2024年12月14日土曜日

『西洋の敗北』(エマニュエル・トッド著 大野舞訳 文藝春秋)を読む

 


この著作を読むと、トッドが統計学に従った帰納的思考なのではなく、あくまで自身の洞察に基づいた、演繹・仮説的な抽象思考に賭けていることがよくわかる。現に動いている事象を読み解くために、アフォリズム的な推察を随所に散りばめながら、論理が組み立てられてゆく。その政治的な認識の当否は、門外漢な私には無理なので、これまで私自身が考えてきた文脈に入るところを抽出して問題を共有しよう。

 

といっても、その政治認識の基調にあるのは、核家族地域においてアトム化として進行した個人信仰的なニヒリズムが、その他の多くの領域に浸透していた父権・共同体家族下での価値信仰があることを忘れさせている。その顕著な例としての現象が、トランスジェンダーなる個人主体判断での性転換という思潮の勃興と押しつけである、というものだ。

 

私は、このブログ上で、途中まで断続的に書き継いでいた三十年ぶりの小説の下書きを、ようやく書き上げた。それは高3の頃『家庭』と題して書き始められたものの六作品目ぐらいにあたるものだが、それは、「三人兄弟とは何か?」、という問いの追及が基調であった。これは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んで、私や身の回りの三人兄弟(姉妹)、あるいは物語上の、シンデレラや三匹の子豚、あるいはジョン・ウェイン主演映画「エルダー兄弟」等を見るにつけて、なんで末っ子が主役になっていくのか、と膨らんできた疑問だった。文章的にも、認識的にも行き詰まっていたものが、トッドの家族人類学に二十年前に出会うことで、次に書き進める見通しがついてきたのである。トッドの解答は、それは核家族だよ、というものだった。私はそこに、『悪霊』(ニヒリズム)のコードを結び付けていた。のちに、単独者の連帯(「アトム化」を受け入れたうえでの)という柄谷がはじめたNAMに入った。そしてそこで出会った女性と結婚した。

 

前作『我々どこから来てどこにいるのか?』(文藝春秋)では、<男性よりも高く位置づけられる女性のステータスをベースとして原初の核家族を超えようとする試みは、西洋が家族システムに関して挑むまさに初めてのラディカルな創出であって、方向性こそ逆だが、紀元前三〇〇〇年初頭のメソポタミアで、あるいは紀元前二〇〇〇年中頃の中国で始まった父権システムの創出に比較され得るほどの転回なのである。>、と女性のさらなる台頭に希望を見るような発言でしめくくっていたのだが、この著作では、むしろ、警報を鳴らしている。それはどうも、北欧での女性頭首たちの、ロシアに対する態度を解析したところから来るらしい。フェミニズムが席巻しているような地域の彼女たちが好戦的になっているのは、男になろうとしていることなのだ、と。

 

<この思想は、「男は女になれる、女は男になれる」という。しかし、この主張は虚偽の肯定であり、西洋のニヒリズムの理論的核心の近くにある。虚偽の信仰に固執することが、いかにしてより確実な軍事同盟につながるのか。この虚偽の信仰と、今や明らかになったアメリカの国際問題における信頼性の欠如には、精神的かつ社会的な関連があると私は考えている。男性が女性になれるのと同じく、イランとの核合意(オバマ)も、一夜にして制裁強化(トランプ)に変貌する。もう少し皮肉を続けよう。アメリカの外交政策は、まさに「常に流転するジェンダー」のようだ。ジョージアとウクライナは今、「アメリカの保護」というものが、実際にどの程度の価値を持つものなのかを身をもって知っている。>(p355)

 

しかしトッドの、女は男になれない、というこの断定の根拠は、間違っている。あるいは、中途半端である。トッドは、その根拠を、遺伝学、「男(XY染色体)を女(XX染色体)に変えることはできないし、その逆もまた不可能である」、と科学に依拠して、思想が「虚偽」なのだと断定する。しかし、このブログでも、あくまで一般向けの解説書程度からの引用であったが、そうした以前の教科書的な理解ではすまなくなってきているのが、性差をめぐる科学の現況だと提示してきた。

 

私の場合は(このブログ上のメモで)、まず量子論→遺伝子(新ワクチン・細胞)→性差→LGBT思想→記憶(物性物理とベルグソン)、という関心追及で流れていっている。そこでわかってきたのは、性差が、性染色体だけで決定されるのではないこと、他の染色体にある遺伝子も関わっていること、さらに環境やホルモンの分泌などもかかわり、性差が男女の二元に分かれてあるものというより、それらの要因の組み合わせ程度によっている、と理解されるのではないか、ということだった。つまり、セクシュアリティーとしては、レインボーでありグラデーションであることは、科学的に真実なのかもしれないのだ。しかし、女は女として育成され(女になる!)、男は男として育成される、そのジェンダーの社会構築的水準においても、さまざまな時代の文化や歴史が重層的に流れ込んでいるので、その育成過程を身体的に享受してこなければ、結局は、女は男のことをわからないし、男も女のことがわかるようにはならない。つまり、男(女)になることはできないのだ。私のセクシュアリティーに、多分に女性性が遺伝やホルモンや育ちで挿入されていようと(私は母の遺伝でオッパイが三つある)、だからといって、性転換手術しても、やはり、女はわからない、心から、自分が女になるなんてことはありえない。だから、主体(精神)的に女(男)になる、なんてことは不可能なのだ。(それとももし、人類にも、魚のクマノミのような男女転換の遺伝子だかなにかが潜在記憶されていれば、突然にその転換が身体的におこる、という、集団同期なことが起きうるのだろうか?)

 

しかしだから、以上はこう逆転する可能性をもつ。もし、社会条件的に、男女の平等が実現されても、つまりジェンダー的に公平な社会が実現されても、男女の「対立」(陰陽の極)は残るのだと。そしてだからこそ、改めて、フェアな闘い、という意味での、公正としての「平等」思想(または闘いの自由、という意味での)への更新転換が必要になってくるのだと。(それが、私が「中上健次ノート」で中上遺作群から読み込んだ「羽衣の思想」である。最近、文芸批評家の中島一夫が、ラカンがそのような前提をしていたことを教示している。※ しかしこれは、乱戦を意味してこない。鳥類において、脳みその小さいものはすぐにカップルを変え、ハトやカラスなど脳みそが大きいものは一生の対になる。それは、関係がまずくなっても、なんとかそれをいいように変えていこうと頭を使うようになるからではないか、と学説される――これもこのブログのどこかで引用してある――)。霊長類学者の山際寿一は、言葉の獲得前に大きくなった集団の複雑さが脳を大きくしたのだ、という説をとっている。もちろん、いやなら外へ、が普通なら、脳は大きくならなかったろうし、人の知的な活動も発達しない。)

 

最後に、「記憶」という私の関心領域から興味をもった箇所の引用。

 

<私は自分の経験から、国外にある家族の出自というのは、どれほど離れていても、その地域との心理的なつながりを芽生えさせることをよく理解している。私の曾祖父オブラット・ラヨショはブタペストのユダヤ人だ。家族史の中ではこの事実は抽象的なものでしかない。私にとってもそれはただの名前でしかない。ところが、とても遠い家族の思い出が私をハンガリーへの旅へと赴かせ、そこからソ連崩壊を予言した私の最初の著作は生まれたのである。>

<オバマは、アメリカ最後の責任ある大統領だったと私は考える。彼の母方だけが白人だったとしても、――敢えて言おう――そのモラルの高さと知性から根本的に彼こそ、「アメリカの最後のWASPエリートの象徴」だったのではないか(フロイトには反するが、エーリッヒ・フロムやイスラエルのラビたちと同様、私は父親より母親の優位性を信じている)。>

 

私のペンネームは、母方の名字だが、その象徴的意味は、フロイトからのギャグとして採用している。菅(男性器)、原(女性器)、正樹(性器)、つまりは、両性具有、という意味である。近刊のトッドの翻訳は、『彼女たちはどこから来て、今どこにいるのか?』、だそうである。

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