植木屋独立へ向けて、新しいブログも追加。
2022年9月9日金曜日
釜底現状を見る引用三つ
「私たちは自分より強い人間たちに囲まれている。彼らは一〇〇〇の方法で私たちに害をなすことができ、そうやって害をなしても、四回のうち三回は罰されない。このような人間たちの心の中にも、私たちのために戦い、私たちをその攻撃から守ってくれる精神的な原理があることを知るのは、どんなに心がほっとすることだろう。
さもなければ、私たちは絶えざる恐怖の中で生きなければならないだろう。ライオンの前を通るように人間の前を通るようになり、自分の財産、名誉、生命について一瞬も安心できなくなるだろう。」(『ペルシア人の手紙』モンテスキュー著・田口卓臣訳 講談社学術文庫)
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指導者養成プログラムを後援し、民主的な政府がいかに働くのか、彼らがいかに政策改革を実現する手助けができるのかを多くのウクライナの若い人たちに教えることで、変化をもたらすことができるというのがわたしの考えです。より大きな政治情勢がどうあれ、ウクライナを訪れると楽観的になって帰ってきます。そうした指導者養成プログラムで教えているのですが、そこには多くの若いウクライナ人が参加します。三〇代や四〇代の比較的若い人がたくさんいるのです。ソ連のもとでは育っていない人たちで、ウクライナがヨーロッパの一国であってほしいと強く望む人たちです。」(『「歴史の終わり」の後で』フランシス・フクヤマ/マチルデ・ファスティング編・山田文訳 中央公論社)
2022年8月9日火曜日
焼き鳥屋とんちゃん
ピロティに区画された団地の駐輪場から自転車をだすと、まだ西に高い陽の光が矢継ぎ早に降り注いで、シャワーを浴びたばかりの肌に、射るような痛みを覚えさせる。日向に剥き出た両腕は、二度目の真夏日になめられて黒光りしている。梅雨が宣言されるや雨がやみ、35度を超えていく猛暑日が続いたのだった。さっそくこれまでで一番早い梅雨明けが宣言され、追い打ちをかけるような本格的な夏がやってきたのだ。
二又路に挟まれた交番から駅へと向かう坂道に入ると、正岐は陽炎の揺れる坂の底へと潜っていった。風のように身を切る空気は熱い。沸騰するように、汗が噴き出てくる。製鉄所の地下のシェルターに身を潜めて、釜の底で煮られていくような人々の姿が、ふと連想されてきた。その戦争の地で、大統領は冬のことを心配していた。暖房の途絶えた厳冬期は乗り切れない、それまでには終結させたい……。
陽の淀みからそのまま真っすぐ駆け上がっていけば、戦前はプロレタリア通りと呼ばれもした駅前の銀座通りにでる。正岐は左斜めへの路地をにさらに降りて、火葬場へと向かう道の方を進んだ。どん底になったような左手に、生垣に仕切られた火葬場が見えると、車道にかぶさった枝を元のほうから切断したばかりの桜並木に入り、そこから、今度は駆け上っていく。途中右側、だいぶ以前、もう20年以上も前まで植木手入れにはいっていた民家がある。そこのお宅の庭にも古木となった桜があった。えっちゃんが、チェンソーでそれを小さくした。「いい形になったわよね。上手なものでしょ?」と、家の奥さんが、まだ植木職人の見習いになったばかりで、地に落ちた枝をさばくだけの正岐に聞いてきた。その後しばらくして、奥さんは老人ホームにはいっていった。そのお宅は、今はこじんまりしたアパートに建て替わっている。
坂を上りきると、車が行き交う早稲田通りへと出る。そのまま東に曲がってゆくと、もっと大きな四車線の山手通りへと交差するのだった。正岐がえっちゃんに告げた飲み屋、草野球仲間がやっている焼き鳥屋さんは、その交差点のすぐ近くにあった。セブンイレブンと、マクドナルドと、バーミヤンと地下鉄へと降りる出入口が交差点の四隅を陣取っている。もともとこの高台のような交差点は、古墳であって、そこに富士信仰に伴う富士塚が築かれ、浅間神社があった。環状6号線を構築し、道路を真っすぐに通すために、その築山を取り除いたのだそうだ。浅間神社は、この地区の地主の一人のマンションの敷地、マクドナルドの裏手へと引きこもった。山を象った溶岩石の朴石や仏像は、交差点を下っていった先に江戸中期からはあったお寺に引き取られた。そのお寺の庭を、正岐やえっちゃんが手入れしていた。が二人とも、えっちゃんはすでに、正岐ももうすぐ、この界隈の町場の植木屋を退こうとしているのだった。
正岐は歩道の中央にある分離帯、自転車と歩行者を分ける植樹帯の脇に、自転車をとめた。トレパン地の黒い半ズボンのポケットから、使い捨ての白いマスクをとりだして着け、簾ふうの暖簾をかき分けて、店のドアを開けた。
「とんちゃん、だいじょうぶかい?」 正岐はまず顔だけをのぞかせて、中をうかがった。カウンターの一番奥の席に、男がひとり座っていて、その向こうで、眼鏡をかけた坊主頭のとんちゃんの姿がみえた。
「待ってましたよ! そこのテーブルをとってますから。」と四人掛けのテーブルが三つあるうちの、壁際の奥の方の席を手招きした。マスクを外して席に向かうと、店を手伝っている奥さんが消毒液をもってやってきた。「いつもすいませんねえ」と言いながら、手を出した正岐の両手にスプレーを吹きかけた。席に着けば、カウンターの男をテーブル向こうに伺うことになる。白いTシャツに、なにやら流行りの漫画かアニメの絵が描かれているのがちらと見えた。
「もう一杯もらえっかい?」男は、正岐より幾分年上にみえる男は、調理場にもどろうとしていた奥さんににジョッキをあずけた。そのさい、チラと、こちらを斜の眼付で覗き込むような眼の動きをみせた。正岐はどこかで、この雰囲気の暗い男と、出会ったことがあるような気がした。
「しろちゃん、ひさしぶりなのに、ピッチはやいねえ!」カウンター向こうの調理場でお通しを準備しているのだろう、とんちゃんが応じた。
「ぼくにも、ナマくださいよ。もう我慢できないや。先に飲んじゃおう。」おしぼりとお通しをテーブルに置いた奥さんが、すぐにまたもどっていった。おしぼりで手をぬぐっているあいだ、奥さんがサーバーからジョッキへとビールを注ぐ。
「お客さんはどうなの?」 正岐はおしぼりを畳んでテーブルの隅に置く。
「いやまた流行りだした、ってニュースになったでしょ。もうその日からぱたっと来なくなっちゃったよ。これなら、時間制限して援助してもらったほうがいいくらいだよ。」ととんちゃんは言う。コロナ第七波がやってきているのでは、と騒がれ始めていた。
「そんなもんかねえ」とカウンターの男が、奥さんからジョッキを受け取って、間に入るようにつぶやいた。
「そういうもんですよ。」ととんちゃんは笑いながら応じた。「しろちゃんは、仕事してないから、世の中に疎くなっちゃったんじゃないの?」
奥さんが生ビールを正岐のテーブルに置いていった。てっぺんの白い泡を口に含んだところで、開けたドアをつかんだままのえっちゃんが、顔をのぞかせた。
「まあちゃん、遅かったかな?」とテーブルに歩み寄ると、顔の半分くらいは覆っているマスクの中で、もごもごした声をだした。
「いま口につけちゃったところですよ。奥さん、生ビールもうひとつ。あと冷ややっこ二つと枝豆ひとつください。」 奥さんはテーブル脇に立ったえっちゃんの手のひらにも消毒スプレーをかけて、調理場のほうへもどった。えっちゃんが席についてマスクを外すと、日に焼けた真っ黒な笑顔があらわれた。日本の昔話や能の世界にでてくる、翁のようだなと、いつも思わされる。
「市川さんは、ここははじめてですよね?」 とんちゃんがカウンターから身を乗り出すようにしてきいてきた。透明なアクリル板が調理場とカウンターの敷居を仕切っているから、声を少し張り上げるような感じになる。「まあさんからは、よく話をきいてますよ。たくさん飲むほうなんでしょ。遠慮しないでくださいよ!」
とんちゃんは、正岐のことをまあちゃんではなく、まあさんと呼ぶ。この新宿の下町のような職人仲間の若い衆は、年上にちゃんではまずいからと、さんと言い換えて呼んでいるが、それに倣っているわけではないだろう。とんちゃんのほうが正岐より年上だ。が、野球が正岐のほうが経験者で、上手と認めているからなのだろう。
えっちゃんは奥さんから直接受け取ったジョッキをそのまま前に差し出すと、「乾杯!」と音頭をとった。
「とんちゃん、ネギマのタレ二本と、タン塩も二本おねがいね!」 正岐は注文を付け足した。
「えっちゃんは今日は、シルバーだったんですか?」 正岐もビールで喉を潤しながら、話しかけた。
「そうだよ。ハーちゃんところは、四日間で、金・土ってシルバーをやってるんだ。」とえっちゃん。
「フルで働いているんですね。僕より忙しそうですよ。だいじょうぶなんですか?」去年いっぱいで会社をやめて、シルバー人材に登録して、体力的につづけられる仕事をしようという話だった。いっときコロナが収まったころ、懇意な隣の地区の親方も呼んで、慰労をこめた「お疲れ様会」を、えっちゃんの家族が暮らすアパートの近くの飲み屋でやったのだった。会社では、そうした席を設けることはしにくくなっていた。去年の仕事納めの酒を飲む席で、親方はえっちゃんに、俺もあと数年で引退だからそれまでもう少し頑張っていっしょにできないか、というような話をほのめかせた。がそれに親方よりいくらか年上のえっちゃんは、いやもう無理です生活保護でも…と、答えたのだった。がえっちゃんは、親方の誘いに気付いて断ったのかはわからない。親方はそう思ったろうが、『鉄道員』の高倉健のような律儀な仕事人のえっちゃんに、そうした拒否ができるように正岐には思われなかった。たぶん、体力的に無理になった自分は退いて若いものに道を譲るべきだ、みたいな男気を思いつめて、もうそれしか頭に入らなくなっていたのではないか、が親方からすれば、自分とやるのがもう嫌なのかと思われただろう。それから、えっちゃんを送った飲み会から二カ月もたたずして、今度はえっちゃんから飲もうよ、と言ってきた。その間えっちゃんは、若社長のハーちゃんの方から手伝いに引き出されていた。正岐は、えっちゃんがいなくなったぶん、ひとりでか、親方といっしょに庭の手入れにおもむくことが多くなっていた。朝、会社の倉庫まえでえっちゃんと顔をあわせるときもあったが、役所仕事の多い親方の息子の若社長とは別の段取りだったので、そっちのことの方はよく知らなかった。
「いや最初、電話受けた時は、若いのがやめてるなんて知らなかったんだよ。ちょうどシルバーでも仕事がなくなってきていた時期だったから、手伝いみたいな感じならいいかって行ったら、オレひとりしかいねんだもん。」
「手伝いというより、前線になっちゃいますよね。」
えっちゃんは、う~んという感じでうなずき、ビールを飲む。
「それでさあ、」と喉を鳴らしてから、顔をあげる。「計画表ってのをみせられたんだよ。このお宅はこれまで二人工で一日とか二日とか……で、えりちゃんといっしょにやるらしいんだよ。」
「えっ?」と正岐は口につけていたジョッキをテーブルにおいて、えっちゃんを見返した。えりちゃんとは、ハーちゃんのお姉さんだ。よそに嫁いでいったが、これまで人手がたりなくなったときなど、自身の介護の仕事を休んだりして、手伝いに来ることはあった。子供が三人いて、長男は今年大学生になったらしい。
「この間、山下親方と飲んでだときは、ハーちゃんは、お寺も神社も民家も、親方の仕事は引き継がない、ぜったいやらない、と言ってたって話でしたけど……。まあ、ひとりじゃ役所仕事なんてできないでしょうけど。だけどそれ、僕とえっちゃんでやってたことを、そのままえりちゃんと二人でやって、ってことですか?」
「そうなんだよ。」とえっちゃんはまた、ビールを飲む。「この間も榎山荘でさ、去年はここ二日で終わってますから、ってハーちゃん現場からいなくなるんだけど、そういう言い方されたら、おわらせなくちゃならなくなるじゃないか。若い奴らがやってたのに。こっちは昼休みもなくしてさ。」とえっちゃんは下をむいた。えっちゃんが弱気をみせるのは、珍しい。はじめて目にすることかもしれない。やはり歳を取り、体力的にこたえてくるので、精神的にもまいってくるのかもしれない。しかも、この暑さのなかだ。
「同じようにやれるわけがないなんて、体つかってれば、わかることですよね。それで勤まるのなら、プロいらないし。」ちょっとビールを口につけてから、「計画表作ってそのまま計画どおりやれるなんて、頭でっかちだなあ。」とつぶやく。
正岐はだいぶ以前、まだハーちゃんが現場を仕切り始めて間もなくの頃、植木仕事をやりはじめたばかりのいなせな若者が、居残りなように事務机に座っているのを目にしたことがあった。「何してるんだ?」ときいてみると、今日の反省文を書かせられているのだという。改善点を提出するのだとか。若者は、戸惑った表情の内にも、何か冷ややかな感情を目の奥にみせていた。
「ハーちゃん、この間ここに飲みにきてくれてたんですよ。」 とんちゃんが、ぼそっと言ったのが聞こえた。焼き鳥を皿にのせて、奥さんがもってくる。正岐は少し間をおいてから、ネギマの方をとって、口にもっていく。
「何か、仕事のことで、言ってた?」 カウンターの方へ顔をあげて、こちらに背中をむけたしろちゃんと呼ばれた男ごしに聞く。
「俺にも、悪いところがあるんだよね、って言ってましたよ。」すると、えっちゃんが口にしていたジョッキをテーブルに置いて、声を張り上げた。
「悪いのはわかってても、何が悪いかがわかってないんだよ! だから、繰り返すんだよ!」
正岐はびっくりした。とんちゃんも、あとずさりするような驚いた表情をした。えっちゃんは、空になったジョッキを、調理場への入り口に立っていた奥さんの方へ差し出した。
「まあ、はじめてなことではないですからね。もう、何人もやめていったわけだから。」 正岐は、取り繕うように付け足した。えっちゃんは、だいぶ弱っているのだろうか。今年にはいってから、えっちゃんよりひとまわり若い奥さんは、糖尿病がひどくなって、人工透析になっていた。
「そういや、もうすぐ土用の丑の日だよね。」少し緊張した空気をやわらげるように、とんちゃんに声をかけた。「うなぎ、できるの?」ときく。できますよ、というとんちゃんに、テーブルに置いてあるメニューをながめながら、「肝焼きってのは、にがいの?」
「にがいけど、おいしいよ。俺は好きだな。」とえっちゃんが答える。
「じゃあ、ふたつ焼いてよ。」ととんちゃんに言ってから、「えっちゃん、お代は僕も払いますからね、だいじょうぶですよ。」と、新しいビールを飲み始めたえっちゃんに言う。前回の飲み会のときは、正岐と山下親方で支払ったので、今回は自分の方から誘ったのだからと、えっちゃんが支払うと言っていたのだった。がうなぎは、少し高めだ。
「いいって、いいって。」とえっちゃんは身振りを交えてさえぎった。
店内は、こげ茶の板張りで囲われている。通りに面したビルの一階にある店への入り口以外に、外の光がはいる場所はなかったが、西向きに面した明かり窓が、夕日を目いっぱい採り入れているので、明るかった。奥隣の倉庫やトイレへとぬける、ちょっとした廊下のような空間の壁には、カレンダーやポスターが貼ってある。「ツギコメ」と大きな文字の目立つポスターもあるから、もしかしてとんちゃんは、公明党員なのかもしれない。それとも、お客にたのまれて、若者につぎ込んでいこうという政策を掲げたそのポスターがはってあるのかもしれない。美術の専門学校に通っていたがやめたという娘さんの、お化けの絵がその上にかかげられている。近くのマンションで暮らす落語の師匠が、その絵を褒めてくれたと言っていた。テレビの「笑点」のレギュラーにもなっているその落語家のサインも、天井近くに飾ってある。師匠はこの店に通う草野球仲間のために、いや胸に自分のネームが大きく入った特注のユニホームを着たいためか、自分の名を冠したカップ杯を設けたが、去年は雨、今年も雨で中止になったのだった。代わりの飲み会では、ドアから顔をだしては、小降りとなってきた空模様を見上げながら、「これならできるんじゃない?」とうらめしそうに言っていたそうだ。がその日中からの酒の席で、野球仲間たちが、子供への指導方針をめぐって熱くなった議論をはじめると、耳にうるさくなったように、店を後にしていったそうだ。
正岐はそんな議論があったという話を思い出しながら、カウンター席にうずくまったままの男の真上に飾られた写真を見あげて、顎で指すようにして、えっちゃんをうながした。
「ほらっ、この柔道の写真。」 額に入った、柔道着姿の男たちが整列するそれには、Budapest
World Cupと、大きく印字されてある。
「とんちゃんは、柔道やってて、先輩にはオリンピック選手もいるんですよ。」と説明する。
とんちゃんが、うれしそうに笑う。
「締め技で、いつも首しめられてたんだって。」と正岐が付け足す。
「ええ、いじめられてばかりでねえ。」と立ち昇る白い煙に渋い目つきになりながらも、とんちゃんは笑顔を増す。
「へえ~、柔道やってたんだ、すごいなあ。」とえっちゃんが、感心するというより、どこか気後れするような小さな声でうなずいた。えっちゃんの若い頃は、まだ部活動なんてなかったのかもしれない。えっちゃんは中卒でプレス工になった。当時の新宿闘争と呼ばれた争乱のなかにいて、石を投げてたと言っていたが、どんなつもりでそこにいたのか、今の姿からはわからない。
「たくちゃんの息子さんはどうなの? もう準決勝、いった?」 正岐は草野球仲間の間でも評判になってきた、入学したばかりでレギュラーの座を奪って大会に出ている高校生のことに話をふった。チームメイトの父親は野球部出身ではなかったけれど、この地区の草野球をやりはじめた縁で、息子の方は小さい頃から大人とまじって野球をやりはじめた。中学の部活動ではなくクラブチームに所属し、高校は春の選抜甲子園に出場していた文武両道をうたう私立の進学校へと、野球推薦で入学したのだ。そこですぐに甲子園にでていた三年生の先輩から遊撃手のポジションを奪うと、この夏の西東京予選で先発選手として出場していた。
「いやまだエイトですね。この間コールド勝ちしてましたよ。そこで三塁打打ったから、たくちゃんも大喜びで、ラインがいっぱい入ってきて大変になったって言ってましたよ。」
「甲子園にいっちゃうじゃん。」と正岐がはやしたてると、
「いやあ、無理でしょ。」ととんちゃんは真剣な面持ちになって言う。「やっぱりねえ、夏は進学校には無理なんですよ。練習時間も夕方6時半までとか決まってるでしょ。ばてちゃんですよね。」
「まあ、そうかもね。わかるよ。」正岐はうなずく。えっちゃんがまた空になったジョッキをあげて、奥さんにナマを頼んだ。
「いつも甲子園めざしてるようなチームは、夏の練習でほんとうに人が死ぬからね。毎年ひとりふたり、熱中症だかボールが頭に当たったとかで、死んだって話が流れてきたからね。だけどそれが普通で、死ぬ気でやるのが当たり前のような雰囲気があってさ…」とそこまで言うと、
「そうそう。」ととんちゃんが相槌を打つ。「締め技されてさあ、ほんとに死んじまうんじゃないかってとこまでやるんだからな!」
奥さんがうなぎの肝焼きを運んできた。店の手伝いをはじめて、まだそんな月日がたっていなかったかもしれない。コロナになってから、他の仕事が暇になって、手伝うようになったのだったか。とんちゃんは、時おり、まだ自身からは不手際に見える奥さんを叱りつけた。声が厳しいのは、やはり柔道家の訓練を受けているからだろうか。
えっちゃんは、肝焼きの串を手にして、頬張っている。とんちゃんや正岐より一回り以上年上のえっちゃんは、むしろ死ぬ気でやるというのが体質的な言葉に、身体的な価値になっているかもしれなかった。肩を入れた瞬間に脳天がいかれていくような重い植木を天秤担ぎに運んだり、剪定したあとの枝の束をひたすら担いでトラックに積み込んだり、棘だらけの枝を腕のなかに抱えたり、前身が発疹だらけになって痒くなったり刺されると電気のように痺れたりする毛虫だらけの樹にもぐったり、体力の限度や苦痛の最中を弱音ひとつもらさないのが生き様であるかのようだった。が、加齢による肉体自身の衰えのなか、なおそれを続けていくという生活は、心と体を分裂させていく。もう統一されない。えっちゃんが若い衆がいない、というとき、それは我慢という統一を自身に矛盾なく維持させてくれる補佐がいない、ということを意味していて、価値自体には変更がないのかもしれなかった。そしてそれは、えっちゃんの態度ばかりではなかった。職人の世界に入りたてのころ、正岐は仕事終わりによく酒の席につきあわされた。何の話であったか、正岐が、言うことを聞けと言ったって死ねと言われて死ぬまでするということではないでしょ、と答えたのに、親方は、「へえ~、そうなの」と、あたかもそんな常識は軽蔑するというような口調と眼差しを向けてきたのだった。
「高倉健じゃさあ、だめなんだよ。」 突然、カウンター席の男が言った。
「しろちゃん、なんだいいきなり。まさか、またはじまったんじゃんないだろうね。」 とんちゃんが一瞬とまどったあとで、ニヤニヤしながら受け継いだ。
「へっ、たしかにさ、健さんは最後は中国に息子をさがしにいって、あの朴訥とした態度があっちの庶民たちから共感されたよ。今でもスターで、人気者かもしれないな。しかしだからって、井の中の蛙が、島国の世間知らずの価値が、普遍的だとおもうな。」 男は、俯いたままだったしろちゃんは、顔をあげて、ビールをぐいっと飲みほした。「もう一杯!」
奥さんがその勢いにおされて、あわてたようにジョッキを受け取った。
「死ねって言われて、死ぬだって? 言われなくたって、死ぬんだよ!」 しろちゃんは、テーブルに座る正岐の方に振り返り、背を向けていることになるえっちゃんの頭越しに吠えたてた。「居候させてもらっただけで、流れのもんがそこの親分のために命を投げる、だって? 終身雇用は時代遅れですって、転職アプリで片足だけかけてる浮気もんが、結局は井戸に生き埋めされる蛙じゃねえか!」
「ひゃあ~」と、とんちゃんが頓狂な叫び声で応じた。「しろちゃん、まだ酒乱ははやくねえ?」
しろちゃんは、今度はカウンター向こうのとんちゃんの方を振り返った。「あいつがさ、先生さまが、おそいんだよ。待ちくたびれる、まったく!」またテーブルの方に振り返り、指さすようにジョッキを正岐の方へ傾けた。
「じゃあ聞くがさあ、植木屋さん。なんでマリウポリの製鉄所の地下に追いやられて閉じ込められたウクライナ人たちは、玉砕しなかったんだ? 正義なんだろ? 命かけなくていいのか?」身を乗り出すようにして、じろりと正岐をにらんだ。
正岐は一瞬たじろいだが、
「沖縄戦みたく、住民に手りゅう弾わたして死ね、っていうよりは、正義なんじゃないですか?」としろちゃんを見上げた。
「ほう~、情けねえとおもわねえわけか。」しろちゃんはビールを一口飲みほした。「住民を置いては逃げない。住民を楯にしてもな。それでスマホをかけて世界に助けを呼びかける。すげえなあ、なんてふてえ野郎どもだ。そうでもやって生き延びていくのが大陸の正義か? 正義は、死んでも明かすものじゃないのか?」
「生きて捕囚の辱めを受けず、のほうが、正義だということですか?」 正岐が言い返すと、一瞬、間ができた。二人はしばらく黙ったまま視線を交わした。
しろちゃんはその視線をはずすと、自分に言い聞かせるように答える。
「それが島国だって、言いてんだよ。捕虜になって、終わりか? 降伏して、終わりか? 嘘だったじゃねえか。俺たちはこうして、ビールを飲んでいる。」そして、ビールを飲んだ。
「だけど、本当かい?」 ジョッキから口を放すと、そのまま量の減ったビールをみつめた。少しの間のあとで、またいきなりなように、
「おまえの親方は、亡霊だったな?」視線をビールに落としたまま、聞いてきた。
「亡霊?」 正岐は繰り返す。「いや、まだ生きてますよ。もう引退はするみたいですけど…ねえ、」とえっちゃんをうながした。うむ、と苦笑を返したえっちゃんも、ビールを飲みながらうなずいた。
「ちぇっ、」としろちゃんは下を鳴らした。「ちがうよ。暴走族の名前だよ。ここらへんじゃ有名だろ。高度成長期、一世を風靡した族の番長だって。」
「ああ、スペクターのことですね?」正岐が聞き返すと、「番長はタイゾウさんだよ。親方は一緒にはじめた同級生だよ。」とえっちゃんが説明する。ちぇっ、とまた舌を鳴らすと、しろちゃんはつづけた。
「その亡霊の親方が、歳とって、最期まで自分を貫き通せるものなのか? 子分の面倒を、最後まで面倒みれるっていうのか? 途中で放棄すりゃあ、資本の都合のいい論理とおなじだぜ。使い捨てだ。生き様でも、倫理なんかでもありゃしねえ。そもそも、人が歳をとり、体が言うことをきかなくなる条件で、さらには体の言うこともわからなくなる認知症の現実で、そんなことが人に押し付けられる価値になりえるのか?」問いつめるように、正岐をみつめた。しかし…と、その目の奥で怒っているような瞳に惹きつけられるように、正岐は考えはじめた。むしろ、すでに価値に殉じていても、おかしくないのではないだろうか? 親方は、もう厄年をむかえたころから、気力がひとつ抜けて、体力も落ちて、にもかかわらず自分がやってきたお寺の庭木などにヘルメットもかぶらずのぼり、脚立にあがり、何度も落ちている。死んでても、おかしくない。そしてそれは正岐もいっちゃんも同じだ。二人とも、ちょうど厄年をむかえた四十二歳のとき、大木から落下し、一命をとりとめた。お互い、そのときの身体的な後遺症をひきずっている。自然を、時間の条件を、どこで区切るのか? 春か、夏か、秋か、冬なのか…。人は老いる、冬をむかえる、しかしそれは、生において、知識でしかないのではないか?
「俺が言っているのはよう、」としろちゃんは、こちらの考えを遮るように続ける。「今なんだよ。この瞬間的な時間においてだ、人は、それをのぞんでいるのか? いや、その死ぬまでの価値を、のぞんでいいものなのか?」 また問い詰めてくるように、しろちゃんは迫った。
正岐が答えあぐねていると、癖なように、ちぇっ、とまた舌打ちをした。
「子供のことを考えてみろよ。(しろちゃんは拳で威嚇するようにジョッキを傾けた。)経験が記憶されて意識されるでもない子供に、季節の知識もあるとおもうか? 厳しい野球の練習に耐えていくことを、前提にできるのか? 冬を乗り切れば春が来る、それを、根拠にできるのか? いやなら、やめるだけだろ。 あきたら、よそをむくだけだろ。それが、前提じゃねえか!」
「まあ、わかりますけど、」と正岐はためらいがちに、受け継いだ。「サッカーでもテニスでも、欧米のコーチは、子供をあきさせないメニューを開発していくのが仕事みたいなものですからね。」
「ああそうだ。(しろちゃんはおもむろに言う。)いやならやめることもできない、痛いならわめくこともできない、そんな価値は浅はかな強制以外のなにものでもない。やめたら終わり、負けたら終わりのトーナンメント方式など、リアルでもなんでもありゃしない。やめずに我慢して上達した雨蛙を青田買いに囲い込んでレールにのせる。ペットの犬猫でも、生まれたばかりは可愛くて高く売れるとしても、売買は禁止になってるのにな。それでもできのいい選ばれた雨蛙を自由に引きずりまわしてるのは、井の中の島民だけだ。親元を幼い頃引き離されたガキ蛙はホームシックにきゃんきゃん鳴いてもう躾けられない。自分たちで、自分の住処を、井戸を、ホームを壊していることにも気づかない。何が近代化だ? 壊れるにまかせて、新しいガキをコンベアーにのせてすり潰していく。なんで島民代表は、子供のころは世界大会でも強いのに、大人になると弱いんだ? うまいのに、弱いんだ? 謎でもなんでもありゃしない。バカなだけだよ。じゃあなら、あきないようおだてられた井の外の蛙どもが優れてるってのか? 捕虜になっても降伏しても次ありますからって人生のリーグ戦が真実だというのか? ……まあ、そうだろうぜ。命令で死ぬのではなく、自発的に死んでいくんだからな! 面白くなってチャレンジする、失敗はよくやったとほめられる、うれしくなって、本気で体当たりしていくようになる。言われねえことやるからヘマするんだなんて大人たちから怒られやしない。だから生き生きと育ち、死んでいく! マスクなんて糞くらえってな! 我慢ならんのがなんでわりい! 息苦しかったら外せばいいだろが! それが本場の民主主義だとさ。そいつらのお友達になりてんだとさ、この同調ガエルどもめ! ゲロゲロいつまで合唱してる? ゲロゲロ、ゲロゲロ、ゲロゲロ!」ビールの泡を噴き出しでもするように声をあげて、傾けていたジョッキを高くかかげた。「いっぱん庶民を、ぶっこわ~す!」
しろちゃんは、最近のN政党党首がみせるような、片手をアッパーカットで持ち上げるガッツポーズを真似てみせて、もう片方の、ジョッキを握っていた手を勢いよく口元にもっていき、残っていたビールを一気に飲み干した。「もう一杯!」
とんちゃんはあきれたように、「待って待って」と笑い声をあげながらも、困った表情を態度で示すように、腰に手をあてた。
「でも、」と、正岐は遮るように短く言った。「死ななかったんでしょ? マリウポリの人々は。(正岐はしろちゃんを見返した。)たしかに、自発的に死をおそれなかった。しかし、硫黄島の戦いみたく、玉砕もしなかった。」
「ハッハー!」としろちゃんは上向いて、爆発的な笑い声をあげた。「そこだよ、そこ!(意を得たり、とでも言うように、ぱちんと手を合わせて叩いた。)そこが、井の外の蛙たちなんだろうな! だってその野っぱらには、蛇も蜥蜴もいるからな。上空には鳥の目も光ってるぜ! つまりは、自分の価値なんて背後から食われちまうってわけさ。虐殺の大陸史だ。天下統一たって、次の瞬間にはどことも知れぬところから大群がやってきて、天下の同族を皆殺しに破壊していく。そんな野っぱらで、どうやって生きていくんだ? 死が、全滅が前提としてあるのに、どう生きたらいいの?なんてノウハウなんて小賢しい。そこで、蛇や蜥蜴と一緒に暮らすしかねえじゃねえか。それは優劣の価値問題じゃない。降参も玉砕も同じにさせられる、ニヒルで、ユーモラスな現実なんだよ。人道回廊で救出された奴らは死ななかったじゃないかって? すでに、亡霊なんだよ。生も、死も、同じになる。ペットの犬猫と一緒に育ったライオンはペットを食いはしないぜ。しかしそれは、食っちまうこととおなじだろ、ライオンは、ライオンなんだから。そのライオンの鼻先で、ペットのワンちゃんがペロっとなめられるのか、パクっと食われるのかに違いなんてない。ユーチューブの動画でまあ可愛い仲良しさんねえなんて喜んでた次の瞬間、パクッて子猫が食われちまう現実がなくなったとでもいうのか? それが、ライオンだろう、ライオンが、それだろう……いや、待てよ、まだ…まだそれは、来てねえかも知れねえけどな。」
しろちゃんは、突然瞳を内に凝らしたように押し黙った。「そう、まだ来ていない……おせえなあ…」独り言のようにつぶやいて、また黙った。正岐も、その沈黙に引きずりこまれた。話しかけるのがはばかられるような間ができた。がまたふいと顔をあげると、正岐の顔をまじまじとみつめた。陰気に返ったその表情をみて、やはり、どこかで会ったことがある、と正岐には思えてきた。
しろちゃんと呼ばれた男は、正岐をみつめながらも、どこか上の空なようにつぶやいた。「なんせ議員の七割が新人になったって言うからな。プーチン君にすれば、素人に現実を教えてやるよ、野っぱらの現実を思い知らせてやるよ、くらいなものかもしれねえな。啓蒙のつもりなんだろ。がだとしたら、本当のそれが来るのは、これからだぜ。こんなのは、悪魔を呼ぶための儀式にすぎないんだろ。だけど、それは、来るんだぜ(と顔をよせてきた。)何億匹の、悪魔を連れてな……」
そう言ったとき、店のドアの開く音がした。
暖簾をくぐって、キャップ帽をかぶり、マスクをした男があらわれた。ステッキをついていた。いつのまにか、日が沈んでいて、店内の蛍光灯が男の背景を黒く浮き出させるためか、背が高いように見えた。淡い色の反射で光る長袖のシャツに、黒のスラックスのようなものを穿いている。目が、据わっていた。それは、すぐにカウンター席のしろちゃんを見つめて、動かなかった。
しろちゃんは、内に向いた瞳を外に引きずり出されるようにして、敷居に立つ男へ振り向いた。不遜な笑いが目元に現れると、口が開いた。「それが、やっとお出ましかい。」いちど言葉を区切ると、刺すような口調の言葉を男に投げた。「おまえだよな、ヨシキ。あいつに、もと総理の暗殺をそそのかしたのは。」
正岐は、思い出した。島原史郎と時枝兆輝。もう20年ほどまえか、兄の慎吾につきそっていってみた、ある新しい社会運動と称した組織の人たちだった。
2022年7月28日木曜日
元総理暗殺まで(2)
ホリエモンが、「世間体」とかいう歌をコラボした女性が、ワクチン未接種なのを知って、彼女を「バカ」だとしてその関連を断ち、ネット上からもコラボ動画等を削除したという。ワクチンを受けてない人は自分との関係を自ら削除してくださいと発信しながら。ので、私もチャンネル登録を削除した。この産業技術信仰も、カルトである。
古館伊知郎が、自身のユーチューブで、ワクチンが科学的に妥当なのかは、調べてもわからない、と発言している。古館も、「バカ」なのだろうか?
N党の幹事をしている、つばさの党の黒川は列記とした反ワクチン派だが、堀江は、ならば立花党首との関連を、どう考えるのだろうか。
デモクラシータイムスで、五野井氏がトランプ現象は宗教問題なのだと指摘したが、私も同感だ。中絶問題は、生命尊重と、選択の自由自体の尊さ、という原理的な価値の争いになっている。理想としては全ての命の尊重といきたいけど、現状の女性が置かれた社会では中絶も仕方ないよね、という実際的なグレーゾーンが排除されてしまうかのようだ。
ウクライナの戦争もそうだ。もとウクライナ大使の馬渕は、陰謀論が真実なのだと力説するが、その論法は、2次創作的である。一例をあげれば、9.11で崩壊したワールドトレードセンター跡地での新設ビルの名前はワン・ワールドトレードセンターだ、つまり一つの世界政府設立を企んでいる勢力があるのだと。名付けに関するやばい議事録でも出てくれば別だが、その想像的飛躍は、大塚英志が指摘したサブカル・コミュニティを成立させている熱狂と同質である。島田雅彦が、ディープステイトという用語を使用するのは、小説家としての想像力を使わなくては理解できない社会だと自覚的にである。
五野井氏の発信にあるように、現実の複雑さを単純に処理したくなる切迫さが、世界に充満しているのだろう。
宗教は民衆のアヘンであるという、そのアヘンを吸っていないとやりすごせない社会が全的になってきたのだ。
2022年7月27日水曜日
元総理暗殺まで
相模原市の福祉施設での殺傷事件から6年目の7月26日、秋葉原で殺傷事件を起こした者への死刑が執行された。安倍元総理を殺害した者へも、死刑が求刑されるのでは、と騒がれはじめている。
国家が、今さらなように見出した、何者かたちへの見せしめのように、その日を選んだわけではないだろうが、勘繰りたくもなる。
ユーチューブの「デモクラシー・タイムス.」で、元総理暗殺が、アベガーの影響などという狭い見方ではなく、トランプ現象にも通じた広い見方で捉える必要があることを議論している。
・「"新自由主義とカルトに追い詰められた”ジョーカー”のツイートを読み解く五野井郁夫さん」
ウクライナをめぐる戦争も、プーチン(ジョーカー)の拡大自殺という枠を超えて、ウェストファリア体制以前の、16世紀までの戦国宗教戦争として把握していく必要があるのかもしれない。
※参照ブログ
右翼的なものの再来
https://danpance.blogspot.com/2022/07/blog-post.html?m=1
「 『進撃の巨人』論」
https://danpance.blogspot.com/2022/03/blog-post_14.html?m=1
「映画『ジョーカー』とハロウィン騒ぎ」
https://danpance.blogspot.com/2019/12/blog-post_8.html?m=1
「進撃の女房」
https://danpance.blogspot.com/2018/07/blog-post_22.html?m=1
「座間事件」
https://danpance.blogspot.com/2017/11/blog-post.html?m=1
「トータルフットボール、教育制度と戦術(2)――都知事選結果・相模原事件を受けて」
http://danpance.blogspot.com/2016/08/blog-post_11.html?m=1)
「小さな過去」
https://danpance.blogspot.com/2016/03/blog-post.html?m=1
2022年7月17日日曜日
釜の底が抜ける、ということ
「コジェーブが、そのような「最後の人間」の類型例として、注記して、物質的欲求の追求に自足し、いわば動物化したアメリカ類型と、スノッブ(形式的洗練と疑似の高貴さ)的あり方に淫する日本的類型をあげたことは、よく知られている。またフクヤマ自身がこの空白を埋めるものとして、プラトンの人間の三要素、欲望、理性、気概から引いて、その著の後半を気概(テューモス)の大切さを強調するのに費やしていることも、周知の通りである。でも、著作の後段を占めるこの気概をめぐる議論を、私はそれほど有効な議論であるとは受けとっていない。(略)ここでフクヤマがいいあてようとしていた「歴史の終わり」とは何の「終わり」か。/それは、東西冷戦の終わりでも、初の共産主義国の試みの破綻でも、マルクス主義思想の体現する未来の終わりでもない。近代の終わり、ヘーゲルのいう世界史の終わりですらないかもしれない。いまになってわかるのは、それが、これらをささえていたもっと長い射程をもつ世界の考え方の、「終わりのはじまり」だったのではないかということである。」
「水野が理由としてあげているのは(『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書にて――引用者註)、一六世紀からはじまった資本制システムが、五○○年をへて、とうとう空間的にも時間的にも「外部」を搾取しつくしてしまい、もうそこから利潤を生みだすべき「フロンティア」を失おうとしているということである。議論は、本文にふれた柄谷行人の「人間的資源」の限界の説に一部重なるが、もっと徹底している。したがって、結論としていわれるのは「革命」ではない。その代わりに、資本制システムが、いわば内的な理由から終焉を迎えようとしている以上、われわれは、これが世界の混乱へと進まないよう、新しい考えに立って、新しいシステムを構築すべきだとする。」(加藤典洋『人類が永遠に続くのではないとしたら』 新潮社)
参院選挙が終わり、予想通りの自民圧勝となった。それに与党化した野党を加えれば、戦後民主主義の底が抜けるとかいうよりも、日本の何ものかが盤石なままだ、と想定すべきだろう。まだ未熟な新規政党らの出現がなんらかの症状を呈しているとしても、それをあげつらうことに意味がでてくるとは思われない。が、日本の何かが揺るぎない反応で凝り固まろうと、世界の底は抜けていく。ワラをつかんでいるにすぎないことを、認めるのが怖いだけだろう。安倍元総理の死は、投票率を押し上げたかもしれないが、祖先の墓仕舞いをし、自身は子供らに迷惑をかけたくないと、無名的な共同墓地ですましていく親子たちが多くでてきている。そういう事例を鑑みても、私たちの底自身もまた底抜けになりつつあるのが、誰の目にも明白になったとき、民主主義的観点からはいかがわしく思える者たちが、どう機能していくかは未知数だ。私たちが、もし存続していくのなら、わけのわからない世界に入っていくのだろうから。
しかしとりあえず今は、わけがわかりすぎる。ウクライナ戦争にせよ、自民圧勝にせよ。「歴史の終わり」のフクヤマが言っていたように、「気概」が復活してきているわけだ。人間とはそういうもんだ、みたいに。この攻撃欲動的なものに対し、というより、その否定は人間の条件上できないのだから、それを外にではなく、内に向かわせる、という二つの世界大戦の後遺症から、9条的な実行に転換しようと目論まれてもきていたわけだが、もうそんな仕掛けだけではもたないのかもしれない。ロシアの作家は、現状のロシアについて、その思想を説きもしているけれど。(ミハイル・シーシキン「プーチンは皇帝か」朝日新聞朝刊7月5日)
ソ連崩壊後に起きた湾岸戦争への国内での反戦運動について、冒頭引用の著者・加藤典洋は異議を申し立てたわけだ。「平和憲法がなかったら反対しないわけか」、と。が、3.11の経験を受けて、あるいは息子の死もあってなのか、反戦の著名活動の中心でもあった柄谷行人の世界認識を受け入れて近づいている。一方、その柄谷本人も、加藤の批判的論点、「ねじれ」という内的現実=歴史を受け入れ熟考しはじめた。キリスト者としての自覚は後から来るという内村鑑三論や、たしか中野重治についての論考が、加藤の批判への応答になるだろう。たしかに、「ねじれ」ているかもしれない。が、あとから、それが真実で真正な態度になるのだという精神分析的な現実性で説得論理を構築してみせたのである。柄谷の、押し付けられたものであるからこそ真正なものになっていくという9条理解の論法も、その延長上にあるだろう。
しかし柄谷と加藤とは、お互いが歩み寄ったとはいえ、懸隔はそのままとみるべきだろう。柄谷用語で言ってみるなら、柄谷の論理は他者の外部(出来事一回性)にこだわるがゆえに反復(更新)という時間仮説になり、加藤のはあくまで異者という観念を保持しようとしているので、その時間は線的、物語的になる。いわば、マルクス的かヘーゲル的かという差異だ。しかし、ヘーゲル的だからといって、思考の問題としては、わるいわけではない。フランシス・フクヤマは、プーチンによるウクライナ戦争への見立てを見事にはずしたが(「プーチンは完敗する――私が楽観論を唱える理由」『ウクライナの未来 プーチンの運命』講談社α新書)、そのシンプルな思考や着眼点は、そう容易に否定できるものではない。
加藤の『人類が永遠に続くのではないとしたら』も、歴史が反復(永遠回帰)ではなく、時代的な変遷、進行方向を持つという時間仮説が濃厚である。思考の素材の解釈について、柄谷教養の私とは違ってくるが、その取り上げられる材料や着眼点は、このブログで追求してきたものと重なってくるだろう。しかしそれらをいちいち追求して論としてまとめてみるという、学者というか批評家的な欲望と暇を私はもっていない。私は、小説家として考えているだろうから、前方に実践して、賭けて認識する。
もし、人類がこの今のわかりきった苦難を乗り越えるなり、やり過ごすなりして存続するならば、次の対談引用に伺われるような、もはやこれまでの人間や自然観では定義できない位相に入っていくことになるのだろう(それが、水野和夫も16世紀に起きたという「釜の底が抜ける」ということだ。ダンス&パンセ: 現状を考えるための引用 (danpance.blogspot.com))。それは、人間(精神分析)としての反復ですらないのかもしれないが、他者との固有性が更新されるものではあるのだろう。
《「鈴木 …そうすると、最終的に行き着くのは、ナノロボットの類を脳に入れて、一個一個のニューロンに付着させるというやり方でしょう。それをやらないと、深い構造まで情報が取れない。だから、研究者はそれを目指すに決まっています。…(略)
もう一つの方向性は、医療ですね。医療と、BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)の延長上としてのナノロボットという二つの方向性で、これから数十年間のうちに計算パラダイムが、おそらく生体システムの中に取り込まれていきます。それは、人間かもしれないし、人間ではない動物や植物なども含んでいく可能性もある。人間は、認知能力を拡張したいという欲望と同時に、生体システムだってコントロールしたいと考えたいはずです。/それを生命の進化としてどういうふうに解釈するかは、ここ数十年というタイミングで絶対に問われるところです。森田さんの好みではないかもしれませんが、必ず出てくると思います。
森田 健さんのおっしゃる、インターフェースを消し去っていく方向には不安を覚えます。たとえ、生命が計算に類似したふるまいをしている面があるにせよ、それはあくまでいま見えている範囲のことであって、現時点で見えているだけの理解に基づいて、どこまで生体の作動に介入していいのか。/医療の分野でそういう方向に進んでいくことは容易に想像できますが、そもそも僕たちは生のことも死のこともほとんど理解できていません。技術によってこれからいろいろな方法で寿命が延びていくにしても、死ぬことの意味や、よりよく死ぬことについての探究は深まっていない。このままではあまりバランスが悪いのではないでしょうか。/最近の研究によると、一般的な家庭のなかでも二○万種くらい生き物がいることがわかってきているそうです。(ロブ・ダン『家は生態系』白揚社)それこそPCR法とかを使うことで、給湯器や冷蔵庫、オーブンの中にもたくさんの細菌や古細菌が棲んでいるとわかってきた。そういう生物の多様性そのものが、人間の健康にも少なからぬ影響を与えていて、ある意味では、とっくの昔から神経系の外で行われている膨大な計算が、生命を支えてきたわけです。すでに土の中でやっている計算とか、空気の中、冷蔵庫の中の古細菌がやっている計算みたいなものに気付いて、これに耳を傾け、長大な歴史を持つ自然の営みを受け止めることの方にもっと知恵を絞っていく必要があるのではないでしょうか。」(「数学と生命の関係をめぐって」『新潮』2022年1月号)
*参照引用
対して「グローバリティの句切れ」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションが、本源的生産要素、さらにはその背後にある人間、自然、信仰といった、むしろわれわれの生の本源性そのものにかかわる概念の再定義の過程をめぐって激しい政治的なバーゲニングが展開されるだろうという見通しであった。
二つをあわせて近未来のグローバリティのかたちに対する示唆を引き出すなら、今後グローバルな空間が求心的に閉じられていく際に、人間、自然、信仰にかかわるなんらかの新しい定義が、その秩序を定める規準として理念化されるだろうと思われる。たとえば、遺伝子操作の可能性を包摂した拡張的な生物学的人種主義に基づいて境界を画定された「世界」や、特定の生態系に密着するかたちで閉鎖的かつ持続的な物質循環の系を構成する「世界」、あるいは宗教の厳格な共有を基底におくことで閉じた相互扶助の体系を成立させる「世界」もありえよう(こういった諸々の可能性は、部分的にはすでに実践されていることでもある)。またいずれかひとつの規準ではなく、複数の規準の組み合わせによるケースも十分考えられる。
重要なことは、そのような規準がどのようなかたちで結晶化するにせよ、それが交通空間を求心化させる理念へと転化するならば、現在グローバリゼーションと名指されているこの過程は、今後おそらく数十年程度の時間で、理念的な空間認識の次元において、相互に不可視化しあうような複数のシステムの併存というかたちになることが、比較的高い可能性として予想できるということである。それは、かつての近世帝国の「伝統的」な普遍性のかわりに、生の本源性の名において設定された理念の共有によって構築された、いわば「新しい近世帝国」とでもいうべきものに近いのではないかと思われる。」(『世界システム論で読む日本』山下範久著 講談社) ダンス&パンセ: 世界システム論で読む少年サッカー界 (danpance.blogspot.com)>
<『「大崩壊」の時代』のすぐあとに刊行された『人間の終わり』の冒頭でフクヤマは、悲観的な予言を示す。「これが重要なのは、人間本来の性質なるものが存在し、しかも意味ある概念として存在し、そのおかげで種としての我々の経験が安定的に続いてきたからである。これが宗教と組み合わさって、最も基本的な価値観を決める。政治体制の種類を形作り、制限するのは人間の性質である。だから、我々の現在を変えるほと強力なテクノロジーは、リベラル民主主義と政治の性質そのものに、おそらくよからぬ影響を与えるに違いない」。それにつづいてフクヤマは、人間本性とバイオテクノロジーについて興味深い議論を展開している。さらには、バイオテクノロジーの発展は、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で「監視社会」として描くものよりもさらに恐ろしいとまで論じる。>(『「歴史の終わり」の後で』 フランシス・フクヤマ 中央公論社)
世界が終り、人類が壊滅的になろうと、引っ越しはする。次の準備に忙しくなる。
2022年7月2日土曜日
右翼的なものの再来
「だが、「右翼」であることには、様々な形があり、「右翼」は何度でも再来するということ、そして、「右翼」であることは、何よりも日本の庶民の情緒的、あるいは心的な構造の中に内在するものに根拠を持つものであり、現れる様々な変遷を辿ることによって、時代の変遷を、社会的変化を描くことができるということを示したように思われるのである。我々は、戦後というものを戦後的理念=「平和」、あるいは民主主義の理念とその批判的な受容、そして、その内在化といった観点の変遷から考えがちである。だが、そうした観点は、知識人の頭の中にしかないもので表層的なものでしかない。むしろ、生活する人間の情緒的なものに根ざした観念的世界がいかに時代の変化を蒙っていくのか、ということのほうがより根底的であり、中上が「右翼」を描くことによって示したのは、こうしたものである。」(河中郁男著『中上健次論』第3巻 「幻想の村から」)
参議院選挙を来週にひかえているそうな。
私自身はあまりいわゆる政治、その「いわゆる」を代表するような選挙には興味が持てないでいる。成人式にもいかない若い頃はそれどころではなかったし、教養的に落ち着いてきた今でもその意義が理解できないでいる。仕事での付き合いにはかかわらないようにしているので(私にとってはそんな日々の駆け引き闘争こそが政治的である)、現場に関わりなく自由に投票はできる。食料や電気、最近はリフォーム中の家を含めて、生活クラブを利用しているので、その経由でか、今の住所では立憲民主の蓮舫と辻元の推薦と、長妻昭から自筆の手紙が届いてくる。自民圧勝は避けたいから、第二政党に頑張ってもらう必要があるのだろうな、との考えも浮かぶのだが、釈然としないのが今回の気分。いつもは、女房の言われるままに近いのだが…。
はじめて、NHKの日曜討論などをみて、代表者の意見を聞いてみたりする。肌感覚的には、N党の立花みたいのが面白いし、考えは違うとはいえ、ホリエモン周辺の天皇制的な同調メンタリティーから切れているグループには頑張ってもらいたいのだが、いきなり防衛問題で敵基地攻撃容認派らしく、だいぶ、自民にすり寄ってきていると感じる。その立花と犬猿の仲のように日曜討論ではみえた、山本太郎を、フェイスブックで応援する知人のメッセージも読んだ。たしか3年前くらいか、彼と飲んでいて、その名を知っているかと聞かれたので、「芸術は爆発だ!」の人かい? と聞き返すと「それは岡本太郎だろ!」と返されたので、「ああ、走れ! 走れ! とか歌う人だろ?」と訂正すると、一瞬考えこみ、「それは山本コウタローだろ! おまえ、何も知らねんだなあ」とあきれられたのだった。しかし、今なら、知っている。そしてやはり、演説中の目の玉の動きと身振り手振りが気になってしょうがない。なんだか、ヒトラーの演説と重なってきてしまうのだ。本心で、何を考えているのかわからない、怖さがある。
と考えていたら、次の日曜討論、草野球やってて見逃してしまったが、N党の幹事だかをまかされている「つばさの党」の党首、黒川あつひこが、安倍晋三はおじいちゃんからCIA~とか歌い始めて、討論会をぶちこわしたとか。私はコロナ関連ニュースから、前身である「オリーブの木」での彼のYoutube活動を見知っていたが、会の存続が危うくなってN党と共闘をしはじめ、「ユダヤマネーをぶっこわす!」とかいう決めゼリフを吐きはじめると、そこまで言うと間違いになるのでは、と思って敬遠しはじめていた。が今回のこの突破は、必要なことだったのではないか、というのが即時的な判断だった。
私のその判断の是非を検討するため、他の人の意見をさぐってみた。哲学系ユーチュウーバーじゅんちゃんが、民主主義の三番底抜け、とうとうここまで日本は落ちたか、と批判している。一方、副島隆彦は、とうとうここまで日本の民主主義が進展してきたか、と褒めている。私は、副島に軍配をあげよう。
こう考えてみればいい。底が抜けないでこれまでのままとはどういうことなのか、と考えてみればいいのだ。宮台真司は、日本の自滅加速主義の立場をとるそうだが、成り行きで自滅したって、そこから這い上がるようになるとは私は思えない。自覚的、意識的にやって失敗して、はじめてそこからまた這い上がれるものになっていくのだと思う。
底が抜けるなら、抜ければいい。じゅんちゃんは、山本太郎についても、大衆政党としてはしょうがないとはいえファシズムへの危険性を指摘していたが、実際にホームレスなような浮動大衆である私(たち)が、なんでファシズムを恐れる必要があろう。受けて立ち、それでつぶれるならつぶれろ、しかしただじゃつぶされんぞ、既成勢力もろともひきずり降ろして奈落の底へと引きずり込め。自覚的にやって、はじめて、這い上がれる。傍観的に加速を待つより、自ら加速度をあげていくことが、必要なのではないだろうか?
日曜討論をぶちこわした黒川氏が、参政党について調査している。私は前回ブログで、この従米ではなく反米保守は日米開戦でもはじめるのか、とか書いたが、参政党の人気者が、自らの選挙演説で、そうなりつつある風潮をそう言って批判しているのだった。がしかしこれは、黒川氏によれば、その立候補者神谷氏は、ユダヤ資本をぶちこわせと言っているがその当人たちと付き合いがありおそらく利用されている、と示唆する。私が動画で判断するかぎり、神谷はそう指摘されて気づいたが、今さらひけず、と嘘をついて選挙演説している、そんな顔だ。選挙前は、子供に日本人の誇りをもたせるよう教科書を右翼的に変えよう、とか発言していたのに(右からだろうが左からだろうが、言葉(口先)で人が変わると思うな!)、選挙では、教科書を自由に選べるようにする、とか、ごまかしている。もしかして、この神がかり的な演説者を使って、影の勢力は、野党を分裂させるというよりは、陰謀的世界に気付き始めた愛国的な金持ちの年寄りから集金しそれを陰謀的に再利用して日本の自治的な芽をあらかじめつぶしておく政略を企んだのかもしれない。黒川氏の調査によれば、まだ満州の亡霊が活躍している、ということになる。
おそらく、私が今回の選挙で、ありきたりな選挙行動に釈然としなくなったのは、そんな風潮が出てきたからでもあろう。れいわの山本氏も、陰謀論的言説を取り込んで選挙演説をしていると指摘されているが(参政党もそうやって、大衆になびくことで分断しなし崩しにしているということになる。れいわの支持者と参政党の支持者がかぶっている、と指摘されてもいる。)
陰謀論的枠組みを信じる者は、ではナショナリストなのだろうか? ナショナリズムの再来なのだろうか? 佐藤優は、そう警告をはじめている。私は、それはおおざっぱすぎて、現実を、現実を動かし始めた差異を取り逃がしているとおもう。
たとえば、私の息子は、運動部活動をやめたが(つまり戦後民主主義の側に立ったが)、警察官へと入っていった(つまり戦前的な封建規律の世界に戻った)。あるいは、職場では、家を継いだはずの長男若社長は、父の仕事としての寺社や民間の仕事は引き継がないと公共工事中心の仕事にこだわり(つまり戦後民主主義の方へ。職人出ずら封建方式よりもタイムカードあるサラリーマン労働にあこがれ)、その結果、若い人がみなやめ一人きりになり、それでも民主的な公共工事にこだわり自らが元請けのサラリーマンなように街路樹作業に駆り出されて大変な労働をやらされるはめになる。私には、プーチンではなくバイデン親分を選んで地獄に深入りしていくゼレンスキーに見えてくる。その風貌も、年恰好も、女房の見かけも。少なくとも、私の親方は、自分の職人が元請けの社員のごとく扱われることに徹底抗戦した。独立している、自分の会社であり自分の社員だ、という気概があった。タイムカードで時間管理し年金徴収や源泉徴収もしっかりした民主的な元請け会社の監督の言う事ではなく、俺の指示で働くから俺の会社であり、会社として独立している、ということだろう。トヨタの下請けどころかその工場でもないぞ、と気概ある経営者は、そのバランス駆け引きに気を配ってきたはずだ。が、もう、そうした気概どころか認識もなく、ただいいイメージな方に、いま金払いの高いほうになびく以外の意識しか知らない。それは、ナショナリズムだろうか? しかし、それしか意識が知らなくとも、無意識は、知っているのではないか?
宮台は、原爆落とされてもアメリカの民主主義の優等生たる日本人は、ケツに糞がついていてもそれを舐めているのと同じなんだ、と愚民を批判している。が、舐めてしまう時代変化はあったろうが、その変化ではすまされない変化しないものが噴き出しはじめている。そして噴き出すことで変化しないものがまた変化しはじめている。息子も、若社長も、それではすまないはずである。もちろん、自滅というのも、すまないことのヴァリエーションの一つではある。
右翼だとしても、私たちの心情において、何か変異が起きている。今度の選挙は、それが垣間見えてくるものになるかもしれない。私は、たぶん、第一、山本太郎、第二、黒川あつひこ、でいくことになるだろう。



