2023年5月13日土曜日

中上健次ノート(3)


 3 詐欺の群れ

 

 中上がしかし、まず遺作となってゆく作品群で模索したのは、北方へと続くユーラシアへの経路ではなく、より周辺からの南方への経路である。『地の果て―』以降、すでに起点が東京へと移っていたそこから、また西域(路地へと)、そして南方へと降下する。

 

 東京・東国が、父系の強い直系家族の価値基盤であることを踏まえれば、その生地への帰還と、その向こうへの超越は、郷愁や後退ではない。路地での認識に、武士的な暴力性もが所持アイテムとして付加されていることになる。

 

『熱風』という作品では、南米から東京へとやってきたタケオ、移民した中本の一統「オリエントの康」を親に持つ日系の青年が、その東京で詐欺集団を営んでいたもと路地の者たちと出くわし、解体され開発された親の生地である路地へと復讐のためなように乗り込んでいくことになる。詐欺集団には、産婆だったオニュウノオバの親類「九階の怪人」や、徳川家に毒見係として勤めた中本一統の一人(折戸という名字)を祖先に持つ「毒見男」、そして徳川御三家のお姫様と呼ばれる徳川和子なる者たちがいる。

 

 詐欺とは、言葉たくみに相手をごまかす術だ。路地とは、あることないことが噂され、渦まく地帯であった。中上はその路地の現実を描く以前の青春小説群では、詐欺電話をかけまくり脅迫する若者の犯罪のことを扱ったりしていた。路地育ちの過程で体得する話術に、現実を編んでゆく言葉の糸の絡みと力加減を読解する認識洞察が、路地解体と開発の現場で暗躍する自らの家族を巻き込んだ土建世界で鍛え上げられる。そこに、徳川将軍に連なる侍の武力と判断力が付加されたのだ。

 

『異族』では、その武力は「空手」となる。我流の空手を覚えて路地出身のタツヤと夏羽は、東京へと出てくるが、右翼団体の道場の師範格となっていくタツヤと違い、中本(折戸)の血を引く夏羽は、その血に飲まれるように自殺した。沖縄からフィリピンへと凱旋する前にだった。夏羽は、毒見男の腹違いの兄弟であり、「この間、死んだらしい」ことが『熱風』の毒見男の口から説かれており、二つの作品が、平行していることが示唆されている。

 

 いや平行はそれだけではない。解体されてゆく路地出身の若い衆らが、オバたちをトレーラーにのせて脱出し皇居へと旅立つ『日輪の翼』では、『聖餐』で「死のう団」を組織していた中本一統の半蔵二世が、すでに一人東京へと抜け駆けしていて、売れっ子歌手としてデビューしているエピソードが挿入されている。それらの続編になる『讃歌』では、『日輪の翼』での中心人物ツヨシは、源氏名をイーブとしてジゴロ稼業をしながら行方不明となったオバたちを捜していたが、作品最後では、ツヨシという出身名に還っている。

 

 つまりは、路地出身の若い衆たちが、東京で得た新たな武器をもって、西へ帰り、さらには南へと目指し、東京に残っている若い衆も、武士政権崩壊後の戦後社会を覆すことを企んでいるような、不穏な潜在的な動きをみせているのである。

 

 が、それらが向かっている先は、日本ではない。その日本の土壌をそうたらしめている地政学的に枢要な、文明の中心地、中国である、ことが、作品群の全体像から示唆されているのだ。とくには、詐欺犯罪を素材とした『熱風』と、暴走族右翼『異族』との重なりを思う時、一頃のオレオレ詐欺から現在のアジア広域にまで拠点を広げて世間を騒がす、日本の犯罪組織の地下潜伏と、マフィア化の現実を先取りしているようにも見える。さらに、ロシアとウクライナとの戦争で喚起されたアジア領域での地政学的緊張の浮上も考慮すれば、『異族』で沖縄や台湾、フィリピンを巻き込んで構想される「台湾・琉球連邦共和国」、南沙諸島をめぐる「南海洋連邦」など、空想的な話ではなくなってきている。沖縄の血を母方に持つ佐藤優は、日本政府がウクライナ情勢にかこつけて、石垣島や沖縄の防衛強化への具体に県民の積極的協力を自明的に推進化するのならば、沖縄人は台湾や中国との独自な外交関係をのぞむようになるだろう、と忠告している。

 

 しかしならば、かつての文明大国の再興台頭を、どう受け止め対応すればよいのか?

 

 中上の未完となった作品群は、まさにそのことこそを追求している。おそらく、ヴェトナムという「中華帝国」の「前進前線」への潜伏から登場するアキユキは、「中国の帝王」の身代わりとなる鉄男と、もう一度、戦う羽目に陥るはずである。もう一度、というのは、この父殺しに邁進する後輩と、母殺しの認識の根底的な肝要さを洞察している先輩の秋幸は、『地の果て―』においてすでにやり合っているからだ。その時は、秋幸が人質のように監禁され、銃で脅され、なぐられた。

 

 二人は、ともにレベルアップしている。しかしその過程で、日本や中国の大企業家族をたぶらかしてゆく詐欺集団の一員となった『大洪水』での鉄男は、中国の怪奇さに直面し、その差異から、秋幸と似たような洞察を共有しはじめているのだ。

 

「日本の批判はいい。僕は中国や中国人に関して言っている。いいですか? 話を展開する前に了解してもらわなくちゃいけない。というのは僕は、リー・ジー・ウォンという人間だという事。蝋人形を父親として生まれていても、ジンギスカンの血を引いていてもいい。ミスター・ヤン、あなたの弟は、中国という巨大な国のそばに位置する日本に育ったんだ。

 僕はその日本でうろうろ歩き回った。日本にいて日本人でいる限り、他からどんなに言われようと条理がある。というのも日本の中心には天皇がおられる。天皇が難しいと言うなら、富士山でもよい。その中心を核に物事は動いている。

 しかし、そこから中国を見ると、一切が変形する。リー・ジー・ウォンならなおさら、中国が不思議に見える。あの古い歴史と広大な国土と膨大な人口を持つ国は、まず中心がない。天安門があるじゃないか、中国共産党があるじゃないか、と言うが、それは中心だろうか? そう考えているだけで日本にいると混乱する。」(『大洪水』(『全集13』p428

 

 『かぐや姫』の物語の最後に登場する富士山は、常に私たちを見ている。葛飾北斎の『富嶽百景』から伺えるのは、私たちから富士山が見える、という感覚ではない。常にどこかから、富士山に見られている、見守られている、という感覚である。京都においても、天皇は、そういう自然体として存在している、飛鳥山みたいなものなのだと、鉄男は認識しだしたのだ。が、広大な中国、帝国では、そうはいかない。帝王は、むしろ、全てを見ることはできない、そこで暮らす人民も、自分が見られている、見守られているという安心感を持つことはない。ゆえにそこでは、人工的に、監視カメラ的な管理と、帝王の恣意が、命令が「条理」の代わりとして強制される。それは、自ずから受容される自然的な道理ではない。自然な中心(富士山)がないかわりに、人為的な中心、天安門や共産党が構築される。しかし鉄男は、それが「中心だろうか?」と、問うのである。「鉄(刀)」という文明の武器でと闘う「侍(男)」と設定されていても、中国を前に、路地の認識に立ち帰るのだ。そして、「混乱」する。

 

 シンガポールから香港へと拉致された鉄男は、そこで「中国の帝王」と呼ばれるミスター・パオに直面した。その姿形は、「肩や胸、腹についているのは人間のまともな肉でも脂肪でもなく、石くれや木ぎれだというように全体がでこぼこの塊であり、それに硬い毛が生えている」と描写される。人間離れした豪傑の登場である。『異族』が、江戸の戯作『八犬伝』を下敷きにしていたというなら、『大洪水』では、その「水」という文字の媒介を孕んで、豪快豪傑な物語『水滸伝』が射程に入ってきている。自然的な寄り集まりの群れとしての「八犬伝」から、あくまで人工的な寄木細工としての構築物語、『水滸伝』との対峙に作家は迫られたのだ。しかし、この人物描写のところで、作品は中断した。

 

おそらくアキユキは、この鉄男の「混乱」の隙に乗じ、豪傑と対峙するだろう。「路地」の、双系家族の、核家族の中枢を潜り抜けてきている秋幸は、自然と文明をめぐる<真理>を、ヴェトナムにおいて深めている。いや作家中上自身が、中国とは何か、文明とは何か、人間の、自然の真理とは何か、とその地をさ迷いながら考えたのだ。

 

しかし中上が、その<真理>をつかみ展開しようと試みたのは、まずはここ日本の東京、新宿においてであった。さまざまな地からやっきてきた外国人が群れる歌舞伎町。完結した作品としては遺作となった『軽蔑』の「真知子」が、女性として遣わされた「秋幸(かぐや姫)」の真意を裏書きしていくのだ。

2023年5月7日日曜日

中上健次ノート(2)


2 侍と暴走族


  中上の作品の物語基軸は、ギリシア古典を背景にもして、父殺しと言うテーマだったと言われる。路地三部作での主人公秋幸が、その悲劇の主人公であると。が、秋幸は父殺しを貫徹できなかった。その様は、父自らが自壊してしまったこととして免罪された。その物語顛末は、ソ連邦の自壊という歴史の様と重ね合わされたり、父の権威の希薄な日本の土壌が想起されたりした。

 がそもそも、「秋幸」という名前自体が、父殺しとは距離のある設定であると推定される。秋に、行ってしまう人、つまりそれは、苗字の「竹原」とあいまって、「かぐや姫」を連想させるからだ。しかも、義父以前の母方兄弟姉妹の苗字は「西村」であるから、それは西方の死(異界)から竹林にやってきた、という構図になる。行幸、という天皇の外遊という言葉をも連想すれば、「秋幸」という名前自体に、貴種流離譚という設定がある。かの国(月)のお姫様、そう仮説してみると、まさに秋幸自身が、主体的に従属者を引っ張っていく男性というよりは、周りの関係や風景、自然に溶け込み染まってしまう受動的な存在とされる女性の性質を多分にもっており、その大事にされた女性的キャラが、なんだかんだと因縁をつけながら既成の縁起にはおさまらないで、ついには、自分を育ててくれた父母からも、路地(地球)からも去って遠くにいってしまうという物語なのである。

さらに、秋幸は、産みの親としての浜村家族に当てはめてみて、はじめて長男として捉えられるのであって、母フサの先家族にあっては、三男の末っ子なのである(次男は生まれてすぐに死んでいると設定されている)。つまり、父権社会での、相続対象者とは言えない。つまり、父を殺す動機として説得力をもつ位置にいない。むしろ、秋幸自身が最後に認識するのは、殺すべきなのは母であり、彼女の価値判断を生起させている大義や筋のないような路地社会である。

 

中上は、その社会を、「母系制」と理解した。だからそもそも、浜村龍造の自殺に父殺しを読み込もうとして当時の歴史と重ね合わせるのには無理があり、日本的な土壌に引き込まれた、という見方の方が正当になろう。ここでいう「日本的な土壌」とは、『地の果て―』にソ連崩壊を読み込んだ柄谷がその後、自身の作品で「日本精神分析」として説いた「双系制」とも言うべき認識前提である。むろん、その日本認識は、丸山眞男が「古層」として説いたようなもの、日本特殊論的な文脈として、マルクス主義の講座派が示してきた既存の教養と重なりもするだろう。

が、最近になって認知されたといっていいだろうエマニュエル・トッドの家族人類学によれば、日本特殊とされた「双系」的土壌とは、文明以前的な人類の家族形態の名残・残存である、となる。欧米近代の核家族が先進的な家族の類型とされてしまったのは、ユーラシアの文明からは周辺地域であったそこが、あとから政治経済的にヘゲモニーを握ってしまった現代において発生した錯誤にすぎない、となる。この周辺性の認識は、柳田國男の日本認識とも重なるとされる。この周辺地域での核家族では、長男から先に独立していくので、女性や末っ子が親の面倒をみたり相続したりすることになる。同性愛も含めて性的にも自由がある。

 

しかしその独立と自由を担保した家族類型も、文明に触れていくことによって変形されてきた。文明社会では、父権が確立し、その相続は長男となり、父が健在なうちは、子供たちはその下にとどまる共同体家族となる。この家族形態は、他の氏族を支配下におくという軍事的な要請によって形成されていったのではないかと示唆される。ゆえに、共同体家族=文明の伝播過程として、直系家族、つまり制度としては封建制となるものが、その中間形態として存在することになる。

 

日本では、この中間形態、封建的な直系家族の定着は、東国から、鎌倉時代の武士政権においてであろうと推測されている。とくには、モンゴルとの軍事的交渉が、その影響として強いのではないかと、推定されてもいる。

 

 つまり、馬に乗って戦う侍が、父系制と父権家族の基盤となるのだ。日本において、父殺しが遡上に乗るとしたら、この文脈においてであろう。

 

中上は、その歴史文脈も、『地の果て―』において刻んでいた。ジンギスカンの末裔との妄想を抱く父、路地では龍造の朋友とされる「ヨシ兄」を殺すその息子、「鉄男」という主人公を導入することによってである。この名前自体に、おそらく、意味がある。鉄とは、文明であり、男とはもちろん父権を意味する。父を銃殺した鉄男が、のちに、シンガポールへと乗り込み、異形の怪物たる中国人と香港で出会うことになるのだ。

 

その鉄男は、暴走族あがりだった。秋幸が『枯木灘』で殺した義弟の秀雄が初代番長だった暴走族を引き継いだのが、鉄男だったと『地の果て―』では龍造の調査として示されている。秀雄を殺して秋幸が獄中にあった時期のことを描いた『聖餐』では、「母よ、死のれ」と歌う、「死のう団」という音楽グループを作る半蔵二世の友人として、「テツオ」は「暴走連の頭」として言及される。

 

ところでその秀雄の暴走族のオートバイには、髑髏のシールが貼ってあったと描写される(『枯木灘』)。おそらくこのマークは、実在した関東の暴走族組織から引用したものである。

 

中上は、1979年の2月3日に放映されたNHKテレビ「ルポルタージュにっぽん」に出演し、「元暴走族の右翼団体の若者たちをリポート」したと全集の年譜にある。私はこの番組は見ていないが、スマホ検索によると、その番組では、在日の元暴走族で右翼になっていった若者の、暴走族の取り締まりが厳しくなったので、右翼という政治的建前があれば街路で騒げるので入団したという発言などがあるらしい。未完となった『異族』での設定を連想させてくる。

 

ともかく、東京に、実際に髑髏のマークを掲げた暴走族があった。「スペクター」と言う。『異族』では、「メデューサ」という暴走族名も紹介されるが、それは「スペクター」から派生したグループの名前だと私は聞いている。今でもその髑髏のステッカーがダンプカーの後ろなどに貼られてあるのを見かけることのできる「スペクター」という暴走族は、未曾有な規模になって、全国的に名を馳せたのである。暴力団なりを系譜にもたず、自然発生的にそこまで膨張していったのだ。(私の植木屋親方がその創成期の番長の一人なので、伝承を聞いている。)

 

オートバイが、馬であり、暴走族とは、それを操る侍の継承として意図されている。天皇の方からではなく、将軍たる東国の方からの影響が、西域の路地にまでやってきた、ということなのだ。そしてジンギスカンを名乗る父を殺した侍が、父権確立した共同体家族たるユーラシア文明の中心たる中国に挑んでいくのである。つまりここには、父殺しというテーマが、日本特殊的文脈においてではなく、皇帝殺し、という、より普遍的な文脈において導入されているのだ。

 

しかし、「中国」というユーラシア文明の中心を目指しているのは「鉄男」だけではない。遺作となった小品では、「アキユキ」は、「ヴェトナム」にいるのだ。

 

<そこでこの地帯は単に、主に北方から、そして副次的には北西から到来した父系原則の前進前線を具現していると考えることができる。歴史資料がこの解釈に何かを付け加えることができるとすれば、それは侵入の年代である。早くも共通紀元前一一一年には中華帝国に征服されたトンキンは、おそらく早期に父系化・共同体家族化された。中国の父方居住共同体家族は、われわれの推定によれば、共通紀元前二世紀から共通紀元八世紀までの間に、明確になったことを想起しよう。ヴェトナム文化はこの家族モデルの開花の間に形成された。それゆえトンキンでこのモデルが支配的であったとしても、驚くことではない。>(『家族システムの起源Ⅰユーラシア』上 p364 エマニュエル・トッド著 藤原書店)

 

そのヴェトナムの中の、「ラー族」の村に、アキユキは潜った。「ラー族」とは、なお狩猟・採集生活を営む少数民族であり、そこの男たちは竹を編む職業にもつく。そこを統一した人びとが、「アメリカ」と「戦争」し、その近代の「核家族」組織を撃退し、共産主義(共同体家族のイデオロギー)の「革命」にもみまわれたのだと、中上は意識している。

 

<ホーチミン(サイゴン)の朝、ただ歩き廻る。/革命(戦争)があった。/戦争(革命)があった。/アキユキ(私)は迷路にことさら踏み込もうと角を曲がる。>(「VCR(カムラン湾)」『全集12』)

 

 姫(娘)という両性的具有性を印字された秋幸は、「母殺し」の系譜の方に潜伏した。芸能に性向してゆく中本一統のようにその血に併呑されることを忌避し、かわしながら、その近接で得た洞察を武器に、共同体家族たる「中華帝国」に支配されたヴェトナムの「路地」をさ迷うのだ。しかしそこは、直系家族下の「路地」ではない。まさに、文明の懐の「前進前線」へと飛び込んでいるのである。 

2023年4月30日日曜日

中上健次ノート(1)

 


「差別――被差別の構図は絶えず転倒しなければいけない。何によって転倒出来るかというと、無頼の精神――なにいってやがんでーという居直りしか、現実を逆に撃ち返す事はできない。それは基本的に悪の精神だ。国家にぶつかる時でも、自分をつきつめる場合でも、それはそうだが僕は駄目なんだというのでは悪でなくなる。」(『中上健次全集8』「解題」P738

 

1 文学の終わり

 

江藤淳は、日本の文学史上において、1600年くらいからの数十年だけが空白状態だった、それくらいの激動が起きたということなんだ、と発言している。いわば戦国時代の16世紀、社会の釜の底が抜けるようなことが起きて、扱う言葉の根底もが揺らいで、書くことができなくなる時代だったのだ、という認識である。

 

20世紀の後半を生きた中上健次の作品履歴においても、1983年に『地の果て至上の時』で路地の消滅を描き切って以降、その文体や作品の密度が散漫になったと指摘されてきた。『地の果て―』は、1989年のソ連邦崩壊を予言し、「歴史の終わり」と言われるようになっていく時代を先取りしていた、とも指摘された。中上の友人である柄谷行人が、「文学の終わり」を説いたのも、そんな時期であったろう。

 

もちろん、その間、それ以降も、文学作品は書かれ、発表され続けてきた。相変わらず量産されて来る出版状況に、先の柄谷や蓮見重彦といった批評家が、作品形式的に、「物語」と「小説」の区別を導入し、量産的に再生産される「物語」に抵抗する姿勢として「小説」という言葉の運動(エクリチュール)があるのだという評価を実演してみせた。しかしその頃から、パソコンの普及をとおしてインターネット環境が整えられ、電子媒体が拡大していった。近代の当初から、新聞を中心とした紙媒体に依拠した文学作品は、具体的に売れなくなり、いまや新聞紙や書籍を販売する会社の存続自体が危ぶまれる時代となった。そういう現状から振り返る時、たとえば、スマホゲームなどの電子媒体でも援用される「物語」的な趨勢に対し、時代のスピードに抗う描写や分析といった書記技術を挿入させたと抽出された「小説」というジャンル自体が、新聞を読んでくれるという知的大衆を前提としていたことこそをあからさまに露呈させてしまう。ストーリに性急されない凡長な分析描写も、それでも読んでくれる出版界、つまりは近代を支える社会制度に寄生していたのだと。

 

戦後の安定を維持させてきた世界の東西構造が崩れ、むしろ不安定や激動を増していった20世紀終末期にあって、『地の果て―』以降の中上は、文芸誌というよりも、新聞や週刊誌にむけて作品を発表していった。「文学(出版ジャーナリズム)」が終わりはじめた時期に、近代を創起させるに一躍かった媒体にこそ積極的に関わり始めたのだ。そしてその書記運動(エクリチュール)の評価は、低くなっていき、同時進行した多くの作品は、未完結のまま終わった。

 

しかし、崩壊したソ連邦の後を継いだロシアのウクライナ侵攻の最中で中上健次の作品群を読み返してみると、その想像力の射程にまず驚かされる。がまずは一番に目につくのが、書記運動に感じられる試行錯誤な様なのだ。

 

全集版の挟み込みの解説で、高橋源一郎も、指摘している。

 

<はっきりした「輪郭」から「朦朧」とした文章へという道筋を日本文学は二度たどっている。一度目は明治、二度目は昭和の終わりで、どちらも「朦朧」は「口語体」と呼ばれた。それは、いってしまえば「歴史の必然」としか表現のしようのないものだった。まず作家は言葉を捜しはじめる。その段階で、作家には「朦朧」としたカオスの如きものしかなく、「輪郭」が必要なのだ。だが、一度「輪郭」を得た作家は、その「輪郭」に支配されはじめる。「輪郭」とは、整理された文体であり、システムであり、絶対的な形式である。そして、作家と「輪郭」との闘争がはじまる。作家は「輪郭」に戦いを挑み、破壊し、新しい「朦朧」へさ迷い出る。「朦朧」には「自由」があり、熱がある。だが、「朦朧」の熱はやがて冷え、カオスは固まり、そこに明瞭な「輪郭」が生まれはじめる……。>(「小説という奇蹟」)

 

高橋はなお、当時ヘゲモニーを取っていたと言っていい「物語」と「小説」を区別する批評枠に囚われているが、低評価の傾向にあった中上の模索を「朦朧」として評価している。文学とはいえ、あくまで近代文学史までの射程だから、その「朦朧」次期も、明治以降の視野に限定される。高橋がここで論じているのは、まだ『地の果て―』以降では評価の高い『奇蹟』であるが、さらに「朦朧」な模索がうかがえるのは、未完に終わった作品群だろう。

 

むしろそれらの作品群を目にするときこそ、私は、明治以前へも遡行して、世界をエクリチュールの水準からも捉えようとする中上の模索を感じるのだ。それは、言ってみれば、柄谷行人の『日本近代文学の起源』を逆戻りし、この歴史過程で絡まってきた文のもつれをほどいていこうとするかのような試行である。さらにその向こうには、江戸の戯作が依拠した中国の古典、『水滸伝』もが念頭にあったであろう。そういう文学的な営みの向こうに、あるいは平行して、地政学的な洞察が物語的に追及されていくのである。

 

<たとえば、『妄想』(明治四十四年)のなかで、鴎外はこういっている。「自分」は、死に際して肉体的な苦痛を考えることはあっても、西洋人のような「自我が無くなる為の苦痛は無い」。

  西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云ってゐる。自分は西洋人の謂う野蛮人といふものかも知れないと思ふ。さう思ふと同時に、小さい時二親が、侍の家に生れたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々諭したことを思ひ出す。その時も肉体の痛みがあるだらうと思って、其痛みを忍ばなくてはなるまいと思ったことを思ひ出す。そしていよいよ所謂野蛮人かも知れないと思ふ。併しその西洋人の見解が尤もだと承服することは出来ない。

   これは一見すると、「驚きたい」という独歩の作品と似ているようにみえる。しかし、独歩において、あの不透明な「膜」がいわば内側にあったとすれば、鴎外においては外側にある。鴎外にとって、「自己」は実体的ななにかではなく、「あらゆる方角から引つ張てゐる糸の湊合してゐる」ものであり、マルクスの言葉でいえば「諸関係の総体」(「ドイツ・イデオロギー」)にほかならなかった。いいかえれば、鴎外は「自己」を西洋人のように直接的・実体的にみる幻想をもちえないことを逆に「苦痛」にしていたのである。

したがって、鴎外の本領は、「侍」的人間を書いた歴史小説で発揮されている。>(柄谷行人著『日本近代文学の起源』「内面の発見」 講談社 ※ルビは割愛)

 

中上も、「自己(内面)」を持ったインテリをほとんど描かなかった。鴎外が「侍」を描くことを本領としたというなら、中上は、とくには『地の果て―』以降、「暴走族」を主人公に据えることが多くなった。彼らの起用は、「内面」を前提にした透明な近代文体から離れて、「朦朧」と化す文の試行錯誤と切り離し得ないのだ。鴎外がゆえに明治にあっても歴史小説を書いたというなら、中上は近代文学の終末期にあって、地政学的な小説を、つまりは「諸関係の総体」としての作品を構築模索しようとしたのである。むろんその地政学は、「路地」における人間の内面(葛藤)ではなく、そこにおける人間関係の力学を見ようとした洞察作法の応用から来るだろう。

 

 中上健次の主人公は、死を恐れない。そうした主人公を据えた物語を書いていくということが、「朦朧」からの明察、新しい文の「輪郭」を模索するエクリチュールを起動させているのである。しかもその実践は、紙上のものだけではありえなかった。中上は確かに、新聞を読むような知的大衆とその媒体の中で書いた。しかしそこに「暴走族」を呼び出す行為の内には、本を読む知識人と読まない大衆という構図自体を破壊していく意図もあったろう。

時代は進化した。俗語革命や印刷技術の発展が、大衆に読み書き能力を与え向上させたといわれたその先で、しかし、大衆は本を読むわけではなかったのだ。長い文が自ら書けるようになれたわけでもなかった。文字には、長文には耐えられない、嗜好が向かない。相変わらずなような一定の割合の知識人、かつてなら修道僧や坊さんや、貴族・武士や商人階級の一部だけが能書の世界を占めている。その世界へのアクセスは今では開かれていると言っても、ほとんどの人がその能力を所有できず、知識は一部階級に独占され、差別の構造は再生産されている。文明の発展が、差別を温存させている構造は変わらない。

 

中上は、知的とはえいない大衆週刊誌にも積極的に書いた。自分が相手にしたいのは、インテリではない。本を読まない、大衆すべてである。そこに向かって書く。書かなければ、書記技術によってこそ成立する文明上の差別構造を撃つことはできない、自分が成し遂げたいのは、作品を書くことではなく、世界から、差別をなくすことである。

 

 中上が、最後の未完の作品(『大洪水』)で、父殺しを敢行しえた「暴走族」あがりの鉄男を「中国」に向かわせようとするのは、そんな作家の願いの物語的形象なのだ。

2023年4月23日日曜日

柄谷行人著『力と交換様式』を読む(2)

 


「2 ニュートン以上

  観念的な「力」という概念は、ニュートンの物理学の「万有引力」のようなものだ。そう柄谷自身が述べている。遠隔的作用である万有引力は不可解なところがあるが、まずそれがあることを認めることが、科学的である。ところで、万有引力に関しては、二〇世紀になってから、アインシュタインの一般相対性理論によって、「遠隔的作用」という問題は解消された。引力は時空連続体の歪みであって、決してオカルト的な遠隔的作用ではない、と。

では、柄谷が見出した観念的な「力」についてはどうか。柄谷は、自分の達成をニュートンに喩えているが、私が見るところ、それでさえも少し控えめである。つまり『力と交換様式』は、ニュートンのレベルを越え、アインシュタインの一般相対性理論に対応する部分まで踏み込んでいる。交換にともなう「力」が何に由来するのかを、原遊動性Uの概念を導入しながら、説明しているからだ。

 もっとも、もう一度物理学の方を見るならば、一般相対性理論のところで、すべての問題が消え去ったわけではない。その後、量子力学と一般相対性理論の間にギャップがあることが明らかになった。このギャップを埋めなくては、引力の謎は完全に解けたことにはならない。それは、未だに成功していない。

 観念的な「力」についても同じようなことが言えるかもしれない。つまり、量子力学的な深淵のようなものがまだ残っているようにも思う。たとえば、死の欲動。これは何であろうか。いずれにせよ、これは、柄谷行人からバトンを受けて、後継の者が受け継ぐべき課題であろう。」(大澤真幸著「柄谷行人はすべてを語った」『文学界』20232月号)

 

この大澤氏の着眼的は、<ニュートンの古典物理学の延長での「自然の遠隔的な「力」」で、現今の更新はできるだろうか(柄谷行人著『力と交換様式』 岩波書店)?>(ダンス&パンセ: 真理とは何か? (danpance.blogspot.com))と問い、改めてその理論への批判を提出した私の問題意識と重なるものだろう。(ダンス&パンセ: 柄谷行人著『力と交換様式』(岩波書店)を読む (danpance.blogspot.com)

 

大澤氏の評価は、だいぶ苦しまぎれなものだと感じられるけれども。

 

NAMにいたころ、当時の大学院生や准教授クラスの人たちのなかで、柄谷行人なんてもうゾンビでしょ、と言われていたのを想起する。そう言っていた人が、いまや教授になると、自分の講義に柄谷を読んで話をしてもらったりしているようなのだから、どこも相変わらずな世の中の様だな、とおもう。まだ愛読的な師事の範疇でいたであろう当時の私にとって、そうした組織創立者への陰口は、意味不明だった。

 

しかし、今なら、ゾンビと言われていたことがわかる。

 

たとえば、量子力学上での神秘、不可解さを、カントの哲学で理解してしまおうという反動があるが、物理学者のブリゴジンもどこかで指摘していたように、それは悟性的に無理があり、ゆえに事態をなおさらこんがらせ難しくするだけであって、思考の突き詰めには障害になる。カントははっきりとニュートンの時空間に依拠しているのだし、その「物自体」という仮構も、形而上論理として要請されてくる理念的な措定である。が、相互交流(遠隔という概念を超えた遠近接瞬時交通)があるのは自然現象と推測できるところに、新物理学の謎があるのだから、まず受け入れる前提世界が違うのである。

 

だから、佐藤優氏は、柄谷理論をカント定義の延長で、形而上学的な「神学」と理解する。が大澤氏は、交換の根底に、自然現象としての力(パワーではなくフォース)を読み返し、柄谷理論を現在の地平水準に開こうとしているのだ。佐藤は柄谷の口吻をまねて、巷のスピリチュアリズムを批判するが、その庶民の信仰傾向にこそ、より追跡すべき謎があると言うべきである。柄谷の理論は、この庶民の信仰傾向を否定するために意図された唯物論的偽造である。佐藤であるなら、カール・バルトを新物理学を踏まえてよりスピリチュアリズの徹底として読み返したほうがいいのではないか、とさえ私はおもう。

 

私はその突き詰めを、また違う方向からできるのでは、と考え始めている。

 

ベルクソンというと、生命論のナチスだとか、これまたすぐにも機械的な反動理解が発生してきそうだが、何かわかってくるかもしれないと推定する。何回か読解を挫折してきたのだが、『マザーツリー』を読んで、もしかして、今なら読めるようになっているかもしれない、と思うのだった。

 

藤田 何十年もの間、分子生物学の主役はDNA(遺伝暗号の根本)とタンパク質(機能的で実行力のある分子)であり、RNAは設計図の情報を工場に運ぶだけの、あまり面白みのない使い走りのような立場に甘んじていたわけですが、「ジャンクDNA」(タンパク質をコードしていないため、何の役にも立たない染色体配列)と呼ばれるゲノムの非コード領域で起きている興味深い事実(「転写のノイズ」と呼ばれていたものの実態解明)が明らかにされ、RNAがただの使い走りではないことが判明してきました。私の理解では、エピジェネティクスとは、遺伝子自体は変化させずに、そのスイッチのオン/オフを変化させる遺伝物質上の一連の付加的変化(修飾)に注目する研究潮流です。言葉やイメージなどの隠喩的な「修飾」が重要な役割を果たす点に注目する私の観点からすると、機械論と目的論のあいだで、「生の弾み」と物質性の衝突、鉄のやすり屑とその中に突っ込んで変形させていく見えざる手との関係に注目する『創造的進化』にも、エピジェネティクスな側面があるのではないかという気がするんです。ちなみに、デリダは1975~1976年度の講義録『生死』(白水社、2022年)で、ジャック・モノーやフランソワ・ジャコブなど当時の生物学者の“修辞学”をデリダらしい手つきで分析していて、この話と絡められるかもしれません。>

 

米田 ニュー・マテリアリズムの論者ってマクロなオーダーの相互作用を考えていると思うんですよね。体内細胞との共生とかも考えているので、個体と環境というオーダーではないですが。私としては、分子のオーダーを考えないと、遺伝的な時間の話はできないと思っています。

檜垣 やっぱりダナ・ハラウェイって結構大きいんだよね。我々が思っているよりずっと。ハラウェイってもともと生物学でしょう。生態、あと猿、要するに生態学の人。だから分子生物学をみるというよりは、群れを見る。植物とか森とか身体学、最近だとマルチスピーシズで『伴侶種宣言』とか。そっちの方向というのはやっぱりニュー・マテリアリズムがやはり強い。…(略)

米田 ちょっと付け加えますね。カレン・バラッドとかが典型だと思うんですけど、ニュー・マテリアリズムでミクロのオーダーというと、量子力学まで行っちゃうんですよ。もちろん、遠隔作用の話なんかも導入できるので、より複雑にはなるんですが、結局のところ、共時的な関係性が問題になっているという意味では、生態学的アプローチと同じ方向です。どっちにしろ、ニュー・マテリアリズム的な生命論には、分子遺伝学の知見が抜け落ちているように見えるし、通時的な生命現象もあまり考えられていないように思えます。>(『ベルクソン思想の現在』 檜垣立哉、平井靖史、平賀裕貴、藤田尚志、米田翼 書肆侃々房)

 

※ 先週、生活クラブ関連映画会で、ヴァンダナ・シヴァに関するドキュメンタリーを見たが、遺伝子組み換え作物で人々を支配する産業社会に抗する政治性以上に、彼女はその背後にある哲学の説明に比重を置いていたように見えた。そんな運動家の彼女は、大学で量子力学を学んでいた。だから、「潜在的可能性」の方が「本質」なのだという言い回しをするのだろう。ちなみに、千葉市の街中に咲いていた菜種の遺伝子組み換え検証実験では、以前はいくつかリトマス紙試験のようなもので陽性反応はでたのだそうだが、今回はない、ということだった。

2023年4月15日土曜日

会合

 


 正岐は兄の慎吾のあとを追って、階段をのぼっていったのだ。

四車線の大通りにも、その歩道にも、大都会の活気があって、思いつめて目を怒らしたような慎吾や、気後れし、おどおどしたような正岐がふいに路地道に入っても、怪しいとおもう通行人はいなかっただろう。ハイカラな看板やいかついビルの厚みが、どこか人離れした雰囲気を靄のように広げて、頻りに行き交う自動車のエンジン音も蜃気楼のように立ち上がっては消えを繰り返し、街の空気には浮ついた感覚がつきまとう。何かを、誰かを注視し気にかけるような落ち着きはやってこない。

が、ひとつ路地道に入れば、高い建物に陽をさえぎられて薄暗く、いっきに瞳孔が広がり、目の焦点がひとつに絞られてゆくような錯覚におそわれる。突然、正岐は自分が問われてくるような気がした。慎吾は、行きなれているのか、下を向いたまま、ためらいもなく、古びたビルに入り、エレベーターではなく、その乗り口の脇に空いた階段の踊り場の方へ足を運んで行った。表通りの賑やかさとは打って変わった、その暗さと静けさは、踏み段にかける足の一歩一歩を、地につけていくような重さに変えた。重い足取りは、剥げかけた灰色の壁が作る年季のいった斑模様を背景にして、なおさらと正岐を自省的にさせた。

父が、言ってきたのだった。兄の様子がおかしい、と。正岐は、父から兄のアパートの住所をおそわって、尋ねてみることにしたのだ。兄の慎吾は、大学は文学部だったが、銀行へと就職し、そこから外資系の会社へと転職をしているはずだった。慎吾はちょうど、でかけるところだった。せっぱつまったような目で、これからメンバーたちの開く集会に行くところだという。教会のこと? と正岐がきくと、それとは違う、まだ立ち上げたばかりだから、俺といっしょならおまえも参加してもかまわないだろう、いやおまえも行ってああいう話をきいておいたほうがいいかもしれない、と付け足した。そしてふと我に返ったように、「俺はプロテスタントはやめたよ。だって牧師さんとか信者さんは、俺がワンコインしか献金しないと、露骨に嫌な顔をするんだぜ。カトリックはそんなことがないんだ。みんなおおらかなんだ。」そしてまたふいに、思いつめたように下を向いた。歩き出す。ぶつぶつと、ひとりごとを呟きはじめる。「俺のことなんて……どうだっていいんだ。社会を変えることをやらなくちゃ……」

正岐は、心配にもなり、ついていくことにしたのだ。グレーの背広姿の慎吾だったが、会社に行っているようには見えなかった。日曜日なのにそんな服装であること自体が、おかしい気がした。不安を安らげるためなのか、慎吾がキリストの教会へと通っていることはだいぶ以前に聞いていた。ならばそれとは違う、何か新興の宗教にかかわりはじめたのだろうか……慎吾は、幾度か電車を乗り換えて、都内へと入っていった。皇居にも近い、大木になった街路樹の並んだ街の駅で降りた。先に歩く慎吾の背中は、物思いにふけっていた。階段をのぼってゆくその後ろ姿も、言いたい事柄が渦を巻いて混濁しながらも、じっと口を閉ざしているようだった。

慎吾は錆て剥がれたところもある鉄製のクリーム色の扉の取手に手をかけると、鍵がかかっているかを確かめるようなこともせず、そのまま引っ張って開けた。

「風向きを変える必要がある」、島原史郎が、ちょうど口をきったところだった。カーテンがあるわけでもない南側の窓から、日光が差し込んで、部屋の中が広く見えた。日の指す窓側とは反対の壁際に細長いテーブルがいくつか押し付けられていて、中古のような折りたたみのパイプ椅子が、部屋に空いた中央辺りに適当に散らばっていて、数人の男たちが座ったり、立っていた。入口とは真向いになる突き当りの壁に、大き目のホワイトボードがよりかかっている。正岐が入った左手側には、湯飲み茶わんなどの食器をしまうらしい、人の背丈くらいの古びた戸棚がうかがえた。広くもないその一室は、他に家具らしいものもないので、だだっ広く感じられる。会社の事務所にも、会議室にもみえない、まだ引っ越し途中の部屋のようだった。

島原は、二人が部屋に入ってきたことも意に介さないように、そのまま話を続けていく。「……バブルがはじけても、自殺者が増えただけだ。実質を超えた信用の膨大、架空のマネーの全額返済は物理的に不可能だ。だから、資本主義の法則に、収奪と再配の塩梅を決めることのできる国家の法則が介入する。郵政を民営化し、年金や国民の貯蓄で外資株を買い付けるように法律を変えて、金を回して救うところと切り捨てるところを振り分ける。切り捨てられて地獄に落ちていく者を、まだ世間は見殺しにしているままだ。」

そこまで話して島原は、ようやくのこと慎吾の方へ顔を向けた。「よく来たな。ということは、覚悟ができたってことか?」そんな向けられた問いに、慎吾は島原をじっと見返したままで、答えなかった。間が一つあって、「まあいいだろう」と島原は言うと、一緒にはいってきた正岐に気付いたように、「誰だ、そいつは?」と顎をしゃくった。

「弟だ。社会勉強のために、連れてきた。」 慎吾ははっきりとした口調で言った。どこか口答えさせない気迫のこもったトーンに、島原はもうひとつ間を置くと、「まあいいよ。」ともらし、「よく考えるんだな。」と、念を押すように付け加えた。そしてまた集まっている者たちの方へ顔を向けて、話をつづける。

「だからこの体たらくな風向きを変える必要がある。フランシス・フクヤマは、ソ連と社会主義圏の崩壊に、歴史の終わりを説いたが、宣言できたわけじゃない。資本と国家の統制がほどよく民主主義的におさまって永遠に落ち着いていく、もう勝負はありえない、と認識したわけじゃない。戦争が、サッカーのワールドカップに引きこもっただけだ、と言ったにすぎない。人間は、復活する。」

 島原がそう言い切るように言ったところで、パイプ椅子に股を広げて座っていた大柄な中年男性が、言葉をはさんだ。

「人間が、いると? 資本と国家とネーションの三位一体の世界に、人間が入り込む余地なんてないでしょう。唯物論には、神もいなければ、人間もいないのでは?」と、論争的な意見を口にだしながら、鷹揚とした笑顔を浮かべた。

「肥田さんよ、別に借金を抱えているわけじゃないよな?」指さされて島原に言われた男は「えっ?」とのけ反るような驚きを示した。「ならばなぜおまえは、憂欝になるんだ? 死にたいなんて、ほざく? ほんとにそんな交換制度の理論で、借金取りに追われているわけでもないおまえの死の衝迫が解消されるというのか? おまえの抱えた問題が、解けるというのか?」

 口ごもった肥田さんと呼ばれた男に助け舟をだすように、その斜め後ろに座っていた、薄い長めの黒いコートのようなものを羽織った長髪の青年が、間にはいった。

「だ、だ、だけど…」と、その青年は口ごもりを払いのけるように言葉を継ぐ。「社会が変わってくれないことには僕なんかどうにもならないし、来るべき社会は、人の意志なんかじゃどうにもならないんだから、社会に不満を述べるくらいはいんじゃないんですか?」

 島原はどこかしどろもどろに聞こえる意見に「あっは」と一度笑ってから、「矢津らしい突っ込みはわかるが、社会に不満を述べていれば気がすむのか? ひとりや仲間内でつぶやきあって、自分たちに都合のいい社会がやってくるのを待っていると?」

 矢津と呼ばれた青年が黙ったままなのを確かめると、島原はつづけた。

「革命で立ち上がったソ連邦は、父殺しを完遂することなく自壊していった。冷戦の終わりを、アメリカがとどめを刺したわけじゃない。民衆が、皇帝の代わりに就いたエリートの息の根を止めたわけでもない。頭でっかちになった父は、自力では解けない問題を抱え込んでお陀仏に果てた。世界は、違う終わり方をした。だから、終わりきらなかった歴史を、もう一度喚起させる必要がある。サッカーに引きこもった男たちを、世界の表舞台へ引きずり、狩り出す必要がある。真剣まがいの勝負ではなく、本当の真剣勝負をさせるためにだ。革命社会からバトンタッチし、金融操作にうつつを抜かした、頭でっかちだと気づいてもいない無邪気なエリート世界に、まずは歴史を再導入する。」

「つまりそれ、」と、日の当たる窓際のほうではなく、日が差さない部屋の隅の方へ立っていたので気づきにくかった女性が、口をはさんだ。「反米愛国ってことじゃないの?」背筋をすっと伸ばした中年の女性だった。

「なんで愛国になるんだ?」と島原が問いただした。すると、女性の隣でやはり椅子に座らず、手持無沙汰なように突っ立っていた青年が、「やはりそうなるんじゃないですかね?」と割って入った。

「そのエリートって、まあアメリカ社会のことになりますよね。それに真剣勝負、つまり本当に命を賭けた戦争をのぞむって話でしょ。ならばナショナリズムになるのは必須ですね。」

 茶色に染めた髪を肩の上の辺りまで伸ばした中年の女性は、自分の話をさえぎった青年に不満を述べるのではなく、むしろほっとしたような明るい笑顔を浮かべた。「そうよね、槇原、そうなるよね。」

槇原と呼ばれたジーパンの青年が、それにまた言葉を足そうとすると、島原がさえぎった。

「戦争をするのは俺たちじゃない。国家どうしだ。俺たちは、そうさせるように動く、日本でなら、空気を変える、ということだ。」

 槇原は、「わからないですね。」と言う。「民衆の蜂起を期待して先走った暴力で孤立的に終わるか、前衛の革命が結局はナショナリズムになるか、って落ちにしかならないでしょ。」

「いつの時代の話をしているんだ?」と島原が槇原に問うた。「いまどき、そんな革命だの暴力だのに体張る必要なんかあるのか? ネットの情報操作で十分だ。空気を変えればいんだぜ? そして国どうしでつぶしあってもらう。世界も、自然環境も、ぼろぼろになっていくのは目に見えているじゃねえか。真剣勝負だ。そこでは、死の衝迫も生命力も、いっしょだ、同じことだ。」

「つまりそれ、」とまた女性が口をはさんだ。「赤ちゃんを産むってことなんじゃないの?」

 一瞬その場に間ができてから、島原がまた問いただした。「山田、なんでそうなるんだ?」

 山田と呼び捨てられた女性は、困ったように槇原の方を見た。視線を受けて戸惑ったように、槇原はしどろもどろに言った。「た、たしかに、お産は、真剣勝負ですね。死ぬか生きるか……」

「でしょ?」とその助け舟に、山田はまた嬉しそうに相槌を打った。

 槇原はその相槌に自信をもったように、言葉を付け足す。「赤ちゃんはビービー泣いて、ノイジーですし、世界を異質に開きますよね。戦争中でも交接があって団塊世代のベビブームにつながっていったのだから、死の谷を行くなかでの希望の原理になるかもしれないですよね。」

「いやだからそれも、」と、黙ってきいていた肥田が、言葉をはさんだ。「意識的にできるのはそういう贈与交換的な実践かもしれないとしても、結局は資本と国家とネーション的な三位一体の世界に取り込まれた話にしかならないんだから、絶望なんだよ。」と、正岐と慎吾が聞き始めた話の振出しに戻るような意見を述べた。他にも椅子に座っていた男たちがいたが、黙ったままだった。

「おまえら、」と少しの沈黙を破るように、島原が言った。「日本思想界のドンの話を真に受けることしか知らないのか? 制度になるようなでかい交換の力しか世の中にはないと思っているのか? 人間にとって、一番大切な交換は、なんだ?」

 島原は、そう問うて、一同を見回した。まだ夏には早い時期だったが、閉めきった窓のためにか、議論がすすむうちには、熱くなる。島原ははじめから、Tシャツ姿だった。ズボンは、迷彩色に似たグリーンのカーゴパンツなのだろうか。ベルトではなく、腰回りをズボンについた紐で結んでいた。シャツには、何かの漫画の絵がプリントしてある。

「俺が教えて進ぜよう。それは、唾液の交換だ。」 一瞬の間があって、こらえたような笑いが集会の中に広がった。

「だからそれ、赤ちゃんてことじゃないんですか?」 槇原が笑いながら質問する。

「違うだろ、」と島原は答える。「それは、精液の交換だ。つまりは、Cだな? 俺が言っているのは、ABCのなり染めのうち、初心さを失わないAの話なんだよ。まあDまでいって、来るべき赤ちゃんが到来する、と認めてやってもいいけどな。しかし大切なのは、あくまで、Aだ。」

「だからそれは贈与でしょ。」と肥田が言う。島原が反論する。

「贈与というのは、氏族社会がどうのと、大きな物語の、制度上の話だ。氏族とは、はやりの家族人類学者によれば、民間の軍事会社のことにすぎない。」

 島原は説明する。肥田は食い下がるように言う。「そうだとしても、それを高次元で反復することが必要なんじゃ…」

 島原はさえぎる。「高次元って、なんなんだよ? ABCD、ってアルファベットにメタレベルってかい? まさに世界の独占企業の発想だな。だからノーベル賞に値するんだろうね。極東にまで伝播したABC哲学の成れの果ての白骨化だ。頭でっかちな、形而上学的な空回りなんだよ。俺が言ってるABCは、まさに男女の、肉体をもった人間関係のABCであり、Dである。人間ならざるものたち、微生物やウィルスを取り込んだ身内にこそある多世界との重なりこそが、俺たち人間を発生させる自然的条件の基盤だ。病気もうつるかもしれない。がそれを乗り越える抗体の発生は、超人思想を産まない、あくまで、強じんな体を作っていくだけだ。」

 槇原は、「ディープ・キスが必要ってことですね?」と真顔になってきき、隣で座る山田を見た。「ふざけんなよ。」と山田は槇原をにらんだ。

 島原は冗談のような話を打ち切るように言う。「それは喩えだよ。こうやって話しているだけでも、すでに他人の持っている微生物やウィルスを交換しあっている。感染しあっている。それぞれが、腸内やあちこちの体内で、それぞれの生態系をもっている。その多様さは、固有のものだ。セックスで赤ちゃん作るのが大切だからと、その生産主義が試験管ベイビーやクローンの技術にたどりつくのじゃないか。赤ん坊ができればいいのか? その人間の世代交代が歴史だというのか? もっと、内省させる。生と、死を、考えさせる。……ここからは、時枝に話をしてもらう。」と、島原は、窓のある方の部屋の壁際の隅に、パイプ椅子を運んで座っていた男の方を向いた。日差しの向こうの影に入っていたので、ドア近くに立ち尽くしていた正岐の所からはほぼ正面にあたるのに、目立たず、そこに人がいたことに気付かないでいた。薄いスポーツ風の紺のジャケットに、同じ色の紺のスラックスを穿いて足を組んでいた男は、椅子の背もたれに体をあずけ、青いシャツの前で腕組みをしながら、慎吾と正岐の方を向いていた。が、こちらを見ているのかはわからない。

彼が、時枝兆輝だった。

 島原から名前を呼ばれた時枝は、組んでいた腕をほどいた。「まだわかっているわけではないが」、と広げた腕の右手の人差し指をたてた。魔法使いの指のように、それはやけに長く感じられた。枝先に止まった蜻蛉の目の前で、子供たちがそうするように、垂直に伸ばした指をゆっくりと回しながら、語りだす。その落ち着いた声も、催眠術でもかけるように、腑の底に落ちてきた。「わたしたちの意識より先に、彼らが反応している。その反応は一様ではない。彼らのそれぞれの世界が、反響しあって、その重複による重力的効果が、わたしたちに意識されるにすぎない。バタフライ効果と言われる仮説があるが、何も宇宙の果てや地球の裏側の世界での出来事の波及がわたしたちにやってくるというわけではない。わたしたち自身が、身体内部での多世界の波紋であって、バタフライ効果そのものだ。わたしたちがしなくてはならない内省と遡行は、そうした次元にかかわる。」そこで、回っていた指の動きが止まった。同時に、ゆっくりと、花が自然に開くように、グーに結ばれていた左手が開いた。「唯物論は、あくまで人に観測されて物質化された世界での構築物をあつかっているにすぎない。アインシュタインは、量子力学における観測問題を受けて、ならば人が月を見ていない時は月は存在していないのか、と問いかけた。その後の量子観測は、まさにそうだということを実験証明した。だから、量子コンピューターなどは、もう量子を見ること、観測することを敢えてしないようにして、まだ物質構築される以前の情報の確率的な複数世界を生け捕りにしようとする。が、その方策自体が、相も変わらない人間理性の横暴である。なぜなら、人は月を見たり見なかったりするかもしれないが、その身内に住むウィルスや微生物は、そもそも月を観測していないからだ。だから彼らは、まだ物質として存在していない月の波動情報をそのままとしてキャッチしている。だから、わたしたちは体の中では、月を見ずとも、その存在を前提できている。月の満ち欠けに連動する女性の生理のことを思えばいい。あるいは、海の干満。それが引力や重力によるとする理解こそが、本末転倒だ。重力自体が、彼らの世界の重なり効果なのだ。そこにおいては、生命と物質の区別はない。みな無に帰している他なるものたちの交流だからだ。」

「多世界を認めるとしても、」と槇原もまた右の人差し指をあげて、時枝を指さしてさえぎる。「その重なりが重力を発生させているなんて、科学的に証明されていることではないですよね?」

「もちろん。」と時枝は応じる。槇原が指して来た指の方向をキャッチでもするみたいに、開いていた左手を閉じた。「観測したらわからなくなる、と科学が証明しているのだから、そもそも、人にわかることではない。重力という単位自体が人間にとっての観測結果であって、仮構にすぎない。しかし観測前のものとして想定されてくる世界は、物自体として、人を統制していく理念と仮構されているわけではない。相互作用があることは、推定できるのだから。現にそう交流して生きていることを、わたしたちは知っている。」

「アニミズムですねそれは。」と槇原が人差し指を鍵のように曲げて答えた。「そもそも、量子論は、ホーリズムと親近性がありますからね。万物に霊が宿るスピリチュアリズムでしょ。」

「スピリチュアリズムとは、」と肥田が加えた。「資本による交換Cが趨勢の社会産物にすぎない。」

 時枝は、今度は閉じた左手の人差し指を伸ばして、伸ばしていた右手の人差し指をしまった。そして伸ばした長い指でリズムでもとるように、上下にチクタクと振った。

「人の社会に生きているのだから、そう言ってもいい。がなんでそう解釈する必要がある? 人が緊張関係で熱くなるのはどうしてだ? 腕力や言葉のやり取り以前に、赤ん坊がある人を前に突然と泣き出すのはなぜだ? それも、霊の力によるのか? それとも、物理作用で熱が発生すると理解するのか? わたしたちはわざわざ、そんなことは考えない。」

「か、考えないほうが、いいですよね?」と矢津が相槌を打ち、「禅問答みたいだな。」と肥田がもらし、「龍樹の『中論』が量子論を一番言えてる哲学だという話もありますからね。」と槇原が応じる。その間、島原は椅子に座ったまま、腕を搔いていた。

 時枝はチクタク動かしていた指を止めた。すると右手の人差し指も立てて、その伸びた両の指を、皆の方へと向けた。「科学が真理を追究するように、わたしたちもこうして、真理をめぐって議論している。ではそのそもそもの衝迫はどこからくるのか? 我が子を事故なり事件で亡くした母親は、なんでそうなったのか真実が知りたいと迫る。その衝迫はやみがたく、果てしない。どんな解釈を提示されようと、納得することはない。まだ真実がない、とわが身をすり減らしてでも真理を追究する。ならば答えは、真理をめぐる解釈、真実ではない。その衝迫がどうして起きたか、ということだ。楽園喪失したからか? 失われたものを、回復したいということなのか? 亡くなった我が子を、取り返したいということなのか? しかしそれは不可能だ。失ったのが、我が子だったのならば。しかしその衝迫は、あくまで衝迫なのだから、なだめることはできる。どうやって? 我が子が亡くなってはいない世界を作ることによってだ。社会を変えるということは、この可能なる世界を回復することに他ならない。」

「そんなこと、できるの?」と山田が口をはさんだ。「死んだ赤ちゃんがよみがえってくるなんて、逆に恐いわよね。」

「生きてても死んでても、同じなんだよ。そう言ったろう?」島原が、割って入った。「たとえばこう」と、島原はまた左腕を右手でボリボリと掻いた。「こうやって痒いからとひっかいて、いったい何匹のウィルスやら微生物が俺の体から亡くなっているのかわかりはしない。こんな程度で俺の意識は悲しむことはないが、バタフライ効果なるものはあるだろう。失われた世界は、確実にこの俺に、つまり俺の固有世界に影響を与えて変革を迫っていることは、推定できる。科学では、そんなことは証明できない。が科学の知見から、推定できる。そしてひっかきだされたウィルスや微生物とともに、彼らと共にあった俺の固有世界は失われている。が、その死の中にあっても、俺は生きている。生きているという感じ自体が、新しい可能なる世界へ向けてのバタフライ効果だ。ということは、生も死も、過去も未来も、可能性も現実も共存していることになる。」

「ぜんぜんわかんない。」と山田がせまる。「だってそれ、ぜんぜん慰めになんてならないじゃん。」と隣に立つ槇原の方を見た。「赤ちゃん亡くしたお母さん、なだめてやるんだって、さっき言ってたわよね?」

「言ってた言ってた。」と槇原がうなずいた。

「だから真剣勝負を喚起する必要があると言うんだよ。」と島原は躍起になったようにつづけた。「これを単なるお話と聞いている状態だから、慰めにもなだめにもならないんだよ。戦場で戦う兵士は、自分が死ぬことともに生きていることを突き付けられている。そこでは、そう自分をなだめる以外にない。しかしウィルスや微生物にとっては、その真剣勝負は日常茶判事だ。危機に陥った母親は、真理とは何かと衝迫にかられる。しかし、今の科学はどうだ? 科学者はどうだ? 真理なんてそっちのけで、使えりゃいいと産業技術者になり果てている。そんな体たらくだから、失われてゆくものたちへの共感もない。慰めにならないのじゃなくて、慰めがいらない、その必要性に気付けない、ということだ。だから、気づかせる。風向きを変える。空気を入れ替える。そのために、」とそこで島原は時枝の方を振り向いた。「王殺しを、復権させる。」

「王って、王様のこと?」と山田が言うと、「しょ、将棋の駒ですよね」と矢津が言い換え、「天皇のことか?」と槇原が敷衍し、「大逆事件でも起こすと?」と肥田が総括した。

「だから、」と島原が口をとがらせて、また皆の方を向いた。「もうそんなおおげさなことはいらないんだって。メディアに騒いでもらえばいんだから。」とそこで、奇妙な間を置いた。それからやおら、慎吾の方へ顔を向けた。「といっても、少なくとも、やることはある。命がけの飛躍をな。息子の前で首吊りする父親の自壊を繰り返えさすのではなく、自らの手を汚す、古典的な実践をな。」そして、慎吾をにらんだ。「戦争は、それからだ。わかるな?」

 慎吾は、部屋に入って少し進んだところで突っ立ったままだった。面持ちは真剣だったが、皆の話を聞いていたのかどうか、斜め後ろからその横顔をうかがうだけでは、正岐にはわからなかった。

「もちろんわかってるさ。」と慎吾は語気を強めて言い返した。「俺は、やる時はやるよ。」

2023年4月7日金曜日

『マザーツリー 森に隠された「知性」をめぐる冒険』( スザンヌ・シマード著/三木直子訳 ダイヤモンド社)の感想


 これは自伝である。科学的調査の一般読者向けへの報告書ではない。林業開発会社での「死刑執行人」の立場から、研究者へと転じて言った木こりの娘を取り巻いた世界の提示である。なんでおじいさんたちの伐採後の苗木は育ったのに、開発で皆伐されたあとの苗木はほとんど枯れてしまうのか、そんな疑問から彼女の見出した科学的発見が、論理的な必要として要請してくる記述形式なのだ。

 

彼女は導かれた。カーボーイの弟のマッチョな発言に、「死んじまえ」と捨てゼリフを吐いて酒場をあとにした数年後、弟は事故で本当に死んでしまう。彼の妻は、彼が死ぬ前に怯えていたといい、それは森の中で、馬に乗って現れたすでに故人である知人の手招きに応じて霧の中をついていったからだと。彼女はそのとき、男性優位な産業界や学会のなかで、性に合わない戦いを強いられていたが、それを突破していく契機を獲得した。この自伝で明確に述べられているわけではないが、自分の出世が、弟の犠牲によって、自然へ通じたなにかの世界への贈与として提供されたそのお返しなのではないかと暗示されている。

 

また、研究の成果が世間に広まりはじめるころ、乳がんになり、乳房を切除手術し、抗がん剤等の治療を受けることになった。死を意識しはじめた彼女は、まだ幼い娘たちへ伝えたいことや、自分を助けてくれる家族や友人たちのことをおもった。これは、森と同じではないか? 快癒後、彼女は樹木が親子を識別するのか、他の樹種との共存共生だけでなく、子育てをするのか、他の生き物たちとの間で、エネルギーの交換がなされているのかを、放射性炭素の同位体などを使って追跡調査した。さらに、他の生き物たちとの関係は? クマがマザーツリーまで運んで食べたサケの死骸からの窒素成分が、菌根菌のネットワークによって伝授されていくのもわかってきた。もはや彼女は、ハイイログマをおそれなくなった。

 

全てがつながっているのだ。こんなことは、科学で証明できることなのか? しかも、そんなことは、おじいさんたち、そしておじいさんたちに色々と教えてくれた先住民のインディアンたちは知っていた。著作で明確に述べられているわけではないが、科学とが産業界や学会を占める男たちを説得するためのまわりくどいレトリックにすぎないのではないのか、ということが暗示されている。現場の監督たちの中には、彼女の研究結果が現場の現状の説明に適っていると、励ましの言葉をかけてくれる男たちは当初からいたけれど。

 

彼女は、西洋の哲学やその思考態度の傾向性のことも考えた。が彼女自身が、自分の好奇心を追って、科学的な探究を変えることはない。

 

おそらく、だから、と言うべきなのかもしれない。翻訳者の日本人の女性は、この著作を持ちかけられて一読したとき、「とくに驚かなかった」と述べている。たとえば日本人なら、自分がこの作品を訳すことになったと言えば、「ご縁があったんですね」と言うだろう、そのように、全てがつながっている、という仏教用語でいう「縁起」という考えを、私たちは習俗として抱懐していないだろうかと。しかしこの日本人には当たり前として問わないそこを、本当に観察し、実験し、公的にしていく彼女の姿勢に敬意を表するのだ。

 

しかし立ち止まって考えれば、これは、奇妙な話である。

 

西洋人は、わかっていないことがわかれば直す。日本人は、わかっていても直さない。

 

どちらが実際効果としていいのかは、ケースバイケースだろう。おそらく人類的にはわかってきたことを「わからない」まま傲慢なのは度し難いことだが、「わかっている」のにその傲慢に従っているままなのは、情けないことである。

 

そして、この日本人の「わかっている」ことが、社会学者の宮台真司が告発する「愚民」の在り方を支えているものだとしたら? 「わかっている」ことはいいことだ、がそれゆえに、この世界の人間的進行の歴史の中では、「愚民」的振る舞いにつながってしまうとしたら?

 

とりあえず、ここまでの問いとしておこう。

 

=====以下引用(強調傍点は省略)=====

 

「私はその叡智を、西洋の科学という頑ななレンズを通してたまたま運よく垣間見ることができた。大学では、生態系をバラバラな部分に分けて、木や植物や土壌を別々に観察することを教えられた――森を客観的に見るために。こうして森を解剖し、支配し、分類し、感覚を麻痺させることで、明晰で信頼に足る、正当な知識が得られるはずだった。ある一つの体系をバラバラにして、その一つひとつの部分について考えるというやり方に従うことで、私は学んだ結果を論文として発表することができた。そしてまもなく私は、生態系全体の多様性とつながり合いについての論文を書くのがほぼ不可能であることを知ったのだ。対照群がないではないか!と、私の初期論文の査読者は叫んだ。私は、実験に使ったラテン方格〔訳注:n行n列の表にn個の異なる記号を、各記号が各行および各列に1回だけ現れるように並べたもの。効率よく実験を行うために使われる〕や要因計画、同位体や質量分析計やシンチレーションカウンター、それに統計的有意性のある顕著な差だけを考慮する訓練などを通じ、ぐるりと一巡して先住民の人々が持っていた叡智に辿り着いたのだ――多様性が重要だということに。そして、この世のすべては実際につながっているのである。森と草原、陸と海、空と大地、精霊と生きている人々、人間とそれ以外のすべての生き物が。」

 

「先住民族の人々の叡智のすべてを私が理解できるとは思っていない。それは、地球に対する、私自身が育った文化とは異なった考え方――認識論――から来るものだ。ビタールートの開花に、サケの遡上に、月の周囲に敏感でいること。私たちは土地――木々や動物や土や水――や人と互いにつながっており、そうしたつながりや資源を大切に扱って、未来の世代のために、また私たちの前に生きていた人々に敬意を払うために、これらの生態系の持続可能性をたしかなものにする責任がある、ということ。そおっと歩き、必要な贈り物だけを受け取り、お返しをすること。この生命の輪のなかで私たちがつながっているすべてのものに、謙虚さと寛容さをもって接すること。」

 


「人間以外の地球上のすべての生き物は、私たちがそのことに気づくのを、ずっと辛抱強く待ち続けている。

 この変革を起こすには、人間が再び自然と――森や草原や海と――つながることが必要だ。あらゆる生き物やお互いを搾取の対象として扱うのではなくて。それはつまり、現代の私たちの生き方、認識論、科学的手法を拡大して、先住民族の文化が根ざすものを補完し、それを礎とし、協調させるということだ。物質的な豊かさという見果てぬ夢を追いかけ、単にそれが可能だからという理由で森の木々を無差別に伐り倒し、魚を乱獲するという行為のつけを払うときが来ているのだ。」

 

「それは私たち一人ひとりにかかっている。あなたが自分のものと呼べる植物とつながってほしい。都会に住んでいる人は植木鉢をバルコニーに置き、庭があるなら家庭菜園を始めたり、コミュニティ農園に参加してもいいだろう。そしていますぐあなたにできるシンプルな行動がある――木を1本、あなたの木を見つけるのだ。自分がその木のネットワークにつながり、それが周りの木ともつながっているところを想像してほしい。感覚を研ぎ澄まして。」

2023年3月30日木曜日

昏い眼

 


「接近した台風の影響で天気が崩れ始め、昼近くからついに雨が降り出した。雨が降るという予報が出ていても用意周到に傘を持って外出する人は少ないらしく、ホテルの玄関のタクシー乗り場には、人の列が出来ていた。台風の到来を心待ちにしていたように、人の列ははしゃいでいるように見えた。」(『軽蔑』 中上健次全集11 集英社)

 

中上健次の作品では、いわゆる「路地」出身の主人公は、「昏い眼」をしていると表現される。一見、生命力を歌う作品のように見えながら、その目は生き生きしているのではなく、「昏い」のだ。暗い、のではない。

 

当初、私はこの漢字が読めなかった。たそがれ、とはわかるから、くらい、と読むのだろうな、とは推測できたが、純文学をそれなりに読んできた経験でも、あまり記憶にない表記の仕方に思えた。しかも、では、どんな「眼」だと言うのだろう?

 

スマホ検索してみると、ガンダムや馳星周氏などの作品で「昏い眼(目)」とされる主人公たちが出てくるようだ。おそらく検索にひっかかったwebページは、大衆小説とされてきたものを扱っているのだろう。

 

中上の全集を読み返してみてて、改めてこの「昏い」という表記のことが気にかかった時、ふと、漫画の『進撃の巨人』のなかで、ひとり大陸へと渡って陰謀をくわだてて仲間の下へと救助されて帰還したエレンに、特殊部隊の隊長であるリヴァイが声をかけるシーンが重なってきた。幼少の頃から貧民窟で育ってきたリヴァイは、エレンの「面(ツラ)」のような者をその「地下街」で腐るほど見てきた、おまえもそんな連中と同じようになったのか、と問うたのである。漫画では「面」と文字表記がはいるが、画では、エレンの「眼」がでてくる。リヴァイの言葉にはっとしたエレンの目、一瞬我に返った目も続く。その目の表情の変化の意味や、リヴァイの「…」の文字表記も謎だが、それゆえに、作者がこのシーンに意味深い拘りを持たせていることが知れる。

 

中上の「昏い眼」も、あのエレンのような「面」に見られたものなのではないだろうか? 路地消滅以降の作品では、あまり出てこない表現となる。むしろ、「暗い」、と表記される主人公もでてくる。未完となった『異族』では、「昏い」のは日本の路地出身者だけで(しかも意義ありげには記述されていないとみえる)、在日やアイヌや沖縄、フィリピンの「異族」たちではそう表現されない。

 

 

私が以上のような感想を書きつけておこうと思ったのは、先週だったか、テレビで、ゼレンスキーが前線で戦う兵士たちに勲章を与える様を見て、その兵士たちの「眼」が、みな、とろんとしていて、くらかった、からである。大統領と抱き合う時、女性兵士は笑みをみせたが、それでも、もう、人間感情が失われているようだった。BBCのニュースでも、前線の塹壕を案内する、女性的な表情をした若者の「眼」も、とろんとしていて、くらかったからである。たぶんあれが、「昏い眼」なのだ。

 

その戦場へ、日本の総理大臣が、激励の広島産必勝しゃもじだかを届けたそうだ。国会審議で野党側が「不謹慎」ではないかと疑義を申し立てたが、本当に度し難い仕打ちである。戦争が、甲子園になっている。普通の人間関係なら悪意なのか、と思われるが、おそらく、総理やそれを取り巻く官僚・官邸側は、本当に、善意でやったのだろう。首領同士の握手の新聞見出し写真では、ニコニコする総理の横で、不満げな大統領の顔が映っていた。ちょうど、WBCで、日本がアメリカを破り優勝したシーンが一面記事に並列されていた。大統領は、日本人が闘争的なのか、平和ボケのアホなのか、わけがわからなくなっただろう。(こういう脅しが、負けたとはいえアメリカに戦いを挑んだという歴史事実も含めて、なお効いているのだから、日本人が第三者的な仲介の役割を果たすことはできるのだろうと推測する。)

 

佐藤優は、結果的には無暗に戦争に巻き込まれる実地の一歩にならないですんだ今回の戦場会談を、これですんでよかった、ともらしている。まあそうではあるだろう。が、この日本人の世間知らずのナイーブさが、結局は、絨毯爆撃プラス原爆を落とされるまでにいたったのである。鈴木宗男は、もっと早く降伏をしていたら原爆を落とされずにすんでたくさんの命が救われたのだ、と言うが、それさえ、甘い認識なのかもしれない。なぜなら、おそらく科学実験がしたかったのだろうから。広島と長崎で二種類の違う爆弾が投下されたわけだが、どっちかが失敗していたら、科学実験が成功するまでもう一度、と降伏も受け入れられなかったであろう、と私は思うのである。

 

そんな戦争の焼け跡のなかで、「昏い眼」が育まれていった。そして今も。戦争に賭けて死ぬことが有意義な生なのだと、施政者たちは説くが、兵士たちの「眼」は、決して生き生きとはしていない。

「地獄への道は善意で舗装されている」、とのことわざを思い浮かべる。