2011年5月11日水曜日

思想へ向けて

「ちょうどあさってにあたる1995年の5月8日、アメリカから「原子力平和使節団」が来日し、この官民米が一体となった「原子力平和利用の推進運動」によって、「原子力反対」の声はみるみる小さくなっていきます。/激しい核アレルギイーが、一転して、原子力平和利用万歳……という世論に、わずか1年でひっくり返ったことを、私たちはよくしっておかなければいけないとおもいます。いまの私たちには信じられませんが、興奮していると人間は思考機能が低下するのです。(だから私たちは最悪の時期に統一地方選挙をしたとおもいます)」(田口ランディ「いま、伝えたいこと」/「対立について考えてみよう」)


今朝の朝日新聞の1面によると、「今夏までに6基が定期検査に入る。再開できなければ国内の商用原子炉54基のうち、停止要請を受けた浜岡原発をはじめ42基が止まる事態になり得る。」とある。主体的に事をなしずらい日本人の性向からすれば、自然(自動)的に止まってしまったものを、こんどは危険恐怖を乗り切って判断し、主体的に動かしてみなくてはならなくなるので、世直し気運としては好都合な事態にみえる。しかし、なんら認識判断の後ろ盾もなく、惰性で動かない平常心は、それでは経済成長と雇用の確保を見込めないという生活上にかかわる主張には(新聞の論調はそういう方向であろう)、あっけなくまた反転してしまうかもしれない。ならば、そのとき、動じない態度を後ろ盾してくれるものとはなんだろうか? それは、原子力は安全か否か、放射能は危険か否か、そのエネルギーは経済上効率的か否か、といった、科学合理的な認識、つまり事実をめぐる言説ではないだろう、と私はおもう。そうではなくて、やはり、思想(立場・覚悟)としての言説になるだろう。この多くの先進国市民をパニックに陥れた原発事故がわれわれにつきつけているものとは、要は、人間は自然に対して、どう向き合うのか、ということである。いまわれわれが直面している事故が原子力発電所の事故という枠を超えて世界史的なのは、それが集約象徴させているような、人間が選択してきたテクノロジーの在り方、それに支えられた産業(世界)構造事態の是非が吟味されるようになってくる潜勢力をもっているからだろう。9.11がわれわれがよっている政治的次元の根底を明るみにひきだしてきた、とするなら、3.11はその次元事態が依拠している産業(存在)構造の次元を露呈させてきた、といえると思う。この9。11事件によって態度変更を迫られたという柄谷行人氏は、その著『世界史の構造』の前提として、人間と自然との関係はとりあえず捨象し、人間と人間との関係を重視した、結局は後者の関係が搾取的であるところでは、前者の関係もそうであるがゆえに、と。しかし直面している事態は、人間も土も海も、自然にとっては平等であるという現実である。いま前線で命がけで事故処理に立ち向かっている者らが搾取的な関係であるという現実以上に、われわれを揺り動かしているのは、自然(原子)と、自然まがいのもの(放射能物質)との境界紛争である。しかしそれは、どの放射能数値までが安全か否か、といった科学的合理性が争われているのではない。その境界紛争自体の存在の露呈が、問題とされているのである。つまり、この戦争の程度ではない、この戦争自体がこりごりなのだ。それゆえ、自然との関係を問い直すことが、人間と人間との関係をし直してくる、という態度転換を、思想的には要請してくるだろう。


そうしたなかで、一人屹立した思想家として、原発事故現場前まで出向き現在も20キロ地点まえで篭城基地を作って事故責任追及闘争を開始している副島隆彦氏がいるだろう。私は、リーマンショックを当てたという氏の今回の現実認識は、当っているとはおもわない。たしかに、アメリカとの植民地的従属利権構造は存続しているだろう。しかし宮台真司氏がビエオ・ニュースで発言していたように、日本国内の勢力において、アメリカと結託しながらも核武装を本気で志向している政治勢力が現在いるともおもわれず、技術的には核爆弾製造が可能であっても、一度は核実験をしなくてはならない、日本のどこで? という物理的現実をクリアできない、しかも、IAEAという国際機関は、日本の核武装を監視するためにある、という環境の中で、いまや核武装などとは妄想にすぎない、ただ、そうかつて本気で志向した政治的動きに伴う利権の惰性構造だけが残り幅を利かせている……という見方のほうが、あたっているだろうとおもう。さらに、副島氏は、20キロ圏内がベルリンの壁のようにバリケード封鎖されて、そこに核廃棄物処理施設がアメリカからの圧力によって日米合作されるだろう、と予測する。私は、そんな人為的な操作よりも、東北人の身体思想という、自然の本然の方が強くて、うまくいかないだろう、と予測する。(それゆえなのか、日米連携で、モンゴルに核廃棄物処理施設を作れるよう模索する、という新聞記事がでている。)事故現場以外の放射能濃度が、人体に影響およぼすほどでもない安全な範囲なのだ、とする氏の認識については、私にはわからない。ただ氏が「重たい気分で書く掲示板」で提出している、若手研究家による資料、世界での核実験やチェルノブイリ事故による日本での放射能飛散数値グラフが、ネット上の他の研究者にも活用されて、そこにフクシマでの放射能拡散数値を重ね合わせたものなども提出されており、それをみれば、遠方からの飛散量と近傍からの飛散量では比べものにならない、と知れる。また氏の安全だとする認識の根拠とされるもうひとりの学者の論文にしても、素人的にはずいぶん突っ込みをいれられる代物であるようにおもう。私の知人のなかには、副島氏の意見に感化されて、タバコのほうが体にわるいのだ、放射能が危険だという騒ぎによってストレスが生じ暗示かけられ、ゆえに実際のガン発生率があがるとかの統計的操作がおこなわれるのだ、と説く。しかしチェルノブイリ事故後にも明らかにされていることに、たとえば現場責任者は、上のような理由によって国民に与えるストレスを防ぐという名目で真実を公表してこなかったのであり、今もってその判断に誤りはなったと公言している。しかしということは、何も知らない人びとはストレスなどもてようはずもなく、もちろん、胎児や子供、そしてなお生まれていなかった子供たちもが、わけのわからない症状に苦しんでいる現実があるのが真実なのだ。もちろん、放射能の知識などまったくなかったであろう、広島・長崎の人々が、放射能は恐い、などというストレスなど持ちようもなかった。だから、何もしらずに原爆後に親類の安否を気遣い広島に入ってきたのであり、そしてその人びとの間で、まず下痢に悩む症状がでたのだと、広島の医師は報告し、それがいま、福島の人たちの間でも出始めている、と指摘している。しかし、放射能と下痢との因果関係などはなお科学・医学的には証明できていないので、これは完全犯罪なのだ、と訴えている。こうした態度にあるのは、科学(真実)を超えた思想、この私が何を引き受け従っていくのか、という一貫性、筋である。そしてここの点において、副島氏の決意も、科学というよりは、その根拠を超えた態度としてあるのだということが了解される。ある意味実際には、われわれは放射能世界の中で、それを受け入れて生きていく他はもはやない、ともいえるからである。ならば、この恐怖と興奮に思考停止になって、ゆえにそれに乗じた権力に操られていていいのか、という一つの立場がでてくるのは当然である。業務上過失致死、等の刑事事件になんで東電はならず、その責任者は縄をかけられないのか、ならば裁判闘争をおこそう、という氏の実践は、まったく正当的、事件の大きさを前に人がまったく気付けなかった間隙を突いている。そして氏が、そのような鋭さを発揮維持できているのも、修験道を通した自然との関係を握持しているからかもしれない。


われわれが「思考停止」になっている間に都知事に選ばれた石原氏は、「原発というものを人間の技術で完全にコントロールできれば、どこへ造ったっていいし、私はそう思います。」(4/29朝日朝刊)と述べている。だから暗黙には、コントロールできない、と認め、しかも、そこには、地震や津波といった自然までもを人間がコントロールできるのか、といった根底的な問いまでもが孕まれている。ゆえに、最新式の設計だから大事故など起きないと、なお推進しようとしているロシアをはじめとした勢力も、実はこれまでの続行に懐疑的になっているだろう。石原氏は、安全なら東京に原発を、といったが、安全ならそんな留保も仮定も必要とせず、ましてや、なんでモンゴルにまで核のゴミをもっていこうと策略する必要があるのだ? また氏は、「化石燃料だけではこの一つの大きなプラネット、惑星の、しかも近代化されていった星の全体の経済、産業というものを維持するエネルギーというのは、あり得るんですかね。」ともいう。しかしわれわれが、欲望を追い求める太陽族ではなく、氏の説く「我欲」を捨てた、自然のなかで日をあびる日光浴族でもいいのであるなら、なにも近代的な生活を享楽するエネルギー量などそもそも必要としない、ということなのではないか? 石原氏は、いったいなに(どちら)を、のぞんでいるのであろうか?


このブログを書いている途中、女房に誘われて、生活クラブの一グループのガーデン見学・リサイクル勉強・食事会、みたいなものに顔をだした。そこが、夫が一流企業に勤めている主婦たちのサークル活動と呼ばれているのは、まさにそのとおりなのだな、と確認する。そもそも、自然風とされるイングリッシュガーデンは、諸外国の珍しい草花の収集という趣味にあるので、それは大英帝国の植民地構造によっているのであり、それはその支配階層のロマン的な趣味であり、日本でもその趣味階層が受容する反復事象である。生活クラブは、今回の事故で、チェルノブイリ事故後にもうけた一次産品の放射能基準値を日本国家のそれに改めた。その改定処置理由は正当であると同時に、その運動思想がもつ限定枠であろう、と私はおもう。それを乗り越えようとする時、自らが暗黙にしたがっている階層制が問われてくる。彼女たちの旦那の話しとして、新聞なんかでは大きな声でいえないけれど、原発停止で電力が不足してくるので会社は大変な騒ぎになっていて、日本を捨てていくのだろう、と考えられている、と世間話する。つまり、そういう世界の人(夫)たちに支えられていた、(妻によって)罪滅ぼしされていた運動なのだろう、と見えてくる。一流企業がつぶれれば、終ってしまうのではないか? 既定の権力構造が、自然との直接的な係りを忌避しているのである。つまりそれはあくまで人民の中へ(下放)的なものというより、義援金(間接)的な支配関係の枠をでれない、のである。むかしのお嬢さんの集いのなかに、バブル後の預貯金を蓄ええない若い人たちがどれくらい入会しうる運動なのだろう? むしろわれわれは、小ぎれいな庭いじりではなく、誰彼の区別なく、自然として平等に、本当に野良作業しなくてはならないのかもしれない。東日本震災後の自粛されたテレビコマーシャルのなかで、さしさわりなく放映されているものは、「お早ううさぎ」、「こだまですか?」とともに、生活クラブのものであったようにおもう。この自然に直面した象徴的な大事故の最中で、人間と人間との搾取構造というカラクリ事態が、漏洩的に自壊してしまうのである。自然との関係を作り直さなくては、われわれは人間をも搾取できない、コントロールできない事態にさらされている、ということなのだ。権力操作か否か、ではなく、権力それ自体が作れるのか、ということなのだ。(放射能警戒区域からの立ち退きをいつまで命令できるだろうか?)――そしてその作り直しなくして、この困難を本当に、つまり思想的な意味で、克服する希望の道は切り開かれない、ということなのだ。

2011年5月7日土曜日

判断と決断、黙ると騒ぐ

「選手によるクラブ自治と無監督制の広がりに対して、早大を中心とした野球界の重鎮からは強い批判の声が上がる。例えば飛田穂洲は、「近頃学生野球を代表するところの東京六大学中に無監督制の声が高まっている」が、「コーチのある事によって学生自治の野球に支障を起すように考へているものがあればむしろ滑稽」と述べた。飛田は、「選手合宿の自治、その他の野球部行政等は学生の手に委ねる事が穏当」と選手自治の必要性を認めながらも、「野球練習とその精神教育だけはコーチによってなされ」なければならないとして、練習と選手の精神教育の面から監督の必要性を主張した。…(略)…監督は日本の野球のレベルが向上し、チームプレーや作戦の重要性が高まったことで、試合に勝つために導入されたものだった。しかし、監督が普及・定着し、同時に政府がスポーツを通じた思想善導を打ち出すなかで、監督の役割として選手の精神面の教育が強調されるようになってきたのだ。学生野球の弊害を防止するためには、選手の精神面の指導は欠かせないとOBたちは考えていたし、監督の多くは教員ではない以上、学業の点での教育はできないという現実的な理由もあっただろう。こうしたことを背景として、日本の学生野球は監督主導のもとで、選手の精神を鍛えることが非常に重視されるようになっていく。」(中村哲也著『学生野球憲章とはなにか 自治から見る日本野球史』 青弓社)


子供とドラえもんを見ていたら、テレビ画面上に、菅総理浜岡原発に停止要請、とテロップで緊急情報とやらが入る。これはなんだとパソコンを開き、ネット上でYahoo!ニュースをみてみる。要は、近い将来に強い地震や余震が想定されるなか、日本国民の安全性を考慮して判断した、しかし、現法規では停止する権限はない、と。この唐突に覗える判断呈示をみて、私は次ぎのように反応した。「これでは原発対処と同じで中途半端になるな。菅氏はもうそろそろ辞める、辞めることになる、と観念したのではないかな。だから、そのまえに、俺はいっただろ、注意しただろ、という事後的な優等生弁明をやって言い逃れるために、先回り的な口実を作ったのかな?」というものである。ネット上のほんの数行の記事だけからは、それが「決断(実践)」ではなく、単なる「判断(認識)」を示しているだけにしかみえなかったからである。本当に決断したならば、今の法規ではできないので、ゆえにこれから法を変えてでも停止するよう行政していく、という強い決意表明になるはずだからだ。この私の当初の反応は、今朝の会見映像をテレビニュースでみたあとでも、かわらない、どころか、どこか弱々しいその総理の様に、その感を強くした。しかし、昨夜段階では、中部電力の社長は、だからといって停止しない、と見解していたようなのに、今朝の新聞では、とりあえずその停止要請を受け入れるが、津波を想定した防波堤工事が完了するまでだ、と留保をつけた、とある。その社長の対応と、その様の会見映像をテレビでみると、この社長が事故後に倒れた現東電社長と違って、どこか土建屋あがりのかけひきを知っている実務的な手ごわい相手、にみえた。だから今後、行政の弱腰(足もと)をみて、産業界、官僚と手を組んで逆襲してくる可能性が高いな、いったん引いただけだろう、と私はおもう。そしてそれでも、結果として、中電に浜岡原発を止めさせる、という実践を果たそうとした総理の判断は勇断だと評価する。また、東電の賠償問題にしても、自民党、民主党の主流が、東電味方な方向で行政していこうとしているかにみえるなかで、枝野長官は「賠償に上限はない」と名言し、海江田経済相や、首相の補佐役も、こわごわと東電を牽制する発言をだしている、ところからみて、政治の動きから浮きはじめた官邸の主観をむしろ擁護していく姿勢でなくてはならないのだろう、と自然への畏怖(前近代)と、責任問題の追求(近代)という、二刀流を実践していかなくてならない、というスタンスの私は考える。チェルノブイリ後の旧ソ連のように、日本が国家としての独立的機能を喪失していくかもしれないなら、ぜひ菅総理には、ゴルバチョフのようになってもらいたい。ペレストロイカに対する、エネルギー転換の道筋を誘導した者として。そしてならば、それを後押しするのは、ベルリンの壁を崩した民衆の力いかん、となるわけだが……。


ゴールデンウィークに実家の群馬県にかえっておもったのは、東京は特別だ、ということである。呑気なもので、東京と同じ250kmの距離にあるというのに、地震も原発も対岸の火事で、気の毒だね、しょうがないね、の一言で何事もないように日々が過ぎていく感じだ。地元のテレビ局では、東電が賠償金を払うのに電気料金値上げする、とのニュースに、ゲストの美保純氏や中村うさぎ氏が、じゃあ節電じゃなくていっぱい電気を使ったほうが被災者に支援金がいくのかしら、節電でテレビゲームとかやめていたけれど、もっとばんばんやりまくるってことなのね、という話しがとおっていく。無知なところでは私(誰)でも頓珍漢な言動になるだろうから、他人のことを笑ってもいられない。ただ、こんなものなのだろう、と慨嘆する。もともと地方では、政治的なことをはなせる雰囲気ではない。上の世代でなら、共産党員かとおもわれるだろう。若い世代のあいだでは、どれもが他人事のニュースですぎていき、どう関心をもつのかさえもわからないという感じだろう。地方の大きいとされる書店でも、ベストセラーの書籍と週刊誌のたぐいしか置いていないのが実状なのだ。しかしならば、東京都民が知識や情報があって敏感だからか、ということなのではない、と私は実感した。そうではなくて、単に、都民は人口密度の高いところを行き交っているからなのだ。地方では、他人の世間話など聞こえないし、自分の話しが他人に聞かれることもない。が、都会では、いやでも他人の噂話が耳にはいる、自分の話しが他人にきかれ、きかせることができる。その距離の近さ、過密さが、ハイな状態をうみやすい。しかしまたそれも、ある意味ネット上の情報に触れている人たちの世界だけ、ともいえるわけで、福島県で避難の憂き目に入っている人のなかには、東京都民があまりに自分たちのことに無関心なので(「原発を東京に」と発言した者が知事に選択されるぐらいなのだ…)、これでは被曝した牛を連れておら東京さゆくだ、デモするだ、という声もあがるようなのである。そしてさらに、海外からみれば、地震と福島原発に怯える日本人民の姿は、エクゾチズムな関心のあり様であって、対岸の火事である。被害者数では、昨年のハイチ地震23万人の死亡とかとは比べものにはならないが、先進国でのできごと、しかもというかそれゆえに、ライブ映像がたくさん撮影されていた、という先端的事情が、エクゾチックな過剰な意味を発生させたようにみえる。ビンラディンの殺害に狂喜するようなアメリカ人の映像を、9.11がアルカイダの仕業だとおもっているのはアメリカ人だけだろう、と冷ややかにみているわれわれもまた、3.11では世界の人から同様な眼差しでみられているのかもしれない。……つまりここにあるのは、知識や情報の過多、そこでの客観的、科学的判断、ができるやいなや、といった実状なのではなく、むしろ関係的な構造が問題(焦点化)されるのである。むろん、その構造とが、人口(情報)の過密さによって変性されてくるのかもしれないとしても。たとえば、恋愛関係のなかにいるものは本気に狂喜していても、それを端から見るものの眼には、アホとしかみえない。ゆえに、都民(ネット上)で一喜一憂していても、そこにいない地方の人は、たとえネット上で都民と同じ情報を共有していようと、それを実際的に、路上の立ち聞き等によって実際的な感情を具体化しえないがゆえに、ハイな状況=関係とは無関係・無関心なままにとどまる、のである。


しかし、とりあえず今の段階では、脱原発のデモをやるといっても、一部の社会運動家のグループしか集まらない程度で、放射能をあびても、国民は黙って処している。そこには、構造(関係)的な問題だけではなく、より日本特殊的、歴史的な文脈があるのかもしれない。その「黙って処す」とは、「武士は食わねど高楊枝」と似て、東人、東国の武士からうまれた価値、つまり、東北現地の人たちがいまみせている態度の中にこそあるのかもしれない。その無意識的な、身体的な価値に抗って、もうひとつの近代的な認識、黙っていたら泣き寝入りにやられるだけな社会(国家)だから声をあげて責任追及せよ、と説くのは酷なことなのかもしれない。いや当人たちは総理に文句をいい、東電社長に土下座させ、黙っているわけではない。ただ分散させられている……都民が同じ日本人として立ち上がらないのも、近代以前の態度として、すべは他人事ですまして自らの世事にだけいそしむしか関心がなく、近代国家的な国民としての同一性を身体化しているわけではないからか? つまりわれわれもまた、東武士の倫理を肉化した権力イデオロギーの末裔として? 


冒頭で引用した著作を読むと、日本の野球観衆が、いわばフーリガンのようだったことがわかる。そのグランドになだれこんで乱闘をはじめる観衆をおさえていくために、野球を全体的に統括する連盟や学生憲章ができあがっていったようなのである。引用中にある飛田穂洲氏とは、「一球入魂」の言葉をつくった人として有名であるらしい。また歴史的にみても、米騒動や大逆事件くらいまでは、民衆が黙って処していたわけではないような印象をうける。それともこの印象も、実は学問的な世界での話しにすぎないのであって、やはり大勢は、他人のことには関心しない、自己防衛的な処世しかやろうとしない、黙ってすぎていく庶民だったのか?


しかしまたそれは、実は、日本だけの話しでもない。世界市民も、実はなおそうであろう、と私は認識する。その諦念に似た黙々さと、災害ユートピア的な相互扶助(身内連帯)性は、人類の自然災害の歴史、記憶にもない記憶によっているのだろう、と私はおもう。しかし、自然への畏怖と、権力への畏怖、とが、形式的に相同しているとしても、混同してしまうのはおかしい。そう知的に認識しているものは、たとえネット上の世界だけにしかならないとしても、私はもっともっと騒がなくてはならないのだろう、と現状認識する。いや現状はネット上だけではだめで、もっと外(おもて)に出て騒ぎ、弱腰の勇断を後押ししていく一人一人の力のより多くの結集が必要なのだ、と判断する。

2011年4月25日月曜日

政治危機と日常



「とはいえ、歴史における「公」は、決してすべてが事実として「幻想」であり、「欺瞞」であるとはいえない。たとえそれが支配者の狡知――「イデオロギー操作」――によって、自らをしばる軛になったとしても、支配者をして否応なしに「公」の形をとらざるをえなくさせた力は、やはり、社会の深部、人民生活そのものの中に生き、そこからわきでてきた力といわなくてはならない。そしてそれは、原始・太古の人民の本源的な「自由」に深い根をもっている、と私は考える。それだけではない。同じ「公」でも、「公界」が決して「公権力」にならなかったことを考えてみなくてはならない。さきに「無縁」「公界」「楽」が、この「自由」の、人民による自覚的・意識的表現といったのは、その意味からで、そこには、天皇の影もないのである。」(網野善彦著 『〔増補〕無縁・公界・楽』 平凡社)


環境エネルギー政策研究所の飯田氏は、原発というエネルギー政策をやめられないのは、経済的・技術的な理由によるのではなく、結局は政治的な次元によるのだと発言している(4/18、ISEPでの第一回目Ust-channel)。それは大企業から官僚、政治家をまきこんだ利権構造体制による、ということのようだが、そういう範疇にとどまるだけのものではないのかもしれない。これまで長らく脱原発運動を展開してきた学者の間では、積み重ねた論理的反駁がなぜか最後にブラックボックスに行き着き逆転し、結局は議論過程とは関係なく原発容認の結論がだされてくることに不思議さを覚え、おそらく、日本を核武装させたい政治勢力があるのではないか、と推論せざるをえない、という意見もあるようだ。実際、原発導入のシナリオには、読売体制を作った元内務省の正力氏の日本国民誘導の思惑があったというNHKの特集番組にもあるし(pacecontinua参照)、副島隆彦氏は、それをアメリカへの属国論的現実として、一貫して主張している。また、4/16日づけの田中宇氏の国際ニュース分析にも、3/11後の福島原発事故をめぐるアメリカの原子力規制委員会の動きが、9.11以後にアメリカ政府がとった世論誘導の政策と類似している、という指摘がある。私も、ふとこの恐怖をあおられている感じは、とその反復類似性を先のブログで言ったわけだ。


佐藤優氏は、自分は菅氏にずっと批判的であったけれど、ここで総理交代とかの政治的空白をつくると、チェルノブイリ事故にもちこたえられず崩壊した旧ソ連のようになってしまうから、いまの体制を支持する、と意見をのべている(『Sapio』)。私としては、本当に菅総理の現状指揮で、原発事故を収束出来るのかが疑問におもえてきているので、佐藤氏の立つ前提がいいのかどうかわからない。ISEPの飯田氏が、国際的な支援体制のもとで、創造的な事故処理方法を模索していかないと乗り越えていかれないのではないか、と危機感を表明しているが、私にもそうみえる。菅総理はほぼ処置法の実践決断を、なお東電に任せているようにおもえるが、その東電がやろうとしているのは、いわば復旧作業である。1号機は、アメリカが意見していた水棺に事実上なってきているので、そうする、ということらしいが、それでもその水を循環させ、冷却するにはどうしたらいいか、とのアイデアは、朝日新聞で泡のように出てきては消えていくその様をみていると、世論向けのパフォーマンスで情報を垂れ流してみせているだけであって、なお真剣に考えられているようにはみえない。つまり、もっと近接したところでどうするか、考えているようにはみえない。そもそも、修理などできないかもしれない、などとは素人(総理大臣)でも思われてくるのだから、そのときはどうするのか、と二刀流でやっていくのが当たり前の考えなのではないか、と思うのだが。そもそも、労働力がたりない。私はもう一度、自衛隊や消防の支援を考慮にした、復旧処理ゆきづまりの場合に備えた、国際的な支援体制を、東電任せとは別に官邸が作っていかなくてはいけないのではないか、と思ってしまうのだが。そういう素振りもみせない菅総理の呑気さで、本当にこの危機を乗り越えられるのか、と私は疑ってしまうのである。


要するに今の体制とは、名もなき社会の底辺層の労働者に、いやなことをすべて押し付けて、そのことを国民も知らず、あるいは知っていても知らぬふりをしていく差別体制ということである。国家を守るために、これから発病して死んでゆくのは、特殊部隊員や自衛隊員や消防隊員ではなく、路上で寝ているような日雇い労務者なのである。しかもなんと、彼らはいま、ニュースで報道されているような免震塔やJヴィレッジで休んでいるのではなく、現場から1.6kmぐらいはなれただけの、詰め所で待機しているのだという( 〔翻訳〕現場作業員はどんなひとたちか? )。あの旧ソ連でさえ、いちおうは、導入した労働者を集団で団地に住まわせ、健康状況を見ようとしたわけだろう。すぐに国家が崩壊し支援体制がなくなってしまったとはいえ。あるいは、囚人とかを使っていた、という闇の部分があるとしても。しかしこの日本体制はなんなのか? まるきり、平常体制ではないか? 多くのわれわれが彼らを無視しながら歩道を通り過ぎてゆく、その日常さながらではないか? この危機(チャンス)にあって、総理大臣いか、何も変えようとしないのか? この、日常を?


昨日、かつての運動仲間に誘われて、反原発のデモ行進に参加してきた。長池評議会の旗のもとに、とかいわれていたのだが、松葉杖の私はでおくれて、ふと気付くと、おそらく「のじれん」の旗の下で行進をしていた。「われわれの仲間を殺すな!」「われわれは英雄ではないぞ!」……もっともな叫び声だ。この臭いものには蓋をする、サイテーな日常生活こそを、われわれは変えていく必要があるのだ。

2011年4月20日水曜日

今後への条件――連帯と堕落


「Without the recent earthquake, Japan would no doubt have continued its hollow struggle for great power status, but such a dream is now unthinkable and should be abandoned. 」(柄谷行人著<How Catastrophe Heralds a New Japan >)


4/16(土)の朝日新聞夕刊に、「防護服の投棄相次ぐ」という見出し記事がでている。原発事故現場から半径20キロ圏外に出たところの国道沿いに、原発構内で働く作業員の着るものと同じものが、マスクなどと一緒に散乱してあるのだそうだ。「原発作業員が道路に投げ捨てることはあり得ない」と東電関係者は言っているが、地元では普通ゴミ扱いするわけにもいかないから、東電にもっていってもらっているという。私はこの記事を読んで、脱走者がでているのだと予測する。そしてそこから、現場はだいぶ壮絶なのだろうと考える。


<原発内はとても熱く、湿度は80%ほどもあるんです。15分もいれば汗が吹き出てくる。顔全体を覆うマスクをすると息と熱で雲って前がよく見えない。でもガス切断機でパイプを切ったり溶接したりするので、マスクが曇ったら仕事になりません。だからみんなマスクをはずして作業していました。><それに、手袋を何重にもしていましたが、ビスを抜くといった細かい作業が、それでできるわけがない。手袋を外して、素手でやってました。>(『週刊現代』4/30号)


普段でさえ、上のようなのである、のは、下っ端の土方労働者でも想像がつく。これから梅雨にはいったら、どうなるのだろうか? 学者はまるで他人事のように、建屋の外に外部電源と冷却装置を設置するとかその設計を提出し、なんで早くしないんだ、とか、菅総理みたいなことをいい、管理者もまるで他人事のように工程表なるものを発表している。旧ソ連は、チェルノブイリでの一基の原子炉暴走を防ぐのに、60万以上の労働者を投入したわけだが、現在福島原発にいるのは2千名ほどだそうで、これで四基もの原子炉封じ込め作業ができるのか、素人目でも、その違いから疑問をもつ。そして国家も、会社管理側も、いま以上の支援体制を組みえないがゆえに、作業員のモチベーションは恐怖と不気味さと労働の過酷さに負けて、さらなら員数の流出を引き起こしているのである。旧ソ連は、死の恐怖を乗り越えさせるのに、ナショナリズムを導引し、国家的英雄として勲章したようだ。日本はそれすらできず、あるいはおそらくすでにその時期を失い、現場に残された労働者は、ますます孤立し、国民大衆からも関心されなくなり見殺しにされかねない状況に陥るところにいる、と私には思える。


私としては、現場労働者に訴えたい、身体的にやばいとおもったら、即刻働くのをやめてボイコットしよう、末端の自分たちが、日本だの世界だのの尻拭いをやりつづける必要はない、その結果、日本が吹き飛び、世界が汚染されようと、それでいいのだ、というのが人間の倫理だ。そういう結果になる責任をおまえがとれるのか、とか管理側は言ってきそうだが、俺たちのしでかしたことの責任をとるのがおまえたちの仕事だろ、とつっぱねればいいのである。一般的にも、おそらくもはやナショナリズムで死を克服することが不可能となりつつある世界構造のなかでは、現場という局所的なところでモチベーションを啓発していかなくてはならないだろう。それには、背水の陣でのぞむしかないだろう。


私は、前のブログで、保安員がふと再臨界的爆発はない、ともらしてしまったのではないか、と書いたが、『週刊現代』の記事にも、こう保安員の言葉が紹介されている。……<まあ、『週刊現代』が何度も書いている「再臨界」は、たぶんないでしょう。原子炉には核分裂を抑制する制御棒が挿入されているからです。私の周囲にも再臨界を心配する声はあまりない。でも、「その次の最悪」を防げる保証はどこにもありません。建屋ではなく格納容器そのものが水素爆発で壊れ、放射能物資が広範囲に撒き散らされる――。そのシナリオは、まったく消えていません。>


素人の目では……現場所長が時期早々と判断した窒素注入を、アメリカ側の指示屈従によって強行したわけだが、新聞では、2.5気圧まで高めたいものが、2気圧程度以上にあがらず、おそらくどこかから洩れているのだろう、と報道された。そして、その作業を続行中、ともう何日もたっている……つまり、これは、命がけでおそらくボンペの管を注入したその管を、抜けなくなってしまったのではないか? 先のブログでも現場所長がその方策を嫌悪した理由にもあるとおり、そのままただ抜くと、その隙に空気が中にはりこむ循環構造が発生し、なおさら水素爆発の危険が高まるから、と。引くにも引けない作業に陥ってしまったのではないか? 2号機と3号機にも窒素入れるとかいっていたのに、その予定はどうなっているのか? という見通しは発表されていないようだが……。


相撲界の八百長問題を告発した『週刊現代』は、勢いにのっているのかもしれない。義援金の配分に関しても、国家が介入したことによる顛末への疑義を表明している。私も、帰国子女の宇多田ヒカル氏と同じく、NHKでの総務大臣の発言にピンときたものである。そして案の定、みなの義援金が、福島原発事故という、あきらかな人災(避難民)への手当てにも使われている。ならば、それと同額を、国や東電が支払うべきであるのに。どさくさにまぎれて、ひとの金を流用してお茶を濁しているのだ。


私は、世界へ向けての連帯、と言った。しかし、東電(日本)が、放射能汚染水を海に流したことは、致命的(村八分)なことになるのではないか、と危惧する。海に流すことは、国際法的にも規定されていない、ゆえに韓国の新聞などでは、「法の抜け穴」を使った、と非難している。日本がやったことは、裏社会でしかやってはいけないことを、堂々と表社会でやってしまったということなのだ。これは、俺たちは法を犯す、と堂々と開戦したアメリカの仕出かしたことよりも、人間関係的にはひどいことである。法は犯さないように悪いことをやるのは、まさに裏社会の人間である。しかし、裏社会では、その悪事は秘密にされる。日本は、事後的にばらしてしまった。これは、世界(他者・人間)関係に無頓着な、白痴(ばか)まるだしの失態である。中部大の武田氏も、他人を汚してはいけない、それなら穴を掘って、本土を汚さなくてはならないのだ、と発言しているが、そのとおりである。われわれはここまで、日本中枢にいるお白痴の面倒を見ていなければならないのだろうか?


各新聞の世論調査では、やっぱり原発でもいいんじゃないの? というような結果がでているようだ。私はそれが、情報操作によるとはおもわない。しかしそのうち、いやでもそんな呑気な意識惰性は一掃される、そうしたより根底からのどん詰まりが、われわれの前に見えてくるがゆえに。安吾ふうにいえば、まだわれわれは、「堕落」がたりないのだ。


*原発問題の背景を概括するのに、以下のホームページがいいと思います。<Pace Continua





2011年4月15日金曜日

世界へ向けての連帯


「……政権にとって、市民意識の高揚や怖れを知らぬ勇気、(恐怖に動かされる闇雲な愛国心とは正反対の)世界との一体感ほど危険なものはない。」(『暗闇のなかの希望』 レベッカ・ソルニット著 井上利男訳 七つの森書館)

「この普遍性への形式的関心は、突き詰めると、ひとつの倫理的態度を要請する。それは、すべての判断の前提として、あらゆる他者――再帰的に捉えられた自己もふくめて――は、普遍性に通じているということを推定することだ。普遍主義の暴力は、他者を個別主義者のカテゴリーに追い込んでしまうところに、その源泉があるからである。メタ普遍主義は、それに抗して、他者が潜在的に普遍主義者であることを推論の起点に置く。そうすることで、私たちは、ポジティブな合意をコミュニケーションの条件とする発想を解除される。またコミュニケーションに入る資格があるのかどうかを延々と問い詰める態度からも切断される。必要なことはただ、現にみずからもそのうちにあるコミュニケーションを通じて、そこに生じていることをよく観察し、自己と他者とのあいだで共有されているであろう規範へたえず立ち返る(フィードバックする)ことに尽きる。」(『現代帝国論 人類史の中のグローバリゼーション』山下範久著 日本放送出版会)


日本サッカー協会は、招待されていた南米選手権への出場をいったんはこの災害対策のために辞退を申し出たが、南米連盟からの再考の促しに、欧州クラブで活躍している日本人選手を招集できたら、等の条件付で出場を表明しなおした。私には、この協会幹部の煮え切らない態度は、当初東電に処理判断を一任し、諸外国からの緊急な救援への申し出も遅滞させていた菅総理をはじめたとした官邸中枢と同じような体たらくにみえる。勝ち負けや、うまくいくかどうかなど、杞憂する必要はないのだ。もっと他者を信頼し、任せていけばいいのである。端的に、日本代表は参加を意志すればいい。重要なのは、世界に存在していること、自分たちもその一員であること、その連帯を受け入れ表明してみせることである。主力メンバーがそろわず、悲惨な負け方をしても、誰も、どんな他者も、それをおとしめることはしないだろう。島国的な日本人には、この感覚はわかりにくいのかもしれない。またそうした他者の間で、判断不能に陥ってしまうかもしれない。しかしならば、自身の白痴(ばか)を自覚したうえで、他者に身を任せてみること、それが他者が共存する世界に参加し連帯しうる最初の一歩(信頼)なのである。むろん、この自覚というところに、用心や観察といったことも含まれてはくる。しかし、その歩みがなかったならば、どんな世界体験も得られないのである。ワールドカップで優勝をめざすのなら、この危機にあっての出場は、そのサッカーの土俵たる世界自体を知りうるための、貴重な根底的な経験になるだろう。私が自身のHP上で連載している『境界霊』で呈示しているのもそのことだ。国際的な暴力団が跋扈する新宿の歌舞伎町世界で、フランス人の女店主とペルー人の店長と店の保証をする日本人が、どうやって、客の中東や南米からの男女たちをあいてに自分たちのレントラン&バーを経営していくのか、そのときの保証人たる日本人の態度模索のことが例示されているのだ。私には、判断不能だった。自分が何に巻き込まれているのかもわからない。しかしジタバタ疑心暗鬼に引きこもるのではなく、自分がバカな日本人だと自覚することで、ひとつひとつ学んでいこうと、彼らを信頼することにしたのである。そのことで彼らもまた信頼し、情報を共有することになる。その世界はある意味、ヤクザの「仁」の世界に通じている。フランス人も、ペルー人も、コロンビアの女たちも、イランの男たちも、そしてヤクザの下っ端の者たちも……彼ら(世界)が属していても嫌うものは、上っ面に流されていく者、そこで展開されていく社会である。金のために働きながらも、金を嫌悪しているのだ。金に流されていくもの、そうみられたものは内心の人間関係から村八分的になる。日本の田舎のじいさん、ばあさんほど国際的なのではないかと訪れていた外国人が感慨をもったのは、そういうことだ。自己卑下することなく、世界に参加し、自らが連帯を表明すればいいのである。


しかしそのことは、上っ面の、金の流れのような虚構世界を泳いでいくことを態度の是とした者たちへの疑義を持ち続けることを要請してくる。つまり世界へ参加することには、そういう意味での、抵抗が孕まれてくるのだ。


福島第一原発の現状で、水素爆発はあるのか?……NHKテレビで「最悪のシナリオ」が呈示された翌日に、その可能性の方のことがむしろアピールされてきたことに、私は疑いをもった。答えを言ってしまったら、情報操作にならないからである。むしろ、だから本当は、爆発はない、と判断しているのではないか?……塩素38が検出されたことを受けての再臨界可能性大のアメリカ人学者論文のアメリカでの新聞記事のネット上での流出→海への放射能汚染水の放出→二つの最悪のシナリオ呈示→窒素注入するとの報道→水素爆発の可能性があるからとの報道……これら大本営発表は、明確な因果関係を示して呈示されたわけではなく、単に一連のこととして出されてきたのである。それを視聴者側が勝手に、ならば爆発の危険が大きいのか、と物語を作ってしまうということなのである。だからこの責任(因果)主体を逃れた情報操作が意図してくるものとは、日本人民の恐怖をあおっている、ということである。ならばこれは、テロがある、と9.11以後のアメリカ政府中枢の態度(誘導)と似ている、ということになる。


昨日発売された週刊文春によると、次のようなやりとりが、東京の東電にある統合本部と、現地の対策本部との間であったとされる。「(現場所長)こちらにがんばれ、がんばれと言うが、そういう、長期的なことは、そっちでちゃんと考えて欲しい」「確かに、窒素注入の重要性は分かる。将来的にもすべきだと思う。しかし、それは今じゃない。」……文春記者の説明によると、やっと現場労働者の努力で原子炉をコントロールできる見通しができたのに、それをテレビ会議室の隣に陣取ったアメリカからの要員の突然の横やりによって台無しにされかねないと。「もし、格納容器に損傷があったらどうする? 窒素を高めに注入したら、蒸気が凝縮して水滴ができ、陰圧になると格納容器内に空気が入る仕組みが働き、爆発条件が満たされる――つまり、それこそ水素爆発の危険性が発生する。そんなリスクは冒せない!」「それでも窒素封入をやれと言うのなら、オレたちは、この免震棟から一歩も出ない! ここで見ている!」……東京からの幹部派遣・説得により、窒素注入が開始され、この海江田大臣を含めたテレビ会議に、アメリカ政府(要員)は参加させてくれと申し出ているという。

この福島原発事故の最中で、その原子炉が欠陥品でありゆえに停止せよとすでに1976年の時点で抗議退職した、そのアメリカ人設計者本人へのインタビューを記事にしたのは、おそらく毎日新聞の3・30(水)の夕刊が最初だろう。次の週だったか、「週刊現代」がその設計者へのインタビューを特集し、ようやくという間隔で、朝日新聞が朝刊で言及する。この事故の一番の原因がここにあり、ここから発する世界の利権構造の惰性にあるのは明白である。こういう観点から、始めから現状批判を展開していたのは副島隆彦氏である。現場に乗り込んだ氏は、みなが放射能と原発の爆発可能性に怯えているなか、避難した福島県民は子供もつれてもどってきなさい、もうだいじょうぶです、といい続けた。私は氏の態度を思想家としては理解できても、どう認識的・実践的に受けとめていいのかわからなかった。しかし同じく昨日アナウンスされた氏の解析と、文春での以上の記事との符号から、氏の意見が単に思想家的な覚悟によるものだけというのではなく、その前提となる認識も、あたっているのではないか? とおもうようになった。つまり、もう再臨界的な事故は収束している。にもかかわらず、われわれはアメリカ側から遠巻きに操作されており、恐怖をあおられ、そしてなお日本政府とその利権構造は、被植民地的な忠実さを発揮している……。


NHKをはじめとした、メジャーなメディアの信頼性が失墜し、傍系におかれていたネットを中心にした知識人たちの意見がヘゲモニーをとりつつあるかにみえるその言論状況の中で、塩素38の検出は再臨界を意味するとのアメリカの学者の意見がアメリカの新聞に報道されたことから、最近の流れがでてきている。東電も1号機での急激な温度上昇を発表し、理由はわからないが、計器が壊れている可能性もある、との報道を受けて、videoニュースで神保氏と宮台氏が対談し、小康状態ではなく、やはり再臨界へと悪化しているのではないか、という方向で言論が組織されていったわけだ。が、ということは、こうしたインテリと知的大衆の世界をはめるために、もしかしてその計器が壊れているかもしれないという数値は、公表されたものとしてははじめてのでっちあげ、なのではないか?(おそらく、第三者にそそのかされた……)


そう推論しはじめていたところで、先ほど、ジャーナリストの岩上安身氏の、昨日4/14午後6時からの保安員の会見での質疑応答のビデオをみた。その中で、岩上氏の突っ込みに、あの眼鏡の保安員は、塩素38の件はいま再調査中であり、再臨界は起きない、圧力容器に穴があいているような損傷はない、その前提で対策を練っている、と最後にもらすように自身の見解をのべた。勘ぐるに、保安員は、東電とアメリカ要員とのやりとりを傍観的にきいてしまう立場にいるので、彼らの思惑のことなど思いもつかず、図らずも大切な真実を述べてしまったのだ、と。つまり、もう爆発はない、ということだ。


しかし、大規模広範にわたる爆発は原理上おきなくなったといっても、現場でのなんらかの爆発的事故はおこりうる。それは、従業員のボイコット反乱がおきれば、ということだ。アメリカは、恐怖をあおればいいわけで(3.11以後の日本国民を操作しやすくするために)、なおさらコントロールできない現実の事態が発生することは、株価や為替の操作、もっとおおきな利権構造を動かし、自身の責任を隠蔽するためにも、のぞむところではないだろう。だから、従業員の反乱が強くなれば、懐柔策にでるはずだ。おそらく、そのために、テレビ会議に参加したいのだ。そして言うのかもしれない。労働条件の改善と、君たちの将来と、家族の保証はみる。だから俺たちのいうとおり動いてくれ、と。そんなちっぱけな金より、もっと大きな見返りをたくらんで。


歌舞伎町で店を開いたフランス人の店主も、ペルー人の店長も、暴力団からの誘い、金を受け取ることはぜったいにしなかった。そういうものたちを、軽蔑していたからである。この本当の感覚にこそ、世界への連帯があるのである。


* 追記の注)――私の物言いは誤解されるとおもうのでその点をひとこと。たとえば、塩素38の検出から再臨界可能性の論文を書いたアメリカ人学者個人が、意図的に日本人をはめる、とかいうことではない。それは、個々の日本人がアメリカに意図的にはめられるのではない、というのと同じである。しかし、そこに歴史構造的な支配ー服従関係があるのは明白的である。個々の事象がバラバラでも、意識しないがそうなってしまう複雑な関係構造の大きな流れのなかにわれわれがいる、ということだ。そしてその流れのなかで、それを利用しながら、意識的に操作しようとする権力というひとつの強力な関係項目がある、ということだ。そして先のブログの結末を敷衍していえば、たとえ9.11後のような権力操作があったとしても、3.11がその時のように短・中期的にも成功してしまう、ということは難しいだろう、つまり、なお庶民の本然、歴史の流れに抗う自然的な力が相当ふんばるだろう、と現在もおもっている。われわれはこのような自然との対峙を、何万年とつづけている、そのことから構築された我々の身体価値があるのだ、と私は思うゆえである。

2011年4月11日月曜日

復興ではなく世作りを


「安政二年(一八五五)一〇月の安政大地震直後に江戸市中に出まわった地震鯰絵については、これまでも多くの研究の蓄積がある。鯰絵のモチーフは多様であるが、それらの詞書と構図から、民族文化の本質を読みとることは可能である。たとえば大地震を「世直し」または「世直り」と表現することは、大地震によって新しい世界がもたらされるというテーマを提示していることになる。」(『歴史と民俗のあいだ』宮田登著 吉川弘文館)


NHKを筆頭とした大本営発表の手順(情報操作)からみれば、次は「水素爆発」という事態が確率として高いのだろう、と述べたのが前回プログ。するとほんとうに、翌日からは、「長期的」という事態予測のことは後景に退いて、「水素爆発」の危険を回避するための作業、ということがアナウンスされるようになった。中部大学の武田氏によれば、爆発には、「水蒸気爆発」、「水素爆発」、「核爆発」とあるそうだなのだが、建屋が吹っ飛んだのは「水素爆発」と呼ばれているけれど、むしろ水素が外界の空気と触れて発生した「水蒸気爆発」に近いのではないかと私は考える。というのは、現在の、格納容器への窒素注入が「水素爆発」を防ぐため、とされているのなら、そのような爆発がすでに一度起きているのなら、格納容器が破損をしているのではないか、とは推論ではなく、自明的な前提になってこようものだからだ。そして、もし「水素爆発」が起きるのなら、次の「核爆発」とは「ホウ素」など注入する暇もなく、連鎖的におきるものなのではないか、なにせすぐ隣接したところで「水素爆発」がおきるのだから、と素人目にはおもえる。窒素注入さえ、アメリカから進言されて数日たってから、といわれている。順調作業と報道されているが、これまでの成り行きからすると、すでに手遅れな作業と予測しておいたほうがいいということになるのだが…。最悪事態を想定してこなかった日本の手には負えず、すでに前頭指揮はその想定処理をしていたフランスとアメリカにわたっているだろうとの指摘もある。


朝日新聞の4/9夕刊では、「線量超過でも原発で労働を」と見出しされて、「事故復旧での作業員の被曝線量の上限は250ミリシーベルトだが、累計100ミリシーベルト以上になった人は、法令上は今回の復旧作業開始から5年間は原発で作業できないとの解釈がされている。現時点で100ミリシーベルトを超えた作業員は21人」、「今、作業しているのはプロ中のプロ。今後、彼らが原発の仕事に就けなくなるのは損失。規則を変えるべきだ(東芝担当)」。「上限を超えたら失業してしまう不安が作業員にはある。1人の被爆線量が上がりすぎないよう、人手を多く確保するため国も後押ししてほしい(電力総連幹部)」――との記事。下っ端労働者として、私はなんと都合のよい管理者意見だろう! とおもう。すでに実際には線量超過で死ぬかもしれないのだし、本人も死ぬまでやると覚悟しているだろう、ならば経営者や国は、将来も仕事を続けさせるためになどと馬鹿なことをいっていないで、命をかけて国民を守ろうとしている労働者が、仕事不能になり死んでからも、その家族の面倒をみてやることを法的に保障してやるべきである。前線の作業は、おそらく交代要員もいないくらいの知的・神経作業なのだろうと予測する。変わってくれる人員が育てられていない、自分たちしかいない、と内心悲鳴している彼らの覚悟は悲痛なのではないだろうか?


そして官邸は、もはやその現実を直視する忍耐ができなくなったように、単なる復旧ではなく、大きな夢をもった復興政策を、とか呑気に言うことに政策比重が移ってきている。電気屋幹部と原発推進派官僚をつれて、安全だという神話技術を海外にまで売り込みに出向いた総理大臣自らが音頭をとって。こんな常識はずれな都合のよい態度はない。まるで認知症である。目をあけていられなくなって目を覆い、夢をみさせてくれ、という。郷愁ではなく、未来への夢を、自然エネルギーを! ……恥ずかしくないのだろうか? しかし、選挙「革命」に失望した国民が、その旧体制を固めてきた過去の亡霊をよみがえらせようとしているのかもしれない。この震災は「天罰」だから「我欲を捨てろ」と説く旧知事が新知事としてよみがえる。いったん死んだゾンビが、どんな猛威をふるおうとするのか?


<ブッシュ政権にとって、市民意識の高揚や怖れを知らぬ勇気、(恐怖に動かされる闇雲な愛国心とは正反対の)世界との一体感ほどに危険なものはない。まるであの瞬間がはらんでいた未曾有の可能性を認識していたかのように、それを抑えるためなら、なりふりかまわず手を尽くしたかに見える。彼らは9.11事件を国の内外で攻撃を仕掛ける口実に利用したが、それは不可避のなりゆきでも、正統性のある対応でもなかった。9.11を言いたてるのは、じっさいのところ、おおむね帝国的拡大と国内抑圧という既定路線を実行に移す言いわけだった。ブッシュ一世は、冷戦の終結がわたしたちに与えた好機を無視し、その子息は、この新たな緊急事態が呈示した誘惑のうちの最悪の果実を摘み取った。9.11は起らなかったらよかった。けど、あの誕生寸前まできていた反応のほうは、育ってほしかった。>(『暗闇のなかの希望』レベッカ・ソルニット著 井上利男訳 七つ森書館)


3.11が9.11と違うのは、ヴィンラディンが敵だ、フセインが敵だ、との仮想的が仮構できず、自らの、つまり自陣の権力構造自体が露呈してしまっていることである。だから逆に言えば、敵にしずらい。それは自己改革になることが目に見えているからである。この大震災の一ヶ月前ほど、文芸批評家の柄谷氏は上引用した著者の『災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房)を書評している。災害時に立ち上がるのは強奪や暴漢などの無法状態だといのは権力側の通念(情報操作)で、実際には「相互扶助」的なユートピア社会なのだと説く本書を。われわれは、その話しが本当であることを目の当たりにしている。9.11では、このユートピア的可能性は逆用されつぶされた。3.11では、自分自身が敵になるという難しさはあるけれども、この目の当たりにしている現実を無視した、無闇な権力操作はやりづらいだろう。つまりあくまで、なお主導権は、庶民の本然が握っているのであって、政治家や財界人の「我欲」にあるのではないだろう。


私は、そのための青写真として、世の中の体制自体を作り直していくための骨格として、環境エネルギー政策研究所の飯田氏の提言を支持する。

2011年4月6日水曜日

一体のなかの分断、分断のなかの一体


「明らかにフィリピン南部のミンダナオ諸島の神話の巨人と、黒潮の北限にあたる鹿島大伸とが、鯰・竜蛇という同工異曲のモチーフを伴っていることに気づかされる。これはまた伊勢神宮の心の御柱の地底に竜神が祀られているという伝説との共通性も示唆している。鹿島大伸が用いる要石は、大きな柱の先端部であり、その柱は、地底奥深く突きささっている故に大地は安定している。時折それが大鯰によって揺るがされるという太平洋沿岸部の伝承に対し、黒潮が対馬海流となっている五島列島、対馬海峡そして北九州の日本海に面した地帯では、先述した福岡・佐賀の淀姫神社の伝説があって、そのモチーフは熊本や香川の方にも及んでいる。大魚による天下異変の予兆がうたわれており、これは海の彼方からの特別なシグナルをよみとろうとした想像力として共通しているといえるだろう。」(宮田登著『歴史と民俗のあいだ 海と都市の視点から』 吉川弘文館)


おくればせながら、いわゆる「最悪の事態(シナリオ)」なる討論をネット上のvideonewsマル激トーク・オン・ディマンドで聞き終えたのが昨夜。自分がほぼ大本営発表から認識したようなことが、しっかりしたインテリの口からきかされてみると、絶望的な気持ちになってきた。そして今朝、おそらくNHKではじめて「最悪のシナリオ」として、もう一度水素爆発が起きる可能性があること、長期的に放射能漏れと拡散がつづくこと、という2点が提示された。汚染された水を海に突然流したのが一昨日。そこから勘ぐれるのは、現場で何か緊急の事態が現実的に予想されてきたということ、ということはつまり、大本営が発表した「最悪のシナリオ」のうち、長期的(だらだらやる)というものはすでに現状路線だったわけだから、もうひとつの「水素爆発」という事態がより高い可能性としてみえてきた、ということを意味するのではないかと私は考える。ゆえに、まえもって発表しておくという段取りをつけて口実をつくったのだろう。


今日私が書いてみようと思ったのは、しかしそういうことではない。上のネット・トーク放送で、社会学者の宮台真司氏が、東京も放射能のホットスポットに当ってしまうことも想定されるのだから、政治機能を関西にうつすということも現政権で考えているのか、と発言したような、世俗レベルでの成り行きについて、である。私の言い方で言い直すならば、文学的な想像力の発揮である。私はこの大災害をめぐる当初のブログでも、日本が冷戦時代のドイツや朝鮮事情のように、国家が東西に分断される事態(文脈)もでてくるのでないか、と指摘(想像)した。これは、現実離れした空想だろうか?


<水俣病の原因企業チッソ(本社・東京)は31日、子会社JNCに液晶生産などすべての営利事業を譲渡する。分社化で4月1日から水俣病被害者への補償や公的債務返済の義務に特化した会社として存続する。…(略)…国策を担った企業による大きな環境汚染。チッソ分社化に詳しい除本理史・東京経済大教授は、東日本大震災による原発事故の補償が水俣病と似た道をたどることを懸念する。>(毎日新聞・3月末頃、朝刊か夕刊か忘却)


長期的な放射能汚染が現実化したこんどの災害では、被害者は東日本全域におよぶ。チェルノブイリ事故対処では、30人の特殊部隊隊員が死に、投企された80万とされる労働者のうち何人が被爆で致命的な傷を負ったのかはしらないが、そうした決断を回避した日本政府は、死ぬことを職業とした人たちにではなく、あるいはその人たちへのやさしさからなのか、広範の一般の人々をも被害者として巻き込む道を選択したのである。つまり、一会社(地域)ですまされるような狭い事態にではなく、国家的な規模にまで事態を拡大する道を選んだのだ。上の記事は、こう言いかえられる文脈をもってくる。――<日本国家は、関西地方にすべての営利事業を譲渡する。分断化で、東日本被害者への補償や公的債務返済の義務に特化した東日本国家として存続する。>


現在TVコマーシャルで、日本(人)が一体であり、そうなるべきだとの宣伝が繰り返されている。W杯で活躍したサッカー選手をも起用しながら。しかし、今回の事態で政治中枢がみせた有様は、日本の政治家や一般庶民が、アフリカW杯でみせた日本代表のプロ選手やチームワークとは、なお程遠い差がある、ということである。岡田監督がみせたような、身を翻すような決断を菅総理はみせることはしないし、何度失敗しても個人で突き進むことを貫いた本田選手と彼を信頼して連携した他選手とのチームプレーもみられない。単純に、日本がワールドカップでベスト16に進めたのは、その一体的なチームワークのためではない、そう最終的に落ち着かせた個人間の切磋琢磨と、それでも自分たちは弱いのだ、世界では勝てない、このままでは負けるのだ、という切羽詰った場所、土壇場での冷静な判断力にあったのである。そうした認識を提示し、きっかけを作ったのは、日系ブラジル人のトゥーリオだといわれている。つまりその一体のなかには、外国人が、われわれとは違った思考を肉体化した人間の存在もが内包されていたのである。現在、世の風潮にのって、日本はひとつだ、と謳歌している人たちは、そんなすでにマスコミで取り上げられていたことさえ忘れてしまっているのだろう。そんな彼らが、あるいはわれわれ一般大衆の意識レベルが、この大災害において、日本(人)が一体になる、というその負担を引き受けられるのか、私には疑問である。日本(人)が一体であり、国家がひとつであるという道を選ぶのなら、小銭の募金程度ではすまなくなるのかもしれないのである。大げさな、単純な例でいうならば、北朝鮮と韓国を足して、ふたつに割る、その生活レベルを容認できるか、現給料や年収の1/3の経済力で生きることを許容できるか、という話しになってくるかもしれないそのとき、「一体」と声だかに叫んだその振舞いをも忘れて、痛みわけを拒否し、身の保身に翻るのではないか、と私は危惧するのだ。ならば、チッソ分社化にみらるように、被害が軽度だったものが現生活を生き延びさせるために、西日本を分断化し、東日本政府にその損害を負わせる、という現実路線がいいのだろうか? 現状では、そんなのもいやだ、と大衆はわがままをみせるだろうが。そしてその感覚は正しい。ベルリンの壁崩壊いこう、そして現北朝鮮と韓国の状況を鑑みても、50年たてば別民族(民俗)になってしまう、ということである。負債の支払いがおわったあとでの統一は、深い溝や取り返しのつかないような傷を負債者に負わせることになるのである。そのことは、分断統治が、人間にとって、歴史に生きる民族(民俗)として、いいことではない、不自然であることを意味しているだろう。ならばわれわれはやはり、分断統治という目先の経済的な現実路線とやらではなく、一体を貫く、という精神的な自然路線をとるべきだ、と私は考える。そしてその実現のためには、いまのような「一体」を叫ぶのではなく、むしろ「分断」を思考に据えなくてはならない。それは現実の深刻さを肝に命じるためもあるが、「分断」という中身がちがっている。ここでいう分断とは、W杯で日本代表がみせた、「個人」を前提にする、ということ、そのエゴを内包させていく、ということである。単純にいえば、この季節に、サクラの花見もできないような精神力に、今後の長期的な忍耐力など期待できないだろう、ということだ。現今の自粛現象は、いわば自然に反しており、人為的な対応としても間違っているだろう、ということだ。われわれ個人がまず、あのときの日本代表選手のようにならなければならない。(が、現プロ選手とサッカー協会が後退をはじめたようなので、サッカーでいえば、レベルの後退が懸念されるが……)


以上の意見は、妄想なのだろうか? しかしこれは、福島原発事故ひとつですんだ場合のことであり、地震活動期に入ったことが確認された今後、まだ原発事故が発生する、ということも現実的なのである。そのときは、以上の想像内容は破綻する。またそうにはならなくても、これは国内政治的にみた場合である。ロシアや中国の戦闘機が、この災害時に領空侵犯していることは報じられている。それは、単に放射能調査のためだけではないかもしれない。東電(日本政府)は、汚染水を海に垂れ流し、隣国からの抗議を受けているが、もし、日本国家がこの事態に対処不能となれば、諸外国が事態にあたるだろう、となれば、統治能力なしとして、ほんとうに国家機能にも諸外国が介入し、東西の分断国家が、東はロシア、西は中国、沖縄はアメリカ、とか植民地的な分割統治になる、ということだって想像してもいいのかもしれないのである。


そうならないことを祈りつつ。