2025年1月12日日曜日

『庭の話』(宇野常寛 講談社)を読む




ダンス&パンセ: 『家の哲学』(エマヌエーレ・コッチャ 松葉類訳 勁草書房)と『庭の話』(宇野常寛 講談社)を読む のつづき。


世界の現状を変えていこうと、現在日本の運動の中にその可能性の萌芽を秘めたと著者が認識する具体例を挙げながら、庭、という日本の古語概念を掬い上げることを通して、その変革実践を理論的に追及してみせた作品だ。

 

私は、東京の植木職人の世界に入り始めてから三年ほどした三十年ほどまえ、庭に生きる職人階級の世界やそこでの技術をめぐったエセーをいくつか書いていた。それは、はじめて所持したパソコン、アップル社のパフォーマーシリーズの一つで、何かやってみたいなと思い、会社の了解を得て、その植木職の会社のホームページを作ってみたのだ。その内容物として、植木職をしはじめたばかりの私のそこでの考えをまとめてみたのである。それはパソコンをウィンドウズ系に変えてから閉鎖してしまったが、そのエセーのいくつかをまとめて、数年前に、電子出版形式で再録してみていた。『庭へ向けて』とタイトルされたそれは、まずは、庭、という日本語の意味を再考することからはじめられた。

 

当時は、造園の現場は、大手の現場監督でも、高卒出が中心で、地方の卒業生を受容する就職口、どこか支援策のような印象を受ける感じだった。一方、造園学会では、ランドスケープという用語の方を重視する学説的傾向がでていたと感じられ、その中心となる学者の、庭=自然=風景、それを模して囲んだ園、という俗にも想定される概念が基底されはじめた、と見受けられた。そして今は、あくまで私の推察だが、東京農大でのその先生の教え子たちが、ゼネコンのような会社を作って、造園会を仕切り、現場監督も大学出となり、お話し付き合いの宴会では、農大出の監督たちが酔いにまかせて壇上にのぼり、大根音頭を踊りだす……やってらんねえよ、と高卒出の親方のひとりが、そうぼやいて話してくれたことがある。私の親方は、東京都を仕切っていた会社の話し合い世界を破って公共事業に参入していったのだが(「つぶすぞ」、と営業のボスが脅してきたが、新宿下町職人の顔つき働きぶりをみて、かなわん、とおもったのか、一升瓶をもって「仲良くしましょ」と会社に持参して現れたそうだ。)、その会社も、いまやゼネコンみたいな新会社の傘下に入っているような感じになっているのではないだろうか。とにかくも、そのような現場事情のもとで、私は、職人が潜在的にもっている階級や技術のあり方を言語化しようとしたのだ。

 

そこで前提となるのは、庭とは都市であり、交通空間である、という概念の更新だった。古語では、それは水平線の手前の海の漁をするところ、地平線の山の稜線手前の柴刈りするところ、家の外の手前の作業する土間、をまずは意味した。つまりそれは、風景といったものではなく、まず人が作業する場所であり、しかも、外との境界の地帯でなのである。職人とは、だからその交通(境界)の現場に生き、そこでの創意工夫をする者のことである。と、現状批判の論法をたてたのだ。その論の参照根拠は、私が高校卒業のころ出版された、柄谷行人の『探求』などの教養であった。私にとって、そうした造園会や、あるいは仁義なき戦いの人たちのような現場での関係を生きることには、柄谷理論の応用実践のようなところがあったのである。

 

のちに、外交官の佐藤優が、そのような実践をしていたらしい、と、柄谷が始めたNAM解散直後くらいに知った。スパイまがいの外交現場で、柄谷理論を使用していたのだと。

 

だから、いま、言説の世界で、佐藤優のような実践思考形態がひとつの力をもっているように感じられているとき、宇野の理論の構え自体に、根底的な疑義が発生する。世界や社会を変えるとは、まずそう説く理論の影響力という、プラグマティックな実際を考慮せざるをえない。そのとき、実際に政治世界でも人間関係をもち影響力のある、佐藤のパフォーマティブな言論のようなものしか、意味をもちえないのではないか、というものだ(この現象の必然性のようなことは、河中郁男が『中上健次論』で指摘していた)。宇野の思考の構えは、あくまでコンスタティブな、『庭の話』での用語でいえば、「人間の本質」を目指し即そうとするところで実践を組み立てていこうとするものである。が、佐藤のは、人や自然の本性に立ち返るのではなく、あくまで対象(現象)に向けて、それを操作しようとするために編集される。

 

上のことは、柄谷の用語で言い換えられる。それは、ヘーゲルのいう「理性の巧緻」に対する「自然の巧緻」という造語を適用することによってである。佐藤のいう政治的リアリズムとは、「理性の巧緻」の枠であろうし、宇野のそれは、理論としてはオーソドックスな態度であり、「自然(人間の本質)の巧緻」を念頭に組み立てていこうとするものだろう。佐藤も柄谷の作品をよく読んでいるのだから、私は、この両概念・態度の関係は、自身の思考態度のうちで、どう関連づけられてパフォーマティブな発言をしているのか疑問におもう。プロテスタントな宗教態度として、それは経験的に解決されているということなのだろうか?

 

※※※

 

宇野は書く。

 

<おそらく今日においては柄谷の述べる非対称なコミュニケーションは、これまで論じてきた「中動態の世界」を一時的に停止する事物から人間へのコミュニケーション――事物が人間を襲撃し、人間を回復不可能なレベルに傷つけ、変化させるもの――が担うことになる。そして本書で論じてきた「庭」とは柄谷が理念型として提示した「交通空間」を現代の情報社会に対応したかたちにアップデートした上で実装したものだと考えればよい。そのために、たとえば九十年前に建てられた銭湯が結果的に「庭」的に機能する……といった転倒した現象が発生する。そして銭湯の例で述べれば、裸になり、何者でもなくなることで人間ははじめて共同性から解放され、一時的にでも公共的な存在になるのだ。

 これまで取り上げた「庭」的な場所たち――小金井の「ムジナの庭」、高円寺の小杉湯、喫茶ランドリーの各店舗など――はいずれも、人間を孤独なまま世界に触れさせる力をもっている。それも、共同体の場所であることを否定することなく孤独「でもある」場所として機能している。(「#10 コモンズから(プラットフォームではなく)「庭」へ」>

 

私の『庭へ向けて』では、概念の再考はしたが、では具体的にどう庭作りをするのかとなると、行き詰まりだった。それが、いわゆる石を据え、植木を植えて、なる風景造りではないことは明白だった。ならば、人の営む場所としての庭作りとは、具体的にどんな形になるのか、となると、皆目わからない。千葉での植木屋独立は、その試行錯誤の一環でもある。

 

ともかく、宇野は、人が孤独であること、と歴史の現状でのアトム化を受け入れた上で、ではそのバラバラの個人をそのままでどう連合させることができるのか、と問う。これは、NAMの『原理』の延長的な思考でもあるだろう(中島一夫は、そんなことは不可能なのだ、と最近に近いブログで述べていた)。村的な共同体にならずに、公共性をどう反復させえるのか、その営みが、現在の条件下で、どのような具体策を練れるのか。共感しえる問題提起だ。私も人付き合いは嫌いだし、社会情勢的にも、みながそっちのアトム化にならざるをえない。しかしまた、たとえば宇野が、斎藤幸平などの運動は疎外論的な共同体作りになってしまうと衝き、人付き合いが好きになれないメンタル弱者にとってはコンビニで安いお握りが買える資本主義のほうがマシではないかというようなことを言うとき、では物価が上がって安く買えなくなってしまったらどうなるのだろう、と私は考えてしまう。

 

宇野は、庭の条件をあげていきながら、その条件が最高に実現されてしまうのが「戦争」だという。柄谷の「交通空間」でも、戦争は例示されていた。この最高の「人間の本質」の現象を回避するために、「人間の条件」を変えていく、アップデートしていく思考実験を、アーレントを参照して試みてみせた論考が、エピローグ的に付加される。その「労働」から「制作」へという問題提起には、柄谷の『探求Ⅱ』でのスピノザ論、知(制作・思考)は情念(労働・生活)と遊離するがゆえに知である、という言葉が想起されてくる。

 

孤独な制作の連合? 道具を作る単独者の同期性? ……NAMのなかでいえば、柄谷の超自我的な方向と、岡崎乾二郎のエスにおける「道具連関」という提起をつなぎ合わせるような回路を探っているようにもみえる。

 

植木職人の私はどうしたらいいのか? いまは、悲嘆に暮れて、メンタル維持で精一杯だ。そんななかで、私は、思うのだ。人は、「孤独」でいることができるのだろうか、と。不在が実在し、付きまとわれて、いつも一緒にいるようで、しかも、亡くなった妻だけではないような感じもしてくる。葬儀は、意味を充填しきれない。だから、一周忌二周期と、反復されてくるものを抱え込むのだろう。そして、人類は、たくさんの親しい人を亡くしてきた。ならば、もう孤独になりようがないこと、それを意識させられる世界大戦を二度も経験してきたことは、不可逆的な歴史なのではないだろうか? 庭の条件としての孤独は、本当は、成立しているのか? 私たちは本当に、孤独なのか? 孤独でいることができるのか? 人間の条件ではなく、霊の原理、霊的であることの条件、を考えることを迫られている、感じがする。

他者との関係、「相対的な他者との関係の絶対性」が前提なら、そこから来る「自然の巧緻」への信頼として、私は孤独に居直ることもできる。が、その「自然」に、霊もが入っているとしたら、本当にその不可知なものが実在するとしたら、どうなるのであろうか?

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