<初夢を断ち切りそこに現れる妻の白き裸抱くあたたかさ>――初夢の歌
作品理解には、この一回りほど違う年代差を考慮する必要があるのかもしれない。この作品の事件が、性(男女関係)を素材として扱っているからなおさら。そして1958(昭和33)という年のあり方を浮き上がらせるには、そのもう一回り上の年代、敗戦直後からの1940年代後半の年代を導入してみるのが有効なになるのかもしれない。1940年代後半生まれの者の青春時とは、70年安保のときと重なり、1960年代後半生まれの者の青春時は、経済バブル期にあたる。1950年代後半生まれの世代とは、その中間期ということである。性意識の進展においても、藤井淑禎の『純愛の精神誌――昭和三十三年代の青春を読む』(新潮選書)を読むと、そこは過渡期にあたっている、と考察されている。
1940年代後半生まれが、永田洋子(1945)や『二十歳の原点』の高野悦子(1949)、1950年代後半生まれが山口百恵(1959)、となる。山口百恵をあげるのは、小倉千加子(1952)の考察を参照するからだが、家庭の主婦に立ち返った山口に対し、小倉が掬い取るのが松田聖子(1962)の「ミーハー」としての成功者出現、となる。(が、娘が自殺してしまったので、その後小倉の評価が変更を迫られるのかどうかわからない。がまた、成功や失敗だのは、仮説的な基準において言い得るだけなので、話を進めるための便宜上の基準にすぎなくなるだろう。)
隠し子だった娘に殺される、自身も施設育ちを経験している元女優は、「発展家」として事件を追う刑事に解釈される。――「彼女を苦にしている男子は多かったですけど、憧れていた男子はもっと多かったですからね。だけど、いつも長続きはしなかったみたいです。誰それと付き合ってるという噂が流れたと思ったら、すぐに別れて、いつの間にかまた別の男子とくっついているんです。で、しばらくしたらまた別れる。そんなことが何度もありました。だから女子の中には、あれは蝶だって陰口を叩いている者もいました。男子という花に次々と飛び移っていく蝶だって」
円地文子(1905)の小説にも、自らの女性としての魅力で男を翻弄させてみる主人公はでてくるが、それはあくまで、そういう性向が女にはあるよという認識の確認のようなものだ。そう意図的に生きてみる、というわけにはなっていない。大塚英志の『彼女たちの連合赤軍』によれば、永田は自らの内に芽生えた「ミーハー」的感覚を抑圧しなくてはならなかったし、高野は、「肉体関係がすべてを解決するという甘い幻想をいだいていたが、それは単なる物理的な結合であった」という認識の向うで、自殺してしまった。そして『架空犯』 でのバブル期の元女優は、青春時の肉体関係に溺れたのではなく、それはカモフラージュで、より即物的に、出世が見込まれた政治家のせがれの教師との関係を本命として迫っていったのである。それは、純愛が実人生レベルでも崩れはじめた1950年代後半、まだ処女に価値があるかのようにかけひきを歌う山口や、かけひきをスマートにこなしてゆく松田の歌詞と人生を経過したあとでの、バブル経済に規定された振る舞いなのである。だから今の若い世代はもう違うようで、ある意味原始的に、男子グループと女子グループと別れて安住したほうがいいとなっていると考察されているらしい。
とにかくも、教え子だった元女優と結婚して夫となった元教師の政治家も、彼女と高校時に取引で交渉させてもらった刑事も、そんな女たちの振る舞いを隠そうとした。つまりは1950年代後半生まれの作者は、そこを隠すことで推理小説を成立させた。そんなことがおおっぴらでも平気だったら、推理小説は成り立たない。
だから問われるべきなのは、そう小説の推理を平然と成立させる世間は、本当は、何を隠そうとしているのか、ということだ。
隠す男たちは、ある意味では、女たちを守っているわけだ。ふしだらで、打算で、なんてことがばれたら、かわいそうではないか、と。個人の実人生ではそうだろう。が、書くという現場において、その「かわいそう」にのってしまっておわるとは、何を意味してくるのか? それは、世間が何も変わらず、女たちはかわいそうなままでいい、ということではないのか。
この作品には、心理的な描写はない。あくまで、解答(ネタばれ)に向かって、適格な警察の捜査が突き進んでゆく。だから、そのことで隠されるというか、追及されないままなのは、その元女優なりが、ほんとうはどう思いどう考えているか、である。生みの母を殺した娘がその動機になるような心理を語っているシーンはあるが、警察の推理を補完するだけの、とってつけたような語り、会話である。そういうところからも、作者が、そこには深入りしない、と決めている、それで作品の完成度を担保させることに意識的であることが読み取れる。また、それ以上の深入りはしないのではなく、できない、のであり、そのことに自覚的にならざるをえない、ということが、1950年代の、性意識の過渡期、中途的な時代に規定されている自分に正直、ということになるのだろう。
ならば、バブルではじけたとされる女たちは、本当は、どんな心理を抱えていたのか? 経済的な心配が希薄になった条件のなかで、ではどんな他の事に心が動くのか。『架空犯』での提示のように、女は怖い(作中では「怖い女」と一般化を避ける言い回しをするが、その事自体が本当を隠す自意識を露わにしている)、と男の心理で解釈され、当人の心理などないような割り切った生き様だったのだろうか? オウム真理教が勢力を拡大しはじめていた時期でもある。金の心配がなくなった世界で、人の何が垣間見えたのだろうか?
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