2024年12月4日水曜日

心理を超えたもの


 「結婚おめでとうございます。お手紙をいただいた時すぐお祝いをと思いながら……。ゴメンナサイ。自分以外の人格を受け入れる事は、慣れるまで大変と思いますが、その何倍も、ステキな事があると思います。ダンスの方もゆっくりと始めて下さいね。」(20035.16 深谷正子)

 「年賀状ありがとうございました。年末も…。さいきん会う山田さんは、とても気持が自然にすわっているかんじをうけて…。これからも、よろしくおねがいします。」(2004. 国江徹)

 

いく子の日記等を読んでいると、いわゆる近代的な自我のまわり、恋愛という男女関係を求める病のまわりをぐるぐると回っているようにみえる。そこには超自我としての憧れの層、通俗的な心理的な層、そして死の衝動に駆られた自殺と攻撃欲動を伴うエスの層と、精神分析で解析される図式をまさになぞっているようにつきあいをしていくところがある。年上の男性の懐を求めながら、いざそこに入ってみると殺意がこみあげてくるような、往還運動。いわば、父殺しの物語をなぞる。しかしこれは、男性の物語ではなかろうか? 

 

いく子は、同世代の事件として、金属バット殺人事件、そして東電OL殺人事件に近かったのだと私にもらしていたことはだいぶ前のブログで言及したが、それはまさに比喩ではすまず、文字通りに近い意味で受け取らねばならなかったのだ。いく子が、私と出会う直前のダンスBGMで、アニマルズの「朝日のあたる家」を何度となく使用しているのは、自分の人生と重ね合わせていたのだと推察できる。それは、売春宿にまで墜ちていった女が、妹よこうにはなるな、と願う歌詞であり、アニマルズのは、その二次創作で、自分はそんな女から生まれたんだと息子が歌うという設定なのだ。

 

ダンス表現を選択したアーチストとしてのいく子の作品を理解していくには、以上のような一般的な枠組みと人生背景は必要な参照となる。だからまた、その作品をよく見ると、そこだけには容易に当てはまらないような派生問題もうかがえてくる。いく子の女友達に当てた手紙には、「女はセックスを感じないのではないか?」「レズビアン的男性嫌悪」といった表現がでていたわけだが、「ある日、くちなしの花は言いました」や、「小ダンスだより・冬」のとくに最後の群舞(ユーチューブにはアップしていない)では、まさにレズビアン的なセクシュアリティーを喚起させている。その時は、ファッションも含めて、男性的にふるまう。抱かれるのではなく、抱く者として女性を抱擁しキスしてみせるような振り付けを挿入させているのだ。二十代のとき、「男になりたかった」と日記に書きつけたのも、もしかして、文字通りな意味になっていった可能性もあると、残された文献は示唆するのだ。

 

    以前、荻尾望都などの少女漫画を若いころ好んで読んでいたのでは、と推論したが、どうもそうではなく、60歳を過ぎてから、たぶん小倉千加子の読んでいなかったものを読み、そこから示唆されて、自分のセクシュアリティーを確認するように荻尾や竹宮恵子の作品や自伝を読み始めようとしていたのが正確かもしれない。がおおざっぱには、日記等を読む以前の私の推定は当たっていたようにみえる。年下の私は、女性(軟弱な男・少年愛)として幻想され(実際私のセクシュアリティーも、男兄弟三人の中で女性役割をもたされて育ったので、女性的な面も強い)、セックスの現場も正常を逸脱してゆく彼女のセクシュアリティーを適わせる方向へと動く当初があったのかもしれない(数をこなしている割には、いく子は無知だったと推定しうる)。

 

夫としてではなく、ものを書く人間として妻の遺品を整理していないと、私の気は狂ってしまうだろう。

 

しかし私との関係が、近代的な恋愛を志向する男女関係にすぎないのであったなら、批評家の六さんが「すぐにわかれるよ」と忠告したように、それまでいく子人生の反復をなぞるように、破綻していただろう。がそうにはならなかったのは、私の分裂気質が強かったからではないか、と推定する。分裂病者には、感情転移が成立しない。それは、医師が患者からの転移を拒否することで病を治療していくことと比例する。この点も、いく子の日記等から、そういう男たちもいたことが示唆される。まず一番が、柄谷行人なのだろう。NAM後半、私はこういう女性に迷惑を被った、こんな女には徹底的に冷淡にすべきだ、と組織内メールしたと私は記憶しているが、それは観念的な被害妄想ではなかったのではないか、と推定傍証するビデオがでてきた。また、ダンサーの伊藤キム。彼ははっきり面と向かって、あなたはなんでそのような目で私を見るのか(結婚前の私との公演「野蛮ギャルドの巻」でのような、であろう)、あなたは私のワークショップにいるべきでない、出ていきなさい、みたいなことを申し渡したそうだ。それと滋賀県だったか、の旅行友達の男性。そして勤務したことのある弁護士の男性。彼らは、正当的に、いく子を突き放すことで、男性(父)依存する性向を矯正させていくような対応をとっている。彼らの手紙は、まさに紳士的で説得的である。

 

彼らの一人として、図らずも私は、30代のいく子が共感理解した映画『ピアノ・レッスン』の通訳者の男のようなリハビリ看護師としての愛の形を挿入させていたのかもしれない。亡くなる一週間前の、いく子が私に「感謝」していると言ったのは、いわゆる男女関係ではすまない面に対してであろう。男女関係的にみれば、私には葬儀の際配布した挨拶文でのように、彼女の一生懸命な献身的な愛に応えられなかったことへの後悔と反省ばかりである。古井由吉は、ムジールの『愛の完成』の後書きで、愛は死後においてしか完成しないのか、と随想した。私自身、いく子が女房ではなくその固有名として反復されてきたのは、死後においてになってしまった。

 

いく子は男になりたかった、と書いた。が、なることはできなかった。亡くなる五日前の息子の誕生日、私たちは、千葉港の遊覧船に乗った。船が港に戻ってくるころ、私は後部部屋にいた三人の席をたって、前部屋の甲板へとゆき、ひとり港を見つめていた。少したって、息子がやってきて、私の隣に立って、やはり港の景色を眺めはじめた。しばらくして、いく子がやってきた。振り向くと、いく子は目を見張って、驚いたような、不思議そうな目をしてこっちを見ていた。私は、息子が私の隣に静かに立ったとき、ふと、ホモ・ソーシャルな雰囲気・空間が立ち上がった感じがした。そう直観した直後に、いく子の視線に出くわしたので、私は、いく子がやはり自分は男になれない、男が理解できないことに直面したのではないか、とそんな認識がその時やってきたのを覚えている。だとしたら、このホモ・ソーシャルな領域は、ジェンダーとして扱う社会学的な枠組みだけでは、理解できないことなのではないか。

 

いく子が身を以て遺したものをみるとは、彼女の笑顔の表部分だけではなく、むしろ、呪われた部分(バタイユ)をも直視していくことだろう。それは、フロイトをふまえたカイヨワの「戦争論」などとも重なるはずである。

 

またいく子は、修道院生活のような中学時代と、大正時代からある県立の進学校の呑気さとの落差に、相当頭が混乱したようである。これは、中学軍隊部活動から、旧制中学からの進学校の自由校風の落差から、福沢諭吉のいう「一身にして二世を経る」という衝撃から考えはじめた私と重なるのである。江戸から明治、戦前から戦後へとの落差を思考することが、日本の近代文学の営みだったとも言える。水俣の石牟礼道子は、恋愛をふくめた近代自我を江戸的な残存から批判するスタンスをとったが、ブルジョワでのいく子には、もうそんな根拠はなかった。いく子は、十年年上の永田洋子が自身に抑圧した「ミーハー」路線を突き進みながら破綻していった。しかし、その身を以て示した人生とダンスの軌跡には、熟考を迫るものがあると私は信じている。

 

しかし以上の把握は、あくまでこれまでの、私の関心教養の範囲での解釈にすぎないのかもしれない。むしろ私が、いく子の死後手続きや遺品整理をしていて直面した不思議さは、そうした心理的次元を超えた問題になろう。4/8の自殺記憶日が結婚記念日に、高校時代に振られたはずの新しい正樹と出会って結婚する、という符合だけなら、偶然を神秘主義的な思い込みによって解釈したにすぎないだけであろう。が、いく子の母と、私の母が、同じ仙台市の小学校に通っていたことは、結婚後の親族食事会での母同士で確認してびっくりされていたわけだが、その住居も、戸籍からすると、東北大学を挟んで、西(青葉公園)側にいく子の母の実家、東(駅)側に、私の母の実家が位置(並列)していたのだ。そしてもしいく子の母の高橋家が、自転車を所有していたら、それは私の母の菅原家が営んでいた自転車屋からのものであることは確実になるので、交流があった、ということになる。さらに、東北大学の北側には、私の母の父方の親戚(ということは、海軍中将になった斎藤七五郎の系譜ということになるのか)が住んでいて、華道や茶道を教えていたそうだが、その名字は高橋だったそうである。だから、もう少し遡ると、いく子と私が、親戚同士だったかもしれないという線もでてくるのだ。

 

そうした事実から私が想像するのは、次のようなことである。もし、グーグルなどの行動履歴追跡ソフトが、100年三世代・四世代におよぶビッグ・データを蓄積し、人との出会いを追跡するマッチングアプリのようなものが開発され解析されていったら、人と人との出会いも、心理的なものではなく、分子のブラウン運動のような、見えない物質同士の確率的な偶然(これは必然をも意味してくると理解するのが大澤真幸の量子論示唆)の法則が見えてくるのではないか。さらに千年のデータが蓄積されたら、前世からの記憶じみたものまで見えてくるのではないか? 

 

単なる空想にしかならないけれど、結合するたびに、量子もつれの強度が増して、さらに磁力で引かれやすくなるとか、考えてしまう。いく子のダンスを評価して掬い上げた六さんから、「なんでこんな女と結婚したの?」と聞かれ、「波長があうのだと思います。」と私は答えたが、その「波長」とはなんであろう? 記憶の問題なども、そうした物質性で考えたくなる。いく子が亡くなってみると、記憶の枝葉末節が捨象されて、なにか本性的な根幹だけが抽出昇華されて保存されてゆくような感じも受ける。

 私は、いく子の真剣な人生の軌跡を敬服するが、彼女の波乱な末節が捨象れていくことと、打ちのめされながらも私のメンタリティーが強くなっていくことは、同期的であるようにも思える。

 

    いく子が亡くなったとき、冷蔵庫に、加藤登紀子の新宿でのロシアレストランのメモと、クミコという歌手の新宿でのコンサート記事の切り抜きがマグネットでとめられていた。たぶん、翌月に見に行って、帰りに加藤登紀子のレストランで食べてみる予定をたてていたのであろう。私がクミコってどんな歌手、とスマホ検索してみたのは、先週である。2002年に「愛の賛歌」を歌っていると知って、驚愕した。結婚当初、いく子がMDに録音したのを、遺品整理でみつけて、かけて見て、その愛を賛歌する歌を聞いたからである。たぶん、いく子は、初心にかえるように、自分をたてなおそうとあがいていたのだ。そして一昨日、私はいまスポーツ委員とやらに巻き込まれ準公務員なのだそうだが、そこで仲良くなった年上の男が、なんといく子と同じ高校の同級生だったと、その組織の忘年会でわかった。いく子は、まだ私をどこかへ連れていこうとしている。来年は、水俣にゆく。

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