2023年1月2日月曜日

エマニュエル・トッド著『我々はどこから来て、いまどこに居るのか?』――ノート(8)

 


エマニュエル・トッド著の『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』(堀茂樹訳 文藝春秋)の抜粋。引用後の()内は上下巻とページ数。誤字脱字もあるだろう。抜粋後に、すでにこのブログで言及してきたページの参照リンクをつける。トッド・ノートの何番目に当たるのかわからなくなってしまったが、(8)とつけておく。

 

*****抜粋開始*****

 

序章 家族構造の差異化と歴史の反転

 

「進化しているのは誰か?」「先進的なのは誰か?」という問いが、単純に解けないもの、それ自体として矛盾しているものとなる。中東はなるほど経済的には遅れているけれども、最も複合的な、最も「進化した」家族形態を持っている。内婚制共同体家族は、父親と既婚の息子たちを結びつけ、次にその息子たちの子供同士が結婚することを推奨するわけだが、このシステムは五〇〇〇年もの推移の帰結なのである。北米は、経済的グローバリゼーションを先導してきて、今ではそれへの異議申し立ての先頭に立っているわけだが、イギリスや広大なパリ盆地にもまして、ホモ・サピエンスの原初のモデルに最も近い核家族形態を地域的に代表している。東アジアに視線を移すならば、われわれはまた次のことを認めなくてはならない。すなわち、一八六八年の明治維新のときに日本で主流だった家族システムは、核家族のそれと異なるけれども、当時中国で支配的だった家族システムほどにはホモ・サピエンスの原初的な家族の型から離れていないシステムだったということ。日本の直系家族は、当時の農民階層では、ただ一人の跡継ぎと、最多で二組の既婚カップルを結びつけていた。つまり、理想的には一人の父親を既婚の息子たち全員に結びつけ、三組かそれ以上のカップルを同居させることのできる中国の共同体家族よりもシンプルだったのである。(上53)

 

 というわけで、これから本書で見ていくように、最も先進的な社会ではまず家族と宗教が変容し、次に教育普及の停滞と出生率の低下が起こり、その現象が経済と国家の危機の先駆けとなる。ある面から見ると西洋は今や母権制への未踏の道に分け入りつつあるのだが、その西洋が過去において父権制への道を踏破したのだと考えるとしたら、それは誤謬なのである。男性よりも高く位置づけられる女性のステータスをベースとして原初の核家族を超えようとする試みは、西洋が家族システムに関して挑むまさに初めてのラディカルな創出であって、方向性こそ逆だが、紀元前三〇〇〇年初頭のメソポタミアで、あるいは紀元前二〇〇〇年中頃の中国で始まった父権システムの創出に比較され得るほどの転回なのである。(上57)

 

ソビエト共産主義の崩壊に後続した時期、一九九〇年~二〇一〇年の大きな政治的・経済的決定は、世界中のシステムが収斂していくという仮説に基づいておこなわれた。つまり、自由貿易は世界を統一するはずであり、単一通貨がヨーロッパを同質化するはずであった。その後、歴史的現実の中で誰もが目の当たりにしたのはその正反対で、経済的パフォーマンスと生活水準が分岐し、分散していくありさまだった。なぜか? 人間が究極の人類学的意味――後述するような共通の原初的特徴を有するホモ・サピエンスという一つの種が存在するという意味――でたしかに普遍的であっても、社会のほうは、そこに定着している諸価値や人びとを組織する方式によって多様だからである。(上57)

 

1章 家族システムの差異化――ユーラシア

 

父系制原則は、すべての戦士たちをまとめる一つの秩序を、全員を網羅する序列を確定する。氏族は民間の軍隊である。否、そのような定義ではまだ不充分だ。さらに、戦争のための民間組織だといわなければならない。征服に乗り出すのがその運命なのだから。…(略)…対称化された父系制の組織編成によって軍事的に無敵の集団となった砂漠や草原の遊牧民たちは、彼らを教育したメソポタミアや中国の定住民たちを隷属させることができた。そのとき、こう言ってよければ、彼らは、彼らが負っていた父系制という負債の返済をすることとなる。奇しくも、政治的な支配を通して定住民たちの直系家族を共同体家族に変えるというかたちで、である。(略)共同体家族は、直系家族の権威主義に、遊牧民氏族における兄弟の対称性を付け加える。(上94)

 

2章 家族システムの差異化――先住民たちのアメリカとアフリカ

 

3章 ホモ・サピエンス

 

ホモ・サピエンスの家族は核家族だったが、けっして孤立してはいなかった。狩猟または採集の特定の時期にはばらばらに行動することもあったが、そうした時期が過ぎると必ず再集合していた。われわれは今や、単一の核家族のレベルを超え、ホモ・サピエンスの人類学的システムの完全な再構成を試みなければならない。人類の居住する世界の周縁部で、農耕民の集団にも、狩猟採集民の集団にも見られるのは、家族の集住である。(上134)

 

一人の男性とその母親の兄弟の娘とのあいだの非対称性の婚姻〔母方交叉イトコ婚〕はというと、これはレヴィ=ストロースが彼のシステムの中心に据えた形態(彼の言う「親族基本構造」タイプ)であるが、ローラン・バリー〔フランスの民俗学者〕が著作『親族関係』で示したとおり、実際には地球上に例が少ない。そして、それが現存している場合には、父系制への変容によって生み出された非対称性の結果の一つであるように思われる(略)。構造主義思想の言う基本的交換は、自然状態を反映しているどころか、歴史の所産なのである。(上139)

 

ウェスターマーク効果と呼ばれているものが示唆するのは、近親相姦のタブーが文化事象ではなく、自然選択のプロセスに由来する無意識の行動だということである。このタブーは《正真正銘の強い本能が持つすべての特徴を備えており、いうまでもなく、他の種に属する個体との性的関係に対する嫌悪に非常によく似ている》。この禁忌は、生存競争上の有利さをもたらすものとして自然選択されたのだ。なぜなら、内婚――ここでは核家族の内部での婚姻という狭義の内婚――による退化は当該集団の社会的効率を削ぎ、結局その集団の淘汰に行き着くからである。

 ウェスターマークは普遍主義的ダーウィン主義者である。彼が自然選択という仮説を用いるのは、あらゆる人類に共通のものを明確化し、説明するためであって、今日の社会生物学にはびこる「退化した」ダーウィニズムがしばしばそうしているように、人種間の競争と、人類の中での自然選択について想像をたくましくするためではない。明らかに、ウェスターマークが正しい。彼よりもあとに登場したフロイトや、レヴィ=ストロースその他、あんなにも大勢の学者たちが近親相姦の回避の内にひとつの文化事象を見ようとしたが、それは誤りだった。悲しいかな、人文科学の歴史はこうした知的後退に満ち満ちている。(上142)

 

4章 ユダヤ教と初期キリスト教――家族と識字化

 

かつてジェームズ・ジョージ・フレイザーは、旧約聖書の物語に関して、強迫的なまでのこだわりの対象となっている長子相続の規則と、その規則に違反する相続をおこなう人物が続々登場しているということの間の矛盾を指摘した。そのような文学的表象の原型は『創世記』に見出せる。ヤゴブが母に助けられて、兄エサウの調子権を横取りするエピソードがそれである。〔精確には、ヤコブはエサウの油断に乗じて長子権を譲り受ける。母の助言と手助けで横取りするのは父イサクの祝福である〕。長男でない跡継ぎや、男たちよりも強い女たちの例は、他にも多く挙げることができる。末子に特定の役割が与えられるケースもあり、これは原初的な(フレイザーは「自然な」と言っていた)核家族に典型的なことであった。息子たちのうち年長の者がそれぞれ自分の家族を作るために次々に新しい土地へと去っていったあと、末子が親の面倒を見るというシステムであった。なにしろ、ホモ・サピエンスは移動しながら暮らしていたのであり、初期の農業は膨張的だったのだ。件の矛盾を説明するために、フレイザーはもともと古い核家族が存在していたと前提し、その仕組みと機能を、後の世に現れた旧約聖書の編纂者たちがもはや理解していなかったのだと考えた。…(略)…しかし、フレイザーの推測よりさらに一層シンプルに、旧約聖書が書かれた時代にも依然として一つの矛盾が存在し続けていたと想像してみることを阻むものは何もない。つまり、当時、長子相続は新しい概念で、先進的なものとして社会の上層部から律法学者らの文化の中に浸透していたが、ユダヤ地方の一般住民たちの習俗であった未分化の核家族がそれに抵抗していたのではないだろうか。そしてその両者のあいだの緊張関係が宗教的神話の形をとって、旧約聖書のあちらこちらに表れたのではないだろうか。(上163)

 

キエフ・ロシアのキリスト教への改宗が、モスクワ中心のロシアによる父系制の獲得にも、モンゴル人による征服にも先立っていたことに留意しよう。ロシアの父系制共同体家族が農村で完全に実現したのは十七世紀半ばから十九世紀半ばにかけて(略)、すなわち、キリスト教化より七、八世紀あとだった。東方正教会のマリア信仰熱はカトリック教会のそれに何ら劣らないので、その形に結晶したキリスト教のフェミニズム的特徴が、ロシアの父系的特徴の浸透にブレーキをかけたことは充分に考えられる。正教会的フェミニズムはこうして、十全に発展した父系制家族編成が、依然として高い女性のステータスと組み合わさっているというロシア文化のパラドクスの説明に貢献する。(上184)

 

5章 ドイツ、プロテスタント、世界の識字化

 

初期の表意文字システムの場合には、直系家族との関係はおそらく非常に緊密だ。あの種の文字を使いこなすには厳しい修練が必要なので、おそらく、直系家族の継承性と文字表記技術の獲得のあいだには必然的な関係が存在するのだろう。私がここで喚起しているのは、書記を家業とする家族内での父から息子への継承だけではない。中国の文字であり、日本でも用いられている漢字の数が、じつに数千にも上ることを思ってみようではないか。もし、継承のために考え出された家族システムもなく、その中で子供に対して働く親の強い権威もなかったとしたら、あれほど多くの文字を記憶することなど考えられただろうか。今度は二十一世紀の現在に身を置いてみよう。中国と日本の文字表記システムは今も生き延びているが、こんなことが可能だということ自体、あの両国に高いレベルの家族的・学校的規律が存在するからこそであろう。(上207)

 

6章 ヨーロッパにおけるメンタリティーの大変容

7章 教育の離陸と経済成長

8章 世俗化と移行期の危機

9章 イギリスというグローバリゼーションの母体

 

10章 ホモ・アメリカヌス

 

教育、テクノロジー、経済を考慮して言えば、一九〇〇年から二〇〇〇年にかけて、米国は間違いなく世界のトップランナーだった。しかし、誰もが認識しているその現代性・先進性を超えて、われわれは今や、アメリカなるものの人類学的基底が、イギリスのそれにもまして原始的――あるいは、もう少し中立的な言葉を用いるなら原初的――と見做されざるを得ないことを知っている。事柄を解釈するためのこの新しいカギを手に入れたわれわれは、今後このカギを用いて、米国の社会的メカニズムに固有の、一見当惑させられるような多くの要素をついに解明し得るのだ。おそらく受け容れることさえもできるだろう。それらの要素が表現しているのは、われわれの社会よりも人類の原初の状態により近い社会が大西洋の向こうに存続しているという現実にすぎない。アメリカの精髄は、原初的なホモ・サピエンスの精髄にほかならない。それが偉大なことを成し遂げてきたという事実を、われわれはやはり認めるべきだろう。(上343)

 

彼らは、ほとんどまったく洗練されていないからこそ、先を行っているのである。ほかでもない原初のホモ・サピエンスが、あちこち動き回り、いろいろ経験し、男女間の緊張関係と補完性を生きて、動物種として成功したのだ。他方、中東、中国、インドの父系制社会は、女性のステータスを低下させ、個人の創造的自由を破壊する洗練された諸文化の発明によって麻痺し、その結果、停止してしまった。(上351)

 

11章 民主制はつねに原始的である

 

アメリカがフランスに先んじて近代民主制を発明したのも、原初的な自然性というこの同じ理由による。なぜなら、近代民主制は、アメリカで人類の太古的基底に大衆の識字化が重ね合わされた結果なのだから。その基底には、自然で原始的な民主制が含まれているのである。

 パリ盆地の激しく反抗的な平等主義は結局、平等な市民の集団を確立する上で、イギリス由来の非平等主義〔平等への無関心〕よりも効率が低かった。

 歴史――古代ローマの共和政時代の父系制共同体家族が、帝政時代に平等主義的核家族になったという長い歴史――を通じて構築された平等原則によって確立できるのは、実際のところ、個人と個人の間の抽象的な平等だけだ。平等主義は集団に対しては解体的である。それは、何によっても統制されない場合は、個人が集まっているだけで、どの個人も全体への隷属を受け容れない世界、文字どおりの無政府状態を生み出す。民主制は、集団的現象であるから、無政府状態から自然に発生することなどあり得ない。(下33)

 

12章 高等教育に侵食される民主制

13章 「黒人/白人」の危機

14章 意志と表象としてのドナルド・トランプ

 

15章 場所の記憶

 

 大人たちが子供たちに強い規範を教え込む場となるテリトリーを想像すること、それは、継承という現象に関して、明示的でなくともフロイト的解釈を踏襲することにほかならない。私は純然たる家族を枠組みとする考え方から離れはしたが、依然として、子供たちは教育によって――その教育が権威主義的であろうとなかろうと――鋳型に嵌められるのだと思っていたわけである。…(略)

 ところが、経験的に確認される現実が証拠立てるのは、移住者がおおむねかなり容易に自分たちの習慣や信念から離れること、そして、ローカルな人間同士の相互作用の中で、無意識的な模倣を通じて大きな適応能力を示すことである。そのようにして、移住者はかなり頻繁に、子供時代に抱いていた価値観から身を引き離す。

 この段階において、受け入れ社会に住む個々人が帯びているのは「強い」価値観ではなく、むしろその逆で、「弱い」価値観なのだと考えてみなければならない。さてそこで、根本的な逆説は、弱い価値観という仮説こそが、各地域の気質の持続性を、いいかえれば「場所の記憶」という現象を説明してくれるという点にある。実際、あるテリトリー上の圧倒的多数の個人が有する価値観が弱ければ、これまた弱い、または相対的に弱い価値観を有していて、それを受け入れ側の集団の価値観に取り替える傾向のある個人たちが移民として流入してきても、結果として元々のシステムが希釈されることはない。

 ここでわれわれは、ホモ・サピエンスという母胎の中心的要素である柔軟性を、このたびは模倣的行動という概念と結びついた形でふたたび見出している。したがって、この分析の最後に、われわれは断言してよいだろう。受け入れ社会の個々人のレベルにおける弱い価値観という仮説によって、場所の記憶の存在が理解可能なものになり得る、と。…(略)…重要なのは、多くの個人が弱く有している価値観が、集団レベルではきわめて強く、頑丈で、持続的なシステムを生み出し得るということである。たとえば、ひとつの信念が、個々の人間によって濃密に抱かれていない場合でも、あるテリトリーにおいて、長い年月、ときには果てしなく生き続けることがあり得るのだ。(下151~153)

 

16章 直系家族型社会――ドイツと日本

 

17章 ヨーロッパの変貌

 

 第15章で述べたように、移民は大抵の場合「弱い」価値観の保持者であって、彼らの無意識的模倣による適応が、一般的には、移民受け入れ社会の人類学的システムの恒久性を担保する。しかしながら、「場所の記憶」は、移民の流入が一定のテンポで進み、かつ限定的であるという前提の上で機能する。ほんの数カ月の間に夥しい数の移民集団が一塊になってやって来るというのは、まったく別の現象である。…(略)その結果、同地域の政治的文化が反アラブ人的な方向へと持続的に偏り、一九八〇年代の中頃以降、この地域では「国民戦線」〔極右と目されているフランス政党。二〇一八年に「国民連合」に改称〕が高い得票率を示すようになった。当該のプロヴァンス地方とラングドッグ地方の元々の文化には、人びとをそうした特定の敵意へと仕向ける要素はいっさい存在しない。ローカルな基盤に変更が加えられたのだ。新たな外国人恐怖症(フオビア)が導入され、それ以降はその恐怖症(フオビア)が、まさに「場所の記憶」の原則にしたがって永続化している。(下231)

 

 教育領域に新たな階層化が出現し、高等教育を受けた者とそれ以外の者が分断された結果、ヨーロッパの至るところで、先行した米国の事例どおりに、かつて大衆識字化の同質性の中にしっかりと根を下ろしていた民主主義的感情が衰弱した。アメリカでは、この動きは、プロテスタンティズムが持つ形而上学的な不平等観念の痕跡によって、また特に、自由主義的で非平等主義的な家族構造――このタイプの家族システムに培われた文化は、大きな所得格差を許容する――によって助長された。しかしアメリカでは、個人はあくまで自由であり、不平等が原則として予め想定されているわけではない。それゆえ、白人たちの苦しみが、最終的には反抗と、二〇一六年の大統領選におけるドナルド・トランプの選出につながった。彼らの反抗は、本書が展開した人類学的パースペクティブに一致する形で、最初の段階では外国人恐怖症(フオビア)として表面化した。アメリカは、もしそれがアメリカに可能であるなら、よそ者に敵対的な原始的デモクラシーから、自らの内に潜在している普遍性の部分を引き受ける、より成熟したデモクラシーへの道程を改めて辿るべきであろう。

 一方、EUの領域、そして特にはユーロ圏領域において支配的な家族的・宗教的基盤は、権威主義的かつ不平等主義的である。この与件は、教育の新たな階層化に起因する民主制の衰弱を、アメリカにおけるよりも遥かに遠くまで、つまり民主制の完全な消滅にまで運んでいくことができる。われわれはすでにその段階にいる。ユーロ圏の人民の投票はもはや尊重されない。ギリシア人、オランダ人、フランス人は、どんなことでも国民投票で拒否できるのだが、次の段階では、その投票結果そのものが、彼らの指導階層によって拒否されてしまう。このシステムの中核を成すドイツの政治システムは、正真正銘の民主制と見做され得るだろう……。もしドイツの政治的エリートたちが、かの連邦議会で、またヨーロッパ議会で、「左派と右派の連立」なるものを実践していなければ――。反論が聞こえてくる。実のところ、「左派と右派の連立」の何がいけないのか? このやり方は、誰もが好んでその民主的性格を褒め称えるスイス・モデルに一致しているではないか? それに、ドイツの国民は、上から降りてくる権力を受け容れているといっても、彼ら流のデモクラシーの中で相変わらず自由だ……。しかし、もしドイツがリーダーとなるならば、ヨーロッパは間違いなく壮大な「民族的デモクラシー」に変容し、その中では、支配的な一つの民族が単独で自らの諸権利を十全に行使することになるだろう。

 繰り返そう。こうしたことは何ひとつ、アクシデントの類いではない。歴史の悔やむべき逸脱に属すものではない。ヨーロッパで発展した政治的・経済的・社会的システムは、諸国民を位置づける階層秩序、緊縮政策、経済的不平等、代表民主制の欠落などを伴い、まさに直系家族が、ゾンビ・カトリシズムの支援を得て(また、イタリア中部、バルト三国やフィンランドでは、不平等は奨励せずとも権威主義を強化する共同体家族が供給する補充兵部隊と共に)、生み出すべくして生み出した正常な形態なのである。ヨーロッパ全域を一つのエリアとして見たときには、全米におけるより拡大しているといえる不平等の擡頭も、これまた正常だ。なぜなら、直系家族が持つ不平等主義の潜在力は、複数の民族が共存している状況では、絶対核家族のそれよりも大きいからである。(下234)

 

 この章で注目している正常性の最後の要素は、システムへの反抗が、本物の自由主義的価値観を担う核家族型が支配的であるか、またはかつて支配的だったことのある国で起こっていることである。唯一、EUと訣別しようとしているイギリスでは、絶対核家族構造が一貫して強力な自由主義的民主制の伝統を下支えしている。…(略)…しかし、ハンガリーでも、ポーランドでも、フランスでも、オランダでも、あるいはイギリスでも、EUに対する反抗の構成要素の内に外国人恐怖症(フオビア)が入っていることは否定すべくもない。それも含め、すべて正常なのだと、改めて述べておく。米国においてと同様、民主主義の失地回復はヨーロッパにおいても、それが可能なところでは、原初的民主制の民族的基盤に立ち帰って、そこから出発しなくてはならない。将来的には、もしかしたら、民主制の概念をより普遍主義的なものにできるより良き日が訪れるかもしれない。(下236)

 

18章 共同体家族――ロシアと中国

 

 外婚制共同体家族はおそらくゲルマン人の直系家族とモンゴル人の父系制組織の衝突から生まれたのだが、ベラルーシと現在のロシアの北西部辺りがその発祥地域であった。(下247)

 

 しかしながら、中国の膨張主義を誇張するなら、われわれは誤りを犯すことになるだろう。反日本の外国人恐怖症(フオビア)と南シナ海への膨張は、リアルな帝国主義的主張を表出しているというよりも、困難な国内状況への戦術的調整を意味している。中国人は人口があまりにも大きいので、その内部の重みに阻まれて、正真正銘の膨張主義は実践できない。人口の塊があの国を、物質を膨張させるよりも、むしろ内に引き込んで濃縮するブラックホールのような状態にしている。(下272)

 

 女性たちを周縁化したり、家の中に閉じ込めたりすれば、彼女たちの教育にブレーキをかけ、ひいてはその息子たちの教育にブレーキをかけ、結局、父系制の親族網の中に閉じ籠るよう息子たちを仕向けることになる。こうして、男たちもまた、本物の個人であることをやめてしまう。彼らは男性集団として父系制社会を支配するけれども、しかしその社会の中でしばしば、個人としては子供状態にとどまる。この事情により、父系制の世界では頻繁に次のような逆説的事態が発生する。すなわち、男が公式の場を支配するが、自分の家の中では妻から子供のように見做されているという事態である。このような形で成立する社会は、無限に創造的であることができない。起源的文明の中心地に起こった反女権拡張的な退化が、その地域の歴史的発展の停止を説明し、さらには、進歩の遠心的な地理的移動――メソポタミアからイギリスへ、中国から日本へ――を説明する。(下274)

 

 最後に私は、ヘーゲルをもじって、歴史におけるロシアの逆説的な位置を強調したい。あの国民は、耐え難くも普遍主義的な共産主義システムを自らに課すことができた。しかも、世界を救った。ナチズムを打ち破ったことは、人類普遍の歴史への主要な貢献として特筆されるべきである。しかし、ロシアは本当に、普遍的な何かを代表しているだろうか。ロシアの共同体主義的でありながら女権拡張的な人類学的下部構造の分析は、あの国がもともと、人類学上の特異例、歴史の偶発時にすぎなかったことを明らかにしている。(下275)

 

*****抜粋終了*****

参照ブログ;

ダンス&パンセ: サルのホームと原発社会 (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 交換、継承――飛弾五郎氏をめぐって (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 教養雑感 (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: <家族システム>と<世界史の構造>――エマニュエル・トッド『家族システムの起源』ノート(1) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: エマニュエル・トッド著『家族システムの起源』ノート(2) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: エマニュエル・トッド著『家族システムの起源』ノート(3)――柄谷行人著『遊動論』と (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 「ゲンロン」をめぐって――トッド・ノート(6) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 夢のつづき(7)――ドストエフスキーをめぐって (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 柄谷行人著『世界史の実験』を読む――平和条約を前に(4) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: 屑屋再考案3――トッド・ノート(7) (danpance.blogspot.com)

 

ダンス&パンセ: エマニュエル・トッドの「日本核武装のすすめ」をめぐり――戦争続報(5) (danpance.blogspot.com)

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