッチャは、訳者の後書きの言及でもあるように、上で引用した箇所ではネガティブだった「石(材)」への評価が、あとから高くなってきているのだ(やはり石の文化なのか?)。それは、錬金術の歴史を喚起させながら、石がPCやスマホといった「賢者の石」に変容していったことと重ねられるのだ。コッチャは、庭と対立する概念として、料理(錬金術)をする「台所」をあげる。

 

<家は将来、集団的な混合の規範となる。それは、階級の混合であり、アイデンティティの混合であり、人民の混合であり、文化の混合である。家はつねに、世界の台所である。家によってこそ、地球は新たな味を見つけることになるであろう。>(「結論 新しい家、あるいは賢者の石」)

 

ここでの「地球」とは、土でできたものではなく、あくまで石でできたものとして観念されている。が前提として、「台所」(料理)を、ニュートンの古典物理学ではなく、量子力学の新物理学で更新させようとしている。ここでの「石」とは、物質的というより、波的なもの、重なりやもつれとして料理(錬金)されうる、と理解を深めようとしている。が具体的には、ではその「新しい家」へ向けてどうするのかまでは提示していないのでわからない。

 

ので、とりあえず、わたしは、そのコッチャの実践提案に、否定的な立場をとる。それは、現今の、バイオテクノロジーや量子コンピューター開発、宇宙開発へと結びついてゆく発想ではないかと勘繰るからだ。それは、外へと移動していくロマンチックなノマド志向だ。それは、無際限という意味での無限にすぎない。俗にいえば、性懲りもなく、ということだ。世界を支配するプラットフォーマーたちは、地球が飽和してしまったので、こんどはプラネットフォーマーになろうと宇宙という外へ飛び出していこうとしている。胡散臭い。

 

が、日本での、庭という古語概念に立ち返って思考を更新させていこうとする宇野は、ちがう実践を提起しているようだ。彼も、地球としての庭、を射程に据える。が、それは、無際限としての地球(宇宙)ではなく、<実無限>としての地球(宇宙)であある。世界は閉じられた、外はない、しかしそれは、無限が実在することを教えてくれるのだ。この<実無限>という用語は、柄谷の『探求』を思考の下敷きに引いたような宇野の著作を読んでいて思い出した、柄谷の『探求』からの借用である。たしか、カントールの集合論での概念で、それを、経済グローバリズムと、庭における借景や縮景の技術と結びつけて論考していたはずだ。三十年前に書いた『庭へ向けて』で引用してある。

 

次は、あらためて、宇野常寛の『庭の話』について、おもいめぐらした考えをメモしよう。

2024年12月25日水曜日

師走の短歌




歌が来た。

☆☆☆


年の瀬に堰かれて迫る妻恋の時留まりて永遠を夢見ゆ


陽が射してツンと輝く亡き妻の植えし玉すだれなでてくすぐる


生と死の堺は消えてふっと手を伸ばせばそこで会える気がして


亡き妻の言われある花と知る夏にガーベラ5輪赫き顔あぐ


ガーベラは・と言ったとお題して踊りし妻の思いを偲ぶ


・とあるを黙して読むか点と言うか言の葉の声天のみぞ知る


花見えぬ妻の玉すだれ如何せん去年は四十九日の師走に咲くに

2024年12月14日土曜日

『西洋の敗北』(エマニュエル・トッド著 大野舞訳 文藝春秋)を読む

 


この著作を読むと、トッドが統計学に従った帰納的思考なのではなく、あくまで自身の洞察に基づいた、演繹・仮説的な抽象思考に賭けていることがよくわかる。現に動いている事象を読み解くために、アフォリズム的な推察を随所に散りばめながら、論理が組み立てられてゆく。その政治的な認識の当否は、門外漢な私には無理なので、これまで私自身が考えてきた文脈に入るところを抽出して問題を共有しよう。

 

といっても、その政治認識の基調にあるのは、核家族地域においてアトム化として進行した個人信仰的なニヒリズムが、その他の多くの領域に浸透していた父権・共同体家族下での価値信仰があることを忘れさせている。その顕著な例としての現象が、トランスジェンダーなる個人主体判断での性転換という思潮の勃興と押しつけである、というものだ。

 

私は、このブログ上で、途中まで断続的に書き継いでいた三十年ぶりの小説の下書きを、ようやく書き上げた。それは高3の頃『家庭』と題して書き始められたものの六作品目ぐらいにあたるものだが、それは、「三人兄弟とは何か?」、という問いの追及が基調であった。これは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んで、私や身の回りの三人兄弟(姉妹)、あるいは物語上の、シンデレラや三匹の子豚、あるいはジョン・ウェイン主演映画「エルダー兄弟」等を見るにつけて、なんで末っ子が主役になっていくのか、と膨らんできた疑問だった。文章的にも、認識的にも行き詰まっていたものが、トッドの家族人類学に二十年前に出会うことで、次に書き進める見通しがついてきたのである。トッドの解答は、それは核家族だよ、というものだった。私はそこに、『悪霊』(ニヒリズム)のコードを結び付けていた。のちに、単独者の連帯(「アトム化」を受け入れたうえでの)という柄谷がはじめたNAMに入った。そしてそこで出会った女性と結婚した。

 

前作『我々どこから来てどこにいるのか?』(文藝春秋)では、<男性よりも高く位置づけられる女性のステータスをベースとして原初の核家族を超えようとする試みは、西洋が家族システムに関して挑むまさに初めてのラディカルな創出であって、方向性こそ逆だが、紀元前三〇〇〇年初頭のメソポタミアで、あるいは紀元前二〇〇〇年中頃の中国で始まった父権システムの創出に比較され得るほどの転回なのである。>、と女性のさらなる台頭に希望を見るような発言でしめくくっていたのだが、この著作では、むしろ、警報を鳴らしている。それはどうも、北欧での女性頭首たちの、ロシアに対する態度を解析したところから来るらしい。フェミニズムが席巻しているような地域の彼女たちが好戦的になっているのは、男になろうとしていることなのだ、と。

 

<この思想は、「男は女になれる、女は男になれる」という。しかし、この主張は虚偽の肯定であり、西洋のニヒリズムの理論的核心の近くにある。虚偽の信仰に固執することが、いかにしてより確実な軍事同盟につながるのか。この虚偽の信仰と、今や明らかになったアメリカの国際問題における信頼性の欠如には、精神的かつ社会的な関連があると私は考えている。男性が女性になれるのと同じく、イランとの核合意(オバマ)も、一夜にして制裁強化(トランプ)に変貌する。もう少し皮肉を続けよう。アメリカの外交政策は、まさに「常に流転するジェンダー」のようだ。ジョージアとウクライナは今、「アメリカの保護」というものが、実際にどの程度の価値を持つものなのかを身をもって知っている。>(p355)

 

しかしトッドの、女は男になれない、というこの断定の根拠は、間違っている。あるいは、中途半端である。トッドは、その根拠を、遺伝学、「男(XY染色体)を女(XX染色体)に変えることはできないし、その逆もまた不可能である」、と科学に依拠して、思想が「虚偽」なのだと断定する。しかし、このブログでも、あくまで一般向けの解説書程度からの引用であったが、そうした以前の教科書的な理解ではすまなくなってきているのが、性差をめぐる科学の現況だと提示してきた。

 

私の場合は(このブログ上のメモで)、まず量子論→遺伝子(新ワクチン・細胞)→性差→LGBT思想→記憶(物性物理とベルグソン)、という関心追及で流れていっている。そこでわかってきたのは、性差が、性染色体だけで決定されるのではないこと、他の染色体にある遺伝子も関わっていること、さらに環境やホルモンの分泌などもかかわり、性差が男女の二元に分かれてあるものというより、それらの要因の組み合わせ程度によっている、と理解されるのではないか、ということだった。つまり、セクシュアリティーとしては、レインボーでありグラデーションであることは、科学的に真実なのかもしれないのだ。しかし、女は女として育成され(女になる!)、男は男として育成される、そのジェンダーの社会構築的水準においても、さまざまな時代の文化や歴史が重層的に流れ込んでいるので、その育成過程を身体的に享受してこなければ、結局は、女は男のことをわからないし、男も女のことがわかるようにはならない。つまり、男(女)になることはできないのだ。私のセクシュアリティーに、多分に女性性が遺伝やホルモンや育ちで挿入されていようと(私は母の遺伝でオッパイが三つある)、だからといって、性転換手術しても、やはり、女はわからない、心から、自分が女になるなんてことはありえない。だから、主体(精神)的に女(男)になる、なんてことは不可能なのだ。(それとももし、人類にも、魚のクマノミのような男女転換の遺伝子だかなにかが潜在記憶されていれば、突然にその転換が身体的におこる、という、集団同期なことが起きうるのだろうか?)

 

しかしだから、以上はこう逆転する可能性をもつ。もし、社会条件的に、男女の平等が実現されても、つまりジェンダー的に公平な社会が実現されても、男女の「対立」(陰陽の極)は残るのだと。そしてだからこそ、改めて、フェアな闘い、という意味での、公正としての「平等」思想(または闘いの自由、という意味での)への更新転換が必要になってくるのだと。(それが、私が「中上健次ノート」で中上遺作群から読み込んだ「羽衣の思想」である。最近、文芸批評家の中島一夫が、ラカンがそのような前提をしていたことを教示している。※ しかしこれは、乱戦を意味してこない。鳥類において、脳みその小さいものはすぐにカップルを変え、ハトやカラスなど脳みそが大きいものは一生の対になる。それは、関係がまずくなっても、なんとかそれをいいように変えていこうと頭を使うようになるからではないか、と学説される――これもこのブログのどこかで引用してある――)。霊長類学者の山際寿一は、言葉の獲得前に大きくなった集団の複雑さが脳を大きくしたのだ、という説をとっている。もちろん、いやなら外へ、が普通なら、脳は大きくならなかったろうし、人の知的な活動も発達しない。)

 

最後に、「記憶」という私の関心領域から興味をもった箇所の引用。

 

<私は自分の経験から、国外にある家族の出自というのは、どれほど離れていても、その地域との心理的なつながりを芽生えさせることをよく理解している。私の曾祖父オブラット・ラヨショはブタペストのユダヤ人だ。家族史の中ではこの事実は抽象的なものでしかない。私にとってもそれはただの名前でしかない。ところが、とても遠い家族の思い出が私をハンガリーへの旅へと赴かせ、そこからソ連崩壊を予言した私の最初の著作は生まれたのである。>

<オバマは、アメリカ最後の責任ある大統領だったと私は考える。彼の母方だけが白人だったとしても、――敢えて言おう――そのモラルの高さと知性から根本的に彼こそ、「アメリカの最後のWASPエリートの象徴」だったのではないか(フロイトには反するが、エーリッヒ・フロムやイスラエルのラビたちと同様、私は父親より母親の優位性を信じている)。>

 

私のペンネームは、母方の名字だが、その象徴的意味は、フロイトからのギャグとして採用している。菅(男性器)、原(女性器)、正樹(性器)、つまりは、両性具有、という意味である。近刊のトッドの翻訳は、『彼女たちはどこから来て、今どこにいるのか?』、だそうである。

2024年12月4日水曜日

心理を超えたもの


 「結婚おめでとうございます。お手紙をいただいた時すぐお祝いをと思いながら……。ゴメンナサイ。自分以外の人格を受け入れる事は、慣れるまで大変と思いますが、その何倍も、ステキな事があると思います。ダンスの方もゆっくりと始めて下さいね。」(20035.16 深谷正子)

 「年賀状ありがとうございました。年末も…。さいきん会う山田さんは、とても気持が自然にすわっているかんじをうけて…。これからも、よろしくおねがいします。」(2004. 国江徹)

 

いく子の日記等を読んでいると、いわゆる近代的な自我のまわり、恋愛という男女関係を求める病のまわりをぐるぐると回っているようにみえる。そこには超自我としての憧れの層、通俗的な心理的な層、そして死の衝動に駆られた自殺と攻撃欲動を伴うエスの層と、精神分析で解析される図式をまさになぞっているようにつきあいをしていくところがある。年上の男性の懐を求めながら、いざそこに入ってみると殺意がこみあげてくるような、往還運動。いわば、父殺しの物語をなぞる。しかしこれは、男性の物語ではなかろうか? 

 

いく子は、同世代の事件として、金属バット殺人事件、そして東電OL殺人事件に近かったのだと私にもらしていたことはだいぶ前のブログで言及したが、それはまさに比喩ではすまず、文字通りに近い意味で受け取らねばならなかったのだ。いく子が、私と出会う直前のダンスBGMで、アニマルズの「朝日のあたる家」を何度となく使用しているのは、自分の人生と重ね合わせていたのだと推察できる。それは、売春宿にまで墜ちていった女が、妹よこうにはなるな、と願う歌詞であり、アニマルズのは、その二次創作で、自分はそんな女から生まれたんだと息子が歌うという設定なのだ。

 

ダンス表現を選択したアーチストとしてのいく子の作品を理解していくには、以上のような一般的な枠組みと人生背景は必要な参照となる。だからまた、その作品をよく見ると、そこだけには容易に当てはまらないような派生問題もうかがえてくる。いく子の女友達に当てた手紙には、「女はセックスを感じないのではないか?」「レズビアン的男性嫌悪」といった表現がでていたわけだが、「ある日、くちなしの花は言いました」や、「小ダンスだより・冬」のとくに最後の群舞(ユーチューブにはアップしていない)では、まさにレズビアン的なセクシュアリティーを喚起させている。その時は、ファッションも含めて、男性的にふるまう。抱かれるのではなく、抱く者として女性を抱擁しキスしてみせるような振り付けを挿入させているのだ。二十代のとき、「男になりたかった」と日記に書きつけたのも、もしかして、文字通りな意味になっていった可能性もあると、残された文献は示唆するのだ。

 

    以前、荻尾望都などの少女漫画を若いころ好んで読んでいたのでは、と推論したが、どうもそうではなく、60歳を過ぎてから、たぶん小倉千加子の読んでいなかったものを読み、そこから示唆されて、自分のセクシュアリティーを確認するように荻尾や竹宮恵子の作品や自伝を読み始めようとしていたのが正確かもしれない。がおおざっぱには、日記等を読む以前の私の推定は当たっていたようにみえる。年下の私は、女性(軟弱な男・少年愛)として幻想され(実際私のセクシュアリティーも、男兄弟三人の中で女性役割をもたされて育ったので、女性的な面も強い)、セックスの現場も正常を逸脱してゆく彼女のセクシュアリティーを適わせる方向へと動く当初があったのかもしれない(数をこなしている割には、いく子は無知だったと推定しうる)。

 

夫としてではなく、ものを書く人間として妻の遺品を整理していないと、私の気は狂ってしまうだろう。

 

しかし私との関係が、近代的な恋愛を志向する男女関係にすぎないのであったなら、批評家の六さんが「すぐにわかれるよ」と忠告したように、それまでいく子人生の反復をなぞるように、破綻していただろう。がそうにはならなかったのは、私の分裂気質が強かったからではないか、と推定する。分裂病者には、感情転移が成立しない。それは、医師が患者からの転移を拒否することで病を治療していくことと比例する。この点も、いく子の日記等から、そういう男たちもいたことが示唆される。まず一番が、柄谷行人なのだろう。NAM後半、私はこういう女性に迷惑を被った、こんな女には徹底的に冷淡にすべきだ、と組織内メールしたと私は記憶しているが、それは観念的な被害妄想ではなかったのではないか、と推定傍証するビデオがでてきた。また、ダンサーの伊藤キム。彼ははっきり面と向かって、あなたはなんでそのような目で私を見るのか(結婚前の私との公演「野蛮ギャルドの巻」でのような、であろう)、あなたは私のワークショップにいるべきでない、出ていきなさい、みたいなことを申し渡したそうだ。それと滋賀県だったか、の旅行友達の男性。そして勤務したことのある弁護士の男性。彼らは、正当的に、いく子を突き放すことで、男性(父)依存する性向を矯正させていくような対応をとっている。彼らの手紙は、まさに紳士的で説得的である。

 

彼らの一人として、図らずも私は、30代のいく子が共感理解した映画『ピアノ・レッスン』の通訳者の男のようなリハビリ看護師としての愛の形を挿入させていたのかもしれない。亡くなる一週間前の、いく子が私に「感謝」していると言ったのは、いわゆる男女関係ではすまない面に対してであろう。男女関係的にみれば、私には葬儀の際配布した挨拶文でのように、彼女の一生懸命な献身的な愛に応えられなかったことへの後悔と反省ばかりである。古井由吉は、ムジールの『愛の完成』の後書きで、愛は死後においてしか完成しないのか、と随想した。私自身、いく子が女房ではなくその固有名として反復されてきたのは、死後においてになってしまった。

 

いく子は男になりたかった、と書いた。が、なることはできなかった。亡くなる五日前の息子の誕生日、私たちは、千葉港の遊覧船に乗った。船が港に戻ってくるころ、私は後部部屋にいた三人の席をたって、前部屋の甲板へとゆき、ひとり港を見つめていた。少したって、息子がやってきて、私の隣に立って、やはり港の景色を眺めはじめた。しばらくして、いく子がやってきた。振り向くと、いく子は目を見張って、驚いたような、不思議そうな目をしてこっちを見ていた。私は、息子が私の隣に静かに立ったとき、ふと、ホモ・ソーシャルな雰囲気・空間が立ち上がった感じがした。そう直観した直後に、いく子の視線に出くわしたので、私は、いく子がやはり自分は男になれない、男が理解できないことに直面したのではないか、とそんな認識がその時やってきたのを覚えている。だとしたら、このホモ・ソーシャルな領域は、ジェンダーとして扱う社会学的な枠組みだけでは、理解できないことなのではないか。

 

いく子が身を以て遺したものをみるとは、彼女の笑顔の表部分だけではなく、むしろ、呪われた部分(バタイユ)をも直視していくことだろう。それは、フロイトをふまえたカイヨワの「戦争論」などとも重なるはずである。

 

またいく子は、修道院生活のような中学時代と、大正時代からある県立の進学校の呑気さとの落差に、相当頭が混乱したようである。これは、中学軍隊部活動から、旧制中学からの進学校の自由校風の落差から、福沢諭吉のいう「一身にして二世を経る」という衝撃から考えはじめた私と重なるのである。江戸から明治、戦前から戦後へとの落差を思考することが、日本の近代文学の営みだったとも言える。水俣の石牟礼道子は、恋愛をふくめた近代自我を江戸的な残存から批判するスタンスをとったが、ブルジョワでのいく子には、もうそんな根拠はなかった。いく子は、十年年上の永田洋子が自身に抑圧した「ミーハー」路線を突き進みながら破綻していった。しかし、その身を以て示した人生とダンスの軌跡には、熟考を迫るものがあると私は信じている。

 

しかし以上の把握は、あくまでこれまでの、私の関心教養の範囲での解釈にすぎないのかもしれない。むしろ私が、いく子の死後手続きや遺品整理をしていて直面した不思議さは、そうした心理的次元を超えた問題になろう。4/8の自殺記憶日が結婚記念日に、高校時代に振られたはずの新しい正樹と出会って結婚する、という符合だけなら、偶然を神秘主義的な思い込みによって解釈したにすぎないだけであろう。が、いく子の母と、私の母が、同じ仙台市の小学校に通っていたことは、結婚後の親族食事会での母同士で確認してびっくりされていたわけだが、その住居も、戸籍からすると、東北大学を挟んで、西(青葉公園)側にいく子の母の実家、東(駅)側に、私の母の実家が位置(並列)していたのだ。そしてもしいく子の母の高橋家が、自転車を所有していたら、それは私の母の菅原家が営んでいた自転車屋からのものであることは確実になるので、交流があった、ということになる。さらに、東北大学の北側には、私の母の父方の親戚(ということは、海軍中将になった斎藤七五郎の系譜ということになるのか)が住んでいて、華道や茶道を教えていたそうだが、その名字は高橋だったそうである。だから、もう少し遡ると、いく子と私が、親戚同士だったかもしれないという線もでてくるのだ。

 

そうした事実から私が想像するのは、次のようなことである。もし、グーグルなどの行動履歴追跡ソフトが、100年三世代・四世代におよぶビッグ・データを蓄積し、人との出会いを追跡するマッチングアプリのようなものが開発され解析されていったら、人と人との出会いも、心理的なものではなく、分子のブラウン運動のような、見えない物質同士の確率的な偶然(これは必然をも意味してくると理解するのが大澤真幸の量子論示唆)の法則が見えてくるのではないか。さらに千年のデータが蓄積されたら、前世からの記憶じみたものまで見えてくるのではないか? 

 

単なる空想にしかならないけれど、結合するたびに、量子もつれの強度が増して、さらに磁力で引かれやすくなるとか、考えてしまう。いく子のダンスを評価して掬い上げた六さんから、「なんでこんな女と結婚したの?」と聞かれ、「波長があうのだと思います。」と私は答えたが、その「波長」とはなんであろう? 記憶の問題なども、そうした物質性で考えたくなる。いく子が亡くなってみると、記憶の枝葉末節が捨象されて、なにか本性的な根幹だけが抽出昇華されて保存されてゆくような感じも受ける。

 私は、いく子の真剣な人生の軌跡を敬服するが、彼女の波乱な末節が捨象れていくことと、打ちのめされながらも私のメンタリティーが強くなっていくことは、同期的であるようにも思える。

 

    いく子が亡くなったとき、冷蔵庫に、加藤登紀子の新宿でのロシアレストランのメモと、クミコという歌手の新宿でのコンサート記事の切り抜きがマグネットでとめられていた。たぶん、翌月に見に行って、帰りに加藤登紀子のレストランで食べてみる予定をたてていたのであろう。私がクミコってどんな歌手、とスマホ検索してみたのは、先週である。2002年に「愛の賛歌」を歌っていると知って、驚愕した。結婚当初、いく子がMDに録音したのを、遺品整理でみつけて、かけて見て、その愛を賛歌する歌を聞いたからである。たぶん、いく子は、初心にかえるように、自分をたてなおそうとあがいていたのだ。そして一昨日、私はいまスポーツ委員とやらに巻き込まれ準公務員なのだそうだが、そこで仲良くなった年上の男が、なんといく子と同じ高校の同級生だったと、その組織の忘年会でわかった。いく子は、まだ私をどこかへ連れていこうとしている。来年は、水俣にゆく。