2021年12月12日日曜日

交換とジェンダー(1)

 


文芸誌『群像』10月号の「創刊75周年記念号」にて書かれた柄谷行人のエセー「霊と反復」が、物議を呼んでいるというような話を知って、図書館から借りて読んでみた。

私自身は、このエセー自体から、特別な感想を抱かなった。「交換」を「霊」と言い換えてみる曖昧さのほうが気になって、すぐには腑には落ちてこなかったからだ。

が、すぐ次に、蓮見重彦の「大江健三郎『水死』論」があったのでそれも読んでみて、その「曖昧さ」がはっきりしてきたので、ブログにメモしておくことにした。

 

蓮見が、この「創刊記念号」にて、自身の文章が柄谷のそれと並べて掲載されることを知って、敢えて、『水死』を選んで大江論をのせようと思ったのかは知らない。しかし私には、この大江論は、最近までの柄谷の思想への、そしてそれが伴うかもしれない社会的な動きへの批判として提出されたもののように思えたのである。

 

蓮見がこの大江論で言いたい論点は、一見マッチョにみえる大江文学を作品内部から批判・脱構築させていくような、女たちの視点の喚起である。大江とおぼしき主人公は、実父の思想態度にうかがわれるかもしれない、「昭和(明治)の精神」を継承していくかにみえる。が、その夏目漱石経由の作家の思想などは、「男たちの「幻想」」にすぎないとみる「女たちの優位」の「重要さ」を蓮見は指摘してみせているのだ。「それが『水死』の作者たる大江健三郎自身にふさわしい読み方だと断言するのはさしひかえておく」と留保されながら。

 

柄谷の「交換(霊)」論は、この「明治(昭和)の精神」が言い換えられてやってきたものである。柄谷は、交換Dという理念系の在り方を、柳田がとらえた山人の「遊動」的な在り方とだぶらせる。では、なぜ「遊動」がいい価値なのか? それは、「誇り高い」からであり、抽象的な物言いでは、それは「高次元」とされるのだ。そこには、「明治の精神」に殉じた漱石の「こころ」の先生を評価した柄谷の漱石論が伏在している。(参照ブログ<柄谷行人著世界史実験読む>)しかし、蓮見が読む大江の『水死』論では、そんな男たちの「精神」を茶化すような、「犬の縫いぐるみさながらに、「『メイスケさんの生れ替り』の御霊の縫いぐるみを飛び回らせる……」女たちの芝居がピックアップされる。

 

つまり、交換Dの国家(定住)に抵抗する誇り高き「精神」を「高次元(霊)」とみなす思想など、男たちの「幻想」にすぎない、と蓮見は言っているわけであろう。

 

この蓮見の批判的視点を、私は共有している。

 

が、それは、だから男が悪く、女性に「優位」があると措定してみているのではない。そこに、検討の余地がある、と私が見ているということだ。

 

たとえば、柄谷は、交換を四つの形態で抽出する。本当に、それしかないのか? もっと、いろいろな交換がないのか? そう単純化して、いいのか? 柄谷が参照しもしたエマニュエル・トッドは、その四つに構造化させる定義を、「ピタゴラス的幻想」であり、「デカルト主義の呪術的宇宙」への退行だと、自己批判的に学術方を修正した(ブログ<トッド家族システム起源ノート1))。

 

要は、柄谷の四象限、幾何学的構図は、男性的とも呼べるだろう、ということだ。

 

が、演繹法から帰納法的な学術態度に変更したトッドのやり方とは、いわば交換(家族形態)にはたしかおおざっぱに20種類ぐらいあって、その組み合わせヴァリエーションで対象を理解しようとするものになるだろう。つまり、基本の四つの家族形態で構図化できても、それは、ベクトルの図になる。基本要素の組み合わせ割合によって、濃艶や強度の変化がでてきて、四象限のどれかに在るか、ではなく、具体的にどの点にあるのか、が示唆されるのだ。交換ABCD、のどれか、ではなく、それらの要素の組み合わせバリエーションによって、縦軸A3と横軸D1の交点、として交換の強度が指示される。

 

『群像』でのエセー「霊と反復」では、柄谷は、「四つの交換様式ABCDのどれが主要か、それらがどのように組み合わさっているかによって違ってくる」という言い方をしているが、このような言い方でその交換様式を示してみせたのは、柄谷では、はじめてではないだろうか? もちろん、柄谷の理論からではなく、そこから常識的に推論して、私は、要するには組み合わせになってしまうのだろう、と推論してもいたわけだが。以前の交換はなくならず、とか、国家と資本が結託する、という物言いから、四象限の図を安定的にではなく、ベクトル的な動的な図としてみることもできるのだろうと。

 

となれば、蓮見の批判は、あくまで男性と女性の差異(区別)に依拠しているということで、批判としては弱いものになってくる。性差が、区別ではなく、組み合わせ割合であり、グラデーションの濃艶であったら、どうなるのか? という理解前提になっていることになるからだ。実際、最近のLGBTの現実の露呈が示しているのは、染色体レベルでは明確に区別される男女差の根底に、RNAレベルでなのか、多様な遺伝要素の組み合わせが様々な性的傾向を現象させているのではないか、ということではないだろうか?

 

ジェンダーとは、セックス(男女)という生物学的な性差を超えた、社会・文化的な獲得形質を肯定していく思想、ということだったはずだが、性の多様さは、実は生物学的な、身体的な現実であって、その自然の多様さを、実は男と女という文化的・社会的な区別が抑圧してきた、という逆転の真実を、現今の科学が露呈させてきている、のではないだろうか?

 

だとしたら、「贈与」という一つ言葉で要約されるその交換にも、実は、多様性がはらまれているのではないか、ということになる。まずそこには、おおまかな傾向割合としての、男女差があったりするかもしれない。――「男の贈与が建前に縛られた、いわば<硬い贈与>であったとすれば、女の贈与は――これもけっして本音を語っているわけではないが――はるかに融通のきく<軟らかい贈与>であった。」(桜井英治著『贈与の歴史学』中公新書)硬い⇔軟らかい、の様々な度合いが発生する交換実践……そういう理解前提から問われてくるのは、「誇り高い」「高次元」を想定する発想の是非であり、それが本当だというなら、その担保とは、根拠とは何か、ということである。個人的な趣味で、というのは、思考約束事上、とりあえずどけて考えてみなければならない。またそれを示せないならば、そんなのは男たちの「幻想」であり、「観念的な力(霊)」などとは男たちの「形而上学」にすぎない、とそれを「犬の縫いぐるみ」のように放り投げる女たちからの批判に答えることにならない。

 

しかしまた一方で、ならば、色々あるよ、グラデーションだよ、レインボーだよ、という態度は、実際には、どんな実践になり、どんな意味方向を持ってくるというのだろう?

 

私は、わからないので、両方を、考えているわけだ。

 

最後にヒントとして、私が考えさせられている私のブログに、リンクをはっておくことにしよう(<切腹いいね!>)。また、もともと以上の問題点への想起は、2週間まえぐらいの朝日新聞での女性学者の未成年への性的暴力に関するエセーからあったものだったのだが、柄谷・蓮見のエセーを読んだので、これは「交換とジェンダー(1)」として先に書き、女性学者のエセーからの思考は、(2)として、時間できたら、例題として、追記してみようかと思っている。

2021年12月8日水曜日

コロナ現状


急激に感染者なり重症者なりが減少し、ほぼゼロ状態といってもいい状況がつづいている日本のコロナ情勢。といっても、ワクチン接種がすすんで底をうったようになる減少から一月ほどあと、これまでにないぐらいの急激な感染増加率を示したきたのが欧米の現状らしいので、政府も第六波に次はなるのだという想定のもとに準備をしている、ということなのだろう。そして三回目のワクチン接種を早めたいと。私には、ワクチンをみなで打ってしまったから急拡大みたくなったとしかおもえないのだが、それはひとまず置いておこう。

 

とにかく、日本でのこの静けさはなぜだ? という話になる。

 

で、生活クラブの会合での、おばさんたちの話でそうなったのか、それは、マスクのおかげだ、とわが女房が言い張るのだった。

 

そんなことはありえないだろう、と私が反論してもゆずらない。日本人はマスクをちゃんとしているから感染が予防されているのだと。ほんとうにマスクで世界的パンデミックがおさまるなら、医学もなんにもいらないだろうに。私には、世界大戦に竹やりで戦えていると思い込んでいた、終戦間際の日本民衆みたく見えてしまう。

 

とりあえずこの件で、説得力あるとおもえたニュースは、まずは東大ミレーション報告、それと、日本でのデルタ酵素変化があったとする研究報告。

 

しかしそれでも、群馬でいきなりクラスター発生です、とかなるのだから、単に検査体制が不備だったり、オリンピックで対応出遅れ、重症になるべく遺伝免疫の人はすでにみな感染してしまったから、という話なのかもしれない。もともと東アジアではリスクが少ないわけなのに、日本では相対的に死亡者が多く、ゆえに「コロナ敗戦」とも呼称されてもいるわけだから、この今の静けさは、敗戦の焼野原ということなのだとか?

 

だとしたら、これが荒野であることを、私たちは気づいていない、ということになる。いま、ガウンにひざ掛けしてパソコンのキーボードを打っているが、冬の雨景色をみせる部屋の窓も、その技術の様は、もう先進国でもなんでもない、断熱効果もへったくれもない掘っ立て小屋の技術水準のままである、ということも、最近スマホニュース知った。建築分野でも、世界基準からは却下されてしまうあり様になっていようとは。

 

外が見えなくなり、竹やりで世界大戦に対応できるとおもっている、ということだろう。 

2021年11月22日月曜日

テロの予感とプラットフォーム

 


アメリカ経由の祭りハロウィンの当日、ハリウッド映画『ジョーカー』をなぞって、渋谷での喧騒をのぞいたあとでの24歳の若者による京王線内での犯行は、犯罪心理学者の専門家等から、精神異常者のものではなく、単に世間の注目を集めたいだけの私的な犯行になろう、と評価されているようだ。BBCニュースでは、いまでも日本は安全です、となる。

 

しかし他国の大都市に比べ、日本の日常での安全がつづくのは、それだけ、普段の抑圧が強いだけでなく、それに気づけないほど隠蔽されているからだろう。私が子どもの頃の時代劇のセリフで、「てめえら人間じゃあねえ、たたき斬ってやる!」と、突然正義の浪人だかが暴れはじめるのがあった。つまりは、そうになるまで、「じっと我慢の子であった」(という定番ナレーションのはいる時代劇もおもいだすが…)、大人しくしていた、ということだ。真珠湾の奇襲攻撃も、そんな、もう我慢ならねえ、という正義感の爆発でもあろう。普段は、内にストレスを溜め込まされていく体制であるが、それが一気に噴出して体制への反抗となってあらわれるのである。

 

しかも、この若者も、すぐあとに続いた60過ぎの男の便乗のような犯行も、死刑になりたかったから人を殺そうとした、とか言っているようだ。ということは、外への加害というより、内への自殺衝動が変形されての爆発となっている。時代劇よりも、日本的な内向性鬱屈がひどくなっている、と言えるのではないか?

 

私はこの事件から、オウムによるテロのような事件発生の予感を感じた、と以前ブログで書いた。日本の場合、宗教や思想信条に結びついていくような常態的な関連が人々の間で希薄だから、テロ、というより、暴動、というあり方に近くなっていくのかもしれないが、そう予感した下地には、そのブログで言及したコロナ・ワクチン体制のほかに、皇族の娘の結婚をめぐるメディア状況というものがあったろう。天皇家が、天皇制(同調圧力)に抑圧されるまでになっている。若い二人は、アメリカへと亡命したわけだろう。私は、近い将来、天皇(家)から自殺者がでるのではないかとも、心配してしまう。

 

さらに、このまだ文学が生きていたころなら天皇制と通称されていた「同調圧力」なるものは、SNS等のネット環境が世界中を同期させている現今では、日本だけに固有の問題とも言えないのではないか、いや逆に、この環境が、日本の天皇制的な体制を補強してゆくようなツールとして機能していったがためにこそ、鬱屈が加速され噴出のタイムリミットにも近づかせているのではないか、とも思えるのである。

 

そう考えを思いめぐらせていたところに、大塚英志氏の1989年出版『物語消費論』の現代版へのアップデートだという『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』なる新書を手にした。この考察は、説得力がある。このブログでの文脈で言い換えれば、プラットフォームが「同調圧力」(無償労働による意識されない疎外)を産み出している、ということになろう。だからテロとは、実はそこにおいて、それをめがけてなされているのだ、と分析される。そういう意味では、なお治験中であるワクチンの接種も、ボランティア労働による圧力になり、いま権力やマスメディアが抑圧・隠蔽にやっきになっているのも、それが「陰謀」だという言論なようだから、その抵抗の目指している先に、やはりなにか核心的なものがあって、そこに触れている、虎の尾を踏んでしまっている、ということへの無意識的な「否認」の仕草なのだろう。日本の文脈で言い換えるなら、天皇制とがプラットフォーム(ほぼ皆が関心いいね!をもたされてしまう、そう無償労働で搾取されてしまう…)なのだから、そこに抵触している、ということになる。

 

大塚氏の指摘は、トランプ現象は小説家集団Qによって文学テクニックで仕掛けられものだとするものからはじまって多岐にわたるのだが、ここでは、このブログでも言及してきたような問題領域に重なる部分の引用にとどめておこう。

 

<つまり、高度消費社会に於いて、そこで私たちがただ「生きる」こと自体が「労働」であり、私たちは無自覚に「搾取」されている、という「問題」の所在とそのような「制度」への「名付け」として、ルーサー・ブリセットがあったことが改めて確認できる。プラットフォームによるビッグデータの収集というビジネスの成立した現在、ようやく、あのサッカー選手の名を偽装した「オープンポップスター」の正体を私たちは知ることができるのである。ブリセットは搾取される私たちであり、だからブリセットは「たくさんいる」ことが必要だった。/しかし、今やブリセットの名は、忘れさられている。だから、ブリセットが「プラットフォーム」の比喩だとしても、例えば私たちは自分がTwitter社に「労働」を搾取されている「たくさんのブリセット」とは思わない。/だから、渡邊博史や青葉真司の「事件」で立論されるべきは、彼らはプラットフォーム的なものが体現した新しい社会のアイコンとしての人気作品の関係者を脅迫し、アニメ社会に火を放ったという犯行の枠組みである。渡邊の事件、青葉の事件の双方に共通するのは、既に述べたように、これが新しい社会システムへのテロリズムだという側面がある点だ。>

<それは例えば、Uberの配達員がいくら働いても個人事業主としての充足を得られなかった時に表出するかもしれない「怒り」とも似ている。それは「隷属」を「参加」と言いくるめることができたことで生じる破綻である。ファンと作者、個人事業主と企業を「同じ」と言い繕いつつ、そこには歴然として越えられない「階級」がある。しかし労働者はファンや個人事業主として「名付け」されているので「階級」としての「名」はない。/しかしこのような透明化された「階級制」への抗議が、政治活動やましてやテロリズムとして行動化されるのは、極めて例外的である。せいぜいがプラットフォームの「乗り換え」で済まされる。渡邊が『黒子のバスケ』に拘泥せず、アイドルグループの名を挙げてそのファン活動にとどまるという選択肢があったことを「後悔」しているのは、そういう意味である。>(「物語隷属論」『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』大塚英志著 星海社)

 

2021年11月9日火曜日

映画『MINAMATA』を観る

 


久しぶりの祝日がきて、女房と映画『MINAMATA』をみにいく。

当初は、この映画はカメラマンのロマンス伝記みたいな気がして、今月末公開とかいう原一男の『水俣曼荼羅』はみにいくだろうからと、観賞予定はなかったのだが、天気もいいし、と。ただ、女房を誘うのはためらわれた。彼女は、水俣病をおこした会社チッソの重役の娘だったからだ。なんとなく行くかときくと、「行きたい」と強く答えてくる。そこで、吉祥寺の映画館へとでかけた。

 

最終日を一日前に控えた祭日だったからか、結構お客さんがはいっていた。やはり、年増な人たちがおおい、という印象だ。映画自体は、やはりというか、洗練されたエクゾチズム、芸者や金魚といった露骨すぎるオリエンタリズムを経験したあとでの、ある趣味階層へのマーケティング結果、という気がしてくる。いま上映中の『ONODA』にも、そうした外国人の異国趣味な視点を、薄められた普遍的問題で模糊してみせる、みたいな傾向になっているのではないか、だからそれらがなんでこの時期にそろったのかな、というほうに、私は考えさせられてしまう。映画のドラマが終わって、たしかチェルノブイリ原発災害からはじまって、世界で引き起こされた公害の告知映像が続いていったのだが、フクシマの災害まで挿入されていたのか、記憶は不確かだ。なかったような。ただその世界的企業による公害映像をみせられながら、私はどうしても、いま世界中の人が接種している新型ワクチンのことを連想しないわけにはいかなかった。いつから、人々は、とくに東電の原発災害の記憶がなおなまなましいはずの日本の民衆が、こんなにも素直に、産業科学の安全妥当性の広報を信頼してしまうようになったのだろう? 私が個人文脈で勉学した意見では、原子力から遺伝子そして量子コンピューターへと連なる現在の先端的技術は、アインシュタインのいう観測問題として露呈されてきた、生命体にはコントロール不能の境域が関わっている。DNAのらせん構造といっても、それは可視光線的な枠での人為的区切りにすぎない。陽子一粒の水素結合で構造が支えられているとは、他の不可視な系との(ワープ的な)繋がりが全的にあるのだろう。放射性物質の内部被爆のように、その水準で改変操作された人工物質が、身体内の全的な系の調和を乱し、体に変調を引き起こさないように願うばかりだ。

 

そしておそらく、そうした産業科学にたずさわっている多くの技術者は、意図的な悪意で陰謀的に仕事をしているわけではないだろう。善意で邁進したがゆえに、その結果に直面したとき、精神分析でいう「否認」の態度に陥るのだろう。

 

映画観賞後の喫茶店で、女房と会話してみる。…(東北帝大の理学系出身の)父は、(会社を創業した)野口に憧れてチッソを選んだ。野口は、水力発電などで名をはせた技術者だった。ほとんどのエリートは、東京から出たくないので、熊本になど行かないのだ。とくに、お嬢様を嫁にむかえた夫は、まずいかない。私の母もお嬢様だったが、子どもにお母さまなどと呼ばせたりする世間は嫌だったし、子どものころ満州から引き上げてきた経験をもつ父も(飢えと紙一重だったと、私は父の弟、まるで兄にたかりにゆく漱石作品の自由人として生きてきたような人からきいている)、東京が好きでなかった。中学のころから熊本市の寮にいかされていたので、事件のことは知らなかった。悪いなどとおもったことはない。東京本社は、熊本の工場などつぶれてもいいとおもっていた(というような話を、父から耳にしたのだろうか?)。たいがいは熊本に来ても、単身赴任の出向で、帰っていく。高校の途中で、会社をやめ、千葉に引っ越してきたのだ。(おそらく、一仕事終えたので、系列の会社へ移動したのだろうとおもう。生前に、少し事件をめぐって話したことがあるが、自分たちが仕出かしてしまったことに、反省というより、心底おそれおののいているような印象だった。「銀行にいって、会社つぶれるぞ、いいのか、と脅してたんだ」とも言っていた。私と女房との縁が、社会運動組織にあったと知っていたからか、「環境問題に興味があるのなら、知り合いがやっているから、紹介するぞ」とも言っていた。「あれは、ほんとうに悪いことなんだ」とつけ加えながら。)

 

数か月まえから、我が家は、「生活クラブでんき」にはいっている。女房は、山梨県まで、その太陽光発電所を見学にもいったのだそうだ。「山梨で作った電気がこの中野区まで来るっていうの?」と私がきくと、「そうよ。説明きかされたけど、ぜんぜんわからなかった」と、返事がくる。ありえない、と私は考える。原理的にいって、つまり量子論的にいって、電子の同一性というのはない(不明な)のだから、わかりえるのは、ここまでの電線経路での他の様々な発電所からくる電流の量合算から、この借家で使う分量での割合が仮説的に推測できるだけだろう。生活クラブのホームページにはそこまでの説明はないが、明細書には、生活クラブでんきとか呼ばれるものと他電気を比較的に並べた%の割合がのっているらしい。が、原発や火力発電が減少しないなら、電気の全体量が増えてそれらの割合が減るだけで、やはり、国策的なものが変更にならないかぎり、クリーンエネルギーとかいう政治パフォーマンス広報にしかならないのではないか?

 

つまり、太陽光発電といっても、東電が仕切る送電線への参加の許認可をめぐるとかいった、国策を前提とした政治的配分の問題が想定される。とおもっていたら、元公明党議員による、クリーン発電を企業している会社からの収賄だか補助金詐欺だかの事件がでてきた。衆院選の結果あとのこの事件の提示に、自民党と公明党、さらには維新との政治駆け引きがあるのではないかとも勘繰らせるが、いいことをめぐっても、色々なグレーゾーンがあるのだろう。

 

こういうことを付記したのは、女房の実家であった千葉の空き家へと引きこもろうと考えているさい、電気の自給もできないかと太陽光発電のことなど調べはじめたからなのだが、昨年の台風でその近辺、一週間の停電になったのだが、民家の屋根上のパネルも吹き飛んでいたらしい。台風が巨大化していくのも、善意な産業科学のおかげなのだろうか?

※たくさんの著名人が称えているなかで、私に近い感想のブログあったので、リンク。

https://yuuhikairou.blog.ss-blog.jp/2021-09-25

2021年11月3日水曜日

選挙結果と放火事件

 


予想通りな衆院選挙結果となった。とりあえず、選挙へ行くような国民の半数の内の多くが、成り行き任せな共同体の自壊をなお選んでいる、ということなのであろう。私としては、主体的に既得権益勢力をぶっこわすと言明しているN党にでも投票しておこうかというところが当初だったが、たぶん今回で消えてなくなり、野党勢力も苦戦するだろうからと、リベラル派定番どおりに、小選挙区が立憲民主、比例で共産、というところに落ち着いた。野党が政権をとったほうが、なおさら何も決められない「未完のファシズム」となって、自壊がはっきりしていくだろうなと。維新の会の急激な躍進が以外だったが、これは「未完」としてではなく、もっと強力なリーダーシップを発揮した列記としたファシズムたれ、という反動的な民意の反映なのだろう。それが自壊を加速させるだけとは気づいていない人々の、無意識的な思い、かなえられない願い、みたいなものなのだろうか?

 

そんな選挙よりも、私が気になったのは、その開票中に起きた京王線での放火事件のほうだ。おそらくこちらの方は、選挙には行かない、ある若い世代たちの民意を反映しているのではないか、と。映画「ジョーカー」を模倣したという。それと渋谷のハロウィン騒ぎの件について、二年前だかにこのブログでも言及したことがあるが、おそらく、オウムのテロ事件に似た、もっと大きな暴動が日本で起きることになるだろう、と私は予測している。

 

私の推測では、この日本の若い世代たちのストレスを産み出しているものは、コロナ騒ぎでの用語を使えば、「同調圧力」ということになる。マスクにしろ、ワクチンにしろ、言論の戦いとして意識化される世間がない。もうそうしろとの暗黙の決定しかなく、他の意見ははじめから異端においやられている風潮だ。スマホの普及した子どもたち、若者たちの間では、この世間にあわせないといけないという、世間体、友達の間での見栄、外見のつじつま合わせみたいのが、相当な圧力として存在しているようだ。私の息子が自衛隊などを受験するのも、その狭い世間下に追いやられて、という風にみえる。戦争の悲惨さなど、戦後のリベラル派の教育が説いてきた論理をもちだしても、聞く耳が持てない。大人がそんなこといっても、世界は違うではないか、と見えるというより、圧力がかかるのだ。黒沢清は、映画「東京ソナタ」で、バブルはじけて失業したサラリーマンの大学生の息子が、大人がなに言ったって、結局はビラくばりのような仕事しかないじゃないか、とその虚しさと鬱屈から、アメリカの海兵隊に入隊しイラクへ派遣されていく家族のエピソードを挿入している。その映画では、失業を恥ずかしくて家族に言えないサラリーマンが、見栄を捨てて清掃業についていくことで、人間としての本当の姿を回復していく希望を垣間見せるように終わっていくのだが、私の場合、はじめから、清掃業のような仕事なのだった。だから、そんな落ちはない。

 

どころか、先月まで、三代目若社長の仕事手伝いで街路樹作業をやっていたが、とうとう、遺伝子スイッチというか、本能的な判断が生起した。その仕事が終わり、親方との寺の手入れ作業にもどったとき、一服時のコーヒーを飲みながら、話を切り出す。「私はもう、三代目の仕事はやりません。仕事がないときは、なくていい。空き家になっている千葉の実家に行く予定をたてますので、来年からは、そのつもりで段取りをつくってください。」――自意識的な思いめぐらしというより、サッカー元日本代表監督の岡田氏の言葉でいえば「遺伝子スイッチ」がはいる、主体的にではなく、受態的に、決然と私が追いやられる、という感じ。身の危険を本能的に感じた、とも言える。ここから逃げるぞ、場所を変えるぞ、という強迫観念だ。最近のこのブログでの言及用語でいえば、「中動態」的な決断、とも言えるかもしれない。

 

街路樹作業の手伝いには、就職も決まった大学四年生がいれかわりバイトに呼ばれてきた。一流大ではないだろうが、あまりコロナとか関係なく、観光業以外は、職はあるような話をしていた。が、自分たちがいくのが、ほぼブラックなんではないかと、自覚的になっている。宅建の勉強して不動産業にゆくものは、もうその実態に気づいている。しかし、行くしかないではないか? 戦争、それが悲惨で悪だとは知っている、しかし、行くしかないではないか……おそらく、若者たちは、その八方ふさがりなような世界を感じて生きているのだ。

 

理屈など通じない。自ら、身を以って、その壁を壊してやると進んでいくだけだ。

2021年10月1日金曜日

<単独ー普遍>――量子論と中動態論から


 このブログで、量子論をめぐる試行錯誤的なメモをだいぶ積み重ねてきた。もともと、その関連の書籍を読み始めたのは、河中郁男中上論における「観点」という概念が、量子力学からきているのかな、と推察し、その方面に全く不案内だったので、確認してみようということだった。が、読んでいるうちに、現今の科学、社会的領域にまで、いろいろ考えさせられてきた。とくには、若い頃、人間の基礎学を、柄谷行人経由で学んできたものには、その量子論をめぐる問題は、柄谷氏の『探究Ⅰ・Ⅱ』で宙づりにされたままであった、哲学的な課題を想起させてきた。今回のメモは、そこでの、単独と普遍との関係をめぐる考察へのメモである。

 上のような私の連想が、そう突拍子なものではないことは、他の人の記述からも確認できる。

 <柄谷自身も述べているように、もちろん「固有名を確定記述に置き換えると可能世界で背理が生じるということは、固有名がすでに可能世界をはらむ現実性にかかわるということは、固有名がすでに可能世界をはらむ現実性にかかわるということを意味する」以上、あらゆる固有名の存立構造(を支えている現実世界の枠組み)は、可能世界を経由することで遡行的に成り立っているとも言えよう。しかし、そのような固有名の単独性をめぐる形而上学思弁とは無関係に、この現実世界の唯一無二性は、柄谷の論旨とは別の角度からなお問い返すことができるように思われる。たとえば、赤間啓之は「彼(柄谷―引用者註)にはもともと固有名の「他ならぬこれ」を、歴史が実現されたもの以外ではありえなかったという単純明快な必然史観と結び付ける傾向がある」と述べており(『ラン・ウィズ・ア・《ベルクソン》――あるいは「可能的なもの」と「潜在的なもの」』(『現代思想』第二二巻一一号、一九九四・九)、固有名(=超越論的歴史)が基礎づけられる現実世界/可能世界の階梯秩序は、存在論的なレベルでのさらなる議論を誘発しうるはずである。言うまでもなく、これは『存在論的。郵便的――ジャック・デリダについて』(新曜社、一九九八・一○)以来の東自身による哲学構想とも密接に関わる問題系であり、…(略)>(加藤夢三「偶然性・平行世界・この私」『現代思想』二○二○二月号「量子コンピュータ」)

 より通俗的にいえば、柄谷が単独性を定義的に言い換えてきた「他ならぬこの」とは、量子論でいう、「波(他なるもの=潜在性・可能性・普遍構造)」と「物質(この=現実・単独性」との同時存在的関連性、と言えるのではないか、ということだ。この柄谷の物言いを、小林秀雄的に歴史の必然性として理解することは、その歴史観を柄谷が批判してきたのだから、間違いになろう。だから、この論点を把握するのに、「傾向」という用語を、上引用記述者らは導入しているわけだ。しかし、「傾向」とは、暗に批判してみせているだけで、その用語選択自体が、論点をずらして他の記述をしはじめる口実なのではないかと予感させる。むしろ、私には、かつて大澤真幸氏が、柄谷との対談で、その単独―普遍との関係づけが、唐突すぎてわからない、と発言していたときがあったとおもうが、そう不明と批判しておいたほうが誠実なのではないかとおもう。たしかに、論理的には、詰めがない、ということなのかな、と私自身、宙づりのまま数十年が過ぎていったわけだ。が、本能的には、唐突的に関連しているのではないか、単独者であることは、そのまま、普遍的ではないのか、という思いが抜けきらないのである。私は、東浩紀氏の論考を追ってきたわけではないのでよく知らないのだが、最近になって、とくには量子関連の書籍を読み進めるうちに、東の問題領域と重なってきているらしいことが知れてきた。一昨日買ってきた最近作の『ゲンロン12』でも、「訂正可能性の哲学」なる論を発表している。まだ読んでいないが、エマニュエル・トッドなどを挿入しているようである。私は、このブログでも、トッドをめぐって、またトッド柄谷世界史構造めぐる図解などを提示してきた。がおそらく、引用導入の意図は違うのではないかという気がする。東はたぶん、単独―普遍の関連において、家族というような媒介項、中間的なものを導入するための布石として、トッドを導いてきているのではないかな、と。だいぶ以前に、『クォンタム・ファミリーズ』を読んだが、やはり、私には、そこでの平行世界を重視していくような姿勢には、違和感を抱いたものである。「中動態」をめぐっての理解でも、私は東のものより、國分氏の方に近い気がする。

 で、その國分功一郎の中動態をめぐる著作から、この問題にかかわる箇所を抜粋してみる。

 <中世のスコラ哲学に「ハエッケイタス(haecceitas)」という概念があります。文字どおりには、「これ(haec)」であることを意味します。英語ではthis-nessと言うので、ここでは「<この>性」と翻訳したいと思いますが、個別具体的に特別な意味をもつものとして対象が現れてくるとき、その対象には<この>性があると言うんですね。言い換えれば、ほかならぬこの個体、取り替えがきかないこれとしてこの物やこの人を見るとき、そこには<この>性が見出されていると考えるわけです。…(略)…こう考えてくると、<この>性が固有名と結びついていることがわかります。固有名によって名指される個体には<この>性があるわけです。…(略)…

 ドナルド君(自閉症者――引用者註)はそのときの状況を正確に記憶しており、それを「あなたの靴を引っ張って」という言葉に対応させている。言い換えれば、ドナルド君はこの表現を使うたびにその具体的な状況をいわば追体験しているわけです。その具体的状況から言葉を引きはがさない。

 ドナルド君は経験した出来事のクオリアを別の言葉に還元することを拒絶していると言えます。言い換えれば、固有名として捉えられるべき出来事を確定記述に還元することを拒絶しているわけです。一語文が二語文、三語文より貧しいわけではありません。むしろ逆で、二語文、三語文を使えるようになるということは、目の前で起こった新しい出来事を手持ちの言葉の組み合わせに還元してしまうということです。つまり現実を抽象化し、一般化し、貧しいものにしている。

 それに対し、ドナルド君は出来事を経験したときの驚きと喜びを何度も追体験しているわけです。ドナルド君はすべての言葉を<この>性をもつものとして経験していると言ってもいいでしょう。言葉を一回きりの文脈から引きはがして貧しくすることがない。>

 果たして、ドナルド君は、自閉症者と診断される者たちの一「傾向」は、歴史的必然観として理解されえるものなのだろうか? ドストエフスキーの『白痴』におけるムイシュキンとは、このドナルド君のような存在だった。私は、その「傾向」を抽出してモデル化した作品として、鹿島田真希著作ゼロ王国を論じた。

 ところで、私の問いは、単独―普遍という回路が、本当に不明であり、論理的詰めを欠いているもの、なのだろうか、というものだった。言い換えれば、それらが、直接的な関係であることはありえないのか、早とちりな思い込みにしかならないのか、というものだった。が、量子論関連の書を読み進めているうちに、そうでもない論理が、数学上にあるらしいことが示唆されている、ということを知った。このブログは、そのメモが本意である。

 <ここまで、量子確率論あるいは非可換確率論のような量子論の数学的構造が、量子現象のみならず、人間レベルの現象のモデル化においても役立つことを述べてきた。繰り返しになるが、ここでは決して人間レベルの現象の核心が量子現象に還元できるといった強い主張をしたいのではないし、もちろん「電子も人間と同じように自由を感じている」といった擬人観的な主張をしたいわけではない。むしろ、量子レベルの現象と人間レベルの現象が異なっていることを踏まえた上で、その間の「本質的な同じさ」の核心を捉えようとしているのである。なぜなら、量子現象も人間現象も同じ「現実」の出来事であり、そうである以上、その双方を記述できる普遍的な仕方があるはずだからである。(でなければわれわれは古い物心二元論を暗黙のうちに前提し続けることになるだろう。)

 その核心とは、数学的には量子確率論あるいは非可換確率論によってはじめてモデル化できるような、「あらかじめ選択肢の集合や重みが与えられている」という仮定では成り立たないタイプの非決定性、すなわち「不定元としての現実」ということである。われわれが常に、そして時々刻々と新しく直面し続けるこの現実は、量子場のレベルから人間のレベルに至るまで、「問いがなければ答えがない」という構造=出来事に貫かれているということである。たしかに決定論的モデルは、現実のある側面を理解する上で役立つ。しかし、それはきわめて限定的な状況に限られるのであり、一般的には確率論的なモデルによらなければならない。それどころか、通常の確率論をも超えた「量子確率論」や「非可換確率論」すら必要になることがあり、しかもそれは何も原子以下のレベルにおける特例ですらないのである。>(『<現実>とは何か 数学・哲学から始まる世界像の転換』 西郷甲矢人・田口茂著) 筑摩書房)

 そこから、私と他者、単独と普遍との関連で、何が言えるというのか?

 <倫理をめぐって「置き換え」ということを言うと、「置き換え不可能な個人、あるいは人格をおろそかにするのか?」という疑念や懸念があるかもしれない。たとえば「労働者が置き換え可能な歯車として扱われる」といった文脈では、「置き換え」ということがしばしばネガティブに語られるからである。

 しかし、ここで言う「置き換え」は、多数の項(将棋のコマや碁石のようなもの)を上空から眺めて、それらを互いに入れ替えるようなことではない。むしろ倫理において、私と他人を上空から眺める視点はない。完全に第三者的な神のような視点が確保されるなら、そこで行われるのはもはや倫理的な決断ではなく、計算・衡量による判断である。いまここでどうすべきかの決断を迫られるとき、倫理の問題が浮かび上がってくる。そこでは、ある意味では、置き換えのきかない仕方で私の自由な決断が要請されている。しかしその置き換えのきかなさは、恣意的な決定を意味しているのではない。私の自由な決断が要請されているからといって、私がなんでも勝手に決めてよいということではない。私はまさに、ある普遍的な「置き換え可能性」のなかへ自らを投げ入れるのである。そこでは、自由で個性的な決定そのものが、ある普遍的な置き換え可能性の創造でもある。「置き換え可能性」とは、この意味で「置き換え不可能性」、かけがえのなさそのものの「置き換え可能性」を意味しているのである。

 これはまさに、「私」という語についてわれわれが述べた構造とまったく同じである。「私の視点からしか一切を見ることはできない」という置き換え不可能性(個体性)そのものが置き換え可能であるということを理解することが、「私」という語を使えるようになるということであるだろう。レヴィナスが言うように、「私である」ということは「他人の身代わりである」ということである。「身代わり」とはsubstitutionのことであり、これは「置き換え」とも解釈できる。「私である」ということは、かけがえがないのであるが、このかけがえのないあり方そのものが、「他人のための身代わり」として置かれているのである。みずからが置き換え不可能であるということそれ自体の置き換え可能性を理解したとき、われわれは自己の存在の根本的な倫理性に気づくはずである。>(同上)

 この共著では、私と他者との回路を、「回転扉」という比喩で述べてもいる。それは、中間項の媒介の余地があるとするより、より直接的な関係に近いものであろう。数学での圏論からそう論理づけられてくるらしいのだが、私には、正確にはわからない。しかし想起するのは、柄谷は、中間団体の必要性を説きもした。東は、アニメや漫画などでの「世界系」とされる作品を批判するに、そこに家族や組織のような中間的な媒介がはしょられ描写されない非現実性をとりあげた。イエスは、「その者の敵は家の者となる」と言った。私の「傾向」における問いとしては、たぶん、こうなる。<単独(私)と普遍(他なるもの)との回転扉的な直接的な関係において、家(族)や組織(仲間)といった中間的なるものは、どのように関与することができるのか? その在り方と是非を、どのように私は、あるいは人は、判断したらよいのか?>……自衛隊員になる、といった息子に、私は、関与できるのか? どのようにしたらよいのか? ということである。

 おそらく、これらの問題系を、少なくも意識化してみようと、諌山創氏のコミック漫画『進撃の巨人』を、『喰う2』として、考察してみることになるだろう。この若い想像力によって描かれた世界系の作品は、これまでの乗り物系の系譜を踏まえながらも、明白に、「エヴァンゲリオン」で顕著になった大人たちの世界観を告発している。それは、量子論的な現実を踏まえることによってなされている。

2021年9月3日金曜日

小百合さんとの会話


 まあちゃんはいくつになったら年金をもらうの、と吉永小百合似の奥さん、ずっとひとり親方の主人について草取りや掃除をいっしょにやってきている小柄の、手伝いということなのに自分たちの仕事では生活できないから年中はいっている造園屋からは巨人のように大きな主人とあわせて大さん小さんと呼ばれている彼女がきいてきた。いつまで仕事やるかによるとおもうけどもらえたとしても光熱費にもたりない額だからなと答えると、そうぜんぜんたりない死ぬまで働かなくちゃならなねぇのかよってオッサンもぼやいてるのよ、と今はいっちゃんと他の庭の手入れにいかされている主人の話をだして、一間半の脚立の上の方で背は低いけれど古木の風格のある椎の木の手入れをしているその下で一面の地面を覆ったドクダミを鎌でひっかきながら、だからもう社員と同じなんだから社員にしてくれといっても年金よぶんに払うことになるのがいやでさせてくれなかったのこっちの仕事は日曜日にやってくれと言ってきながらねと顔を上向けて、まあちゃんは厚生年金にははいってないの? と声をあげてくる。親方の奥さんからは入るなら計算してあげるわよと若いとき言われたけど日雇いの稼ぎが減ってくのもなんだからはいらなかったよと答えると、あらもったいない国民年金だけじゃどうにもなんないけどもらえるときにもらっとかないともらえなくなったらいやだから六十すぎたらもう払わなくてもいいから楽だけどもらっておこうかオッサンと話してるのよ、と立ち上がり、緑色のプラスチック製の熊手で搔き集めた草をオレンジ色のプラスチック製の手箕で受けて、もう車はないのだろう駐車場のコンクリート土間においてあるナイロン製の枝葉専門の緑色の四角い袋のところまで行って詰めこんでまたもどってくる。上の方の整枝はおわってきたので一段脚立の足場を降りて、いっちゃんは植木屋さんになるまで中学卒業してからプレス工で十年以上働いていたから厚生年金8万くらいもらってるんですよとつけ加えると、あらいいじゃないと答えるので、だけど国民年金払ってなくて厚生年金があるのも知らないでいてお金のことはぜんぜん考えてなかったんですね飲むのに使わなければ家のローンだって払い終わるぐらいなんだけれどとしゃべりながら剪定鋏をいれ、これまで枝をきちんと抜いたかどうかもはっきりしない小透かしで仕上げられて密になった枝の重なりに野透かしの手加減をどれくらいにしようかと考え、帝王切開で700グラムのあかちゃんが産まれたというつい一昨日だったかきいたいっちゃんの次女の話を思い出し、お祝いにあげたのし袋にちゃんと2万円はいっていたかなと心配になる。いっちゃんの次女はたぶん駆け落ちみたいに茨城の田舎のほうへ嫁いでいったんだとおもうよいっちゃんのアパートは四畳半の2LDKだから長男が婿にいっても夫婦娘二人では寝るところもままならないだろうからと女房に話してみたとき、だけど帝王切開で700グラムというのは大変よたぶんその子は障害が残るかもしれないねだけど3万円は多いわよと言われたので、いっちゃんはたぶんお金に困っているとおもうんだよね1万じゃなければ3万になるんだろ奇数じゃないど駄目だとかと返答すると、いまはもう偶数でも関係なくなったのよという話に落ち着き、薄い墨汁液の筆ペンで書いていた住所と名前に20000と金額欄の四角い空白にいれて、カンマはどこにいれるのだかよくわからなくなってこのままでいいや0は四つでいんだよなと不安になったのだった。おめでとうございます、と、炎天下のアスファルトの地べたに座りこんでそれぞれの缶ジュースを飲んでいた午後三時の一服時、役所仕事の清掃局の敷地にあるヒマラヤ杉にのぼっていると下で低木を切っていたいっちゃんの受けたスマホの対応からもれ伝わってきた言葉から推論してきいてみるとそうだというので、小さんがすぐに応じたのだった。じゃあまなぶちゃんとおなじだね、と小さんは清掃局の裏の路地の向かい側の家の奥さんが差し入れてくれたオレンジの手作りシャーベットをプラスチックのスプーンですくって、産道を通らないから頭がまん丸になってくるのよと言って食べたのに、小さくてまん丸だとほんとにパンダの赤ちゃんみたいですねと上野動物園で産まれた双子パンダのニュース映像とだぶってつけ加えて言った言葉が、すでにのし袋に入れてあった3万円の中から1万円だけ抜いてあとはそのまま手をつけなかったよなと振り返ってみようとする脳裏によみがえる。手伝いにいっている造園屋の職人のまなぶちゃんの赤ちゃんの写真は脚立にのぼるまえにスマホの画面でみせてもらっていて、横浜ベイスターズのユニホームを赤ちゃんが着ていたのは、警察官になりたいといって今月その公務員試験を受ける予定でもある息子が急に横浜の大学を受けたいというのでなんでかなと考えてみたら夕食時いつものようにベイスターズの試合を生中継でみせられていたからもしかして野球がみたいからなんじゃないかと言った反応で小さんが開いてみせたのがベイスターズの公式ホームページのコマーシャルなのだった。まなぶちゃんの奥さんはサントリーの広告会社に勤めてるから広告に応募してみたら採用されたんだって可愛いわよね、と言い、このあいだサントリーの職域接種でお台場にいってモデルナ打ってきたら異物がはいってた番号のやつで、いっしょに受けたまなぶちゃんもえ~っとなったけどまだなんともないからだいじょうぶだろうって話しててと言いたしたので、注射針をワクチンの瓶に斜めに指すとゴムの破片がまざってそれは粒大きいからだいじょうぶって話になってるけどだいじょうぶなやつで二人も若い人が亡くなったらそっちのほうが問題なんじゃない? と答えたのに、そうだよねえ、と彼女は応じたのだった。

  脚立の上から、庭に面した一階の部屋の様子をちらとのぞいてみる。カーテンが大きく開いているので、一人暮らしの奥さんがもう覗いてくるようなことはないだろう。手入れにはいってしばらくして、部屋掃除を請け負う業者の男性が一人、軽ワゴン車で訪れてきていた。仕事まえの造園屋での打ち合わせでは、その家の奥さんは変わっていて、カーテンの端を少しだけ開いてこっそりとずっと作業を覗いているのだと説明があった。顔をあわせた挨拶では、はっきりとした口調で話す奥さんだった。椎の木の隣にある赤松の葉はほぼみな赤茶けていて、もう次期枯れてしまうだろうと思われた。人の背丈より少しだけ高い程度だとはいえ、古びた幹は地を這うようにしてから立ち上がり、鎌首をあげた蛇のようにもみえる。ところどころに、太い枝の切り口がみえた。この夏の暑さつづきのためというより、剪定に堪えてきた庭木としては寿命に近くなったのだろう。表門から玄関への通路を挟むようにして植えられた枝垂れ紅葉も、大きくはないが古びていた。私の母親もそうだが、家に取り残された年老いた奥さんが、木が大きくなったからもっと切ってくれ、と急に言い出すことがある。いつもと変わらないのに、なんでそう言い始めるのだろうと考えてみると、腰が曲がり、背が縮んだせいで、木が大きくみえてくるのではないかと思われた。そうして木は小さくなり、必要な枝葉をなくし、弱っていくのだ。

  古びた椎の木と松の木の間で、吉永小百合似の小さんが、鎌で草を刈る。