2025年1月19日日曜日

『愛と性と存在のはなし』(赤坂真理著 NHK出版新書)と『性と国家』(北原みのり 佐藤優 河出書房新社)を読む。



『愛と性と存在のはなし』;

 「でも、わたしが人間を見ていて思うのは、本当はその人が隠しているようなところが、いちばん美しく、豊かだということ。そしてそれは性に関することが多く、性には、愛が分かちがたくくっついている。

 どうかそこをこそ生きてほしい、生きる価値がある、と願わずにはいられないところが、その人自身にとってはコンプッレックスだったりする。わたしもそうだ。

 いつか誰もが、本当の話ができたらいい。そうしたらこの世はもっと豊かで思いやりにあふれるだろう。でも、すぐにはそうならない。ならばわたしができることは、自分の心もとない探求を、ふるえながらでも、差し出してみること、それだけだ。」

 

「現代は、女の不満をおおっぴらに言えばいうほど共感を得る言語空間だったのである。女の不満は比較的言いやすいし、聞かれやすい。言う定式もかなりの程度確立されている。しかしそれには危険な側面もあると、この頃思うようになった。

 言葉を与えられることで、女の不満はさらに燃え上がり、それは目的を失ってゆく。

 男という他者をよく理解し、彼らと共にしあわせになりたいのか、男(相手)をただ批難して溜飲を下げたいのか、女自身にだってわかっているのかあやしい。感情がとめどもなくなるとはそういうことだ。女性的な言語空間はすぐにそうなりやすい。」

 

「女が誘い、最終決定は男にゆだねる。

 そういうかたちをとる言葉だ。責任は最終的には、男にあるかのようにする。ここでも決定的な瞬間は男に渡す。最終的にそれを受諾したのは男だ、というかたちにする。

 これを古いタイプの女と呼ぶことはできない、とわたしは思う。自己決定ができないというわけでもないと思う。

 エネルギーの流れとして、最終的には、プラス極からマイナス極に流れるのが自然だ。

 それが恋愛の快なのだ。

 女の欲求とはつまるところ、「それを起こしたい」ということではないか、と思う。想う男に最後のスイッチを入れたいということ。そして「襲わせる」こと。見ようによっては「女の罠猟」「囲いこみ猟」。

 こういう女のやり方を嫌悪する女も、現代ではいる。

 また、こういうあやふやさを読み解き、さらに責任は自分にある、というかたちにされることが嫌だという男も、いそうだ。たくさんいそうだ。」

 

「人類はまだ、ホルモンと外形レベルで性別を変えるという実験を、近年までしたことがないのだ。それが人の心に何をもたらすのか、その結果までを追跡した研究はないのだ。

 最初で最後の問題は、心である。

 身体を変えて本当に変わるか、もっと言えば本当にしあわせになれるか、それはまだわかっていない。

 身体を変えても心は全とっかえにはならない。だとしたら、少しちがう心で、新しく生まれた問題を悩むのにちがいなかろう。

 性同一障害は、ほとんど自然状態で存在する。

 自分の生まれついた性に、一〇〇パーセントくつろげる人はいない。

 どこがどうずれているのか、そのかたちを可能なかぎり精密に知ることが、人が生きていく必須の知恵となるだろう。

 そしてそれは「治療」ではない。

「生き方」だ。」

 

「極と極。

 女と男というのは、固定でなく、相対性で成り立つものかもしれなかった。

 男になるものがあって、女になるものがある。

 とつぜんそうなる。好みとも関係なく。

 +(プラス)極になるものがあって、-(マイナス)極になるものがある。

 そのとき不思議なことに、わたしは初めて同性愛の体験を理解する。

 同性愛とはきっと、同性を異性として感じる感性のことだ。

 そうでなければ電気は流れない。

 だから、女と男の間にある可能性をまず語りたかったんだ。」

 

「そしてすべての人は、モザイク状にできていて、男であり女である。比喩でなく、多様性のお題目でもなく。

 細かく、いろいろなことがずれている。

 そのモザイクのピースが、女と男、どちらに生まれたボディと適合したりしなかったりする。

 すべての人は、性同一性障害を持つ。

 ずれたピースが小さいからと言って、それが決定的でないということはない。どこがつらいのか。どこが受け入れがたい自分か。どこが他人と折り合えないと思っているか。自分で知るしか、自分の人生の舵を取る方法がないように思える。」

 

「わたしは性同一性障害になりたくなかった。

 さいわい、その定義にもあてはまらなかった。

 が、「身体の性と心の性がちがう」なんていう、内外がちがうような大雑把な性の在り方を持つ人は、きっといない。その定義を通さずまっさらに見れば、もっと繊細に、人の中のずれを見ることができる。

 そしてずれとは、豊かさである。要素やグラデーションが多いのだから。」

 

「女と男から生まれてくる、女か男。それが人間だ。そして、そうして人が生まれてきたのが家族という空間だ。多くはそのもつれた愛情関係や、やはりもつれた性愛関係の中に、無力な子どもが生まれるというのが、家族だった。」

 

「だから、男の子に生まれていれば、愛されたのだと思った。

 今は次のような理解ができる。

 仕方がない。おかあさんが女で、わたしが女だから。

 仕方ない。誰でも女と男から、女か男として生まれる。まれに両性の特徴を具えて生まれるとしても、生まれる限り性の特徴がある。そこにごく自動的に発生してしまう、原初の不均衡、原初の痛みがある。

 誰のせいでもない。

 でもほんの小さな子には、そんなことはわからない。

 自分が悪い子なのだとしか思わない。そして生存戦略を決める。自分を消す。こんな世界から消えたいと思う。でもここに存在するこの物質、肉体という大きなものを消すことはできなくて、わたしはいつも、半分、肉体から出ていた。半分しか肉体にいなかった。身体に力が入らない。いつも、生きる気は半分しかない。やればできるのにと、いろいろな先生に言われていた。でもわたしはここにいながら、ここにいない。成功できてもしたくない。なぜならそうしたら、しっかり存在しなければならないから。わたしは半分退場していたい。早く退場したいんだよ。

 すべては、言葉と自我の構造を持つ前に起きて、ゆえに、記憶として取り出せなかった。

 それをたどるには、自分が繰り返し出してくる物語だけが、糸口だった。わたしが繰り返し出す、わたしに関する物語は、わたしにわたしの取り扱い説明書を出しているようなものだった。」

 

【男が、女の身体をやっている。その男は、女の身体を愛している。だから、心と身体はずれたままで一緒にいられる。けれど、女ボディの乗りこなしには苦労する】

 

「あまり思い出せなくなっていた父が、わたしが女の子であることを、まるごと肯定して、愛して、守ってくれていた。

 

「存在」のうた

 ふと、身体が消えるような感覚がした。

 大事な人によりかかっていたとき、一瞬。

 ほんの一瞬の無限。ほんの一瞬の、永遠の空。

 触れるものも、触れられるものも、ない世界。

 境界が消え去って、空にゆっくりふんわり落ちる。

 わたしがなく、あなたもない。性もない。誰でもない。

 あ、ここが、「存在」の領域。

 そんなふうに思った。」

 

    セクシュアリティーとジェンダーの問題は混同されているとして、まず自身のセクシュアリティーの考察からはじめられた。著作中、クイーンの中心ボーカルの人生を撮った映画「ボヘミアン・ラプソディ」が例題としてあげられている。妻の遺品には、まだ封が開けられていないクイーンのCDがあった。この読後、プレーヤーに入れても再生されなかったそれを、いく子のダンスを見るのに買ったデッキに入れてみたら、それが実は、DVDであったのを知った。ので、クイーンの彼(女)の、ミュージック・ビデオを見ることができた。最後の赤坂真理の「存在」のうたは、たぶん、父に抱かれる女の子の感覚のような気がする。私が最初に見たいく子の、大きな公演としては最後のダンスになった「青空×干渉するものたち」を想起させる。いく子はそこで、「Nobody」という芸名を使ったのだ。

 

『性と国家』;

 

佐藤 北原さんは一九七〇年生まれ、私は一九六〇年生まれと、ちょうど一〇歳違いでひと世代離れています。きっと見てきたものが、かなり違うと思います。

北原 私は、中学生のときに男女雇用機会均等法ができて(一九八五年制定)、これから時代が変わるんだ! 女の時代だ! と夢が持てた世代だったと思います。でも数年が経ってみれば、バブル期にさんざん持ち上げられていたのに、バブル崩壊後に真っ先に切られたのは女たちでした。後に起きた東電OL事件に代表されるような、先に歩んでいた女性たちの絶望しか目に入ってこなかった。」

 

「北原 …(略)…

   いま日本でも、身体的に安全でもなければ将来の保証もされない社会で、自分もそうなるかもしれないって想像力を持てる人が多いはずなのに、女としての話や、父と兄としてしかその悲惨を想像できないとなると、いつまでたっても男と女のギャップは埋まらないだろうなって思うんです。

佐藤 確かにそうだ。指摘されてそう思うけれども、家族としてあなたの側にいる人ということで考えるならば、側にいる人がいない人は想像力が及ばないわけですよね。

北原 そうなんですよ。

佐藤 「私は孤立だから構わない。別にパートナーはいない」とか、「俺、ひきこもりだし」「別に金はあるし」「別に親とか関係なし」とか。

北原 そう、それは実際にいま起きていることです。

佐藤 だから、そういう考え方は、父権的なブルジョワ的なシステムの中でしか説得力をもたないし、そこの中には権力的な構造がたしかにある。

北原 うんうん。

佐藤 「あなたと私は違うんです」ということを理解していくことかもしれない。無理やり知ろうとすることじゃなくて。

北原 そうなんです。」

 

「佐藤 話しながらさっきから考えていたんだけど……「あなたの妻や子どもだったらと考えないとわからない」というのは、たしかにイエスはそういう言い方を一度もしたことがないですね。

北原 さすがイエス(笑)。

佐藤 キリスト教は、「隣人を自分のように愛しなさい」(「ルカによる福音書」一〇章二七節)と、自分自身をどういうふうに愛しているかというところから他者のことを考えろと言っている。あなたの隣人との関係で他の人との関係を測れと言うことは一度もない。そういう発想は彼にはないんですよ。北原さんに手厳しく指摘されないとわからなかった。

北原 私、手厳しかったですか(笑)。

佐藤 手厳しいですよ(笑)。北原さんは私よりもキリスト教ということになりますね。私がなぜああいう発想になったのかというと、たぶん和辻哲郎の言う人間の関係の間の倫理学みたいな感じで、父権的だということで家族主義の残滓があるからですよ。理屈では多様な家族形態があるとわかってるつもりでも、ぼそっとそういうことが出るわけですね。

北原 でも、そういうこともありますよね。猫が虐待されてると、自分の猫だったらってやっぱり思うし。

佐藤 でもそこで自分自身を基準として判断しないといけない、というのはキリストの言ったことなんだ。だから、「あなたの近い人が」じゃなくて「あなたが」「僕が」売春せざるをえないという状況になったときに「僕が」どういうふうに感じるか。そういう方向で立てないといけない。だから、あなた自身が売春するような状況に置かれたときに、あなたはどう考えるかということですよ、やっぱり。

北原 そう、それが通じないことが怖いんですよ。本当にそうですよ。

佐藤 でも、それが通じなくて、イエス・キリストは殺されたと思うんだけども。

北原 え……私も殺されますかね(笑)。これが結論でいいんでしょうか。」

 

 

    慰安婦問題とうの社会問題を、どう受けるかの暫定的な解答として、「自分を愛するように他人を愛せ」という、イエス的な実践にある根底の考えにゆきついた。が、ということは、ここで、ジェンダー的問題が、セクシュアリティーの問題として折り返されてきた、ということだ。自分を愛すとは、どういうことだろうか? そうは容易に愛せないからこそ、赤坂真理のような悩みと問いかけが生まれるのである。もしこの両作品が循環的に示すアポリアを突破できるとしたら、その視点は、「父権制」から「権」を除いて、「父性愛」に転換してみることになるだろう。


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