2022年7月17日日曜日

釜の底が抜ける、ということ


「コジェーブが、そのような「最後の人間」の類型例として、注記して、物質的欲求の追求に自足し、いわば動物化したアメリカ類型と、スノッブ(形式的洗練と疑似の高貴さ)的あり方に淫する日本的類型をあげたことは、よく知られている。またフクヤマ自身がこの空白を埋めるものとして、プラトンの人間の三要素、欲望、理性、気概から引いて、その著の後半を気概(テューモス)の大切さを強調するのに費やしていることも、周知の通りである。でも、著作の後段を占めるこの気概をめぐる議論を、私はそれほど有効な議論であるとは受けとっていない。(略)ここでフクヤマがいいあてようとしていた「歴史の終わり」とは何の「終わり」か。/それは、東西冷戦の終わりでも、初の共産主義国の試みの破綻でも、マルクス主義思想の体現する未来の終わりでもない。近代の終わり、ヘーゲルのいう世界史の終わりですらないかもしれない。いまになってわかるのは、それが、これらをささえていたもっと長い射程をもつ世界の考え方の、「終わりのはじまり」だったのではないかということである。」

「水野が理由としてあげているのは(『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書にて――引用者註)、一六世紀からはじまった資本制システムが、五○○年をへて、とうとう空間的にも時間的にも「外部」を搾取しつくしてしまい、もうそこから利潤を生みだすべき「フロンティア」を失おうとしているということである。議論は、本文にふれた柄谷行人の「人間的資源」の限界の説に一部重なるが、もっと徹底している。したがって、結論としていわれるのは「革命」ではない。その代わりに、資本制システムが、いわば内的な理由から終焉を迎えようとしている以上、われわれは、これが世界の混乱へと進まないよう、新しい考えに立って、新しいシステムを構築すべきだとする。」(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』 新潮社)

 

参院選挙が終わり、予想通りの自民圧勝となった。それに与党化した野党を加えれば、戦後民主主義の底が抜けるとかいうよりも、日本の何ものかが盤石なままだ、と想定すべきだろう。まだ未熟な新規政党らの出現がなんらかの症状を呈しているとしても、それをあげつらうことに意味がでてくるとは思われない。が、日本の何かが揺るぎない反応で凝り固まろうと、世界の底は抜けていく。ワラをつかんでいるにすぎないことを、認めるのが怖いだけだろう。安倍元総理の死は、投票率を押し上げたかもしれないが、祖先の墓仕舞いをし、自身は子供らに迷惑をかけたくないと、無名的な共同墓地ですましていく親子たちが多くでてきている。そういう事例を鑑みても、私たちの底自身もまた底抜けになりつつあるのが、誰の目にも明白になったとき、民主主義的観点からはいかがわしく思える者たちが、どう機能していくかは未知数だ。私たちが、もし存続していくのなら、わけのわからない世界に入っていくのだろうから。

 

しかしとりあえず今は、わけがわかりすぎる。ウクライナ戦争にせよ、自民圧勝にせよ。「歴史の終わり」のフクヤマが言っていたように、「気概」が復活してきているわけだ。人間とはそういうもんだ、みたいに。この攻撃欲動的なものに対し、というより、その否定は人間の条件上できないのだから、それを外にではなく、内に向かわせる、という二つの世界大戦の後遺症から、9条的な実行に転換しようと目論まれてもきていたわけだが、もうそんな仕掛けだけではもたないのかもしれない。ロシアの作家は、現状のロシアについて、その思想を説きもしているけれど。(ミハイル・シーシキン「プーチンは皇帝か」朝日新聞朝刊7月5日)

 

ソ連崩壊後に起きた湾岸戦争への国内での反戦運動について、冒頭引用の著者・加藤典洋は異議を申し立てたわけだ。「平和憲法がなかったら反対しないわけか」、と。が、3.11の経験を受けて、あるいは息子の死もあってなのか、反戦の著名活動の中心でもあった柄谷行人の世界認識を受け入れて近づいている。一方、その柄谷本人も、加藤の批判的論点、「ねじれ」という内的現実=歴史を受け入れ熟考しはじめた。キリスト者としての自覚は後から来るという内村鑑三論や、たしか中野重治についての論考が、加藤の批判への応答になるだろう。たしかに、「ねじれ」ているかもしれない。が、あとから、それが真実で真正な態度になるのだという精神分析的な現実性で説得論理を構築してみせたのである。柄谷の、押し付けられたものであるからこそ真正なものになっていくという9条理解の論法も、その延長上にあるだろう。

 

しかし柄谷と加藤とは、お互いが歩み寄ったとはいえ、懸隔はそのままとみるべきだろう。柄谷用語で言ってみるなら、柄谷の論理は他者の外部(出来事一回性)にこだわるがゆえに反復(更新)という時間仮説になり、加藤のはあくまで異者という観念を保持しようとしているので、その時間は線的、物語的になる。いわば、マルクス的かヘーゲル的かという差異だ。しかし、ヘーゲル的だからといって、思考の問題としては、わるいわけではない。フランシス・フクヤマは、プーチンによるウクライナ戦争への見立てを見事にはずしたが(「プーチンは完敗する――私が楽観論を唱える理由」『ウクライナの未来 プーチンの運命』講談社α新書)、そのシンプルな思考や着眼点は、そう容易に否定できるものではない。

 

加藤の『人類が永遠に続くのではないとしたら』も、歴史が反復(永遠回帰)ではなく、時代的な変遷、進行方向を持つという時間仮説が濃厚である。思考の素材の解釈について、柄谷教養の私とは違ってくるが、その取り上げられる材料や着眼点は、このブログで追求してきたものと重なってくるだろう。しかしそれらをいちいち追求して論としてまとめてみるという、学者というか批評家的な欲望と暇を私はもっていない。私は、小説家として考えているだろうから、前方に実践して、賭けて認識する。

 

もし、人類がこの今のわかりきった苦難を乗り越えるなり、やり過ごすなりして存続するならば、次の対談引用に伺われるような、もはやこれまでの人間や自然観では定義できない位相に入っていくことになるのだろう(それが、水野和夫も16世紀に起きたという「釜の底が抜ける」ということだ。ダンス&パンセ: 現状を考えるための引用 (danpance.blogspot.com))。それは、人間(精神分析)としての反復ですらないのかもしれないが、他者との固有性が更新されるものではあるのだろう。

 

《「鈴木 …そうすると、最終的に行き着くのは、ナノロボットの類を脳に入れて、一個一個のニューロンに付着させるというやり方でしょう。それをやらないと、深い構造まで情報が取れない。だから、研究者はそれを目指すに決まっています。…(略)

 もう一つの方向性は、医療ですね。医療と、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)の延長上としてのナノロボットという二つの方向性で、これから数十年間のうちに計算パラダイムが、おそらく生体システムの中に取り込まれていきます。それは、人間かもしれないし、人間ではない動物や植物なども含んでいく可能性もある。人間は、認知能力を拡張したいという欲望と同時に、生体システムだってコントロールしたいと考えたいはずです。/それを生命の進化としてどういうふうに解釈するかは、ここ数十年というタイミングで絶対に問われるところです。森田さんの好みではないかもしれませんが、必ず出てくると思います。

森田 健さんのおっしゃる、インターフェースを消し去っていく方向には不安を覚えます。たとえ、生命が計算に類似したふるまいをしている面があるにせよ、それはあくまでいま見えている範囲のことであって、現時点で見えているだけの理解に基づいて、どこまで生体の作動に介入していいのか。/医療の分野でそういう方向に進んでいくことは容易に想像できますが、そもそも僕たちは生のことも死のこともほとんど理解できていません。技術によってこれからいろいろな方法で寿命が延びていくにしても、死ぬことの意味や、よりよく死ぬことについての探究は深まっていない。このままではあまりバランスが悪いのではないでしょうか。/最近の研究によると、一般的な家庭のなかでも二○万種くらい生き物がいることがわかってきているそうです。(ロブ・ダン『家は生態系』白揚社)それこそPCR法とかを使うことで、給湯器や冷蔵庫、オーブンの中にもたくさんの細菌や古細菌が棲んでいるとわかってきた。そういう生物の多様性そのものが、人間の健康にも少なからぬ影響を与えていて、ある意味では、とっくの昔から神経系の外で行われている膨大な計算が、生命を支えてきたわけです。すでに土の中でやっている計算とか、空気の中、冷蔵庫の中の古細菌がやっている計算みたいなものに気付いて、これに耳を傾け、長大な歴史を持つ自然の営みを受け止めることの方にもっと知恵を絞っていく必要があるのではないでしょうか。」(「数学と生命の関係をめぐって」『新潮』20221月号)

 

*参照引用

 <「長期の一六世紀」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションは、近い将来か、あるいはすでに進行中のこととして、自由な交通空間の開拓や実験という志向性に屈折がもたらされ、管理された全体性の空間へと求心的に凝集し、その帰結として構築されたシステムは、なんらかの独話的な普遍性によって理念的に閉じることになるだろうという見通しだった。

 対して「グローバリティの句切れ」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションが、本源的生産要素、さらにはその背後にある人間、自然、信仰といった、むしろわれわれの生の本源性そのものにかかわる概念の再定義の過程をめぐって激しい政治的なバーゲニングが展開されるだろうという見通しであった。

 二つをあわせて近未来のグローバリティのかたちに対する示唆を引き出すなら、今後グローバルな空間が求心的に閉じられていく際に、人間、自然、信仰にかかわるなんらかの新しい定義が、その秩序を定める規準として理念化されるだろうと思われる。たとえば、遺伝子操作の可能性を包摂した拡張的な生物学的人種主義に基づいて境界を画定された「世界」や、特定の生態系に密着するかたちで閉鎖的かつ持続的な物質循環の系を構成する「世界」、あるいは宗教の厳格な共有を基底におくことで閉じた相互扶助の体系を成立させる「世界」もありえよう(こういった諸々の可能性は、部分的にはすでに実践されていることでもある)。またいずれかひとつの規準ではなく、複数の規準の組み合わせによるケースも十分考えられる。

 重要なことは、そのような規準がどのようなかたちで結晶化するにせよ、それが交通空間を求心化させる理念へと転化するならば、現在グローバリゼーションと名指されているこの過程は、今後おそらく数十年程度の時間で、理念的な空間認識の次元において、相互に不可視化しあうような複数のシステムの併存というかたちになることが、比較的高い可能性として予想できるということである。それは、かつての近世帝国の「伝統的」な普遍性のかわりに、生の本源性の名において設定された理念の共有によって構築された、いわば「新しい近世帝国」とでもいうべきものに近いのではないかと思われる。」(『世界システム論で読む日本』山下範久著 講談社) ダンス&パンセ: 世界システム論で読む少年サッカー界 (danpance.blogspot.com)


<『「大崩壊」の時代』のすぐあとに刊行された『人間の終わり』の冒頭でフクヤマは、悲観的な予言を示す。「これが重要なのは、人間本来の性質なるものが存在し、しかも意味ある概念として存在し、そのおかげで種としての我々の経験が安定的に続いてきたからである。これが宗教と組み合わさって、最も基本的な価値観を決める。政治体制の種類を形作り、制限するのは人間の性質である。だから、我々の現在を変えるほと強力なテクノロジーは、リベラル民主主義と政治の性質そのものに、おそらくよからぬ影響を与えるに違いない」。それにつづいてフクヤマは、人間本性とバイオテクノロジーについて興味深い議論を展開している。さらには、バイオテクノロジーの発展は、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で「監視社会」として描くものよりもさらに恐ろしいとまで論じる。>(『「歴史の終わり」の後で』 フランシス・フクヤマ 中央公論社)

 

世界が終り、人類が壊滅的になろうと、引っ越しはする。次の準備に忙しくなる。


2022年7月2日土曜日

右翼的なものの再来


 「だが、「右翼」であることには、様々な形があり、「右翼」は何度でも再来するということ、そして、「右翼」であることは、何よりも日本の庶民の情緒的、あるいは心的な構造の中に内在するものに根拠を持つものであり、現れる様々な変遷を辿ることによって、時代の変遷を、社会的変化を描くことができるということを示したように思われるのである。我々は、戦後というものを戦後的理念=「平和」、あるいは民主主義の理念とその批判的な受容、そして、その内在化といった観点の変遷から考えがちである。だが、そうした観点は、知識人の頭の中にしかないもので表層的なものでしかない。むしろ、生活する人間の情緒的なものに根ざした観念的世界がいかに時代の変化を蒙っていくのか、ということのほうがより根底的であり、中上が「右翼」を描くことによって示したのは、こうしたものである。」(河中郁男著『中上健次論』第3巻 「幻想の村から」)

 

参議院選挙を来週にひかえているそうな。

私自身はあまりいわゆる政治、その「いわゆる」を代表するような選挙には興味が持てないでいる。成人式にもいかない若い頃はそれどころではなかったし、教養的に落ち着いてきた今でもその意義が理解できないでいる。仕事での付き合いにはかかわらないようにしているので(私にとってはそんな日々の駆け引き闘争こそが政治的である)、現場に関わりなく自由に投票はできる。食料や電気、最近はリフォーム中の家を含めて、生活クラブを利用しているので、その経由でか、今の住所では立憲民主の蓮舫と辻元の推薦と、長妻昭から自筆の手紙が届いてくる。自民圧勝は避けたいから、第二政党に頑張ってもらう必要があるのだろうな、との考えも浮かぶのだが、釈然としないのが今回の気分。いつもは、女房の言われるままに近いのだが…。

はじめて、NHKの日曜討論などをみて、代表者の意見を聞いてみたりする。肌感覚的には、N党の立花みたいのが面白いし、考えは違うとはいえ、ホリエモン周辺の天皇制的な同調メンタリティーから切れているグループには頑張ってもらいたいのだが、いきなり防衛問題で敵基地攻撃容認派らしく、だいぶ、自民にすり寄ってきていると感じる。その立花と犬猿の仲のように日曜討論ではみえた、山本太郎を、フェイスブックで応援する知人のメッセージも読んだ。たしか3年前くらいか、彼と飲んでいて、その名を知っているかと聞かれたので、「芸術は爆発だ!」の人かい? と聞き返すと「それは岡本太郎だろ!」と返されたので、「ああ、走れ! 走れ! とか歌う人だろ?」と訂正すると、一瞬考えこみ、「それは山本コウタローだろ! おまえ、何も知らねんだなあ」とあきれられたのだった。しかし、今なら、知っている。そしてやはり、演説中の目の玉の動きと身振り手振りが気になってしょうがない。なんだか、ヒトラーの演説と重なってきてしまうのだ。本心で、何を考えているのかわからない、怖さがある。

と考えていたら、次の日曜討論、草野球やってて見逃してしまったが、N党の幹事だかをまかされている「つばさの党」の党首、黒川あつひこが、安倍晋三はおじいちゃんからCIA~とか歌い始めて、討論会をぶちこわしたとか。私はコロナ関連ニュースから、前身である「オリーブの木」での彼のYoutube活動を見知っていたが、会の存続が危うくなってN党と共闘をしはじめ、「ユダヤマネーをぶっこわす!」とかいう決めゼリフを吐きはじめると、そこまで言うと間違いになるのでは、と思って敬遠しはじめていた。が今回のこの突破は、必要なことだったのではないか、というのが即時的な判断だった。

私のその判断の是非を検討するため、他の人の意見をさぐってみた。哲学系ユーチュウーバーじゅんちゃんが、民主主義の三番底抜け、とうとうここまで日本は落ちたか、と批判している。一方、副島隆彦は、とうとうここまで日本の民主主義が進展してきたか、と褒めている。私は、副島に軍配をあげよう。

こう考えてみればいい。底が抜けないでこれまでのままとはどういうことなのか、と考えてみればいいのだ。宮台真司は、日本の自滅加速主義の立場をとるそうだが、成り行きで自滅したって、そこから這い上がるようになるとは私は思えない。自覚的、意識的にやって失敗して、はじめてそこからまた這い上がれるものになっていくのだと思う。

底が抜けるなら、抜ければいい。じゅんちゃんは、山本太郎についても、大衆政党としてはしょうがないとはいえファシズムへの危険性を指摘していたが、実際にホームレスなような浮動大衆である私(たち)が、なんでファシズムを恐れる必要があろう。受けて立ち、それでつぶれるならつぶれろ、しかしただじゃつぶされんぞ、既成勢力もろともひきずり降ろして奈落の底へと引きずり込め。自覚的にやって、はじめて、這い上がれる。傍観的に加速を待つより、自ら加速度をあげていくことが、必要なのではないだろうか?

 

日曜討論をぶちこわした黒川氏が、参政党について調査している。私は前回ブログで、この従米ではなく反米保守は日米開戦でもはじめるのか、とか書いたが、参政党の人気者が、自らの選挙演説で、そうなりつつある風潮をそう言って批判しているのだった。がしかしこれは、黒川氏によれば、その立候補者神谷氏は、ユダヤ資本をぶちこわせと言っているがその当人たちと付き合いがありおそらく利用されている、と示唆する。私が動画で判断するかぎり、神谷はそう指摘されて気づいたが、今さらひけず、と嘘をついて選挙演説している、そんな顔だ。選挙前は、子供に日本人の誇りをもたせるよう教科書を右翼的に変えよう、とか発言していたのに(右からだろうが左からだろうが、言葉(口先)で人が変わると思うな!)、選挙では、教科書を自由に選べるようにする、とか、ごまかしている。もしかして、この神がかり的な演説者を使って、影の勢力は、野党を分裂させるというよりは、陰謀的世界に気付き始めた愛国的な金持ちの年寄りから集金しそれを陰謀的に再利用して日本の自治的な芽をあらかじめつぶしておく政略を企んだのかもしれない。黒川氏の調査によれば、まだ満州の亡霊が活躍している、ということになる。

 

おそらく、私が今回の選挙で、ありきたりな選挙行動に釈然としなくなったのは、そんな風潮が出てきたからでもあろう。れいわの山本氏も、陰謀論的言説を取り込んで選挙演説をしていると指摘されているが(参政党もそうやって、大衆になびくことで分断しなし崩しにしているということになる。れいわの支持者と参政党の支持者がかぶっている、と指摘されてもいる。)

 

陰謀論的枠組みを信じる者は、ではナショナリストなのだろうか? ナショナリズムの再来なのだろうか? 佐藤優は、そう警告をはじめている。私は、それはおおざっぱすぎて、現実を、現実を動かし始めた差異を取り逃がしているとおもう。

 

たとえば、私の息子は、運動部活動をやめたが(つまり戦後民主主義の側に立ったが)、警察官へと入っていった(つまり戦前的な封建規律の世界に戻った)。あるいは、職場では、家を継いだはずの長男若社長は、父の仕事としての寺社や民間の仕事は引き継がないと公共工事中心の仕事にこだわり(つまり戦後民主主義の方へ。職人出ずら封建方式よりもタイムカードあるサラリーマン労働にあこがれ)、その結果、若い人がみなやめ一人きりになり、それでも民主的な公共工事にこだわり自らが元請けのサラリーマンなように街路樹作業に駆り出されて大変な労働をやらされるはめになる。私には、プーチンではなくバイデン親分を選んで地獄に深入りしていくゼレンスキーに見えてくる。その風貌も、年恰好も、女房の見かけも。少なくとも、私の親方は、自分の職人が元請けの社員のごとく扱われることに徹底抗戦した。独立している、自分の会社であり自分の社員だ、という気概があった。タイムカードで時間管理し年金徴収や源泉徴収もしっかりした民主的な元請け会社の監督の言う事ではなく、俺の指示で働くから俺の会社であり、会社として独立している、ということだろう。トヨタの下請けどころかその工場でもないぞ、と気概ある経営者は、そのバランス駆け引きに気を配ってきたはずだ。が、もう、そうした気概どころか認識もなく、ただいいイメージな方に、いま金払いの高いほうになびく以外の意識しか知らない。それは、ナショナリズムだろうか? しかし、それしか意識が知らなくとも、無意識は、知っているのではないか? 

 

宮台は、原爆落とされてもアメリカの民主主義の優等生たる日本人は、ケツに糞がついていてもそれを舐めているのと同じなんだ、と愚民を批判している。が、舐めてしまう時代変化はあったろうが、その変化ではすまされない変化しないものが噴き出しはじめている。そして噴き出すことで変化しないものがまた変化しはじめている。息子も、若社長も、それではすまないはずである。もちろん、自滅というのも、すまないことのヴァリエーションの一つではある。

 

右翼だとしても、私たちの心情において、何か変異が起きている。今度の選挙は、それが垣間見えてくるものになるかもしれない。私は、たぶん、第一、山本太郎、第二、黒川あつひこ、でいくことになるだろう。

 

2022年6月26日日曜日

戦争続報(6)


 「前にもこんなことがあったわ。ちがうのは相手がロシアの青年だったということだけだった。わたしたちは愛し合ってたの。でも、その時は、こんなふうにできなかった。彼がしようとした時に、わたしはそれまで隠してたことを告げたんだわ。わたしはユダヤ女よ、って。」

「それで?」

 オリガはしばらく黙っていた。それから異様な笑い声を立てた。そして言った。

「彼、突然できなくなったの。良い人だったし、わたしを本気で愛してくれてもいた。それにインテリだったわ。わたしを傷つけまいとして、いっしょうけんめいにそれをしようとした。でもだめだった。頭では理解していても、体がいうことをきかなくなってしまったのね。それを恥じて、彼は自分のほうから去って行ったの」

 廣野は黙っていた。彼は日本人で、ユダヤ民族というものを頭で知っているだけだった。相手がユダヤ人と聞いたことで、突然不能になるような人びとの内面は、論理としては判っても、とうてい理解できない世界だった。」(「蒼ざめた馬を見よ」五木寛之著)

 

先週は、夜に急に寒くなるので、風邪をひいてしまって、咳がとまらない、と困っていたら、なお梅雨なのに、東京でも猛暑日となった。あっという間に焼け焦げだ。頭痛がする。ウクライナの戦場も暑くなるのだろうな。ロシア兵だろうが、ウクライナ兵だろうが、そこにとどまる住民もふくめた人々のことが気がかりになる。暑いんだから、休戦には、ならないのだろうか?

 

戦争がはじまって、死傷者がで、ウクライナ側が受け入れてはじまった第一回目の停戦協議の映像をみて、私はびっくりしたものだ。何度も同じ映像が繰り返されたので、いっしょにテレビ・ニュースをみていた女房や息子に、きいたものだ。どっちが、ウクライナでロシアだとおもう? ニコニコしているのはどっち? この人物のような顔は、日本ではどこでみかける? いまの握手は、どんな様子だい? …二人はストーリーを追っているだけなのだろう、画像をみておらず、答えられない。私は、私といっしょにゲンバで働いているような青・壮年が、ニコニコと笑顔でロシア代表をむかえ、これからラグビーの試合でもするかのように勢いよく握手を求め、大きく手を振ったその映像をみて、びっくりしたのだった。ほんとにこれが、代表なのか? こいつら、何考えてんだ? すでに人が死んだんだぞ……ロシア側は、権限のない文部大臣みたいな眼鏡の官僚が協議に行かされたのだそうだが、握手を求めてきたウクライナ側の対応に面食らっていた。

 

先月末くらいから、日本でもマスメディアの流す情報に変化への布石みたいな記事が目立ちはじめた。朝日テレビでは、夕刻での通常のニュース後、解説ぬきのまま、田舎の庭で戦争ごっこをして遊ぶウクライナの子供たちの動画がながれた。「大人になったら、兵士になるんだ」と子供は答えていた。これは、ウクライナ頑張れ、と言うより、反戦の暗喩に思えた。今月にはいっての朝日新聞では、男子を徴兵するゼレンスキー内閣の方針に反対する若い夫婦らの意見が、一面の記事で紹介される、というのもあったとおもう。さらに、何チャンだかは忘れたが、「ゼレンスキー疲れ」なんていう字幕付きのニュースまででた。これには唖然とした。なんなんだこいつら、いきなり梯子を外す対応をするのか? 何がやりてんだ?

 

佐藤優も、鈴木宗男の「大地塾」とかいう講義で、今月にはいってからの海外メディアの「潮目」の変化について、英語の記事をずらずらと紹介していた。マスメディアの領域で、日本だけではない変化がはじまったのだろう。

 

ビデオドットニュースで特集された元外務官僚の孫崎亨は、もう高齢のキッシンジャーにはなんら影響力はない、と発言していたが、私は、その真偽の程度を測ろうとしていた。もし、陰謀論的な見方に一定の真実性があるのなら、ダボス会議でおこなったキッシンジャーのロシア優勢の分析評価は、分析ではなく、命令であり、世界は次にはこう動いてもらうという、スポークスマンの役割があった、となる。ゼレンスキーさん、お勤めごくろうさん、もう充分役目を果たした、私たちもこれ以上深追いするとコントロールできなくなるかもしれないし、国際世論を誘導できなくなるからね、もうこの辺で切り上げないとな。わかるよね? わからなかったら、どうなるかも、ね?

 

本当に、そんなふうになっていくのかな、と様子をみていたら、とにかく、佐藤が指摘したように、「潮目」が変わった。まじかい? 偶然の一致と思いたいところだ。が宮台真司も、最近のビデオドットコムで、陰暴論を思考射程にいれていくような示唆発言をしていた。ユダヤ系が関わると言うことは、経済合理性ということではなく、価値だか宗教の領域がどうのこうのと…。雑誌『世界』での特集号での、島田雅彦は、はっきりと「ディープ・ステート」という用語を使って解説していた。私自身も、小説家としての想像力の領域を含めて思考していくので、島田の考えに近いけれども、その「ディープ」という言葉は使う気がおきない。陰暴論にも、グレードがピンキリだし、私自身は、そこを見極める教養はない。だから、なぜそれが駄目なのか教えてもらいたいのに、宮台らも以前まで、そんなものを信じるのはバカだから、という決めつけしか聞かれなかった。

 

そうした決めつけ、ゆえにすぐに脊髄反射的にでてくる批評が、若い人たちに多いのだろうか? ポリティカル・コレクト的というのか? ネット騒ぎにはついていってないので、私にはわからないが、YouTubeでチャンネル登録している「哲学入門」の哲学系ユーチュウーバーじゅんちゃんも、そんな感じだ。途中から、なんか時代についていけなくなっているような気がして閲覧してなかったが、最近、上にあげた鈴木宗男の発言にも、ポリコレ的な批評をおこなっている。いつものことになっているようなのだが、他人にたいする批判はあっても、では自分の意見はどうなのか、わからない。しかもその批判が、その人の引用根拠は右よりのこれだから、この人によっているから、すでに既存のこの意見と同じだ……で、それが駄目だと判断するなら、なんでか、教えてくれ。最近はエマニュエル・トッドを引用して右派になる「限界左翼」になっていく識者が多い、ということのようだが、ではなぜトッドのウクライナ情勢分析が間違っていると判断しているのか、その根拠となる自身の引用根拠を教えてもらいたいのに、頭からの決めつけの印象が強い。鈴木宗男に対しても、彼の話を聞けば、まず第一が女子子供をおもんぱかった住民庇護を一番の理由に即時停戦を訴えているのに、そこには言及せず(ならばあなたはどうしたらいいとおもっているのか? 実際上の選択は二者択一的であり、理屈多様ではない)、ロシアへの思惑がどうの、という既存知からの忖度決めつけで批判しているだけだ。東浩紀などに対してもそうだろう。私は、このブログでも再三言ってきたように、戦争が主語になって襲ってくるようになるのだから、まず止める、と。東も中動態論議の延長のように指摘していたが、私もその構えを共有する。というか、世間では「政治的リアリズム」ばかりで、人間的哲学的文学的洞察が射程にない。たぶん、東は、文芸春秋での小泉悠との対談で、そんな話をしたのではないだろうか? 無料範囲でしかきいていないのでわからないが。

 

で、「哲学入門」に、こんなコメント投稿をしてみた。ちょっと時期外れな閲覧だったが、私の次のコメントには視聴者からの反応があるのだから、読んだ人もいただろう。で、私のには、良し悪しの反応がない。どう受け止めていいのか、わからない、とまどってしまうのではないか、と予想する。

 

<この戦争をめぐる件、私は宗男氏の意見に近いです。私は、こんなふうに想定してしまうのですが…ウクライナがロシアという通り魔に刺された。とっさにウクライナが身をかわして腕を振り払ったがケガを負ったのは、通行人の皆が見ていた。が、ウクライナはその一瞬できた間に、助けを呼んだり逃げたりするのではなく、俺に武器をよこせとさけびながら、応戦をはじめた。だいぶ長く二人ではりあっている。長くはりあってしまうほど、被害者なんだかわからなくなってしまうのではないだろうか? 皆が目撃していたのだから、喧嘩をやめた示談の場で、皆でロシアを糾弾できるのに。その利点もなくなってしまうような。

 じゅんちゃんの思考は原則、宗男氏のは実際水準、という位相のズレみたいのがないですか?

 自分の考えを相対化するために、チャンネル登録してます!>

2022年6月12日日曜日

コロナ続報(2)

 


先週、YouTubeでのジャーナリズム番組としては、良識的になるであろう「デモクラシータイムス.」で、「ワクチン副反応なぜ認められない 死亡例と因果関係」という特集が組まれていて、その番組最後、去年と今年にはいってからの、超過死亡者数に関する議論があった。

 

日本政府が接種後死亡を正式に認めないのには、権力側として謎がない、いつものことか、と思うだけだが、超過死亡に関する報告は、驚嘆すべき話だった。去年は、年間で6万人ぐらいが増加しているとされ、マスメディアでは、その原因は、コロナに伴う医療逼迫であろう、ということであったが、もうそんなことが起きていない今年にはいってから、さらに超過死亡者数が激増しているというのだ。ひと月単位だったか、ふた月単位だったか、一万以上の超過数が続いているというのである。このまま増加していくと、年間十万こえる、とかになるではないか?

 

このウクライナでの戦争被害者数を超えていく動向、どういう期間での統計グラフだったかな、と、確認してみようとした。がその番組がでてこない。一年近く前の、ワクチン推奨のデモクラシータイムスしか検索にひっかからない。ラインで身内におくった履歴からたどってみたら、なんと、この動画はYouTubeの規定に違反していたので削除した、と出てくるのだった。

 

陰謀論的な番組どころか、リベラル系だから、これまでの世界動向に追従してきた番組だ。それが今回、正反対の視点を打ち出していたので、コロナ・ワクチン後の世界が、こんなんになっているのかもしれないのか、とびっくりしたのである。もちろん、因果関係などわかるわけがない。が状況証拠的には、それ、ワクチンしか当てはまるものはないだろう。SNSなどでは、すでに今年にはいてからの超過死亡者数統計をめぐっては、さわがれてはいたらしい。もちろん、月一万人の普段より多い死亡者数といっても、密度としては、千人に1人増えるぐらいだろうから、生活実感的にはわからない。が、葬儀場や火葬場では、通常ではないはずだ、と、これから現場に行って調査してみる、と記者は発言していたのである。

 

近所に火葬場があり、葬儀を行うお寺の庭管理に入っている植木屋としては、コロナ以前にもどった、としか言いようがない。つまり、ほぼ毎日、葬儀がおこなわれるようになった。昨日などは、夫婦で葬儀だったので、事故とかで二人同時に亡くなったのですかね、と石屋さんと不思議がってはいたが。コロナ流行中は、葬儀も行えないからか、閑散としていたのだ。

 

どうなることやら。

2022年5月27日金曜日

『未完の敗戦』(山崎雅弘著 集英社新書)を読む

 

「日本人は、なぜ死ぬまで働くのか。

 日本の経営者は、なぜ死ぬまで社員を働かせるのか。」(「まえがき」)

 

そう現代に生じる日本社会での疑問を、戦時中の「特攻」に代表される「大日本帝国の精神文化」(考え方)、「自己犠牲」の美学的倫理が戦後も生き延びている連続的なものだと考察し、「本物の民主主義」を実現していくために、その思考態度を理論的につぶしていく作業一環、とこの新書は言えるだろう。

 

ウクライナで戦争がはじまり、三度の世界大戦か、とも騒がれはじめたので、その戦争のことをよく知らないなと、山崎雅弘氏の『第二次大戦秘史』(朝日新書)を読み、勉強になったので、他のいくつかの作品も読んでいたものの延長として、この新刊を手に取ることになった。

 

大枠では、私も山崎氏の主張に賛成である。そもそも野球馬鹿だった私が思考を開始したのも、まさに「死ぬまで」させられるような日本部活動はおかしんじゃないか、という具体的問いからだったと言っていいから、問題意識が重なっている。が、大学は出たけれども社会からドロップアウトしたような私が生きてきた右翼的な現場労働、息子といっしょに関わった少年サッカー・クラブ活動、そして靖国神社の植木手入れの手伝いにも狩りだされたこともある下っ端労働者としては、やはりこの山崎氏の考察は、いかにも学者的な、教条主義的な枠におさまってしまうようで、本当に、現場で生きる日本人に説得的な緻密さをもつことができるだろうか、というと、私としては疑問におもえてくるのである。

 

たとえば、西側民主主義の国家群が応援しているウクライナの戦場、とくにはそのマリウポリ製鉄所での民間人と兵士が入り混じった攻防戦まで行きついた様は、「本物の民主主義」に近い事態なのだろうか? 国連の調停にプーチンロシアがとりあえずのって、民間人は脱出でき、兵士も投降できた。が、ほぼ硫黄島の戦いみたく「玉砕(全滅)」を甘受していく成り行きだった。硫黄島の司令官は最後は突撃特攻したが、製鉄所の地下にこもったアゾフ連隊の司令官たちは助けを求めつづけた。この差異をみるのは大切だが、そのまえに、類似するまでに至ったそこに、今の日本人が何を感受していたかを内省してみることが重要だ。

 

たとえば、そのアゾフ連隊、プーチンからは「ネオナチ」と呼ばれるもと私設軍隊は、サッカーのフーリガンだったと言われる。何年かまえのチャンピオンズ・リーグの決勝会場が、キエフのスタジアムだったりしている。ヨーロッパのサッカー場は、コロナ禍といえども、人だかりと熱狂がものすごい。マスクなどもしていない。死をおそれていないのか? これが、本場の民主主義ということなのか? いったい、民主主義ヨーロッパは、どうなっているのか? 全然わからない! それが、日本人の疑問なのではないだろうか?

 

「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマは、ワールドカップをめぐるサッカーが、戦争の代わりになったのだ、と指摘していた。両者は、死を賭けた真剣勝負に人間の「気概」というアイデンティティーがみたされていくものだから同期的になるという。そしていま、本物の戦争そのものの参加にあって、民主主義の人々が熱狂している、かにみえる。

 

ひと月前ほどの、外国機関の統計調査によれば(「憂国呆談」で田中康夫も引用していたが)、ウクライナに親近感を抱く人の割合、日本人は80%をこえ、他のヨーロッパ諸国は6割ぐらい、アメリカにいたっては、この戦争で悪いのはどこかと問われて、アメリカ、と答えたアメリカ人が2割をこえていた、というのも新聞記事にあったから、本当に冷静なのは欧米民衆、ということも予測できるが、その推論はどけておこう。

 

熱しやすく冷めやすい、昨日の敵は今日の友、となりやすいのが日本人の集団特性とも思われるので、私は今は、前回ブログでリンクをはった大地塾での佐藤優の分析を首肯している。つまり、日本人の大半は、もう戦争の熱狂についていけていない、とくに、官僚や経済界が疲弊している。岸田総理はもっと支援参加したいようだが、そうはなっていない。ウクライナ側が提出した支援感謝を示す国名リストに日本ははいってなかったが、それはいいことだ。結果的に、ロシアは日本を西側敵対国だと評価しえなくなっているだろう。が。疲弊して成り行きでそうなるのと、戦略的にそうするのとでは、全然ちがいますからね、と。私もこの意見を首肯する。西側民主主義国家群は、気違いじみてきている。距離をとったほうがよい。が、佐藤の指摘にあるように、成り行き自然でそうなってしまうというのは、いわば『未完のファシズム』(片山杜秀著、新潮選書)の続き、ということだ。

 

とにかくも、マリウポリ製鉄所での長引く戦闘の模様をみるにつけ、日本人の大半は、より好戦性をあおられたのではなく、もううんざりして、ついていけなくなった、と私はみる。特攻だの玉砕だのと、もう本心から共感できる状態ではない。だとしたら、これは、敗戦後遺症として、戦後に、そうなったのか? 山崎氏の『1937年の日本人』(朝日新書)などを読むと、特攻に通じる美学倫理は、戦時中も現在も、そのまま続いている、と見立てられている、ということになるだろう。私には、よくわからない。戦時中、軍隊教育を受けてきたものたちが、会社経営、部活動などで、その経験を広めたので、戦後にこそ戦時中の教育倫理感が普及一般化したのだとは、文学者や作家の方から指摘されてきた。しかし、頭ではそうだが、もう体がついていけなくなっているのでは、というのが私の認識だ。

 

最近、高校サッカーの強豪校で、顧問の暴力が発覚し問題となった。もともと日本でのサッカーは、岡田元日本代表監督が回顧していたように、軍隊のような野球部がいやで、その脇でサッカー部が楽しそうにやっていたから始めた、というような、民主主義的な流れがあった。少年サッカーでも、ヨーロッパの、プレイヤーズ・ファーストの方針が、コーチ・ライセンス講習などを通して教育される。が、それは頭だけで、現場はトップダウンの指導だ。だから、比喩的にいえば、命令によって、選手は特攻する。日大のアメフト部事件がその典型だ。が、ヨーロッパのプレイヤーズ・ファーストでは、子供のころはチャレンジして失敗してもよくやったとほめられる、コーチの指示がおかしいとおもえば意見し、コーチも一人の人格者として子供に対処する。日本では、言われた通りにしないからそう失敗するんだろ、と叱られる。観戦者の親からも、そうしつけられる。だから、黙って従うようになる。また上手な子は、小学生の頃から強いチームへと移籍していく。ヨーロッパでは、それはペットの犬を可愛いく高く売れるからと赤ん坊の頃に親元から離すときゃんきゃん鳴く犬になって躾ができなくなるから生後すぐには販売禁止というように、小学生まではホーム・チームからは移籍できないと法的制限ができている。そうした文化・科学的な養育の結果、比喩的にいえば、自発的に特攻できる選手が育っていくのだ。ワンプレーワンプレーがチャレンジ精神に満ちて真剣勝負、肉弾をおそれない。練習の時から。その様が、大リーグや本場ヨーロッパのチームに移籍して覚える日本人選手のカルチャーショックになる。が、それは、小学生のころから、自分が大人(人間)として認められていた、批判してもOKだったという体感からきているのだ。セルジオ越後は、もし指導者が選手をぶんなぐったら、選手から殴り返されるだろうし、そういう人は指導者になれない、と上の事件について言及している(秀岳館高校サッカー部で起きた暴力行為にセルジオ越後「もしブラジルで監督が選手に手を上げたら、逆に殴り返されるだろう」(週プレNEWS) - Yahoo!ニュース)。

 

だから、そもそも、「特攻」という、死を前提とした作戦は、本場では成立しない。たとえその試合で負けても、次がある、チームや国が滅びるわけではない。投降し捕囚となっても、リーグ戦的に、戦闘はつづくのだ。次がある。あきらめない。そういう「精神文化」として、サッカーが、戦争がある、ということだろう。

 

だけど、それが、本当に、いいことなのか? 息子とのサッカー経験を通して、私はこのブログでも、ワールドカップでの勝利など第一に目指す必要はない、と言ってきた。自分たちの筋を通した戦い方(私はそれを「居あい抜き」の美学、刀を抜かない引き分けの試合を理想とする美学)で、結果的に好成績が残せればいい、と主張してきた。というか、本場のサッカーチームは、実際にはそうしているのだ。流行にまどわされず、イタリアはカテナチオだし、スペインやオランダはいくら点をとられても攻撃的な優美なサッカーを志すし、スェーデンなどは4-4-2のシステムでの防戦を崩さず隙があったときだけのカウンター攻撃に徹しているかのようだ。だから、最近なくなったオシムは、日本人の戦い方を編み出すのだ、と説いたのだ。

 

私たちの筋とは、なんであろう? 戦争に疲弊してしまうこと、ついていけないこと、そこに、あるのではないだろうか?


※柔道では、全国大会を中止したそうだ。勝利至上主義に、子供たちがついていけず、楽しむ、という基礎が壊されてきたからだ、と井上康生が説明していた。共感だ。野球甲子園も、再考したほうがいいだろう。(ロッテの佐々木投手の活躍を見よ!) さらに、慶応大のブラックジャックとか呼ばれる教授が、入試をなくしたほうがいい、と発言していたが、私も賛成だ。子供の好奇心だけで自家発電できる。自然は、神秘に満ちている。

 

が、最近、陰暴論を取り込んだような保守政党が躍進的だときく(「参政党」というそうだ)。アメリカ情報筋からの資金提供などもうないであろうから、かつての従米右翼な勢力の中から、反米右翼という、眠らされていた本心感情が目を覚まして復活してくるのか? 日中戦争の最中に、アメリカを本当の敵とした太平洋戦争でも、またおっぱじめようというのか? しかし、そうなっても、もう、自衛隊員は、ついていけないだろう。最近のYouTubeでも、閲兵式でばたばた倒れて担がれていく自衛隊の模様がアップされていた((187) 【自衛隊】式典中に次々と倒れる自衛隊員 何があったのか? / 一般客も苦痛な来賓祝辞・来賓紹介・祝電披露 / 第3師団創立61周年・千僧駐屯地創設71周年記念行事 Japanese soldiers - YouTube)。しかし、それでも、好戦に利害のある人はやるのかもしれないが、もう日本人全体がついていけず、みっともないことになるだけだとおもうけど。そしてもし、そのみっともなさ自体が反復なのだとしたら、つまり戦前も実は日本人の大半は戦争に疲弊しついていけてなかったとしたら、その弱さこそをクローズアップし、言語化し、組織化しなくてはならない、となるはずだ。(しかしこちらのほうは、そう指摘する文学作品などもないようだから、やはり、敗戦後遺症なのか?)

 

しかし、そうした事態を予測してくる以上指摘してきた問いに、山崎氏の教条主義は、答えていることになるのだろうか? 私としては、説得論理として、あまりに大枠すぎると思われる。勉強家の優等生だけが、そうだよね、と頭で受容するだけなような気がする。そもそも、本を読まない人には説得もなんもない、かもしれないが、思考としては、そうした他者に向けてこそ、緻密さが要請されてくるものだろう。

2022年5月21日土曜日

陰暴論をめぐる

 


一番最初の陰暴論とは、マルクス主義だと言われる。

マルクスの『資本論』自体は、世の中の複雑さを複雑なまま理解することは人には困難であるから、構造化できることを抽出し、単純化したものだろう。数字や記号のかわりに、哲学的な概念を用いた、数学的なモデルのようなものだろう。わかりうるところと、不分明な所が区別されて、頭の中が整理される。が、それを文字どおり受け止めて、世界は資本構造によって支配されており、ゆえに、それを人格的に担う資本家をやっつければ世界は変わるはずだ、と考え実践する。そしてそう実行されて、陰謀(革命)が成就されたとしたこともあったわけだ。その過程でも、いや上部構造の政治は政治で独立した原理で動いているのだとか、いまなら柄谷行人の交換論(「世界史の構造」)も、資本はより一般な市場経済原理の交換様式に吸収されて、他の三つの交換原理との組み合わせによって社会のあり方が変わるのだ、と訂正される。同じマルクス主義でもイギリスの経験論に立つエマニュエル・トッドによれば、そんな四象限に単純化した思考も、ヨーロッパは大陸系のデカルト主義なのだ、と批判されるだろう。(ダンス&パンセ: <家族システム>と<世界史の構造>――エマニュエル・トッド『家族システムの起源』ノート(1) (danpance.blogspot.com)

 

いま巷に流布されている陰暴論は、資本家や大企業というより、より一部の(ユダヤ系)金融資本家とつるんだエリート政治勢力が世界を動かしていると考え、それをつぶせ、と言っているのだろう。そうしたエリートが何を企んでいるかといえば、過剰になった世界人口を削減し、デジタル管理できるまでにし、自分たちの思い通りに世界を安定化させる、ということらしい。コロナ・ウィルスやRNAワクチンもその思惑のための実行であり、ロシアとウクライナとの戦争も、デジタル通貨を世界導入するための布石、ということになっているらしい。

 

地政学的には、アメリカがヘゲモニーを持つ一極主義を解体し、多極主義をめざす、そっちのほうが儲かる、と踏まえられているとされる。イデオロギー的には、社会主義であって、アメリカの政治中枢に入り込んだネオコンとはその実働部隊であって、隠れトロッキストだ、と指摘される。ジャーナリストの田中宇によれば、敢えてアメリカに過激な言動をとらせることで自滅を加速させるのが戦略だ、という。ただその企みが全的に機能してくるようになったのは近年においてであって、それまでは現実政治として様々な勢力がせめぎ合うのだから、陰の国家(deep state)が操っているとしているのではないようだ。(米諜報界を乗っ取って覇権を自滅させて世界を多極化 (tanakanews.com))

 

常識的に考えても、私たちは自分自身さえ、一つの主体が支配できているわけではない。オナラや病気をおもえば、とても身体を持つ自我世界をコントロール仕切れているとは言えないだろう。そういう人たちが集まった集団世界を、一つの勢力が思い通りにしている、とはとても想定しにくい。もちろん、日本の村にだって、談合があるのだから、世界にも悪だくみを考えてつるむ勢力はあるだろう。浅田彰と田中康夫の「憂国呆談」でも、世界は多極化への流れがあるのだから、「従米一本足打法」でいつまでもやっているな、と提言されているが、これは自然史過程としてそうなんだ、という認識だろう。(「核シェアリング」妄想に異議あり プーチンを反面教師にすべき習近平【田中×浅田】(田中康夫×浅田 彰) | 現代ビジネス | 講談社(4/5) (ismedia.jp)

 

ロシアの侵攻予測をはずした佐藤優は、これまでは本気にしてなかったが、副島隆彦が説く陰謀説が当たっているのかも、ともらし始めた。((176) 【最新:ロシア・ウクライナ戦争】2022年04月27 東京大地塾【新着】 - YouTube

 

田中宇が、陰謀めいたものが機能しはじめた時期を指摘しているように、もしかして、隠然とした当人たちの思惑を超えて、それが自動的に動き始めてしまったとしたらどうだろう? これだけのネット社会である。世論操作は容易になった。しかし、そこで考慮すべきなのは、SNSでもツイッターに代表されるような状況である。様々な意見、ちょっとした差異で炎上するというのだから、それをひとつの方向へと操作誘導するのは困難なはずだ、と見られるかもしれない。が、ツイッター反応は、反射神経的な、脊髄反応と言われる。私は、『進撃の巨人』はエレンに巣食った始原の有機生命、脊髄を模した軟体微生物のことを想像してしまう。自由な発言に思われても、実は、無意識に支配されている。そして狂暴になる。(BCCKS / ブックス - 『人を喰う話 2 『進撃の巨人』論』菅原 正樹著)

私は、今これ以上ネットの無意識に食われていくことに身の危険を感じるので、ツイッターやインスタグラム等には近寄っていないが、それは、習慣的自然になった言語作用が呼び水となって、当人の無意識をせりあがらせて飲み込んでいかないのだろうか? 私には、気味が悪い。

 

つまり、意識的操作としての陰謀ではなく、その陰謀を巣食わせる心の準備を私たちがしてしまっていたのではないか、ということだ。様々な意見やその差異は混然となってある方向へと雪崩れていく。戦争が非人称的に人を飲み込んでいくように、ネット社会も、人々を飲み込んでいく。無意識のアルゴリズムを私たちは知ることはできないが、それは動きはじめると、性犯罪者のように、発散が果てるまでゆく。戦争も、当人同士の気が済まないと終わらないようだ。食われてしまえば、もう論理(意識)の話ではない。陰謀を信じる者も、信じない者も、ネット技術を媒介にせり上がってきた無意識の津波に飲まれて、行き着くところまでいく。陸にあげられたものは幸いなるかな。

 

次回は、その陰暴論の哲学的な意味(方向)に最近の量子論のニュースをからめて、加藤典洋の『人類が永遠に続くのではないとしたら』を参照しながら、もう少し敷衍していこう。

2022年5月7日土曜日

ひととき

 


 ばっけと地元の人たちから呼ばれている川沿いのくねった道路を曲がって、すぐに縄文遺跡の遺る高台の坂道をのぼりはじめると、「こわいわね」と助手席に座った女房が言ってくる。昔は海だった坂下から切りたった崖の上へと一気にかけあがるようにアクセルを踏まないといけないから、重力で背もたれに押し付けられて斜めに上昇していくのは、どこかロケットや戦闘機にでも乗っている気分にさせられるのだろう。こちらはハンドルを握っているので力のバランス加減を保ちやすいだろうが、手ぶらでいるのは、不安になるのかもしれない。私は逆に、対向車が来たらすれ違うこともできない神社脇の狭い道を、頂上を切り開いて鎮座する大学のキャンパスを埋める大木の緑の方へと突き進みながら、黄色い軽自動車が問題なさそうなエンジン音をたてていることに安堵する。二十年使っていた普通乗用車からこのハイブリッドのものに買い替えたばかりなのだが、あまりに乗らないので、いざゴールデンウィークの帰省にと乗り込んだら、エンジンがかからなかったのだ。メーカーを呼ぶと、いまの車は安全装置とかいっぱい付いて電池を食うので、絶対量的な分は乗らないと、すぐにバッテリーがあがってしまうのだということだった。「でもそれでは、車の所有形態を考え直さなくてはなりませんよね。東京では、持ってても乗らない人とか多いんじゃないんですか?」自分では、病院への女房の送り迎えにそれなりに利用していたとおもっていたが、それぐらいでは役に立たなくなってしまうというのが環境に配慮した最新の技術らしい。そのおかげで、実家には電車で帰ることになったのだった。

 

 崖上の一帯を占拠した大学の正門まえの幅広な道路脇に車をとめた。夕刻の4時半に待ち合わせをしていたブライアンは、まだみえなかった。後部座席にいた息子のイツキに、女房が話しかける。「ブライアンには、警察官になったことを言ったの?」「言ってないよ。」と、息子は答える。「わざわざ言う必要ないからね。」と女房はつづける。「友達とか、チェックされるんでしょ? ブライアンは、悪いことはしてないけど…」と口ごもる。「ゴールデンウィークにあう中学の友達とかの名前書いただけだよ。なんで、警察官だって言っちゃいけないの? 俺、迎えにいってくるよ。」とイツキはスライドの後部ドアをあける。「じゃあ、このケーキを持っていって。」と女房が白いケーキのはいった箱を手渡す。「オーケー」と、イツキは出ていった。

 ブライアンとイツキは、幼馴染だ。幼稚園や学校は違うのだが、公園仲間だった。フィリピン人のブライアンのほうが2才年上で、兄貴分だ。よく虫取りのやり方をイツキは教わっていた。ブライアンは明るく人懐こいが、やはり日本の子供たちとは変わっているのか、いじめられていたと聞く。中学生のとき、好きな女の子に、お祭りで知り合ったテキヤの人たちを手伝うアルバイトなどで稼いだ金をあげようとして、大問題になったとも聞く。フィリピンのお母さんとの二人暮らしで、生活保護だ。高校には行かないつもりだったが、野菜などを作るのが好きだったから、夜間の農芸高校というのもあるぞと教えると、そこに入学した。高校では、一番の優秀性になった。野菜作りの熱心さが、ほかの日本の生徒とは違うのだろう。農芸高校を代表して、野菜作りコンテストみたいな、全国大会にも出場した。しかし就職はしなかった。近場のファミレスで働いている。私の勤める植木職人の職場というのも念頭にあったが、マッチョな環境には適さないだろう。そのままブラブラできるなら、そちらの方に可能性が開けていくチャンスを試したほうがよさそうな気がして、私は声はかけなかった。女房は、そんなフーテン的な在り方が気に入らないらしい。中学生のときも、漢字の書き取りなど勉強しろ、夜学じゃ意味がないのだから、もっと社会に出られる学歴を持たせるよう支援すべきだ、みたいな考えだった。年に一度、ブライアンの四月の誕生祝いにと、百円寿司に連れていくのが恒例になっていたのだが、コロナ流行で、社会人となったブライアンとの交流が延期になったままだった。女房は、イツキは別にブライアンと付き合う気はないのだ、もう社会階層がちがうのだから、みたいな口調で、寿司を食べにいくのも気乗りではなかった。私がショートメールを出してもブライアンから返事がこないと知ると、イツキ自身が、職務上はすでにアンインストールしているはずのラインで連絡をとって、ブライアンの休日に日取りをあわせることができたのだった。

 イツキのあとから、受け取った誕生祝のケーキをアパートに置いてくるためにもどったブライアンがやってきた。背が高く、色黒だが、眼鏡からコンタクトレンズに変えたのだろう、結構な二枚目だ。「しばらくだなあ、いつものかっぱ寿司に行くよ。」と後ろに乗り込んだブライアンに言った。「やっとコロナも下火になったからな。」

 二人は、つまりはブライアンもイツキも、コロナにかかっていた。ブライアンは、今年迎えた成人式の集まりでかかったらしい。そう、彼を子供のころから支援している、もと共産党の区議会議員のおばさんの家の庭の手入れをしているとき、聞かされた。地域の問題児の面倒を、彼女はよくみていた。「登校拒否おこした▽くん知ってる? イツキと同じクラスだった。あの子、ゲームの世界チャンピオンになって、いますごいお金持ちになってるのよ。なにがあるかわからないもんよねえ。」という話も聞かされていた。イツキが学校に行くさい、女房から誘っていけとよく言われて一緒に登校していた子だ。たしかに、どんなチャンスに出会えるか、わからない世の中なのだろう。

 そしてイツキは、警察学校にいき、そこではじまった研修中にコロナにかかったのだった。入庁式というのか、そこで患者がでたという報告は受けていたが、しばらくして、まさか自分の息子が感染するとは思っていなかった。が、安心だ。なにせ、警察の寮にいる。自宅療養の名で放置されることもないし、なにかあればすぐに対応できる前線にいることになるだろう。高校三年生の冬に、二度ほど濃厚接触者になっていたが、どちらも検査陰性で切り抜けた。女房に持病がいくつもあるから心配だったが、あっちいってからの感染なので、むしろほっとした気になる。二日ほど熱が38度を超える状態だったらしいが、それ以外の症状はなく、隔離部屋での2週間を過ごしたという。4月の末頃に設定された父兄同席の入校式には間に合った。私たち夫婦も、総勢1000人近くになる警視庁新入生が揃う儀式に参加した。校長先生や来賓の、聞いていて眠くなる長いお話を聞かされるのかとおもったが、そんな儀礼は単なる形だけのものとして、彩りな勲章を胸に付けた軍服のような制服を着た副総監の話などは自覚的に手っ取り早くすまされて、実質重視ということなのか、あとはまだ若い先輩先生の怒鳴るような本音の激励が構内に響くのだった。強く優しくあれ! その節目節目に、敬礼、休め、などの号令がはいり、生徒たちの瞬時に揃う機敏な動きが小刻みな音楽のように伴う。緊迫した空気のなかへ、親たちが撮るスマホのシャッター音が地雷のように潜伏させられていった。

 私はなぜか、なぜ近代国家のなかで、軍事パレードが必要なのかが腑に落ちてきたような気がした。二カ月ほどまえにロシア軍の侵攻からはじまり、長期化の兆候をみせはじめたウクライナでの戦争と重なってきもするのだろう。気を抜けば、狂気の渕へと落ちてしまうのだ。植木職人として高い樹木にのぼっていく私には、そんな想像が体感的につくことだった。経験の浅い若い者のなかには、木登りの中途で鳴けない雌蝉になったように、身動きが不能になってしまうものもいる。足腰がすくんでしまう。登山でいう、クライマーズハイなのだろう。植木屋の木登りでも、メンタル調整は難しい。誰がこの木を登るんだ? 頂上をみあげて、みなが押し黙る。僕が行きますよ、と私が言う時、それは今日で終わるかもしれないがまあいや、との諦めの境地の中で、心の芯を立ち上げ堅固にしていく過程がある。集中が切れれば、落ちる。そして、私は落ちたのだった。疲労から神経が続かなくなって、魔が差した。すぐそこの枝だと思って手を伸ばすと、ずっと向こうで、届かない。天が回って揺れ、下を見ると、コンクリの屋根が迫っていた。それでも、人は地の渕から這い上がらずには生きられない。年に何度か、男気を発揮させるお祭りが儀礼化されてきたのも、自然の恵みを祝うのみでなく、その猛威を垣間見せてくる自然に立ち向かう気力を萎えさせないためだろう。人工的な国境ができてからは、鉢合わせになる緊張を迫るのは自然だけではなく、人間同士となった。体感を超えて、不自然に過密したということなのかもしれない。隣人の、他人とのちょっとした違いが、奈落の渕へと落ちる恐怖を拡大させる。自然を称えるお祭りではなく、人工的な武器で飾られた軍事パレードが、その渕へと人を沈ませない英気を維持させる装置となる。

 2年つづいたウィルスの猛威のなかで、戦争という猛威がせり上がってきた。抑えられない自然を、人もろとも殺傷して消滅させようとするかのように。

 

 自動車の後部座席で、久しぶりにあった若い二人は話をはずませている。アイフォンやアイブックの話題の延長で、時計の話になってきた。どうもブライアンは、ネットにつながる腕時計をしているのだろう。アイウォッチ、というのがあるのかどうか知らないが、心拍数やら脈までもが測れるらしい。「俺がもっていった時計、自動車の鍵なんだってよ。」とイツキが女房に話をふっている。「千葉のおじいさん、ホンダの自動車に乗ってたの? 時計になったスマートキーなんだってよ。あれじゃでも、なんか変だよ。」「そうなの? でも車になんか乗ってなかったから、どっかからもらってきたのね。」「みんなGショックだよ。」「えっ、何がショック?」と女房が返すので、「まあ、警察官や自衛隊員は、衝撃があるから、そうなんだろうね。」と私が間に入る。「そうだよ」という息子の返事に、あっ、ブライアンにイツキの仕事がわかってしまったかな? と思いやられる。が二人は、警察官なり自衛隊員なりの職業が秘めやかにされる社会の体裁はまだわからないだろう。なんで警察学校で、休み中の交流関係もがチェックされなくてはならないのかも、思いよらないだろう。社会の渕がそこに開いていても、なお幼い二人には、そこに落とし穴があることに気が付かない。しかしそのうち、気づくようになる。そのとき、息子は、イツキは判断を迫られる。その穴を、どう埋めるのか、対処するのか? どんな態度で、職務につくのか……私が、女房の意向に反しても、二人の付き合いを維持しようとしているのは、いわば伏線だった。おまえのホームはどこだ? 私は、息子に、その感触を忘れさせたくはなかった。ここで、幼なじみと過ごすひとときが、打ち解けた安心が、自分が返る場所を、振り返れる自分が在ることを約束させていくだろう。それは、人としての判断の、羅針盤になるはずのものだと、私は信じている。

 

 ネタやシャリがさらに小さくなって、まるで子供のママゴト・セットのようなお寿司を満腹になるまで食べて、百円寿司の店を出た。まだ、外は明るく、夕闇までにはだいぶ間があるような気配だった。少しだけ橙に染まった空には、なお青空に浮かぶ雲の白さが輝いて見えた。また大学の正門前で車を止めると、二人は降りていった。縄文遺跡のある神社の境内で、ブライアンは畑を作っていた。それを、新宿のブライアンが作った野菜、というブランドにして仲間内で販売しているのだという。新種の粒の大きなイチゴが今の旬だ。今度は、養蜂もやるという。子供のころは、よく神社の賽銭からお金を盗んでいた。それでお祭りのお菓子を買っていた。いまは、神主さんのお墨付きで、自由に境内を使っていいことになっている。「イツキも野菜の勉強してきな」と私が言うと、「うん、歩って帰るよ。」と返事がくる。

 私と女房は、そのまま先に帰宅する。神経症気味だった女房は、落ち着き始めたようにみえる。二人を連れて、あちこちの公園へと遊びにいっていた頃の心が、蘇ってきたのかもしれない。