2023年12月17日日曜日

北野武『首』を観る


 この映画『』をみるまえは、侍のリアルを提示してみせることで、戦後の平和ボケ的な日本を批判するような意図をもって制作されているのではないかと思っていた。世界は、現実は残酷であり、民主主義を借り衣裳とした平和主義で、太刀打ちできるものではないと。

あるいは、映画の予告編で、信長の草履とりかと思われるシーンがみえ、その秀吉演じる北野武の演技から、出世美談と子供のための伝記ものでは語られる世間のそれを、逆転してみせているところに批判の観点が集約されてくるのだろうと。一生懸命頑張れば報われるとか、真心をもって打ち込めば心が通じる、とか、そんな人のよい話は現実にはないよと。それどころか、秀吉自身が実は、殿様の草履を懐に温めるという行為が世間では良いように受け取られると知っており、だからしょうがなく俺はやってるんだよ、と思わせぶりな仕草で草履を体で受け止め、おそらくは信長自身も、その人を喰ったような部下だからこそ使える、悪人こそ使える、と判断するような演出がつづくのだろうなと、私は予測していたのだ。そしてそんな演出を、戦争最中のヨーロッパの映画祭でみせることによって、日本人も騙し合いの世界のことなど百も承知しているよ、日本人をなめるなよ、と言ってみせたいのだろうと。

 

が、推論は、はずれた。映画では、家康を懐柔するために家康の草履を懐で温めるのであり、しかもそれは、弟の秀長との掛け合い漫才のように進行するのだった。

 

この映画は、実は、侍批判の映画であり、反戦の映画なのだ。世界のリアルを提示することによる平和ボケ批判ではなく、そのリアルの実態がどんなものであるかを暴露することによって、男たちが鎬を削るあり様を笑い飛ばそうとしているのである。

 

最後、秀吉は、信長に謀反をおこした明智光秀の首実検で、なかなか光秀の顔(首)がみつからないのに苛立ち、「俺は光秀が本当に死んだことがわかればいんだよ、首なんかどうでもいいんだよ!」と、破損して誰の顔ともわからなくなってしまった光秀の首を、サッカーボールのように蹴飛ばしてみせることで、締めくくられた。この最後のシーンは、秀吉が合理精神を持っているということを言っているのではない。侍たちの誰も、目的などもっておらず、享楽のために競っていることが露呈されてきたのだから。

 

タイトルの『首』とは、だから二重の意味になっていて、一つは殿(王、男)という象徴的な意味、そしてもう一つが、その世間上の象徴体系自体をコケにするためにこそ祭り上げられているものとして、ということになる。

 

では、どんな体系だと把握されているのか? つまり、暴露すべき、リアルとされる世界の実態とは、どのようなものとして演出されているのか?

 

この映画と同時に、『ナポレオン』が上映されているのは、面白い。見ていないが、比較してみよう。

映画『ナポレオン』をとった監督は、世間ではナポレオンは天才と受け止められているが、自分はこの男が普通の人物であって、だからなんとかという女性に溺れていったのだ、そこを描きたかった、と発言していた。一方、北野武の映画では、女はでてこず、まったく相手にされていない。これは、北野が、ミソジニー(女性嫌悪)を発揮しているからか?

 

そうではない。まったく逆なのである。

 

ナポレオンに「世界史の精神」をみた同時代の哲学者ヘーゲルは、主人と奴隷、暗黙には男と女の弁証法的な関係、その間に発生する矛盾や葛藤を乗り越えて進むことに、歴史の進歩をみた。女を謎として、真理として見立て、その獲得を目指して男同士で戦うあり様に、歴史と文明の原動力をみたのである。

 

が、北野のみせる、天下取りをめぐる戦国時代には、姫はいない。

 

黒澤明の『羅生門』や『七人の侍』を思い起こしてみればいい。女は謎であり、その真実をめぐり、男たちは煙に巻かれながら争い合う。侍を翻弄するのは、結局は甲高い声で歌いながら田植えをする百姓の、神秘的な笑みを浮かべる女たちではないか。

 

北野は、そういうふうに世界を理解することは、嘘だ、と言っているのである。

 

夏目漱石の、『こころ』を思い起こしてみよう。友と下宿先の娘さんをめぐって争い、その女を獲得した先生は、その勝利にもかかわらず、「明治の精神」を慕って自殺する。この話は、恋愛(男女関係)を焦点に理解されてしまう。が、よくみれば、先生は、女のことなどほっておいて、男を傷つけてしまったことに悩み、死んでいくのである。つまりは、男女関係の背後で、より本源的なものとして、男同士の絆のようなものがあるのだ。「明治の精神」とは、乃木大将や西郷隆盛が体現したような価値、それはむしろ戦国時代の気風が漂う「江戸(侍)の精神」である。それが、近代化とともに希薄になっていってしまった、つまり、文化的なホモソーシャル(男社会……西郷は男の恋人をおって心中した経歴もある)がなくなってしまった、という時代的な認識と個人的な悲嘆が重なり合うところに、先生の自殺が位置するのである。

 

が、なくなっていないよ、と北野武は認識するのだ。いや暴いてみせるのである。

 

外国人記者との記者会見で、外人記者から、ジャニーズ問題に関してどう思うか、と北野は質問されている。スマホ動画でその様子をみると、北野の返答は曖昧である。なぜなら、この同性愛問題は、民主主義的な政治的善悪では裁ききれないからだ。私たちは歴史的になお、あるいは人間生物的な本源性において、この男たちの絆関係から逃れられない。

 

マスメディアでは、ジャニーからの被害男性の告発ばかりの報道に偏重している。が、たしか6チャンの報道特集であったか、その取材で、ジャニーも参加している合宿で、その夜の相手に指名されてしまった少年は、友達からベルトを借りて、下半身をぐるぐる巻きにして出向いていって、ベッドに横たわり、無事生還したことを笑い飛ばして吹聴していた者もいたことを報道している。被害にあわなかったものは、ジャニーさんのために、という思いで歌い、むしろだからこそ、人を感動させる芸が大衆の前で披露できたのだ。これはスポーツ界などで、たとえば長嶋茂雄監督のために戦うんだというプロ選手が出てくるのと同じだ。高度な情念的な関係があってこそ、芸能が発揮でき、観衆の方も、その一流となった芸でないと、満足しなくなるのである。(この情念関係は、男同士とはかぎらないだろうが、差別ということ、つまりは主従関係が背後にあることにはかわらない。が、より根源的なのは男同士だということだ。――この点で象徴的な映画シーンは、信長の首を切るのが、黒人奴隷だったということである。そのセックスの相手でもある付き人の黒人は、「この黄色い人種めなんとか!」と差別言動をわめいて切り落としたのだ。)

 

なんで一流でないと満足しなくなるのか? とりあえず、「定住革命」の西田正規にならって、人の脳みそが肥大してあるから、そこをフル的に活性化していないと身体的にエントロピーが増大してきて退廃してしまうから、としておこう。食うだけでは、ヒトは、生きていけないのだ。

 

やわな芸で、人は、満足しない。ならば、民主主義的な正義がその差別を是正していった暁には、ヒトは、どうなるのか? エントロピーが増大し、日々の退屈に退廃的になって、もちこたえられなくなる、ということだ。北野は、いわゆる日本の芸能も、そうしたところから発生してきているとおさえている。だから、外人記者の質問に、曖昧な返答しかできないのである。

 

世界は、女を相手にしているようでいて、実は、相手にしていない。真理は、女にあるのではなく、そうみせかけて人々をだまくらかし、本源的な男どうしの原動力を隠したところで駆動させている、それが実態なのだ、と北野は暴いてみせたのだ。殿様はハーレムがほしいのではない、殿様になれば、それは簡単に手に入るのだから、力(芸)にならない。女にもてたいのではない。力に必要なのは、男からの、鎬を削るライバルからの評価であり、承認なのだ。

 

この認識は、ヘーゲルの哲学をふまえて「歴史の終わり」を説いたフランシス・フクヤマも洞察していた。戦争(歴史)はなくなった(終わった)のではない、それがサッカーのワールドカップに潜伏しただけだ、とその書で説いていたのが実状である。だから、本当の戦争が始まってしまえば、男たちは、その命を賭けた本気度の高い大会に参戦するのだ。観衆も、そのあり様をみることで、脳内の退廃をリフレッシュする。メディアはそれを促進する。北野は、この現今にあからさまになってきた歴史を、世界史を嘲笑する。馬鹿げていると。そして、侍の首を、サッカーボールのように、蹴飛ばしてみせたのである。

 

哲学のノーベル賞をとった柄谷行人は、『交換様式』で、交換A(氏族社会での交換、つまりは侍の贈与精神、心臓を捧げた関係ということだ)の高次元の回復としての交換Dなるものを提唱した。その物言いにならうなら、北野武は、交換Aをより低次元なものとして披露し、その関係を爆裂させようとしている。が、その先には、何があるのだろうか? 北野演じる秀吉は、毛利家の殿様の船上の切腹の儀式を愚弄する。三島由紀夫のような演出を、笑い飛ばす。光秀の首を取ったのは、刀ではなく、竹やりや鍬をもった農民だった。が、黒澤明のように、農民が実際は歴史を支配しているね、かなわないね、というわけではない。そうではなく、あくまで、この世界を動かしているのは、侍身分的な男たちなのだ。その変わらない現実は冷徹にみていなくてはならない、と言っているようだ。ならば、笑い飛ばすことしか、現状に皮肉な態度で距離を置くことしかできないのだろうか? 他に、そこを抜け出す道がないのだろうか? 芸術に、文化にふれないと、私たちは、生きていけないのだろうか?

 

北野の映画には、そうした突っ込んだ問いは、ないだろう。

 

しかし、この映画が、男たちの実態を暴くことで、現今の戦争のあり様を批判した反戦映画になっていることを、もっと注視したほうがいいだろう。幕がおりる直前の、映画関係者の名前等を流していくテロップの最後に、「撮影に際し動物には危害はくわえてません」という一文がまぎれている。このさっと通りすぎる演出に、北野の、衒いのないような平和主義が主張されているのだ。

2023年12月12日火曜日

四十九日


妻の四十九日を迎え、祭壇から仏壇に切り替える。

 

といっても、ここでいう「仏」とは、仏教のそれというよりは、より一般的な、亡くなったもののことを指す意味になるのだろう。四十九日といっても、その仏教的な物語を信じられるわけでもない。が、メンタルや身体生理が落ち着いてくるのに、ちょうどそれくらいの期間がかかる、と自然的な推移と重ね合わせられるような気もする。

 

葬儀までの五日間は、夜寝入るのが怖くなるのか、意識を失うと、そのまま狂気の世界へ落ち込んでしまうような切迫感に、ほぼまったく眠れなかった。が葬儀を終えて、とりあえず、眠れるようになったのも、儀式と生理になんらかの重なりがあるからなのか。

 

ただ眠れても、それがやけに深く、夢は見ているようなのだが、はっと起きると、何も思いだせない。それが四十九日が近づくにつれ、夢の内容はこれまでにない、たぶん父や母といった家族のでてくるものが多く、目が覚めても、覚める直前くらいまでのイメージは脳裏に残っている。そして四十九日を迎えた最近は、以前の、不可思議な、精神分析の対象になるような奇妙なストーリーをもった夢に落ち着いてきて、起床後も、そのおおまかなストーリーを辿っていくことができるようになるのだった。いや、以前以上に、奇妙奇天烈で複雑なストーリに変貌している。

 

仏壇は、妻がどこかからもらってきた木製の椅子に、妻の妹のトルコからのお土産であった布を使った。スマホの検索によると、個々人の創意工夫で設けられる、「簡易仏壇」と呼称される形式が、一定の流行りをみせているようである。私も、その流れの中にいるということなのであろう。

 

世界宗教にもなるビッグネームな宗教が世界を騒がせているいま、大きな宗教物語を信じるわけにもいかない名もなき人たちが、小さな祭壇を設けて、死者とともに過ごす様式を、暗中模索的に探しているのだとおもわれる。

 

この遺った骨を、どうするのか? 残され者たちの心との間で、そのモノとどのように折り合いをつけて未来へと向かうのか、子供たちら次の世代を含めて、暗闇の中での手探りな模索がはじまっているのだろう。

 

小さき者たちの小さき社は、普遍的な意味をもって成長していくことができるだろうか?

 

妻の遺影をみると、身に迫る感情がなお高ぶってきてしまうので、閉じることにした。その妻の脳出血の原因は、不明であって、診療予約の日取りを使って、新宿女子医大の担当医のところへ聞きにいったりもした。八月に感染した菌が脳内に入って悪さをしたということはないのか、脳腫瘍ということはないのか、と問いただしたが、ストーリとしてはありうるが確率はひくい、という話だった。

 

妻の妹が、最近の医学論文を探し出してきた。コロナを含めた感染症と脳との関連を示唆する論文が、提出されているそうである。

 感染症と脳血管障害:感染性心内膜炎と 新型コロナウイルス感染症 - J-Stage https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsnd/27/1/27_75/_pdf

2023年11月27日月曜日

庭と戦争


 居住している町内会の文化祭に、自著三冊、とその説明文を、出展してみた。

タイトルは、「庭と戦争」。

また戦争か、とふと思いたったのは先月。はからずも、妻への弔いの展示になってしまった。


<庭と戦争>

       庭、というと、敷地に作られた景観、と思われがち。

けれど、古語の意味は、海。

 水平線の手前の、平にないだ、漁をする所。転じて、地平線(山の稜線)の手前の、柴刈りに行く所。転じて、家の外の手前の、作業する土間。

 海や山に出かけるのに、天気を見誤ったら大変。命がけ。

 だからなのか、日和、とも表記された。

       島国の日本ならば、あそこは俺の庭だ! ですむ所もあるかもしれません。

けれど、陸続きだったら? 向こう側の人も、あそこは俺の庭だ! と言うかもしれません。

 つまり、それではすみません。命がけ。

       そんな島国と大陸の、すれ違いの現実を、子供たちの視点から描いたコミックが、諌山創さんの『進撃の巨人』。

   島国の外から現れた巨人(大陸側の最終兵器)が、「人を喰う話」です。

   その世界大戦の様は、にわ、という言葉の意味をめぐって、なされているのかもしれません。

 日和見にわみとが朝廷の国見くにみになるまえは天を気にする民の営み (すずき)

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※ ようやくというべきか、業界と結び付いているような造園学会の<にわ>理解とは一線を画す、若手の研究者たちが現れてきた。若い人たちのほうが、辞書を引けば普通にでてくる<にわ>という起源的な語義の意味をふまえて、未来を思考=志向している、と私は思う。

参照文献;

福嶋亮大 『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』 星海社新書

腹瑠璃彦 『日本庭園をめぐる デジタル・アーカイヴの可能性』 ハヤカワ新書

     『州浜論』 作品社

山内朋樹 『庭のかたちが生まれるとき』


*ちなみに、出展した私の冊子『庭へむけて』『パパ、せんそうって、わかる?』『人を喰う話2』は、もともとは電子ブックとして、スマホで見られる形式のものなので、<bccks 知人書房>で検索すれば、無料で読むことができます。

2023年10月29日日曜日

葬儀――「テロリストになる代わりに」


先週の22日夕刻、夫の私や息子、そして妹に見守られながら、いく子は亡くなった。

前日の土曜夕刻、持病とは別の、脳内出血によるものだった。

一昨日27日、身内や、娘時代のいく子を知っている近所の人たち、ダンス仲間やその先生、東京中野区在住時の地域活動仲間、いく子を慕っていた息子の小・中学時代の友人たち、そして息子の職場の警視庁の方々等によって見送られた。

 

葬儀は、無宗教形式と呼ばれるものでおこなった。

子供の頃からこれまでの、アルバム編集のDVDスライド、献花のあと、「あいさつ」とタイトルされたいく子の公演動画上映後、ひきつづき、喪主のあいさつとして、私が彼女と共演した。

 

……

 

今日は、いく子のためにお集まりいただき、ありがとうございます。

私は、おばさんになってからのいく子しかしりません。彼女が四十、私が三十すぎに、出会いました。葬儀のサービスとして、アルバムスライドを編集してくれるというので、まだ彼女の実家へと引っ越して一年あまりにしかならない家の押し入れから、積みおかれたままのアルバムを取り出してみていますと、可愛いというか、彼女は、クラスの華だったのではないかと思います。活発で、外交的で、優秀でもあったでしょう。しかしそんな彼女は、四十まで結婚しなかった。私と写ったスライドでは美人に見えるところもありましたが、あれは写真うつりがいいので、実際は、おばさんです。彼女は、良家のお嬢さんでもあったから、お見合いもあったでしょう。が、彼女はそれをこばんだ。そして、ダンスを選んだ。

配布された案内のカードには、私と彼女は、芸術のグループで出会ったと書いてありますが、そのグループはそのまえに、世の中を変えていこうという、社会運動のなかの芸術部門でした。その創立者は、去年だったか、アメリカの研究所がだしている「哲学のノーベル賞」と呼ばれるものを、アジア人としてはじめて受賞しています。運動は2年で解散しました。

結婚前だったか、あとだったか、彼女の公演をはじめてみたそのタイトルは、「テロリストになる代わりに」、というものでした。クラスの華だった女の子に、何がおこったのでしょう? 私は、その組織の中で、彼女のことを、遅れてきた永田洋子かとおもいました。おそらく、世の中にでていくにあたって、彼女は、何か認識を、普通にはいけない認識をもったのだとおもいます。

息子が、警察官になりました。最初の勤務地が、銀座あたりだったので、勤務早々、あの息子と同年代ぐらいの若者たちがおこした、銀座の強盗事件に出くわし、現場にかけつけました。話によると、その主犯格の18歳の若者には、家族がなかったそうです。まさに「家なき子」たちが借家にあつまって、電気も、ガスも、水道も止められ、寝るだけのために集まっていたそうです。是枝監督の『万引き家族』も、まさに「家なき子」たちが同居して万引きによって生計をたてているというものでしたね。そして『家なき子』という映画は、二十年以上も前ですか、アダチなんとかいう女優で、「同情するなら金をくれ」というセリフがはやりましたね。それから、何もかわっていない! 犯罪は、起きたものは、とりしまることができます。しかしその発生を、どうやって防ぐことができるのか? 私はいま、テロや犯罪を呼び込むような新興の宗教につけこまれるスキだらけですよ! この悲しみは、防ぐことができない。だから、犯罪やテロが発生する「代わりに」、彼女はダンサーになった。

しかし、子供が成長し、彼女は踊らなくなった。視聴していただいた先ほどの公演が、最後だったようにおもいます。

人間は、考える葦である、という言葉があります。つまり、考えることをやめたら、人は葦のように枯れてしまう。物書きは物を書くことで考え、絵描きは絵を描くことで考え、ダンサーは踊ることで考える。書くことを、描くことを、踊ることをやめてしまえば、死んでしまう。だけど、おまえは生きているじゃないか? ダンサーなのか? 生きてるじゃねえか? 私は、そう問い詰めたこともあったかもしれません。が、私は間違っていた。

いく子の最後の日です。ちょうど夕食を作っていた時でした。近所のアパートに住んでいるお年寄りが、道に落ちていたといって、財布を家に届けにきたのです。班長の看板が門にかかっているので、こちらに持ってきたということでした。いく子が対応し、彼女は交番にゆくことにした。私はその夜、夜回り隊の当番でした。が雨が降ってきたようで、中止になって、家にいたのです。帰りがちょっと遅くなってるような気がしたので、迎えに行こうかとおもいました。がそのうちに、玄関の鍵の音がガチャガチャし、ほっとしました。いく子は、靴が濡れたのでしょう、靴をもって台所にまでやってきて、台所のドアを開けて、外に靴を干そうとしたようでした。まるで幽霊のように歩いてくるので、変な気がしました。ドアを開け放したまま、靴を持ったままもどって、台所の椅子に腰かけました。そのときはじめて私は(テレビから)顔をあげていく子の顔をみました。みてすぐに、認知症になっているというか、おかしくなっていると気づきました。「交番いってきたんだよね?」「俺のことわかる?」「自分の名前がわかる?」いく子は、何も答えませんでした。目を見開いたまま、私をみている。医師の話によると、言葉をつかさどる領域近くから出血したということですので、何を言っているかわからなかったのでしょう。だけど、視覚はあって、私のことを認識できていたのかもしれません。私はかけつけて、頭をなぜた。そのうち、脱力したように私の腕の中に倒れてきたので、床に寝かせました。途中で転んで頭をぶつけたのかもしれないとおもって、その近所の交番に電話をかけました。こちらの住所をいうと、最近の何丁目のものでなく、昔の千何番とかの住所を書いていたことがわかった。交番のおまわりさんもすぐに察して、電話はこれで間違いないですか、と確認してくる。電話は新しいものでした。つまり、古い記憶と新しい記憶がごっちゃになっている。帰ってこれなかったら、行方不明だった。気力で、帰ってきてくれた。私のいるところまで、もどってきてくれた。そして崩れた。それが、彼女のダンスだったのです。私は、間違っていた。彼女は、私に、身を以って、何かを伝えた。人として、大切なものがあるのではないかと、自分の体を使って、私に、私たちに、伝えてきたのだとおもいます。彼女は、最後まで、ダンサーだった。

 

これが、二人の最後の共演になりました。どうも、ご視聴、ありがとうございます。

あいさつ - YouTube

2023年9月23日土曜日

渡辺京二著『小さきものの近代 1』(弦書房)を読む

 


 渡辺京二氏は、水俣病とされた被害当事者の側に寄り添い続けて闘ってきた人だと知られている。その思想的立場は、右・左でいうならば、右側からの国家批判ということになるのだろう。近代以前的な情念の正当性をえぐりだして対置させてきたようにみえる。法的な裁判闘争以前の、こちらで死んでいった者たちと同じ分だけの毒を飲んで会社幹部が順番に死んでいってくれたらそれでええ、という村民の感情にこそ私たちが継承すべき正統性もがあるのだと、その論理を抽出解析して提示みせてきたような気がする。

 

 こんどのこの作品も、幕臣側に立って負けた無名ではないが世間に埋もれていった人物や、無名的な庶民あがりだけどひょんな境遇から名の知られることとなったジョン万次郎のような人物などをとりあげる。そして、彼らが最終的に、黙って処するようになったそこに、本当に知るべき現実があるのではないかと示唆する。

 

<襲撃(桜田門外の変――引用者註)に参加した水戸藩士の中にただ一人生き残りがいて、名を海後磋磯乃介と言う。維新後水戸警察署に勤めた。…(略)…海後は警察をやめたあとは、その前で代書人をやっていたという。毀誉褒貶する者はあり、それは耳に入ったであろうが、一切無視した。本当はこういう人こそ、何を考えていたのか知りたい人なのである。>(「第四章 開国と攘夷」)

 

 二次大戦敗戦後、小林秀雄が述懐したように、黙って処した者は国民規模になった。このブログでも、村上春樹の父をめぐるエッセーをとりあげて、その父の沈黙の姿を喚起させた。渡辺氏は、維新前後のことを扱ったこの第一巻では、庶民の天下国家のことに関心を持たない姿勢に積極的な意味があったことを示唆している。がこれからの巻で、とくに戦後政治において、当時と同列な意義を見出せるのかはわからないような気がする。継承と変質があるだろう。とくにこれから、もし日本がより中国文化圏に従属していくことになっていった場合、今の香港の人々にあるだろう沈黙の姿勢と、戦後の日本のそれを機械的な延長上で把握することはできないであろう、と推測する。

 

 昨日、NHKが徴収にきた。高校時代からテレビは見なくなって、上京してからはテレビを所持してなかったので、結婚後もそのまま、深い考えもなく、契約させようと訪問してくる者たちに退出してもらってきた。が千葉へと引っ越し、一軒家で暮らしているとなると、目立つからか、次から次へとやってきて、嫌になる。押し問答は面倒くさい。

「要はテレビ持ってる持ってない、視る視ないじゃなくて、NHKはおかしいだろう、と意見を持ってるか持ってないかじゃないの? それは思想・信条の自由として憲法で保障されているんじゃないの? もう7割以上の人が払ってるんでしょ。100%になったら、北朝鮮みたいで、おかしくないの? この間若い人が取り来たけど、若い世代はスマホでみんなすんじゃうでしょ。で、スマホでも徴収しますって、他の民主国家なら暴動起きてない? 余った金で今度はネット番組作るって計画したらしいけど、都民共済だって余ったぶん返金しているよ。あんた一軒一軒まわって手間かかるって言ったけど、俺だって一軒一軒まわってチラシ配ってるけど、100枚配って一枚反応あればいい、というのが植木業界で、それはまだいい方だというんだから、他の業種はもっと大変なんだよ。配ったら7割のお客できたなんて、おかしいでしょ。それは儲けじゃやない。上納金と同じじゃない?」そう言うと、中年社員は少し面食らって、「ご理解を」と言う。「女房入院してるから自分ひとりじゃ決定できない。」と言うと「前回もそんなこと言って。来月から値下げになりますから、来月から新規でということにしますから、ぜひこの機会で。」と、申し込みのQRコードの入った不在連絡票を置いていく。前きた若い人との問答もフィードバックされているから、次は、もっと理屈っぽいのがやって来るのか? 私の判断では、そのうち国家権力はそれこそ北朝鮮なみに強くなってくるだろうから、よっぽど運がよくないと逃げ切れないだろう。思想信条の自由をだしての反論に関しても、放送法ではなく、憲法の「公共の福祉」という観点からそれを退ける、という判例があるようだ。国策裁判なのだから、無名庶民が勝てる見込みはない。未払の三倍は罰金をとっていいという去年だかの判決もでている。N党は内紛でつぶれているし。

 

 ともかく、7割の日本国民が、ほぼ黙って処しているわけだ。責任は持たないという製薬会社との契約ワクチンの件でも。マイナンバーカードは、私も金子勝氏が毎日新聞で指摘していたように、もう日本人が技術的にできないという話が本当なのではないかとおもっているので、できないものはできない、と醜態をさらして撤退ということになる可能性もあるかとは思うが。

 

 私が言いたいのはこういうことだ。NHKをはじめとした権力側の一部だか大半の人たちは、日本人が大人しいからって、なめてつけあがっているんじゃないの? そうなると、日本人がどうなるか、むかしの時代劇でもあったよね、「黙ってりゃあいい気になりやがって、てめえら人間じゃあねえ、叩き切ったる!」って。そうなっていいの? そういう日本人に忖度しないの? 権力側への忖度じゃなくて、そうした日本人の共通的なメンタリティーも考慮しないで、何が「公共」なの? そのどこに「おおやけ」があるの? 単にエリートの言葉上のつじつま合わせがあるだけじゃないか。ふざけるな! もちろん、そんなことほざいても、世の中は、変わらない。現場の庶民ができることは、上からの指示を人間的に社会判断し、やりすごすことだ。特攻隊だって、現場の隊長が上官に向けて、まず私とあなたで新人の前で見本をみせましょう、さあ私と一緒に突っ込んでください、と直訴してみせたら、その部隊はとりやめになったという例もあるそうだ。しかしそれは、上官らが敵だということではない。もう一緒なのだ。宮台真司は、入管でのスリランカ女性死亡事件に関し、新右翼の鈴木邦男の「公安は敵ではない」のだという言葉を紹介して、一般とは違う仕方で、アイヒマン問題を解いていた。ユダヤ人を収容所に送ったアイヒマンも、入管の職員も、思いやりのある普通の人で、それぞれの「物語」があるのだ、その相互現実を理解しなければ不毛だと。私も同感だ。『進撃の巨人』を誤解して、プーチンは敵だと殺し合いを煽っているのは不毛だろう。さらに、本当に、中国文明なみに権力が世界を覆ったら、一般的な闘争は難しくなるのだから、現場での闘争しかない。そのうち、そんな体制自体もたない、長続きしない、というのも、自然の現実なのだから、自然を信じて、しぶとくやっていく他ないだろう。

2023年9月9日土曜日

『#ミトヤマネ』(映画)を観る

 


千葉の市原市のTOHOシネマズで、観てきた。

宮崎大祐監督の映画は、『大和(カリフォルニア)』から見てきている。みるたびに感想を、というより考えさせられたことをこのブログでつづってきたが、前作の『PLASTIC』をひと月前だかにみて、とまどってしまい、感想を書き込むことができなかった。今回の『#ミトヤマネ』にも、おそらく同じとまどいをもったが、前回よりもおとなしく、なぜとまどうのかがわかってきた。監督自身の友人たちも「変な感じ」を観賞後に口にしたそうだが、たぶんその感じとかぶるものなのだろうと、予想する。

 

とりあえず、ストーリー的な読解からはじめよう。

が、観賞直後、私は、この映画のストーリー構成が把握できたわけではなかった。スマホで他の人の考察を読み、監督自身のインタビューに触れて、はじめてこんな構想だったのかな、と了解してみたのである。

 

最後、ミトヤマネという若い女性、インフルエンサーとして世界的に名の知られた女性が、都会のしゃれたマンションの自室で、パソコンで検索閲覧していた街角のライブ画像が途切れ、砂嵐のようになったその確認に、不敵な笑いをみせて、終わる。瞳が不気味に光る。最終テロップの終幕の直前では、救急車のサイレンの音響効果が流れるのだが、CineMagサイトの「考察」によると、おそらく、ライブで確認していた場所とは、彼女が紙袋をいれたコインロッカーのあるところで、その紙袋が爆発し、つまりテロを敢行したのだろうと。なるほど、そうだな、と私はそれを読んで了解した。映画全般の印象としては、『ジョーカー』、そして爆発物をしかけた後に彼女がよぎってゆく渋谷のスクランブル交差点での描写に、『バイオハザード』の何シリーズ目かの日本を舞台にしたものを連想していた。たしかそれも、交差点の真ん中で、女子高生らしき人の瞳が光ったような。

 

前作『PLASTIC』も、交差点にあたるといっていい場所で、男女が出会えるかどうか、というところで終わる。この構図は、『Tourism』でも『VIDEOPHOVIA』 でもみられたろう。とくに、『Tourism』の場面では、幼い男の子の声が天井から降りてくるような語りとして導入された。私はそれを妖精なのでは、と感想もした。『PLASTIC』でも、おなじ男の子の声が流れた。そして、私の推論なのだが、この男の子が、『#ミトヤマネ』では、登場してきたように思うのだ。

 

それは、ミトヤマネのプロデューサーが、弁護士と相談している場所でのことである。中国企業からの申し出を受理して、フェイク動画の仕事に参加してみたのだが、それで世界的な炎上騒ぎになって、収拾がつかなくなったのである。彼女は本当は在日だみたいな、ネトウヨからの攻撃が示唆されてもいる。そうしたものへの法的処置の相談が、いったいどこで、もたれたのか? シビアな仕事の話なはずなのに、よその子供がうろちょろしている。図書館か? その子供たちが絵本を読むところか? とにかく、そんな奇妙な場所の、閲覧席でなのか、あるひとりの男の子が、絵本を立てて読んでいる。目が鋭い。耳が、やけに大きい。人間としては、おかしい。『PLASTIC』の冒頭は、『スターウォーズ』のあの宇宙の闇に語りの字幕がとおざかってゆくものの、パロディ的な引用だった。そして、宇宙の話題があった。

 

そういうところから推論されてくるに、その耳の大きな男の子が、天井の声を持つ妖精であり、宇宙人、ということなのでは、と。哲学者カントと同時代の霊能者スウェデンボルグによれば、宇宙人とは霊のことだった。つまり、地球とは違う次元の世界が、ここに重なるように降りてきている、ということではないか? 映画『マトリックス』も、連想されてはくるからである。パラレルワールドの話題も、冒頭部分の会話で、暗示されていたであろう。また、作品との重なりは、『Plastic』の中で、文学作品でのフォークナーにおけるサーガという枠の示唆があったであろう。

 

そしておそらく、ミトヤマネは、マネジャーをしているはずだった妹と、入れ替わったのだろう。いや、妹がミトヤマネになった世界と、姉がミトヤマネのままの世界とが、パラレルワールドになって、分裂している、ということではないかと思われる。ペットの子豚が家から逃げてしまって、交番に届け出た帰り道、おっかけに遭遇し、歩道橋へと逃げ込むのだが、妹が右の階段をおり、姉は左の階段を降りると、おっかけは妹の方をおっかけていった。その手前のシーンで、マンション室内で鏡を前に化粧をしているのが妹で、その妹がまるで召使のように姉に指示して、子豚の行方を捜すように命令していた。それは鏡に映った描写の中でおこなわれたが、その実際の人と、鏡の中の人との位置関係が、うまく頭で処理できない奇妙さがあった。映画『シックスセンス』での霊をリアルに示すための映画上の工夫を想起させる。

 

たぶん、姉がミトヤマネのままの世界では、妹は怒り心頭した左翼過激派のような人物たちの石つぶてによって虐殺され、姉は世間に復讐し、妹がミトヤマネの世界では、彼女はプロデューサーと一緒になってその困難を乗り越えた、ということになっているように思われる。

 

社会テロと霊と宇宙論が重なる構成。

その重なりが、映画的な画像と、スマホの画像と、パソコンのディスプレイと、街角のビデオ映像と、といった多様な様式によってつぎはぎされている。このつぎはぎが、つまりカットとカットのつなぎが、未成熟というか、「変な感じ」を抱かせる。サークル延長的な、素人的な未熟さとも受け取れる。感情転移はできない。むしろ、唖然とさせられてしまう場合が多い。『PLASTIC』ではとくにそうだったのだが、それは、私がいわゆる映画における古典的な感性、個人経験的な趣味に左右されているからかもしれないと、判断を保留していたものだ。そして今回この作品をみて、やはり、保留すべきなのだ、と判断されてきた。

 

CineMagの評者は厳しい。アート系のB級映画としても抽象的なメッセージが弱い、と。よく了解できる意見だが、映画の歴史において、たとえ実験的な映画だとしても、その様式は統一されていたのではないか。ゴダールでも。正面を向いた人物がカメラ(観客)に向かってなように話しかける、その様をはじめてタルコフスキーや小津の映画で直面したときの驚きと新鮮な感動。そこで培ってきた感性からすれば、どこかタイミングや秒数がずれていて、しかもカメラに向けて話していたと思しき人物はカメラをかわすように迫ってきたりする。感性とは、どこか、ずれていて、居心地がわるい。ちぐはぐな感じを受ける。がそれは、映画をみようという、前提があるからではないか?

 

宮崎監督は、インタビューで、こんな疑問を提示している。

 

<サイズ以外にスマホのモニターとスクリーンの違いって最早なんなんでしょう。>(「神戸映画資料館」)

 

そのジャンルが衰えて終わったとおもわれた時や時代に、そのジャンルの固有性に立ち帰るのが、本当のモダニズムとされた。ボードレールやフローベールといった作家も、文学が終わったとされたポストモダニズムな社会にあってこそ、そのジャンルの固有性、小説の小説性とかを反復したモダニズムな作家なんだ、営みなんだ、というのが、かつてあった教養である。浅田彰が口をすっぱくするようにして言い、映画では、蓮見重彦が説いてきたことであったろう。要は、映画らしい映画。

 

宮崎監督は、ドゥルーズをあげたりして映画について語るが、上の問いかけは、映画の映画性にこだわるどころか、映画(芸術)というヒエラルキーを転倒させていくものである。A級高尚芸術と、スマホのライン等アプリの画像と、どこが違うのか、と言いのけるのだから。

 

私はドゥルーズの映画論は読んではいないが、ベルクソンの記憶哲学によるのだったろう。が、宮崎監督は、スマホをスクロールしながら各人のクリックで画面が編集されてゆくようなイメージで映画を作ったという。スマホ閲覧は、各人の趣味をAIで自動的に編纂してゆくアルゴリズムも挿入されてくるのだから、ベルクソンの純粋記憶よりかは手前にあるだろう別次元の、より社会的メディアと身体との関係を再考させるものだろう。その洪水のなかで、私たちは生き、将棋界の藤井聡太も、まだAIの指す手の論理過程が未知のままであるのに、その確率世界(パラレルワールド)を凌駕してゆく手を打っていくと指摘されている。

 

おそらくこの映画監督の根底には、大衆による反逆の精神が息づいている。それがうまく、様式的な昇華として成功していないかもしれない。(ゴダールの編集技術は、やはりあくまで映画としての統一性を維持しているだろう。)あるいは逆に、私たちがすでにそんなちゃらんぽらに感性が寸断された世界を生きているにもかかわらず、それに対応した感性に更新されていないということなのかもしれない。そんな最中にあって、かつて説かれたモダニズムな対応、いわば映画らしい映画を作ることに思想的な意義が本当にあるのか、有効な実践に本当になるのか、ということは、問われなければならない。なぜなら、私たちは、こりずにもまた、三つ目の世界大戦に直面しているのだから。かつて映画がファシズムに加担し、いまはSNSが加担している、と伺える世界の中で、とても、そんな高尚とされるインテリ対応だけが是であるとは、受け入れがたいではないか。

2023年9月1日金曜日

盛可似『子宮』(河村昌子訳 河出書房新社)を読む


千葉市の中央図書館で、頼んだ本を探してもらっている間に、新着コーナーで目にして、借りてきた一冊。

 

中国の女性作家の作品。作者のことはまったく知らなかったが、本を開いてすぐ、四世代にわたる家族の系図みたいのがでてき、「纏足」という文字もみえたので、興味をもった。一世代きりや一人の行動で世の本質的変化など望むべくもないし望んでもいかんなあ、というのがこれまでの人生から思われて来ることなので、やはり近代小説的な枠組みより、何世代もかけて意志をもつとはどういうことなのか、とよくは知らない中国の文学作品を読むことで、考えるきっかけを得られるか、というような期待が脳裏に過ぎった。

 

一読して、びっくりした。

 

タイトルは、もともと作者が『子宮』としていたのを、中国での出版では編集者の意向にそって『息壌』とされたが、台湾での出版にあたり当初の『子宮』に。訳者によれば、「息壌とは、中国の神話に出てくる魔法の土で、自ら増殖する力を持ち」、「洪水を治めるのに用いられた」という説話に由来し、どちらのタイトルも、「本作の含意に合致している」と解説されている。

 

確かに、「含意」には入っているだろう。がこの小説は、神話的ではなく、清朝末期の纏足の祖母から現代の曾孫までの四世代を描いた問題提起な作品である。女性の豊穣さを確認する作品でもなければ、纏足って女性差別でいけないよね、などと主張する作品でもない。おそらく、このタイトルに孕まれた含蓄を、日本あるいは欧米の人々が理解することは、おそらくできないのだろうと思われる。私も、なんていっていいか、わからない。あくまで、女性に対する纏足的な現状は相も変わらずだとの認識前提はあるだろう。がだからそんな社会や歴史にネガティブだというのではない。それを変革していくポジティブな意志を持てているわけではない。しかし、諦めているわけではない。むしろ、告発している。が、たぶん、その変化への意志を、自分だけでは抱え込まない、人の悠久な営み、波長を信頼してそこに自己を埋没させながらも、水の中の一滴の波紋の力に希望をもつことができる、ということを、静かに前提して押し出している。文章の比喩など、現代的なIT用語や性的な用語が、その世間的な含意が剥奪されて、ぶっきらぼうなリアリズムで並置されて記述されていく。その平等な表現は辛辣だが、その世界を突き放していく態度のうちに、冷静な愛がある、といおうか。

 

おそらく、私たちがこの作品の含意が理解しにくいのは、父権的な社会に征服されきった歴史をもつ社会での生き方を、なおそれとの対峙を葛藤できる社会で生きている私たちには、受容できる経験がないからだ。それは、コロナ禍で、強制的に隔離されたり、PCR検査を受けるのに長い行列を徹夜でならばされたり、等のニュースをみて、いったいどんな気持ちになって日々の生活を人々はおくることができるのだろう、と考えてしまうのに似ている。もちろん、そんな強権的な社会の中にも、自由というか、喜怒哀楽というか、そういうものはあるだろう。と、ここで「そういうもの」と曖昧な表現になってしまう。欧米の言語ゲームの中に、そして家族形態的にもなお、核家族と父権共同体家族の中間領域にいる私たちには、中国社会での概念をうまく言い当てる言葉につまってしまうのだ。

 

いや全体主義国家を体験している日本人だって、抑圧統制されて生きることがどういうことか想像できるだろう、との批判は正当ではない。おごれるものはひさしからず、と季節のようにすぐ次の転回になるだろうと高をくくっているのが私たちの習性ではないのか? 昨日の敵は今日の友、とか、のど元過ぎれば暑さを忘れる、とか。

 

いったい、中国の方々は、どうやって生きているのだ? こうやってだ、と、盛可似は提示している。傾向としては、女7人の姉妹のうち、都会で暮らすインテリ階級のものには批判的だ。がそれでも、その離婚することになったその妹夫婦の関係にしても、どこか奇妙であり、作者はこの欧米的観点からすればの奇妙さに、中国の歴史的な厚みが反映されての成熟さがあるのではないかと、冷徹な認識を暗示しているようにも読める。作者自身が、湖南省の農村生まれで、その故郷を舞台にそこでの逸話から想像・構成した作品である。基本的には庶民の、あるいは抑圧されている女性たちの立ち居振る舞いの底力に共感しているだろう。作者の思いに一番近いとおもわれる医師の男と結婚したインテリの六女の初玉は、十六歳にして父がいないことになるだろう子供を身籠った孫世代のヤンキー的な初秀とのやりとりで、「よく考えろ」と諭していた自分が負かされたと認め、若い世代の意識に共鳴する。まわりの農村在住の姉たちは、二人のやりとりは理解できないが、結果として、学のない少女が学識ある妹を負かしてしまって二人の仲が回復したらしいのを見てとり、大喜びし、おろすのではなく産むという選択に傾いたことを歓迎する。

 ※ おそらく、「反」ではないが、「非」me tooなる立場になるのではないか? アメリカ発の中絶首肯の運動とは、出所の違う立場から、違う方向(意味」)を探ってゆく営みになるのではないか?

この作品を読みながら、2015年にノーベル文学賞をとった作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』を想起した。このロシア語で書くベラルーシの女性作家は、私の知る限り、リベラル視点からプーチンのウクライナ侵攻を批判している。が、彼女が集めたロシアの二次大戦下の女たちの生きざまを読み知ったら、ロシアの女性たちが、プーチンを超えて、その戦争を支持するようになるのではないか、と私は思わざるを得なかった。軍隊でもトップクラスの男が少女の面接にたちあい、「おじさん私も戦いたい」と訴えてくる少女を、「お嬢さん、ばかなこと言ってないで帰りなよ」みたいなやりとりが成立している官僚社会。このあり様も私たちには理解しにくいことだし、中国の官僚社会には、そんな人間味みたいなものは、ないだろうと予想する。が、その差異をこえた視点で、作家の態度として、スヴェトラーナの(私の知見の範囲では)、この戦争に対する態度は、単純であまりにインテリすぎ、欧米インテリの視点だろう、と思われてきたのだった。そんな態度で、ロシアの女たちを理解できるのだろうか? そこに生きる庶民への正当なる批判的観点を持ち得るのだろうか、と私は思っていた。対等に、お互いが励まし合って変わっていくような言葉をみつけられるのだろうか?

 

盛可似は、そうしたインテリの態度とは違う視点を持っている。肉体として持っている。その肉体が、作家としての自己をも突き放して、庶民の荒波の中に飛び込ませる。そのうえで、知的な冷徹な肉眼が、ヒエラルキーを転倒してゆくようなエクリチュールの運動を波立たせているのではないかと、翻訳でも、思わされて来るのだった。