2023年3月7日火曜日

『大洪水の前に』(斎藤幸平著 角川ソフィア文庫)を読む


 斎藤幸平氏の『大洪水の前に』(角川ソフィア文庫)を読んだのは数か月前ほどだが、前回ブログで、自身の「洪水」の夢のことが喚起され、また先日、YouTubeでスラヴォイ・ジジェクとノア・ハラリの討論の動画を目にすることになったので、斎藤氏のこの著作に関し、感想をまとめてみようと思っていたことを思い出した。(その角川文庫版では、ジジェクが後書きを寄せていたのである。)

 

斎藤氏の『人新生の「資本論」』(集英社新書)は、すでに私の身につけている既存教養の中に収まるような感じだったので、あまり新鮮味を感じなかったが、本屋でより先に書いていた著作が文庫版になっているのを知って読み、こちらは新鮮な感じがしたのだった。とくには、後書きとして寄せてあったジジェクの、「量子論」を孕んだ「自然」に関する考察が、私の問題意識の一つと重なって、また読み返してみたいと思っていたのである。でYouTubeでのハラリとの討論を聞くこととなった。そこでも、ジジェクは、ハラリや司会者が前提とする「自然」を攻撃していたようにみえたが、英語での番組だったので、正確にはわからなかった。そこで、さっき再読。

 

『大洪水の前に』が「新鮮」と私に感じられたのは、まずマルクスの言葉として、「和気あいあい」という箇所を引用してきたことである。マルクスの認識によれば、資本主義下労働以前の封建制下の主従労働現場の中にそういう「関係」があって、それを「高次な段階として――意識的に――再構築すること」が目指されているのだ、と。この「和気あいあい」は、人間関係というより、「土地」(自然)との「関係」において抽出されてきたものだが、とにかく、そこから、これまでの思想営みの中で考えが甘いとして排斥されてきた「疎外論」の視点が再導入され、そこに、環境問題(エコロジー)的な文脈が接合される。この最初の「和気あいあい」という必要な目的前提があるために、エンゲルスの客観知的な生態史観よりも、マルクスの提示したビジョンの方がいいだろう、という斎藤氏の立場が明確になる。

 

<マルクスにとっての「自由」は、自然科学の発展に基づく自然との物質代謝の意識的な制御に制限されるものではなく、芸術や音楽などの創作活動に従事し、友情や愛情を育み、読書やスポーツなどの趣味に興じることを含む。>(「第七章 マルクスとエンゲルスの知的関係とエコロジー」)

 

たしかに、プロレタリア独裁なるものが実現されたとしても、そこに「和気あいあい」な関係がなかったら、生活実感として資本下労働とあまり変わり映えしないものとなろう。

が、ここで私が注記したいのは、まさにマルクスの「芸術」に対する見方である。マルクスは、ギリシア芸術がなぜなお私たちに感銘をあたえるのかを問うて、それは失われて回復しえない私たちの子供時代の感激が生き生きと再現されてくるからではないか、その生き生きしたものを私たちはもう一度意欲してはならないのだろうか、と問うた。

 

柄谷行人氏はここに、キリケゴール的な意味での「反復」を読んだ。そしてそれは一回性であるから、それは構造的に前提はできない、そうすることは「反復」ではなく「想起」にあたると。しかし、岡崎乾二郎氏が、絵画の分析で言うように、二度似たような現象がキャンパスに見られるということは、偶然ではなく作者のなんらかの意図があってそうしているのだとみるべきだと。つまり、そう構造(無意識)を理論仮説していいのだ、と。フロイトの精神分析の文脈でいえば、無意識とが、医者と患者との対話(交換)においてしか無い、と言っても、そこに似たようなことが繰り替えされてあるなら、そこに無意識(構造)があると前提的に理論仮説していいのだと。

 

問題なのは、その理論返説(虚構)が、人間の観測(分析)においてだけでなく、他の生命たちもがそうしているのではないか、と、最近の科学的知見が示唆してきている、ということなのだ。

 

ここで、ジジェクの、斎藤幸平氏の作品への後書き敷衍解説が、結びつく。

 

ならば、遺伝子とは、反復現象から構造(無意識)を理論仮設させてゆく虚構なのだと。それはあくまで、量子力学的に、観測するから現れてくる物質にすぎない、がそう反復されてくるがゆえに理論仮説された生命現象、あるいは営み自体なのである。遺伝子とは、実在的な根拠でも、依拠すべき自然なのではなくて、それ自体が生命の働きであり、その見かけの一つ、働きの一面である。が現今の遺伝子工学は、その今の科学資本下の人間にとっての必要な一面を根拠として、実在的なものとして扱っている。ジジェクは、この科学資本下での「自然」があくまで人工的なものであって、しかもその人為的な営みの進展が、その向こうに広大にあったとされる伝統的な知見、「母なる自然」もが破壊されていてもはやそこにもどることはできないのだ、と説く。だから、あくまで「科学」な態度の突き詰めにおいて実践を構想しなくてはならない、と。

〈遺伝子工学の科学的ブレイクスルーによってもたらされる主要な帰結が自然の終焉となるような段階である。ひとたび私たちが自然の構築の法則に通じてしまえば、自然の有機体は操作することが可能な客体へと変容させられる。自然は、人間的なものであれ非人間的なものであれ、そのように脱実体化され、ハイデガーが「大地」と呼ぶところの透過可能な密度を収奪されてしまうのだ。〉〈よって、私たちにはふたつの支柱から切りはなされた科学が必要だー資本の自律的循環と同じく伝統的な知からも切りはなされ、ついには自立できるようになった科学のことである。これは、私たちと自然の統一という真正な感情に戻ることはできないことを意味するーエコロジカルな課題と向き合うために残された唯一の道は、自然のラディカルな脱自然化を完全に受け入れることなのである。〉(ジジェク「解説」)

 

しかし、その科学は、量子力学の誕生当時から、以上の地点を「観測問題」として問題化していたはずである。それは、遺伝子という反復構造(「自然の構造の法則」)自体が、人間にとっての観測虚構にすぎないのではないか、と突きつけてくる(性差が、遺伝子だけで決定されるわけでもないことも指摘され、遺伝子にフィードバックされたわけでもない短期的な獲得形質もが遺伝されているとの報告もでてきた。ナチス下の飢餓追跡調査)。そう突きつけてくる量子的現実は、「母」なり「大地」とは呼べないかもしれないが、その人間の観測しうる向う側なのか、お隣側なのか、に、摩訶不思議な自然が、宇宙が広がっている、重なっていることを暗示させてくる。

 

その摩訶不思議な世界との関係が、ジジェク的な意味においてであれ「科学」の態度延長において追求進展されえるものなのか、それ自体も問うていかなくてはならない。私たちを「和気あいあい」とさせ、「生き生き」させてくれるのは、その世界に触れてこそ、なのかもしれないからだ。

 

ジジェクは、新型ワクチンの接種を推奨してはいなかったろうか? 私からすれば、その楽観視は、上のジジェクの自然理解ーー「観測問題」を問題化しているわけではなく、あくまで現科学の趨勢を容認できているーーに現われている。


いま、接種による後遺症の問題が、ジャーナリズム界で騒がれるようになってきているようである。本当の因果関係は不明だが、私の身の回りでも、先月、お隣の40代の息子と、高校時の野球部同級生(50代)が、突然の心臓停止で亡くなっている(解剖まではしないらしい)。NHKのクローズアップ現代「迫りくる“心不全パンデミック”の危機」という特集では、その増加率グラフは、ワクチン接種以前からの自然推移的な傾向の延長として提示されていたが、アメリカでの提示データではそうも言えない結果が示されているようである。

私は、量子力学における「観測問題」の視点から、現今の細胞内レベルのRNA操作ワクチンが、人間の知見では把握できない世界に触れているのでないかと警告してきた。観測しない前、つまり生命現象以前のことが知り得なければ精確なデータがとりえない領域に手を突っ込むのだから、技術的に矛盾を抱え込む。しかし、私たちを「和気あいあい」と生き生きさせてくれる「芸術」を、私たちが産み出せているのだとしたら、その観測以前の世界と交換しえる技術を、すでに私たちは手に入れている、ということではないのだろうか?

2023年3月2日木曜日

石を拾う

 


「外の自然と相似的にミニチュア化された「もう一つの自然」を提示するとき、盆栽では植物の自然の成長に手を加えて、枝の形を針金を使って不自然にたわめたり、切り縮めたりすることによって、植物をいわば「奇形化」させる操作をおこなう。この操作によって盆栽芸術は、ミニチュア化された「自然の怪物」を、意識的に作り出そうとしている。」(「ミニチュアの哲学」『今日のミトロジー』中沢新一著 講談社選書メチエ)

 

枯れた葦などの茂みの向こうで、静かに餌を探しながら川面を泳ぐ白鳥の群れのわきで、こちらは石を探しながら、河原を歩いていた。日が長くなり始めたと感じられる朝はまだ早く、明るくはなっていても、陽は昇っていなかった。4年ほどまえだったかの台風で、堤防が決壊しそうになるまでの川の氾濫があったから、河川敷のグランドやキャンプ場を守るためなのか、土手の内側にさらに砂利をもった護岸工事が始まっていて、河原はすでに重機で均されていた。大き目のショベルカーが、盛り土した台地の上で、長い腕を下ろして休んでいる。

石を探してみようと思ったのは、駅前でお寿司屋を営む「おかみさん」(従業員の若い娘さんたちはそう呼んでいた)から、駐車場の片隅にできた植え込み地を見栄え良くできないかと、庭仕事の依頼があったからだった。おそらくお客から頂いたであろう植木の土を、アスファルトの上へ撒いたりしているうちに出来てきた一角のようだった。お茶の花のような形をしているが、白ではなく紅色をした小さな花をつけた椿が植わっていた。根が深く伸びようがないから、車の停まる方へと傾いて倒れてきてもいた。土を入れ替えたら、という「おかみさん」の意見もあったが、それでも、植え込みを何かで囲わなくては、土は雨で流されてゆくばかりだ。女性でも持てるくらいの自然の石が、いくつか土留めと置かれていた。駐車場のフェンス回りには、黒っぽい鉄平石のようなものが柵のようにして細長い植え込みを作っていて、蘭らしきものが植えられている。ならばフォーマルにと、木曾石でも使おうかとも考えたが、少し値もはるし、すでにあるものと調和させたほうがいいだろう。しかし、もう庭石など扱う庭など流行りでもないから、石屋さんに見に行っても、売れ残りというより使い残りのような、灰褐色のいかにもな玉石のたぐいしかないような気がし、ネットで調べても、マニュアル的な石積みにしかならないようなものばかりで、こちらの想像力を刺激してこない。というわけで、実家帰りのついでに、子供の頃からの散歩道である河原へと赴いたのだ。

しかし、敷き均された河原は小石ばかりで、土留めに使えるようなものはない。河川敷のグランドの側溝には、台風で川が溢れた際のままの玉石が転がっていて、その使えそうないくつかも拾っていく予定にしたが、まだ小振りすぎる。諦めかけていたころだった。足元に、白い輝きがみえる。砂地に頭だけをのぞかせているだけだが、掘ってみれば、それなりの大きさなのではないだろうか。そして洗えば、おそらく蝋のような白い透明な輝きをみせてくれるのでは……とそう確認してみようと、まず試しに、足で石の周りを蹴ってみた。いける、取り出せる、手で運んでいける。石が少しぐらついたところで、両手でつかみ、穴から引きずり出し、地面へと転がした。白い石をなでながら、その顔(ツラ)となる面を探し、天端にもできる平のありか、底にしても安定する広がりを確認した。が、もてない。重いのだ。しかも素手では、すべってしまう。なんどか持ち上げようとしたが、そのうち、川で石を拾うということが、いけないことのような、ばからしいことにも思えてきた。私は石を捨てて、家へともどった。

 

いまその石は、千葉の我が家の庭で、他の川石とともに、シートに包まれている。来週、作業に入る予定だ。いったんは捨て置いた石だったが、なぜか諦めきれず、翌日、河川敷グランドまでは車でゆき、そこから河原の際までは台車で、台車までの100メートル近くの河原の中は、ゴム軍手で滑らないようにして、休み休みしながら、体に抱え込んで運んだ。しかし自宅にもどって、試しに石を組み並べてみると、まだ大きいのがいくつかないと強弱リズムがつかず、数も足りない。すると、高校の頃、一緒に野球をしていた同級生が亡くなった。その葬儀と火葬のために、また、実家の群馬へともどった。護岸工事がだいぶ進んでいるとはいえ、もしかしたら、関越高速道の橋の下ならば、いい石があるかもしれないと、探しにいった。透明な輝きをもった火成岩がないかと。雨の流水でえぐれた水道の縁に、土留めの玉石として手ごろな大きさのものが、ごろごろと堆積していた。

 

拾ってきたものに値をつけるわけにはいかない。設計料として、石拾いの手間賃をつけて見積もりし、「おかみさん」から了解をもらった。

 *****

不思議な話だ。父の四十九日が済んだ翌日の今日、このブログを書いている。冒頭引用の中沢新一氏の著作などを今読んでいて、その不思議さを書き留めておこうと思ったのだ。

 

私はいつも年はじめ、初夢のことをこのブログで書き留めてきた。が、東京を離れ、女房の実家で仕事を独立しはじめたばかりの私には、どこかそんな余裕がなくなった。が、ふといま、自分が私の夢を生きていることに気付いたのである。

私の夢の多くは、水であり、洪水である。このブログを書き始めて何年もかけて、その洪水に呑み込まれていくことはなくなってきていた。むしろ、その川に飛び込み、泳ぎ、立ち向かう姿勢さえ見れるようになった。そして、水が引いていったように、もうそんな夢は見ないようになっていった。

4年ほど前の台風のとき、母を、避難させるかどうか、迷ったのだった。避難勧告がでていたそうだが、そうはしなくて大丈夫、と私は実家に意見した。そして女房の母が亡くなったとき、その火葬するさい、まだ骨になるには間があるからと中学生だったろう息子は散歩にでかけたのだった。骨拾いの時間が近づいても戻ってこないので、探しにゆくと、近くの公園の水辺にたたずんでいた。「白鳥が、近づいてきたんだよ。」その時の不思議さも、このブログのどこかに書き込んだだろう。私は白鳥の傍らで、輝く石を取り出した。私は死の傍らで、生=子供を拾い上げたのではないだろうか? そして助けた亀に連れられて竜宮城にいった浦島のように、不思議なファッションで身を包んだ女性たちが舞うお寿司屋へ、その光り輝く子供によって(を持って)届けられに行く(届けに行く)のだ……

 

私は初夢を、現実に生きはじめさせられているのだろうか?

 

*冒頭引用の中沢氏の「怪物」引用は、上の事態を理論的に整理していくためのヒントとしてである。ひとつ前ブログの岡崎乾二郎氏の「怪物」とは、自然に遍くあるだろう差異の資本としてのあるいは国家としての増殖支配を批判する形象としてだが、岡崎氏の立場はそうした自然がある「だろう」、という両義的な位置である。たとえば、<21978×487912 のような計算結果の数の並びに、なにか生き物が行進していくような具象性を感じるのは、この計算と計算結果が示す対称性(鏡像反転)に、人間も含めた生物が共通して持つ最大の特徴である対称性を見出すからなのか。(『絵画の素』「水のヘンテコなもの」)>と、それが在る、とは断定しない。中沢氏は、在ると断定する。そして柄谷行人氏は、否定する。そう、構造的に前提とすべきことではなく、一回性においてしか無い、そういう反復としてしかない、と。が、その一回性を踏まえるのならば、在ると前提しようと、無いと前提しようと、同じことである。そう前提することによって、何を明確にしたいのか、その理論的必要性の真実性が問われるだけだ。(量子力学的にいえば、波は無であるが、何を明確化したいのか、位置なのか運動量なのかを決めて観測すれば、その時だけ、物質的に真実が垣間見える、つまり確率的には知り得る、ということ。)そして柄谷氏は、そこ(自然=エス、とここでは言ってもいいだろう)から、「自然の狡知」として、超越論的自我が、具象的には「国連」が必要だ、とメタ(高次元)運動していく。しかし私からすれば、むしろそうした思考運動は、ヘーゲルの精神現象学的なABCD…絶対精神への高次元衝迫のようなものが、現今の世界を産み出し過激に回転させているのであって、それを防いでいくものではない、と、今回のウクライナ事態をみて推論せざるをえない。となれば、岡崎氏や中沢氏は、そのエスの中をどう泳いでいくのか、の技術や知恵を掬いあげようとしている、その理論的必要性の方にこそ、私には是がある、と判断する。だから、「国連」といったメタレベルは、なお国家的現実性が強いのだから必要不可避だとしても、暫定的なものでしかありえない、というのが、私の今の認識である。

面白い認識

 


「ペローやグリムがこのような物語を採集しはじめたとき、見出したのは、民族も国(その記憶)も神のような大いなる存在によって創られたものではなく、むしろその神のような崇高な権威が存在するという畏怖すら、森の中を走り回る小さな動物たちの足音、小鳥たちや昆虫の囁き、草いきれ、そよぐ風、川のせせらぎ、という自然の無数のかすかな気配から沸き起こった小さな思い、思わず起きるくしゃみのような、ひそやかなうわさの集積から発生してきたものである、という事実である。

 印象派が風景を形成する光の粒子を見つめはじめる前に、物語のはじまりとなる粒子も自然の小さな動きの観察から発見された。自然との接触から入り込んだ無数の観念の祖型は、やがて人の思考を支配する怪物にまで成長していく。」(「水の精の服を奪い(ひごうのさいご)『絵画の素』岡崎乾二郎著 岩波書店」

 

 

「夢でも幻でもなく、風で揺れて立つ草木の音ではない動く気配の度に体に当たり払われる草木の音が立ちのぼり、確実にこちら側に近づいてくる。

 目の届く距離まで来て四人は声を上げた。女が肩までの長い髪をザンバラにし、口に櫛を啣えて歩いてくる。一人なら逃げ出しかねないところを、タイチもイクオもカツもシンゴも、声を上げて逃げれば後で連から笑い者になるし、逃げようと試みたところで雑木の茂みに行く手を立ち塞がれる事は決まっている。四人は金縛りにあったように立ち竦んだまま、ザンバラ髪、櫛を啣えた女が四人の脇を通りすぎるのを待った。

 オリュウノオバは中本の若衆四人の魂消ようを独り笑った。

 昔からそんな事は路地によくあった。男ならどんな夜道であろうと怖れる事は要らないが、女は違う。路地がいまのようでなく、まだ蓮池のある頃、道は蓮池の脇の水の浸った細い畔か裏山の頂上の一本松の根方についたドウと呼ばれる道しかなかった。ドウとは一本松の根方にある天狗を祭った祠を御堂と呼んだからだが、夜遅くそのドウを行き来するのに、女らは髪を解き口にそれを啣えたりしてたまたま出くわした男らが夜道に女一人が歩いていると思って悪さをしないように、幽霊か魔物のような振りをしたのだった。

 男らは震え上がり、一物は縮み上がる。たとえ擦れ違ってそれが幽霊や魔物の振りをする物の用に足つ女だと気づきむらむらと悪戯心を起こそうと、よほどの者でない限り気だけあせって一物は縮み上がったきりで使い物にならない。ひ若い衆が若い衆になろうとオリュウノオバは何の忠告も与えなかったが、娘には折に触れて、たとえ親や兄弟であろうと男は女と違うので暗いところへ行くな、暗いところで二人になるな、と説いたのだった。」(「七つの大罪/等活地獄」『奇蹟』 中上健次全集10 集英社)

 

 

※ ほんのささいなつもりの呟き(ツイッター)が、怪物(戦争)になっていく。アニミズムが、世界を覆う一神教的な観念として肥大化する。してしまった世界=深淵に呑み込まれないために、またその怪物と闘うために、私たちにできることはなんであろうか? どんな知恵であり、技術、振る舞いだろうか?

 

*参照ブログ;

ダンス&パンセ: 自然哲学の基礎的自然<安定から怪物へ>――内山節(5) (danpance.blogspot.com)

ダンス&パンセ: 怪物と反復――柄谷行人の『憲法の無意識』を読む (danpance.blogspot.com)

2023年2月21日火曜日

庭の営み

 


「ここで僕が述べる「庭」とは、人間以外の事物たちの織りなす豊かな生態系が存在し、それに人々が触れられる場のことをさす。そしてサイバースペースとサイバースペースの支配下にある今日の実空間を、SNSのプラットフォームから解放して「庭」に変貌させること、それが僕の最後の提案だ。僕たちはまず、サイバースペースを普及期の、つまり九〇年代後半から今世紀初頭までのインターネットにある次元では回帰することを目指すべきだ。まだ誰もが相互評価のゲームをプレイし、タイムラインの潮目を読むのではなく、自らが書きたい事物について純粋に批評し、それを発信していた時代に回帰することが必要なのだ。」(宇野常寛著『砂漠と異人たち』 朝日新聞社)

 

何かの新聞の何かの記事で、「庭」という概念をキーに論を展開している著作だと知って、購入して読んでみる。上引用のような「庭」の定義は、実は、「にわ」という原語の概念に近い。『万葉集』の中でもその語の古い語義は、まず漁場、そして山の仕事場、そして家の中の作業場である土間、である。いま人びとが思い浮かべる垣根や塀の内側にある植栽された空間のことは、日本の古語では、「その(園)」や「やど(宿、屋土)、あるいは「しま(島)」という言葉の意味の方が近いだろう。

 

要は「にわ」とは、人が営める範囲の境界側、縁=淵のような領域をさしてきた。そこでは、人間ならざる生物たちとの交流が盛んになることから、人間ならざる異界との交通もが想定されるようになっていったのだろう、と思われる。「市場」とは、「市庭」と表記されもしたのである。つまり、サイバー空間が、「にわ」という語義にそもそも含まれていたのである。

 

私自身の、植木職人での文学実践(実験)も、宇野氏のような試みと重なっている。それはまず、デザインや形以前に、人のそんな本源的な、境界的な営みなのである。それをどう現代の世の中で回復し、つまりはまずはこの内側に境界(差異)としての人の営みを見出しこじ開け、押し広げていけるか、そしてそこになんらかの実質的なネットワークなり制作物を痕跡させられえるかの、試みである。そうした立場からすれば、境界の内側で自足した生活、外側の仮想空間での自由奔放な錯覚に戯れる営みとは、ともにいただけないものとなる。

 

宇野氏の文脈に限れば、事実私は「ブログ」までの活動でストップしている。SNSは、夜勤の荷物担ぎの仕事を一緒にしていた南米からの友人たちが国元へ帰る際「これにはいっておいてくれ」と言われたので、フェイスブックには結構早い時期から参加していたが、ツイッターだのインスタグラムだのは、はじめから問題外というか、身体的に受け入れがたい。おそらく、50代も後半になる人たちは、学生の頃はまだ手書きやワープロだったはずだから、ITリテラシーなるものに不慣れということもあるだろう。深い考えとしてではなく、旧い身体の習性が受け付けない。ただ年の割にはだいぶそうしたテクノロジーの進展についていってはいるだろう私には(スマホの導入は息子より遅くとも、その使い回しテクニックは私の方がすぐ上になる)、やはり思想問題として、そんなものをメインに使う気にならない。はじめからすでにそうなのだから、宇野氏の提唱する「遅いインターネット」に格下げするまでもない。年の功、ということか。

 

そして今そのSNSで炎上している話題の一つに、成田悠輔氏の、老人たちへの「集団自決」したらどうだみたいな発言があるらしい。

 

今月初めごろに、柄谷行人氏が始めて頓挫したNAMという社会運動で知り合った摂津さんと、私も千葉市民になったということで、10年以上ぶりだかに会って話をしたのだが、そこでも、それが話題の一つとなった。摂津さんによると、その中学生の頃の成田氏を、NAM会員の飛騨さんが天才だと言って会合に連れてきていたこともあったそうだ。私にも、たしかそういうことがあったような記憶もあるが、はっきりしない。「今ネットでだいぶ顔をみるイエール大の先生だと言うことは知ってるけど、本とかは読んだことはないな。ニヒルというか、頭がいいのはわかるが、あんまりいい感じがしない。」と答えながら、東浩紀氏や斎藤幸平氏とのネット対談の様が脳裏に過ぎったろうか。たしかその両対談で、成田氏はまず探りを入れるような意地の悪い質問をしはじめて、両人が誠実にそれに切り返していくうちに、成田氏も相手を認めざるを得なくなって自分もまた誠実な対応に変化しはじめた。ニヒルではあるが、このまっとうな変化は、好ましいものである、と私は感じもしたのだった。

 

摂津さんとの話では、「集団自決」の件は、私は問題視しなかった。相模原の福祉施設での殺傷事件のように本人が実行するわけもないし、誰かをそそのかす意図でもないだろうし、つまり比喩であることが明白なのだから、むしろ老人たちは、若い世代からそこまでの過激な発言が出てくることをより真剣に受け止めるべき、というのが私の意見だった。ちょうどそのころ、生活クラブ関連の映画鑑賞の活動もあり、パレスチナのガザ地区内での模様を撮ったドキュメンタリーを見て、その感想で、音楽を学んでいる二十歳くらいのパレスチナの女性が海辺で瞑想し自由を思うシーンから日本の漫画『進撃の巨人』を連想した、と言うと、「あっ、わたしもおもった。壁があって戦争があるのはまさにそう」という女性の応答があった。「だけどその漫画は二十歳くらいの若者が書き始めた作品なんですよ。」と私も応じた。「ということは、日本の外側ではなく、この平和に見える日本の内側にも壁があって、若者には、大人の社会が壁のように聳え立っていて、もうそれをめぐって殺し合いしかない、と追い詰められているのかもしれません。テロとか物騒になって、犯罪も狂暴になってきてますよね。」主催者の目を白黒させてこちらを覗き込む表情をみて、やばいこといったのかな、と思ったが、ちょうどそのあと、ユーチューブのビデオニュースでもルフィー強盗事件をめぐる犯罪問題がとりあげられて、日本の貯蓄額は4000兆円あるが、その大半は60代以上の老人たちで占められていること、40代からはマイナス借金への曲線を描きはじめること、これはもう犯罪者が悪いと言ってればすむ問題ではないでしょう、とあり、まともに考えようとすればそうなるよな、と確認したのだった。

 

「集団自決」という文字を受けて、また文字の世界で応戦し、つまり人の営みの外側に安住してものを言っていてもしょうがない。またその言葉を発生させる衝迫に気付かず生活の内側に自足していても埒があかない。だから、庭=境界に出て、人の営みを取りもどし作っていくべきである。

※ 付け加えると、昨年一昨年の日本での年超過死亡者数は16万人を越えることになったそうである。トルコ地震での、ウクライナでの戦争での死者どころではない。死亡者のほとんどが老人らしいが、その原因の推定はともかく、この非常を問題視もしていないとは、体制側や世間は、そんな「集団」死亡を容認、是としてるということではないのか?

2023年1月23日月曜日

葬儀

 


 父の葬儀には、父と母の身内にあたる親戚へと連絡をしただけだから、数人が集まるだけだろう。それぞれ五人は越える兄弟姉妹のなかで育ったといっても、すでに他界している兄や姉がいるし、生きている者も高齢だから、そう来られるものでもない。自らが勤める施設で父が亡くなったときも、ほぼ事務的に処理されてゆこうとする地元の新聞への告知を、直希は断ったのだ。告知されれば、教師をしていた父の教え子たちが知ってかけつけてくるかもしれず、自ら監督となって息子たち三人とともにやり始めた少年野球チームの同級生たちが顔をみせに来るかもしれなかった。しかしその場に、二人の兄がいないことになるのだ。母は、仙台の実家を守っていた弟の死去後の処置をめぐり、一番下の弟が無理なことを言い出したと不平をもらしていた。父から大学に進むのにも一番世話になった末の弟が一番つれなくて葬儀にも来ないだろうと呟いていた。が、自らの息子たちが、父の葬儀の場にいないのだ。末っ子の直希だけが、葬儀を行う部屋の前の椅子に座ってうつむく母の傍らに立っていた。

父が食を口にしなくなったのであと一週間もしないで看取りになりそうだと、介護施設の担当の者から連絡が入ったのは十二月も半ばを過ぎた頃だった。別棟で仕事をしていた直希は、日勤の職務を終えるとすぐ裏にある入居施設へと向かった。まだ日暮れて間もないが、西側からは覆いかぶさるように山が迫っていたので、裏山へと向かうアスファルトの道は一気に暗くなっていた。振り返れば関東平野が一望できる開けた東の空になお青い残光がとどまっているはずだが、暗さに瞳をならすように、一歩一歩の足元を目に焼き付けるようにして坂をのぼった。街灯のところまでくると、足元から現れてきた黒い影がいきなり立ち上がって前方の道へとのびた。その行く手を仰ぎ見るように顔をあげて、父のいる部屋の灯りを確認した。

当番のインドネシアの青年から夕食のプレートを受け取ると、直希は父の横たわる部屋へと入っていった。もう一名が横になっているベッドとはカーテンで仕切られている。流動食をいれた三つのお椀をのせたプレートを壁際にあるテーブルにのせてから、父の足元の方へもどって、自動でリクライイングさせるベッドのスイッチを手に取り高さを調整させた。もう、自力で目を開けられなくなって久しい。苦しい様子はないが、一定の苦痛に固まってしまったように、片膝を少しあげたまま、動かなかった。耳も、どこまで聞こえているのか、わからない。昨年の末も、もう年を越せないのではと言われていたのだった。そうして、一年がたった。

直希は消毒液で手指を洗うと、ベッド脇の机に整理されたカテーテルを袋から取り出し、痰吸引機のチューブにつなげて、スイッチをいれた。カテーテルの先を握り、いちどアルコール綿で拭ってから、すでに口を開いたままの父の顔元へその管を運んだ。まだ夜更けているわけでもないのに、静かで、蛍光灯の光がなおさら薄暗さを滲ませてくるようだった。口から喉奥へとすっと吸引の管を差し込む。管の先を折って押さえていた親指の力を緩めると、痰が切られ吸い上げられてくる音が沈黙を破裂させるように響いた。その音に感応するように、勝手に手が動いた。もう施設に泊まる老人を看るようになってからどれくらいたつだろう。何人の老人たちの世話をしてきたろう。管を握る指先の振動と音で喉の粘膜を傷つけない手加減が意識するでもなく調整された。作業をしている間、腕が、携帯用の機械と一対となったロボットのような気がしてくる。ああ~、と、父が声をあげた。管を口から取り出し、またアルコール綿でカテーテルを拭きながら、父の様子をうかがった。もう一度、管の先を入れてみる。濁った音が、数珠のようにつながってくる。まだ外国から来た研修生の身では技術が不十分なのか、だいぶ喉奥に痰が残っているようだった。いや日本の熟練した介護士でも、どこまで親身に接することができるだろうか。それは、手を抜くということではなかった。自分の腕の匙加減ひとつで、施設に入居してきた老人たちの寿命が調整されていくことがわかってくる。直希が、父を自宅の近くの施設から、空きの出た自分の山際の施設へと移動させたのも、その施設の暗黙の方針に気付いたからだった。見舞いに訪れる家族からも、言葉にはだせない意向は伝わってくる。ひとりひとりと向き合う現場の者として、自分たちはただ勤務をこなすだけだった。熟練すればするほど、頭の想念とは別に腕が、指先が、感覚が研ぎ澄まされた機械になっていく。が、その機械が、疲労や日常の忙しさからか、突如、魔が差したように鈍ることがある。ちょっとした誤作動はすぐに忘れられても、数日後には、誤嚥性の肺炎となった死として、現実はやってきた。日々、自覚されるようになっていった。その堆積は、自分が人を殺してしまったのではないかという反省を、確信犯に変えてゆく。その認めたくない悶えにあらがうように、ニヒルな無関心と、虚しい陽気さが起伏し、耐えていけない者たちは、次から次へと職を辞していった。

その日父は、よく夕食を飲み込めた。食べている途中でまた痰がからむので、吸引のカテーテルをおこないながら食事をさせた。たぶん、以前の施設で末期を予期され、昨年宣告された最期をも逃れて今にいたっているのは、自分が勤務後に立ち寄って痰の吸引を続け、父の消化のペースにあわせてスプーンを口に運んできたからなのだろう。あとから入居してきた、まだまだ元気な老人たちが、ほどなくして亡くなっていったのだった。父は、まだ肌艶もよく、痰がからめば大きな声をだせた。今年も、年を越せるかもしれない。週一の夜勤明けの休日に、看取りとして母を特別に面会させてやることができるだろう。第八波と呼ばれる新型のコロナ流感は、少しおさまってきていた。自分が父の担当者になることは施設の規則でできなかったが、状況をみての特別な計らいを処置してもらうことはできた。

 しかし母と実家で暮らす長男の慎吾は、東京の知り合いに呼ばれたと家を出たきり、戻っていなかった。次男の正岐は、もう若い頃から、ほとんど連絡がつかないままだった。地元の進学校を卒業して学生として上京したその先で、兄たちに何がおこったのか、三男の直希にはわからなかった。

 母は、うつむいたままだった。真ん中より少し下の毛がごそっと抜けたところがあって、そこを脇の毛で被せて、茶色い大きなヘアクリップでとめていた。父がまだ施設で息をしている間は杖もつかずに歩けていたが、本当に亡くなってみると、もう自力では立っていられなくなったように、下駄箱に立てかけてあったハイキング用のスティックを引き寄せて、すがるようになった。父と母は、同じ一月の二日が誕生日だった。米寿を迎えたその十日後の夜半、父は直希が見守るなか、息を引き取った。その静かに仕舞われた息を引き継ぐように、母が、小さな力ない息となっていった。口数も少なくなった。忌引き休暇をもらったここ数日、直希は実家に寝泊まりしながら、葬儀への手続きをおこなっていった。例年になく死者が多くなっているため、居住区の葬儀場にあきがなかった。火葬場の費用を支援から自己負担に変えて、直希の勤める施設に近い県下でも随一大きな斎場へと父の遺体を移した。忌引きの休日の最後尾まで日取りはずれたが、そうすれば、兄たちが式に間にあって駆け付けられるのではないか、という期待も持った。が母に声をかけてきた身内は、父の一つ下の弟と、母の一つ下の弟、そして父の本家を守っていた長男の息子夫婦だけだった。

 葬儀の時間が近づき、直希は母を立たせて、父が眠る部屋へと歩かせた。いつよろめいて倒れるかもしれない背中に手を添えながら、白い棺桶の手前に並べられたスチールの腰掛へ座らせる。黄色と白の菊の花で波のように飾られた祭壇には、青い空を模している背景の遺影が、こちらを覗いていた。施設にいるときに撮った写真を拡大して、母の意向で、背広を着たように合成させたものだった。父にも、浴衣ではなく、直希が母の言われたとおり、背広を着せた。膝を上げたままの父にスラックスを穿かせるのは容易ではなかったが、葬儀屋の係の者と二人で、注意深くおこなった。棺桶も、膝の骨を折って押し込むわけにはいかないので、平のではなく、高さのある少し値が張るものを使うことになった。

 通夜をむかえ、棺に身を横たえた父の前で、直希と母は、住職の経を聞いた。遺骨を納める寺は曹洞宗だったが、永代供養として、無宗派の形で埋葬することに母はこだわった。父には、遺書があった。そこには、そう希望することが毛筆で書かれていたのだ。しかしその家族に当てられた置手紙は、まだ父が六十を少し過ぎた歳に書かれたものだった。介護施設へ入居したあと、部屋の整理をしていたら、神棚の奥から出てきたものだった。当時のことを、直希はよく思い出すことができなかった。長男の慎吾は、帰省してそのまま精神科へと入院したが、その措置がすみ、退院しては自室に引きこもっていたのではなかったろうか。次男の正岐からは、東京の新宿のほうで植木職場に身を寄せたと連絡があったころだろうか。直希には、母を助けろ、と息子たちに当てたその遺書は驚きだった。自身の自殺を思いつめていたとしか考えられない内容だった。末っ子の自分には、父の深刻さや真剣さはすぐ腑に落ちてくるわけではなかった。が考えてみれば、教育者としての父の息子たちが世間に顔見世できるような成長をしていないことは、心残りであっただろう。仕事の件もあった。勤めていた私立大学の事務長をしていた父は、学部増設のための先頭にたっていた。国からの認可がおりないまま、新学部の建物はできあがっていた。同僚には、追い詰められて自殺してゆくものがいた。まだ中学生だった直希には、よくわからないことだった。なんとか計画は進んだが、理事長の席には予定の父ではなく、天下りの役人がやってきたということだ。父は退職し、再雇用として、裏方にまわった。そうして、何年かたったころなのだろう。

棺の前に腰かけたお坊さんの読経がはじまった。母は、うつむいたままだ。葬儀やその後の処置をめぐる母との話し合いは、父の最期の話が幾度となくあったので、だいぶ以前にすましておくことができた。だから実際の処理を進めるのは、手際よく事務的におこなえた。突如だったら、やはり母に話を聞けるような状態にはならなかったろう。そう、当然のように直希は思えてきたが、子が親をおもんぱかる気持ちと、妻が夫をおもいやる気持ちとでは、だいぶ違うはずである。それは、まずは男と女との関係であったはずである。直希には、中学生の頃からの幼馴染の恋人がいたことがあったが、独り身を選んできた自分には、長い年月をともにした男女の連れ添う気持ちが、想像できてくることとも思えなかった。父の手紙には、自分の想いを募ったものだけでなく、父の祖父にあたるのだろう、昭和のはじめに亡くなった男の家訓の写しが別封筒のなかに入っていた。子供たち八人に当てたもので、名誉のために職に就くな、投機は破産のもとであり一時で稼ごうとするな、近所隣は我が事と思って助け合え、と十か条のような箇条書きで要約されていた。最後には、辞世の歌が添えられていた。株分けし培いおきし白牡丹去年にまさりて咲くぞ嬉しき……もう一通あった。怒りは敵と思え勝事ばかり知て負くる事を知らざれば害その身にいたるおのれを責めて人を責むるな及ばざるは過ぎたるよりまされり……それは、東照公御遺訓として一般にも読めるものの抜き書きであるらしかった。

父は、母を助けろと言葉を遺し、痴呆になっていった。その痴呆の期間は、長く続いた。もう直希が三男の息子であることがわからなくなっても、なお母のことはわかっているようだった。認知症の進行を少しでもやわらげようと、父と母は区民館でおこなう詩吟や書道に通った。放浪癖がではじめて帰宅できなくなったことを契機に、まずはグループホームへと父がはいった。家に残った母は、父の最後の墨絵となったものを書斎の本棚に貼り付けて飾った。展覧会でも特別に展示され、指導した先生からも、これは相当に筆遣いになれた人でないと描けない絵だと評価されたものだった。確かに父は、次男の正岐が小学生の頃、一緒に書道をはじめてから、ひとりずっと続けていた。年賀状も、毛筆だったはずだ。その展覧会の半紙に書かれた墨絵は、大根の姿なのだったが、すぐにはそうは見えなかった。どことなく、蛸に見えた。ユーモラスだが、一筆一筆にのびのびした迫力があった。脇には俳句が添えられていたので、なぜ蛸の足のように何本もの線が引かれているのかがわかるのだった。母と育てた家庭菜園で収穫したものなのか、一本ではなく、何本かまとめて結わき吊るしているものを捉えたからなのだ。大根干す昨日と同じ風の向き……直希は、経の合間に設けられた葬儀代表の挨拶で、その絵と俳句の言葉を思い出した。もう認知症が進んでいる最中で、風を感じ、その向きを感じ、昨日と同じだと感じとる、そうした冷静な父の一面には、はじめて出会ったような気がします、通夜の席で、父親とはもくする山、乗り越えられない山なのだという住職のお話がありました、それは、もう黙ったまま語ることのなくなった父とは、みあげればいつも新しい一面をみせてくる山のような、尽きることのない目安として聳え立っている山のような存在としてあるということなのだろうと……。

父を載せた霊柩車は、山へと昇っていった。そこから連なる山峰は、中部地方をこえて、北陸までも続いているはずだった。いや列島の背骨として、それは南北に貫いているはずだった。その劣端の頂上を切り開いて建築された火葬場の駐車場からは、東北の峰を背にした赤城山の腹筋のようないくつもの尾根が赤く輝いて見え、開けた平野部を跨いで近づいてくるかのようだった。大きな空の真っ青さが、広げた掌で蓋をするように、冬の木々の枝先へと降りてくる。透き通った冷たい風が、なびいた。車から降りる母の手をとりながら、その温もりを冷ます風の向きが、昨日と同じ向きのものなのかどうか、直希にはわからなかった。

2023年1月15日日曜日

「アートキャンプ白州」とは何だったのか

 


先週、千葉は市原湖畔美術館に、《試展―白州模写「アートキャンプ白州」とは何だったのか》を見にいった。去年の末にスマホでそういう展覧会をやっているのを知った。

 

いくつか前のこのブログで、杉田俊介著『橋川文三とその浪曼』の感想を綴ったが、その中で、文芸批評家・中島一夫氏の、<三島の死とは、いわば演劇実践によって文学の「外」に出ることだった。「死なないですむ」芸道=文学=仮構の「外」にしか、「現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との真の対決闘争もな」いのである。>という言葉に触れて、ふと何故か、まだ結婚まえだったろうか、ダンサーの女房に連れられて見た、この白州でのフェスティバルのことが連想されてきたのだった。ダンス界の田中泯氏を中心に始められたその活動なのだから、演劇ではないのだが、私にはともかく、言葉より先に体が動く人たちの性向としてジャンルの境界が捨象されてきたのだろう。そして年明け、週刊文春での池上彰氏と柄谷行人氏との対談の中で、演劇界での鈴木忠志氏の富山利賀村での活動で、その過疎化激しくなった地での農実践が始められた話、さらにはアメリカでの再洗礼派のコミューンの発展の話があった。のでなおさら、あの白州での、ニワトリやロバたちのなかで、人びとが賑やかに蠢いていたあれはなんだったのかな、と考えはじめたのだった。

 

しかし実際の展示を見回りながら、また考えは複雑に折り重ねられた。一室に設けられた大きなスクリーンでの1992年時の光景を移した映像のなかに、中上健次の姿を認めたからだった。六畳くらいの部屋の中でか、活動の関係者だろう若者たちの中に座って、いくぶん気後れした表情で煙草を吸う姿が一瞬映し出された。見学に訪れた時があったのかな、と思ったが、美術館で出版された書籍によれば、最初から準備委員として関わっていたことが知れる。

 

去年撮られた主催者との対談の中で、田中泯は、一番印象に残った関係者として、ふと中上健次の名前をあげている。私にはどこか以外であった。小説中では、こうしたアートな共同体活動を想起させるような話はなかったと思えるからだ。『地の果て至上の時』では、草原になった路地跡にキャンプし占拠する元住人たちの群れはでてくる。中上は、住民にとってはこの活動は黒船のようなものなんだ、泯は責任をとれ、と言ったことがあったそうだ。中上がこの活動に関与したのは、自らの路地なきあとである。そこで、谷川雁と物語をめぐる対談もしている。主人公秋幸のそれからには、このアートな活動の痕跡は刻み付けられるのだろうか?

 

私は、いまこの時に中上が生きていたらどう考えふるまうか、と想像してきているが、最近ふと、答えとして、たぶん生きていられない、と思えてきた。病死とはいえ、その作家の死は、三島と同じ悶絶のように思えてきたのである。しかし私がこうして生きているということは、そこまで思いつめているわけではないということだから、そういう者として、やはり考えなくてはならない。元総理を暗殺した男をめぐり、地元の共同体の崩壊とともに衆人環視の信仰のあり方も崩れ、強引に勧誘してゆく宗教への淘汰圧力もなくなり、バラバラになった個人が密かに浸透されやすくなった、という意見がある。そんな宗教でも、救いになりすがりつくような人びとの現状は、若い世代ほど深刻になっているのではないかと予想される。だから、どうすればいいんだ?

 

考えは、こんがらがるばかりである。

そういう中でも、田中泯のインタビューの返答は、ヒントとして、さらに色々考えさせられる。

 

以下引用;―――

 

<まず最初に、僕は「ひとり」という概念が非常にない人間かもしれません。僕ら一つ一つの生命(いのち)は、この地球上でどこまでも繋がっている。それを観念でなく真剣にこのカラダを通して感じて生きてきた気がします。僕にとっては非常に大きな問題なのであえて説明しています。そういう意味で、「身体気象研究所」という言葉は、グループ名とか集団名というような気持ちではなく、要するに体系を作ることにはなんの興味もなかったし、単なる呼び名程度と受け取ってもらった方がいい。僕にとって、名前や名称ってのは全てそのようなもので、人と人との繋がりは秩序よりも、より一個一個の生命の「群れ」でありたかった。>

 

<「舞塾」も「身体気象研究所」も一緒になって考えたり、ワークショップをするのに一番いい方法は何か、いっそのことみんなで一緒に集中できる場所に移動してはどうか。いつでも稽古に移行できる仕事といえば農業が一番いいのではないか、と考えたのです。>

 

<都会にも人間しかいない、スタジオにも人間しかいないし。人間ではない生き物、植物も含めて、生きている物たちというのに最初にやられました。種蒔きはまさに、あの種の中に生命があって、それがあるきっかけで休みから覚めて生きはじめる。種と人間の手との関わり、というのが…、種を持った手に種の側がその手と化学反応する、というような…、何かの物質を感じるわけです。それぞれの人間の遺伝子を種が(植物の側が)キャッチしているような感じです。彼らが信用する手かどうか。>

 

<美術行為が始まったことに尊敬があるのだと思います。洞窟の中の絵画から始まり、ひょっとしたらそれ以前からあるかもしれませんが、自分の身体を使って自分の外にある世界を表現していく。踊りは間違いなく消えていきますが、美術は固定することができて、いろいろな素材を考えていくこともできる――そのことへの憧れでしょう。>

 

<きっかけは美術だったけれど、僕自身が他のジャンルの表現への興味が強かった、ということもあります。僕はそもそも表現を日常と切り離して考えていなかったし、今でもそれは変わりません。「祭り」はまさに営みという日常の連続があるからこそ起こり得る。舞台やギャラリーのない場所で、どう自分の表現を生き返らせることができるのか、成立させることができるのかということが僕にとって大きなテーマだったと思います。>

 

<ダンサーというのは自分の身体に感じたことを生きる人でもあると思うので、根っからのダンサーだということかもしれないですね。そう思っていないダンサーのほうが世の中には多くて、自分の作った踊りを自分が表すということが自分の才能だと思っているけれど、僕は「ダンスそのもの」のほうが、圧倒的に才能があると思っています。わかりにくいかもしれないけれど、「僕よりはるかにすごいものがダンス」です。それに携わっているのが僕です。こんな単純な話はないのではないでしょうか。>

 

<ダンサーが言葉にならないと言っていることの大半は嘘です。言葉になります。そのうえで本当に言葉にならないものを探すべきだと思います。一昨年「ドン・キホーテ」の終演後、マイクを持って舞台で「踊りは言葉を待っています。切望しています」と叫んでしまいました。踊りは言葉を生んだ動機になっていたはずだと言いたかったのです。>

 

<時代が大きく変わってしまったような気がします。そういう意味でボランティアの存在、ボランティアの人たちのせいだけにしてしまってはいけないですが、世の中全体の他者に対する好奇心や未来の見方が凄く変わってきたんじゃないかと思ってます。それ自体、政府の責任のような気もしますが、未来の見せ方がいい加減になってきたような気もしました。それから、ITの大きな変化も影響していると思います。>

 

60年代の終わりころから八ヶ岳のほうにも部落共同体ができたり、試みの集団がたくさんでてきましたよね。でも僕はなんか違うと感じていました。運命まで一緒にしてしまっていいのか。僕は運命は個々のものだと思っているので人から決められるものでは絶対にないと、思ってます。自然や地球のスケールを運命の中に仲間入りさせないと人間だけの話になってしまう。それは生物として、とってもつまらないことですよ。>

 

<僕らは毎年会議を開いて、今年は開催するか否かを真剣に話し合っていました。本質的な意味を失っていないか?と自分達に問いただしていました。自分達にやり続ける価値があるものかどうかを毎年毎年考え続けた。その会議を繰り返して99年の時には開催を止めた。ただ、それだけなんです。

 本当にこれを読む人が誤解をしてほしくないのだけれど、そもそも継続する努力をする気はなかったと言えるんです。過剰な言い方と受け取られるかもしれないけれど、僕は、瞬間にかけていた、しかも毎年、毎日、11日を本当に大事にしていた。それは今も僕は変わらない大事な部分なんですね。>

 

2008年くらいから、もうやめようという雰囲気がありました。2009年はやめるにあたり、「四つの節会」として、春から始めて短い期間だけれど4回やることにしました。来た人には季節の違いを体験してもらおうと。僕も4回踊りました。>

 

<でも重要なことは、「終わった」とか「仕舞い」と、僕が本当にそう本質的に思っているかどうかです。世の中でいう「継続」ってのは一体何のためなんでしょう…。それ自体が大事な事なんでしょうか? 本当にそうなんだろうか? そのことで消失していることはないだろうか? もっと一瞬の命を感じられる時間を僕らが動物や植物のように生きられたら、どうなんでしょう。>

 

1989年に電通総研が第一回の白州フェスティバルを事例研究として取り上げたシンポジウムがありました。そのときに中上健次が「これは白州の人たちにとっては黒船だったんだよね」って言ったんです。「泯、お前責任とれよ。お前の立場はそういうものだと思うよ」と。>

 

<何かが始まって何かが終わること、それが悪いことのように語られること、でも本当にどうなんだろうか? 本当にそうなのかな? この身体と共にある「時間」は無くなっても終わってもいない。

 

これからでしょ!>(「田中泯インタビュー<白州>の20年を語る」

2023年1月7日土曜日

柄谷行人著『力と交換様式』(岩波書店)を読む


「人間という種がもつ驚異と独自性は、弱者の生き残りに由来する。病人を看護するという習慣がなければ、人類一般における不具者と弱者が文化と文明の高みに達することはできなかったであろう。部族の男たちが戦場におもむくとき、背後にとどまらざるをえなかった傷病者が、おそらく最初の語り部、教師、(武器や玩具を作る)職人になったのであろう。宗教、詩、英知の草創期の発展は、不適応者の生き残りに多くを負っている。狂気に陥った呪医、癲癇症の予言者、盲目の吟遊詩人、才知に長けたせむしや小人が、そうした人びとである。最後に、病人は医術と料理の発展に貢献したに違いない。」(『魂の錬金術』エリック・ホッファー著・中本義彦訳 作品社)


柄谷行人著の『力と交換様式』(岩波書店)は、後回しで読もうと思っていた。これまでの読書で大まかはわかっているのだからと。が、YouTubeにアップされた鈴木宗男氏の大地塾の講義で、おもにはウクライナ情勢について検討する議場で、佐藤優氏がエマニュエル・トッドとともにこの著をあげて推奨し、さらに、週刊文春で池上彰氏が、柄谷行人氏が哲学のノーベル賞とも呼べるものを授与されたのを受けて対談していたのを目にした。そこに、私はもしかして、ジャーナリズム言論の世界で、イデオロギー上のヘゲモニー争いみたいのが発生しているのかな、と感じた。柄谷の若き頃のエッセーにも、年上の批評家から君はどちらの派からも好かれるよ、と言われたというのがあったとおもうが、柄谷の言説内容が隙間にあるがゆえに、左右どちらの陣営からも、自分の言動を正当化するための根拠として、引っ張り合いでも生じているのかな、と。確か『世界史の構造』をめぐっては、理論左派から、これは中国の帝国(主義)を擁護するような言説になるのではないか、みたいな批判があったと思う。がこの度一読吟味してみて、もうそれはありえないだろうと思われた。しかしそれゆえに、どちらでも読める。池上との会談で、ウクライナ戦争についてどう思うかと聞かれ、戦争状況一般の話にかえて立場を曖昧にしていることからも、その自覚は伺える。少なくとも左派は、ウクライナ戦争支持としての反戦、右派(佐藤・池上)はそうした世論迎合に距離を置いている、ように見えるから。岩波と文春、その隙間に柄谷がいる、ということだろう。



が作品を読めば、そうした下世話のことはやはり興味がなくなる。文体的に、三部までは随想温和的、四部はまた切断文体が復活して、社会学者が切られていた。がそういうことも超えて、はっとさせられる人間洞察が星屑のように散りばめられている。トッドの洞察が、核家族は近代ではなく猿から人への時点にさかのぼる、という一点にあるとしたら、柄谷の洞察は、交換というビッグな着眼点だけではなく、細部においても様々な転倒として指摘されている。推理小説を読んでいるようだ。



が、私自身は意見・主張を異にする。現状(戦争)においては、交換A(氏族魂)の高次元回復であるという交換Dなるものでいいとしよう。がそこに、未来があるとは思わない。私はこのブログでもトッドの抜粋引用で物語的に提示したように、フェミニンな立場(「かかあ天下」)に立つ。



*****



「力(パワー)」は、「交換」から発生するのか? それとも、「交換」が「力(霊)」から発生するのか?



(1)「つまり、カリスマとは、まさに交換から生じる霊的な力に他ならない。」(p129)


(2)「クラ交易は、共同体と共同体の間の交換を可能にするものが、贈与交換において働く“霊”と同じであることを示している。」(p134)



上の例文では、(1)は「交換」から「力=霊」が、(2)は「霊=力」から「交換」が発生していると言っているに等しい。こうした曖昧さは、読んでいてどこか不透明感を漂わせてくるのだが、相対的には、「交換」から「霊=力」が発生するとする記述が多い。しかしこれは、論理的には循環論法だが、そもそもが、フロイトの無意識と重ね合わされているわけだから、その無意識が医者と患者との対話においてしかない、ように、霊や力も、その交換でこそ発生して消える、みたいな同時的な在り方と理解はできよう。だから、鶏が先か卵が先か、という反論は意味をなさない。がその連鎖は、商品に一般等価形態が、つまり「貨幣」が定着するように、その一回性の「反復」は「想起」される(柄谷引用のキルケゴールに沿って言えば)。その定着=想起があるからこそ、「交換」は「様式」的になり、AからCまでの型が言語化される。



そして交換Dとは、交換Aの高次元の反復である。それはまだ、歴史的に、定着=想起として、様式としては成立してはいない。資本主義の危機において、これから大々的に到来するであろうと予想されるものである。しかし、資本主義の萌芽が近代以前においても、たとえば「貝殻」が「貨幣」であった当初から、交換ABCDはともに潜在的な現実性としてあった。ゆえにこそ、現今の資本主義絶対のような定着構造見方が相対化されて、その構造が変革しうる、AからDまでの力の割合が組み替えられることによって、交換Dの優位が確立されうるところに、希望がある、とされるわけである。



しかし、「高次元」とは何か? どんな実践なのか?



<だが、“高次元”とは何を意味するのか。通常、これは「生産様式」(生産力と生産関係)の観点から見られる。つまり、生産力が高度になった段階において、太古にあった共産主義を取りもどすことだと見られる。しかし、交換様式の観点から見ると、そうではない。共産主義とは、「古代社会」にあった交換様式Aの高次元の回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。>(P368)



上の記述は、トートロジーであって、「高次元」を説明していない。共産主義ではなく古代社会をとりもどすことだ、とされながらも、それは、「高次元の回復」でなければならない、と言うのである。だから、高次元って、何? と普通の読者なら、突っ込みをいれたくなるだろう。



しかし、読者は勘繰ることができる。第一部第一章「交換様式Aと力」で、フロイトの「死の欲動」を導入する箇所を参照することによって。



<遊動的な狩猟採集民たちは、社会的な葛藤や縛りをもたなかった。したがって、特に利己的なわけでも利他的なわけでもなかった。しかし、定住した後、彼らは未曾有の危機に出会った。一口でいえば、定住が「有機的」な状態をもたらしたのである。無機質の状態に戻ろうとする死の欲動があらわれたのは、そのときである。それは先ず、他に向けられる攻撃欲動として奔出したが、さらに、それを抑えて他者への譲渡=贈与を迫る「反復強迫」があらわれた。それは「霊」の命令として出現した。それが、後期フロイトが「超自我」と呼んだものである。>(p94)



ここの記述では、「霊」の方が先なるものとして前提とされているわけだが、それはともかく、「高次元」とは、攻撃欲動が外にではなく、内に向けられること、と推定しうる。「古代社会」の戦闘的な氏族つまり武士の欲動が、敵にではなく、自身という内に向けられるとはどういうことか? もちろん、切腹、である。民俗学者の千葉徳爾は、このサムライの切腹という儀式は、狩猟民が己の潔白を示すために、獣の内蔵を白日の下にさらす儀式から来ている、と説いていた。そして私は、その系譜において、現日本国憲法9条とは切腹なんだと提示した。それは、氏族魂の、「高次元の回復」である。



「歴史の終わり」のフランシス・フクヤマは、それ以降、サッカーが戦争の代用になったこと、そしてそこには、ナショナリズムを超えた、男の自立(自由)と威信(死)が賭けられているのだと洞察した。そして本当の戦争が起こった。柄谷理論とも踏まえれば、それは交換B・Cが優勢な現状における、交換Aの「低次元の回復」ということになろう。が「高次元」であれ、「低次元」であれ、そんなものの回復が今のあり様なのだ。



フロイトは、「死の欲動」とは、「無機物」への回帰の衝動だと言った。有機物が多細胞生物となったとき、おそらく「筋肉系統」が刺激されたのだと。だから、男たちの出番となる。が無機物であれ、有機物であれ、それはあくまで「物質」への回帰である。が、原爆に連なる量子物理の世界が露呈させてきたのは、さらにミクロな次元における、「無(波)」の力(フォース)である。柄谷が力点をおくのは、「パワー」である。それは、「観念的」な力とされる。自然との「交通」ではなく、人間の間での「交換」における「霊=力」を見ることが大切なのだと。



<あらためていうと、交換様式Aは人類が定住した時点で生じた。>(P389)



言い換えれば、「観念」は、定住とともに発生した、ということだろう。なぜか? 「定住革命」の西田正規がどこかで、おそらく定住によって言語活動もが定着していったのではないか、と推論していた。人の脳みそはでかいので、それを活性化していないと、脳内のエントロピーが増加してしまって、不快感に耐えられなくなるのではないか、というように。身近な例として、散歩という遊動を思い起こしてみよう。ハイキングなど、自然の中での散歩はあきないが、住宅街の中での散歩は、たしかに筋肉系統の維持には役立つけれども、あきてきて、気が滅入ってきやすい。なぜか? 自然の方が現象として多様なので、視覚的にも刺激が連続するからだけではない、身体を介した、ミクロな物質との「交通」が盛んになってくるからでもあろう。が、定住と都会化は、いつも見慣れた風景の中で暮らすようになるので、脳内のエントロピーが増大し、その不快感が惹起してくるのだ。だから、遊動にかわる「観念的」な活動が必要になる。その「様式」が定着するとは、いわば頭でっかちになる、ということだが、肝心なのは、その「観念」への発生は、遊動や戦争をして気晴らしができる男たちによってではなく、それができない者たちからこそ発生したのではないか、ということである。



冒頭引用のホッファーの洞察をあげたのは、それが言いたいがためである。



そもそも、男たちのように遊動できない者たちがいたのだ。ホッファーは女性をあげてはいないけれども、そこに、女性や子どもたちが入るのは自明であろう。彼らは、空腹と脳内の不快に対処するために、観念に通じる活動を行っていた。こんなことを想像してみよう。獲りたての生肉のおいしいところを食べた男たちの残り物の骨付き肉を、なんとか食おうと茹でたり砕いたりしているうちに、料理ができ、骨の破片のかけらで武器もでき、それを石で叩いて憂さを晴らしていたら音楽もできたぞ、と。そして、その技芸を、男たちが強奪することで、観念的な活動が反復されていくのだ。



氏族や部族社会では食べ物を平等に分け与えていたのだ、と奇特な男たちを想定したとしても、この想像の現実性は残るだろう。ここにあるのは、交換の残余である。あるいは、交換のネガである。それは、パワーからくるというよりは、男たちのフォース、自然の暴力、それとの「交通」から発生するのである。



そそそも、柄谷の理論自身が、ダンバー数(150)なる自然の神秘さに依拠している(p66)。氏族から部族へ等の拡大は、その基礎数による、というのである。さらにそもそも、世界を4で区切る、という思考そのものが、そうした自然の神秘に依拠している。これはどこかで、柄谷自身が、構造というのは4でないとだめになっているので、というような発言をしていたろう。トッドによれば、これはデカルト主義であり、大陸の合理論であり、ピタゴラスの神秘主義である。そしてこの自然の神秘を、排除することはできない。物性物理でも、花びらの数とかなぜか五角形になるような現象がミクロな世界での結晶作用として現れてくるし、有能なアーティストなどの作品も、黄金分割として分析できてくる。竜安寺の石庭の配置も、黄金分割だとされている。



柄谷は、現今残ったスピリチュアリズムは、交換様式Cによって生まれた宗教である、と言う(p373)。が、それがどういうことなのかの説明はない。私からすれば、それは交換の残余であり、ネガであり、それは自然との交通、フォースからくるのである。



岡崎乾二郎氏の『抽象の力』(亜紀書房)などの理論は、この「フォース」に関わるものだろう。量子論を踏まえて哲学考察をした人物との討論などもあったようだが、私はまだ読んでいない。今日の私、明日の私、昨日の私…、と絵本にあったが、それは芸術としてあるだけではなく、量子論を背景にした物理的な力をふまえての表現なのだ。そしてこの力点に立つからこそ、ABCDのパワー・バランスの枠ではなく、それらを根底的に一掃する自然が射程に入ってくるのだ。岡崎氏が原発に反対するのは、そうした自然、フロイトの「エス」という観点からで、観念的な「超自我」ではないのである。



そしてそれは、女性的なるもの、「無(波)」との関係ととりあえずは言い得る表現をもつ。トッドも、そこにこそ未来の希望があると、家族人類学から示唆するのだ。



<男性よりも高く位置づけられる女性のステータスをベースとして原初の核家族を超えようとする試みは、西洋が家族システムに関して挑むまさに初めてのラディカルな創出であって、方向性こそ逆だが、紀元前三〇〇〇年初頭のメソポタミアで、あるいは紀元前二〇〇〇年中頃の中国で始まった父権システムの創出に比較され得るほどの転回なのである。>(上57)



つまり、交換Aとは違った交換がありうることを示唆している。がそれは、Dではない。ヘーゲルの「絶対精神」に行き着くのかもしれないE…Xとかではありえない。強いていうならば、交換D′、ダッシュ付き、である。なぜなら、それは交換の残余であり、ネガであり、物理的にいうならば、ダークマターであるから。物質への回帰ではなく、反物質への回帰を示唆するから。