2011年8月28日日曜日

「食べる」vs「食べない」を克服するために 2

昨日27日土曜日、東京は台東区でおこなわれた市民集会に参加してきた。主催は<核・原子力のない未来をめざす市民集会実行委員会>だそうで、その第二回目。講師として、元原子炉設計者の田中三彦氏、子供を被曝から守る福島ネットワークの中手聖一氏、京都大学原子炉実験所の小出裕章氏。前回ブログで、その小出氏が、「食べる」派の論理を訴えているのではないか、と私は示唆したが、ちょうどその集会での資料に、小出氏がチェルノブイリ事故後に書いた文章があった。(1989.1/12)。今回は、どうも生活クラブかなにかの冊子に寄稿したのだろうその「弱い人たちを踏台にした『幸せ』」と題し、「汚染された食べ物を誰が食べるのか」と副題されたその文章を引用・紹介してみることにする。市民集会の講演では、そうしたたぐいの話にはふれていなかったが、その短いエセーは、生活思想といったもので、全文紹介したくなるような話である。なお、その紹介あとに、東和町の菅野氏から購入した『脱原発社会を創る30人の提言』(コモンズ)からも、私の心にふれたニ、三の記述を追加しておこう。 (引用中の/は、実際文章上では行変えを意味します。)

小出裕章氏………<残念ながら、チェルノブイリの事故は、すでに過去形で起ってしまいました。そして、そうであるかぎり、食糧が汚染することももう避けられません。従って、いま私たちに許されている選択は、汚染した食糧はいったい誰が食べるべきなのかというたった一つしかないのです。/日本はいま、世界一の金持ち国ですから、いざ本気になれば、それなりに汚染食糧を国内に入れないようにすることは可能です。でも、日本に入ってこなかったからといって、放射能で汚染した食糧がこの世からなくなってくれるわけではないのです。それは、他の誰かが食べさせられることになるだけです。>

<私的にことになりますが、私は一五年前から、連れ合いと二人で生活するようになりました。でも、この猛烈な差別・選別の競争社会の中で、『わが子』をもつということに強い抵抗を感じ、子供を作らずに長いあいだ二人で過ごしてきました。しかし、さまざまな葛藤の末に子供を作ることを決心し、五年前に太郎を、その後、次郎、三四郎と三人の子供を迎えました。彼らが私たちのところにやってきてから、私は改めて子供の個性の多様さ、そして面白さを知ることができました。(正直いうと、あまり面白すぎて、もう毎日へとへとです。)そして、どの子供もその多様さを尊重しながら、公平に個性を伸ばしたいと、ますます強く望むようになりました。/次郎は、生まれながらにいわゆる先天的な障害を背負って生れました。それは次郎の個性であり、それをただそのまま受け入れて、次郎とともに生きて行くことを私は切望しましたが、残念ながら、私たちが次郎の生命を守れたのはわずか半年しかありませんでした。/一人ひとりの子供たちは、自らの個性を選択して生れて来るわけではないのに、次郎の場合がそうであったように、生物体としての個性の面でも現実の社会はまことに過酷なものです。その上、私たちは、私たち自身に責任がある社会的な面での差別・選別を子供たちの上に何重にも重くのしかけています。>

<チェルノブイリ事故以降、私は自分自身の手で汚染の実態を調べてきましたし、放射能の恐ろしさについても、誰よりもよく知っているつもりです。私は、もちろん、放射能で汚れた食べ物を食べたくありません。しかし、日本という国は、原発を三六基も動かし、一人当たりでは世界平均の二倍以上のエネルギーを浪費している国です。そして、私自身はこのニ〇年、原子力利用に反対してきたとはいえ、いま現在、原子力の電気を利用するこの国に生活している事実を否定できません。また残念ながら、今の私には、日本が拒否した場合の汚染食料を貧しい国々に押しつけることを、具体的に阻止する力も方策もありません。そうであるかぎり、私には放射能で汚れた食べ物を自らが食べる以外の選択はできませんでした。/私は、チェルノブイリ事故以前から、スパゲッティはイタリア屋、チーズはヨーロッパ産を好んで食べました。事故以降、それらが汚染されていることをもちろん私は知っていますが、私はそれらを敢えて避けずに、食べ続けています。原子力を選択するとはどういうことなのかを自分の身体に刻み込むために、そして、その痛みを忘れないことによって一刻も早く原子力を廃絶させるために、私はその選択を続けたいと思っています。/もちろん、一人ひとりの選択は多様であるべきで、すべての人々に私と同じ選択を迫るつもりはありません。当然のことながら、日本の国内で汚染食糧をどう取り扱うかという問題も、とても大切な問題です。しかし、日本の国に汚染食糧を入れないように求めることだけは決定的に間違っていると私は思います。>

<私に手紙をくれた子供たちはどの子もとても深くものごとを考えています。そのすべてをこの紙面で紹介できないのが残念ですが、彼らが出し続けている学級通信にはこんなことも書いてありました。「ぼくたちは、今いろいろなことを考えようとしているけど、おとなになったら、今のおとなみたいに考えなくなるんじゃないかなあと思いました。」私は、全世界の子供たちに、そして原子力を選んだことに責任がない大人たちには、汚染食糧を食べさせたくありません。そのために日本の大人たちはいったい何をすべきなのか、そして何をしてはならないのか、皆さん一人ひとりにもう一度考えて欲しいと思っています。>

明峰哲夫氏(農業生物学研究室)………<「天国」では、人は自然の姿のうち自分に都合のよい部分だけ”つまみ食い”してきました。明るい、温かい、美しい、清い……。「故郷」では生きるためには、自然がみせるすべての姿をそのまま受け入れなければなりません。/人が自然と一体となって生きるには、自然は自分と不即不離の関係にあり、その不都合な部分だけを捨てることはできないという覚悟が必要です。自分の身体の一部が具合悪くなっても、それだけを捨てることができないように。/「3.11」により、土も海も汚染されてしまいました。人は、そこからひとまず退却しなければなりません。けれども、汚染が比較的軽微な周辺地域では、そこにとどまるという選択もあります。「邪悪」なものは徹底して「排除」するという感性は、私たちが「天国」で身につけてきたものです。「故郷」では、「邪悪」なるものも「受容」できる感性が必要です。/ここで大切なことは、何が「邪悪」なのか、「邪悪」をどの程度受け入れるべきかは、基本的にはその人の判断で決めるということです。「天国」では、その判断は政治家や科学者に委ねられていました。「故郷」では、その判断は一人ひとりの人間の選択として行われるのです。ここでもまた人は”胆力”とでもいうべき総合的な判断力と決断力が試されます。/「故郷」の再生。そのためには何よりも種子と、それを播く人が必要です。私たちはまた明日になれば、種子を播き続けなければならないのです。>(「天国はいらない、故郷を与えよ」)

秋山豊寛氏(ジャーナリスト・宇宙飛行士)………<利権集団は、機会さえあれば、自らの利益を拡大しようと狙っています。その集団は、国際的ネットワークに支えられています。今回のレベル7の原発事故にしても、このあと「焼け太り」を狙っているのは確実です。浜岡原発の一時停止などは、あとで二歩前進するための一歩後退にすぎません。「敵強ければ、すなわち退く」という昔ながらの兵法に従っただけ。ノドもとを過ぎて人びとが熱さを忘れるのを待っているのです。…(略)…最大の問題は「経済成長がなければ、豊かになれない」という認識です。現在の世界のシステムが、ほぼ、こうした認識を基本につくられているという意味で、この部分は強敵です。しかも、「成長にはエネルギーが不可欠」という言説が伴っています。/ここで問い直さねばならない基本的テーマが浮かんで来ます。/「私たちは、経済成長がなければ豊かになれないのか」/「豊かさ」を「どのように捉えるのか」は、ここ数十年、基本的な問いかけとして、ことあるごとに登場しました。「ものの消費に基づく経済の成長には限界がある」という問題が提起されたのは、1970年代初めでした。/その後、ソビエトの崩壊や中国の変化など地球表面での「市場」の拡大は続き、「成長の限界」は、まだ「臨界」に達するには余裕があるような空気が支配しています。「原発ルネッサンス」などという言説が隆盛を極めたのは、つい最近のこと。「脱原発」への道のりは、険しく、厳しいのです。/とはいっても、希望はあります。それは、人びとの気づきです。洗脳され、「それしかない」と汚染された脳を清浄化することです。さらに多くの人びとが真の豊かさに気づくことから、「脱原発」は始まるはずです。>

渥美京子氏(ジャーナリスト)………<電力だけでなく、東京の食を担ってきてくれた福島の大地。汚れてしまったから、汚染されていない土地の食べものを買って食べましょうという発想を、私は拒否したい。危険な原発を福島に押し付け、豊かさと便利さを享受してきた東京の人間は、大地の汚染をどう引き受けるかを考えなくてはいけない。もう子どもを産むことのない私は、福島の彼らが作ってくれたものを食べようと決めた。/だが、それは覚悟だけでできることではない。台所に立つたびに、容易なことではないと実感する。私には中学生の息子がいて、できるだけ汚染されていない大地で採れたものを食べさせたいと考えている。キュウリやトマトなら産地を分けて別の皿に盛ればいいが、ご飯はそうはいかない。炊飯釜が2つ必要になる。野菜の煮物は別々の材料を用いて、別々の鍋で作ることになる。/とんでもない手間がかかる。生活に即した実現可能な方法を考えなければ、日々の忙しさにかまけて覚悟倒れになりかねない。放射性物質を除去するための調理方法の研究や、免疫力を上げる食事の工夫も、これからの課題となるだろう。/悲しい現実ではあるが、放射能の時代を生きることになってしまった。現実を見据え、できるかぎりのことをしながら、前向きに生きるしかない。/これ以上、東北人を死なせてはいけない。そのためには、彼の地の恵みに育ててもらったおとなが責任を取るしかない。覚悟して食べるのだ。未来はその延長線上にのみ開かれる。>

*追記報告; 冒頭写真は、福島氏の街路樹。事故後、放射能対策として、新しく植え替えて、その下に、ひまわりを植えたのだろう。庁舎のまわりでは、平均して毎時1~2マイクロシーベルトだったが、排水溝にたまった松の枯葉近くでは、3マイクロを超えていた。

グループが測ってきた放射線量の主な地点のものを、以下にメモしておこう。単位はみなマイクロシーベルト毎時である。:いわき市夏井川河口0.2、ひろの町0.7、夏井川上流0.14、東和町0.3、山際町(福島第一より30km地点)1.68、浪江町(21km地点)9.1―――ちなみに、この10万円ちょっとするという線量計では(東和町で使用のものは100万円をこえるというものだった)、東京の練馬区東大泉近辺で0.1マイクロをこえ、私が住む中野区上高田の団地でも、似たようなものだった。子どもの遊ぶ砂場でも同じ。ただ、団地の建物内に入り風がふくと、その数値が0.13とあがるところが、やはり何かそこにある、というリアりティーを感じさせてきた。



2011年8月22日月曜日

「食べる」vs「食べない」を克服するために

「…まず見捨てられる地域と勝ち組の地域を分けようとする動きが出てくるのでは。分配するパイ、資源が減少する中、仕方ないじゃないかとね。米国では、保守派の草の根運動『ティーパーティー』がそう。現に明暗をはっきり分けるような首長や政治団体が地方の大都市に出てきている。それは日本をより分裂させていきます。」(姜尚中発言 2011.8/19 毎日新聞・夕刊)


昨日、福島県に入り、小名浜のほうからいわき市をとおり、郡山市をかすめ、第一原発事故現場より20km地点の川俣町、そして福島市をみてまわってきた。線量計をもって。グループの目的は、川俣町の隣にある二本松市は東和町のNPO団体「ゆうきの里東和」での農業取り組みの話しを聞き、東京は中野区で行ないたいグループの企画を説明しにいくためである。私はその予備運転手として参加させてもらうことになったのだ。けっこうな雨がふるなか、傘もささず、カッパもきず、20km近辺で立小便をしていると、線量計で放射能を測っていた人たちが、9マイクロシーベルトを超えた、と声をあげてくる。30km近辺では1.68ぐらいだったのが、それ以降の10kmで、どんどんあがっていったということになる。これはさずがに、雨に濡れたりするとやばいのかな、とおもいながら、傘をさすことにした。しかし、計測器の中の数値がかわっても、何もかわらないし、その変化を実感もできないのだから、奇妙な感じだ。恐怖心というより、変なの、と。しかし封鎖するおまわりさんと話して車をUターンさせて走りはじめると、胸が痛くなる感じになる。呑気なようでいて、内心にはストレスがかかっていたのだ。そこにずっといるということはどういうことか? 30km圏内の警戒区域では、ほとんどの民家に人影はない。田んぼ、車道脇、山では草や蔓が繁茂し、このまま1年ほうっておいたら、またもとにもどすには(放射能がなくとも)、何年もかかるだろう。
今の世論の動向はどうだろうか? 私はおおまかには、自己犠牲的に福島の野菜を食べてゆくようなみんな一つにの右側の人たちと、生命第一主義的な近代開明派の個人主義的な左側の人たち、とに分かれてきているようにおもう。いわば、「安全か、危険か」の二分である。しかしこの分裂は、イデオロギー的にあるだけではない。陸前高田市の松の薪をめぐって京都の町との間であったことが象徴しはじめているように、それは東日本と西日本とで分断しはじめているのだ。そのうち、福島の野菜を食べた人たちのウンコが問題になるかもしれない。それが下水を通して処理場にゆき、猛濃度汚泥として堆積していくのだと。そこまでいけば、稲藁だけでなく、東西での人との交流自体が忌避されていくのは時間の問題だ。私は原発事故発生当初、東日本が切り捨てられる形で日本が東西に分断されてゆく可能性がある、とこのブログでも書き、女房からおおげさな妄想だと一蹴されたが、現在の世論動向は、その潜在的であった現実を露呈していく方向に向っている。チェルノブイリ事故からの300km境界という一般的法則を確認するかのようにでてきた静岡県でのお茶っ葉問題から隠見し、岩手県の陸前高田市からもちあがってきた事態は、その顕在化の徴候であり症候なのだ。朝鮮半島が世界的な構造のなかで分断統治されているいように、いまや日本では、北朝鮮のような自己献身的な集団派の東日本と、韓国での口では統一といいながら本心ではどうか知れないような個人主義の西日本との分断、という内政状況になりつつある。世界基軸としてのアメリカ(ドル)の失墜からおこる次なる親分や信用構造を決めていくためのこれからの仁義なき世界大会のなかで、そうした分裂が、諸外国にとって有利に働いていくだろうのはいうまでもない。冒頭にあげた、在日の姜氏の洞察と見立ては、私の認識を妄想ではなく、後押ししていくものと読めた。では、安全か危険か、福島野菜を食うか食わないか、との二分法ではない、どんな実践があるというのか?
京都大学の研究所の小出氏の話は、どうも一般には放射能は「危険」という立場に立つことから「食べない」派のように受けとられている、あるいはそちら側の(教養ある)人たちに受け入れられているように見えるが(「食べる」側は知識教養のない無知な大衆、ともなっているようにみえる……)、私がネット上での発言を聞くかぎりでは、むしろ「食べる」側なように聞こえた。というか事故後出版された書籍では、そう「食べる」べきだと書いているのだそうだ。ラジオ発言などでは、そこらへんは意識的に曖昧にする、というか広範な知的大衆をおもんぱかって口ごもる、という感じだった。といってもこれは、「安全」だから「食べる」、ではない。「危険」でも「食べる」べきだ、ということと私には思えた。しかしそれゆえに、きちんと調べ、情報開示しよう、と。そういう話をきいてこれは具体的実践としてはどうなるということなのかな、と思い浮かんでくるのが、ダイエットのやり方だ、ということだった。商品に値段ラベルだけでなくカロリー表示がされていたりするように、ベクレル表示が印字され、カロリー計算しながら食生活を管理してゆくように、ベクレル計算しながら食品消費をコントロールしてゆくのだ。ここんとこはこれだけのベクレルの肉を食いすぎたから、今月は体を休ませるためにひかえておこう、とか。小出氏が具体的にどうイメージしているのかわからないが、私には話を聞きながらそんな生活が思い浮かんできたのである。それだけどうしょうもない、逃げられない、あとにはもどれない現実なのだと。しかし条件として、と小出氏は書いているのだそうだ。子供たちは巻き込まない。日本の農業をどうすべきか、を考えること、と。
NPO「ゆうきの里東和」では、高額をだして線量計やベクレル測定器を導入している。それだけでは数が足りない、だから時間がかかってしまう、と。理事菅野正寿氏は話す。……手入れをすればするほど放射線率は落ちてくるのです。隣の川俣町では背丈ほどの草でぼうぼうです。それではいつまでたってもそのままです。たしかに刈った草は、畑の脇におくだけだったり、中には深くすきこむことで処理したりする人もいます。できるだけ外にだすように指示してますが。しかしそれでも畑が除染され農作物の線量が落ちるのです。セシウムはアルカリ金属なので、堆肥をまぜれば作物への吸着がさがります。堆肥の放射能が問題となっていますが、家庭菜園ではまとめて使うとしても、畑ではばら撒いて使う程度なのです。農作物のなかにはカリウムがはいっていて、その自然放射線の量も計測されてしまうのですが、それと同等くらいまで落ちるのです。それでも入っていないものが入っている、だから食べないという人たちもいるでしょう。それは消費者の判断に任せます。しかし新聞などが、根菜類は移行係数が高くて放射能物資が多く含まれやすい、などとチェルノブイリでの研究論文かなにかをひっぱってきて書くと、すごい影響がでます。しかし実際に測ってみると、そんなことはないのです。たぶん、チェルノブイリと東和では、土が違うのでしょう。そういう学者もいます。3月25日に政府のほうから種まき中止令がでて、4月12日に解除されました。作っても売れないのじゃ作らないという声もありました。だけどお願いして、種をまきました。そのとき作っていなかったら、いまは売るものがなかったかもしれません。売り上げも、9割ぐらい回復してきました。しかし、福島県ぜんたいでは、3割程度に落ち込んでいるのです。――『脱原発社会を創る30人の提言』(コモンズ)でも「次代のために里山の再生を」と書いている菅野氏の話の表情は、物静かだったが、悲壮を押し殺し悔しさが滲み出て来るようにみえた。「じいちゃんばあちゃんと、孫の食卓が別々なんです。」「心の除染も必要なんです。」
東和町のような取り組みは、福島県でもまれなようだ。しかし2年成功が続けば、他の地区も後追いするだろう(しかし高額な線量計やベクレルモニターをそろえるだけでも大規模な支援が必要になる)。しかしまた、自営業的な方々が、数年もちこたえる、というのは大変なことである。そしてここ数年で、世界経済の情勢は激変するだろう。戦時中のように、農家へモノをもって食い物と交換してもらう、放射能入りでも、という時代がくるかもしれない。そのとき、単なる個人主義者のいやしさと、狂乱的な集団主義者のあさましさとが陰険な対立をはじめるのかもしれない。そうはならないためにも、われわれ日本人は、中庸の実践を模索しなくてはならない。世界に開かれた形で。むしろ次なる世界へのヘゲモニー争いで、負けないように、われわれの思想を呈示し率先していけるように。

2011年8月13日土曜日

科学・社会・人間

「…それは数学基礎論といって、非常に専門的技巧を要するのですが、その仮定を少しづつ変えていったのです。そうしたら一方が他方になってしまった。それは知的には矛盾しない。だが、いくら矛盾しないと聞かされても、矛盾するとしか思えない。だから、各数学者の感情の満足ということなしには、数学は存在しえない。知性のなかだけで厳然として存在する数学は、考えることはできるかもしれませんが、やる気になれない。こんな二つの仮定をともに許した数学は、普通人にはやる気がしない。だから感情ぬきでは、学問といえども成立しえない。」「…それはアイシュタインが光の存在を否定しましたから。それにもかかわらず直線というふうなものがあると仮定していろいろやっていますね。物理の根底に光があるなら、ユークリッド幾何に似たようなものを考えて、近似的に実験できますから、物理公理体系ですが、光というものがないとしますと、これは超越的な公理体系、実験することのできない公理体系ですね。それが基礎になっていたら、物理学が知的に独立しているとは言えません。…(略)…何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは、原子爆弾と水素爆弾をつくれたということでしょうが、あれは破壊なんです。ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやってたほうが幾分利益があればできるものです。もし建設が一つでもできるというなら認めてもよいのですが、建設は何もしていない。しているのは破壊と機械的操作だけなんです。だから、いま考えられるような理論物理があると仮定させるものは破壊であって建設じゃない。破壊だったら、相似的な学説があればできるのです。建設をやって見せてもらわなければ、論より証拠とは言えないのです。」(『対話 人間の建設』岡潔・小林秀雄著 新潮社)



書店にいくと、原発事故後、それに関連した色々な書籍が山積みされてある。といっても、そうした現象も東京など大都市圏だけで見られることなのかもしれないが。そうしてあったなかのひとつ、スチュアート・ブランド著『Whole Earth Discipline 地球の論点』(仙名紀訳 英治出版)を手にしてみた。かつて、アート系のグループに参加して、その作者の'68年の名著『Whole Earth Catalog』と類したものを作ろうというプロジェクトに関わったことがあったので、そのタイトルからこれはなんだろう、とおもったのである。読んでみて、びっくりした。原書がフクシマ原発事故の数年前に書かれたものということもあるが、ゆえになおさら、それ以前の原発推進派の論の立て方がこういうものかと知って。日本で翻訳出版されたのは事故後であるのだが、訳者はあとがきではそのことに敢えてなのかまったくふれない。……「本書の魅力は、人類が直面している難問に多面的に取り組み、その解決を図ろうという壮大な発想と、取り組み方を克明に分析しているところにある。彼がとくに力を入れているのは、「原発」「遺伝子組み換え」「地球工学」など、一般的にはタブー視されていることだ。その根源には、気候変動がもたらす危機感がある。彼は「反核」から「親核」に変節するのだが、そのぶれを告白して恥じない。」と、その作者のカリスマ性を強調するのみである。しかし、当人個人の魅力のことなほぼ全く知らない門外漢の者がこれを読むと、その現代の先端実用科学を評価していくこの言論を、もうどう受けとめていいのか、頭が混乱、思考停止になるばかりである。おそらくフクシマ以前に読んだのなら、この混乱はなかっただろう。それぐらい、フクシマ以前と以後とでは、思考の在り方を変えてしまう何かが起きた、ということなのか? 訳者が言及しないのも、できない、ということなのか? 作者本人がフクシマの原発事故に関し、どう対応しているのかは知らない。ただ、作者が評価して説き、日本での実行にも言及してみせる核燃料リサイクルや高速増殖炉の技術に関する箇所などを読むと、作者が本当に調べて書いているのかさえ、疑問におもえてくる。事故後、われわれ凡人でもが知ってしまったひとつには、そうした政府権力側の説くリサイクル美談が、実はすでにして実際的に破綻し、いくつもの事故を起こしており、ほんとうに実践してしまったら恐ろしいだろう、ということがある。そしてその程度のことは、ちょっと調べればわかってしまうはずのことなのだが、本書のように楽観的なのはどうしてなのか、凡人には不可解になるのである。そしてそのいま誰の目にも明らかになった一事が、なお凡人には無知なままの、「遺伝子組み換え」や「地球工学」といった分野での作者の意見をも、疑わしく覚えさせてしまう。それとも、フランスのジャック・アタリ氏が説くように、フクシマの事故は自然災害と東電のミスであって、原子力技術自体には問題がない、ということだろうか?(日本人が原子力を扱うにしては無能だとしても、もっと無能かもしれない人間が手に取るかもしれない、という人間的現実は考慮する必要がない、ということだろうか?) 本書では、放射能の閾値に関しての議論にも言及がある。どうも低線量でも用心する<予防原則>という考え方はヨーロッパのものであって、しかもそれは医学的態度、というより、哲学的に前提とするべき基本態度、としてあるようだ、ということが知れる。ビル・ゲイツやロックフェラーの活動を肯定的に紹介する作者が、むしり低線量は体にいいのだ、と受け入れるアメリカ側のそれ、と見て取れる。となると、哲学の背景には政治・経済的利害関係があるとするのが一般だとする教養にたてば、この両者の背後には、ロスチャイルドvsロックフェラーという2大勢力の争いがあるのか、ゆえに作者は原発推進側の資料しか受け入れていなのか、そう操作されているということなのか、とも勘ぐりたくなってしまう。

一昨日、原発批判の映画監督・鎌仲ひとみ氏と、福島県で活動している小児科医の山田真氏との講演・対談をきいた。鼻血や下痢をする子供の症状を放射能と結びつけて発言するのには慎重になるべきだと山田氏は説きながら、現在福島県で一番問題なのは、医学的な真実いかんよりは、社会的な差別なのだ、と指摘する。「東京の山谷地区と似てきているんです」という。大阪の釜ヶ先はいつのまにかその地域に入ってしまうような地続きだが、東京の山谷は隔離されて別世界だ。そしてその別世界で、人々がマスクをせず普通に生活している。おそらくマスクをしないのは、ここが普通だとおもいたい意識のゆえなのではないか、と言う。放射能が危ないとか、避難したほうがいいとかは、現地では口にできない。そんなことをいうのは郷土のことをおもっていないからだ、と戦時中の日本での非国民のような雰囲気があるのだ。地産地消ということで、学校の給食もみな福島県産だ。そうしたことに疑問を述べる教師は、いま次から次へと強制退職させられている。鎌仲氏も、阿蘇山で福島県の子供たちを受け入れてキャンプをしている知人の話しとして、その子供たちが、「俺たちは死ぬんだ」「結婚して子供をうむことはできない」、ともらすという。それは被曝で差別された広島の人々と同じだと。まず本当のことを知り、危険でもたくましく生きていくことが可能だ、という広島の人たちの話しを福島で設ける企画をやろうかと考えているという鎌仲氏に対し、山田氏は「だからそれは、安全神話を説く人たちと同じことに…」「いや安全じゃないけど生きていける……」、そう二人が口ごもる場面もみられた。実際、鎌仲氏のアイデアは、氏がボケとして批判する山下教授の、自身が被爆者でもあるだろう長崎出身者の説法と似てくるのである。真実(科学)はわからない。数年後からしても、その症状が放射能が原因かどうかわからない、となお議論延々となるようなのだから、それはわかるわからない、という科学の問題ではなく、社会の問題なのだろう。だからそれは、いわゆる科学に依拠しない、社会的、人間的態度として、その対処を考えていかなくてはならない。が、それは簡単明解なことなのではないだろうか? 思いやりをもつこと、単にそれだけではないのだろうか? 権力側が思いやりを持つ、とはどういうことだろうか?

お盆明けに、また支援団体の運転手役として、こんどは福島県にゆくことになった。自分で作った作物を放射能検査しなくてはならない農家をまわって、その話しをきき、バザーへの仕入れをする活動だそうだ。「まず福島県にいってください」と山田氏は説く。人との交流じたいが、そこを隔離差別することから防ぐだろう。

2011年7月30日土曜日

時のなかの親子

「どのみち、経済は今の規模では回らなくなります。経済が回らなくなれば不幸になるならば、僕らにはもはや未来はありません。/ところが、実際にはそんなことはありません。市場経済の規模が縮小したとしても、便益も、幸福度さえも実際には上げられます。そのためには、今までの自明性の地平を掘り崩して現在の自明性を前提とした単なるライフスタイルの選択ではなく、自明性を支えるソーシャルスタイル全体を変えるということについて合意形成をしていく必要があります。」(『原発社会からの離脱 自然エネルギーと共同体自治に向けて』宮台真司×飯田哲也著 講談社現代新書)



九死に一生を得るような体験が、どのように自分を変化させているのか、判然とはしがたい。津波で家も職も失った人は、たしかに生活は激変したが、ではどう自分自身が変わったのかとなると、うまく把握できないのではないかとおもう。震災まえに木から落ちて骨折し、最近やっと職場復帰しても、年間管理の公共作業からはじかれた状況は半失業状態であるような私など、現実に被災し生活基盤を失った人たちと比較するのは見当はずれな前提なのかもしれない。しかしなぜか、私には、私の今の状況が、私を超えた時代をおそう気分のような気がしてくるのである。このまま、今までのままではだめだ、と気付かせてくれている時に対して、どのように向き合うのか、どこに向うのか、どのように向うのか……その時から微熱のように湧き出てくる問いが、またその時の中に飲み込まれていって自身の身悶えを封じ、意識を憂鬱にさせてくる。しかしそれは、身動きが不能、ということではない。時は、自縛の縄が緩んできていることを教えてくれたので、身悶えして解こうとしているのだ。しかし、本当に解けたとき、どうするのか? ……親方は、私と年上の職人が怪我で休んでいるあいだ、他の例年の管理作業も断ったそうだ。元請けからはやったほうがいいと言われたそうだし、おそらく系列のほかの会社が手伝いにくる体制が敷かれたことだろう。それを敢えて断る、ということには、親方の息子を含めた残りの若者たちだけでは無理がある、とする判断もあったかもしれないが、それよりも、「いやだ」、という身体的な感覚のほうが強かったのだろう、と私は予測する。「いやだ」というのは、元請けの支配や、系列への依拠を潔しとしないことや、自分の会社が弱体しているときに他の系列会社に仕事をふって助けてやることのデメリットの計算、というこれまでの会社どうしの通例的なかけひき、とは別に、もう今までのやり方では「だめだ」、ではなく、「いやだ」ということ、もうそんなかけひきめいたことじたいがやりたくない、ということを含んでいたのではないかと推測する。一緒に働いて今を築いてきた自分より年上の職人への後ろめたさ、というのもあるかもしれない。ということは、意識せずとも、その時を身に受けているのである。がその結果、仕事は民間の、少ししかない。惰性を半分きるだけで、そうなる。足の怪我の傷みが消えていない私は、若者へのワークシェアリングとしてか、週休3日が前提。暇をいいことに、部屋で寝転んで本を読んでいる、労災で暮らしていたときとかわらない、というか、収入もそれと似たようなもの。しかし、これが来年もつづいたら? ……30歳になる親方の息子だったら、どう対応するだろう? たぶん、元請けの要請されるままにやるだろう。役所仕事に精を出してきたからか、ゼネコンを真似する元請けの真似なのか、入りたての若者が仕事の態度でおかしいと、仕事おわってから事務所に残して、反省文という作文を書かせる。中卒での者が東大での官僚のような発想をすることのおかしさ。日本の社会はどこを切っても金太郎飴みたいなものだ、との事例が目前で反復されている事態の将来性は? 敗戦後のどさくさに紛れて地歩を築いた一代目から、3~4代目のほぼ100年がたっている、というのが日本の会社の多くなのではないか? つまり、ヒューマンスケールで終る。人も会社も。で、どうするというのか?


今日は雨で、息子のサッカー大会は中止になった。3年生をまじえたこのまえの大会ではぼろ負けだったが、こんどのは2年生だけだから、ぶっちぎりで優勝するだろうと期待していた。しかしそう期待する私の心性に、高度成長期の親から挿入された官僚(エリート)競争主義の慣性がある。競争は必要だが、それが経済(進路・就活)に結ばれて重ねあわされると、人格をそこなう。不幸がやってくる。一希はいま、大会ように母親が作っていた弁当をもって、サッカー仲間と小学校の遊び場へいっている。まだ、サッカー小僧にはなれず、その場のおもしろさに釣られてちゃらんぽらだ。面白いほうへいく。しかしそれは、雨でよく家にいる職人の子供たちにはありがちなことで、だから、ちょっとしたことで学校にもいかず、進学もたいしたこととは考えなくなる。今に満足、親といる幸福を覚えてしまう。人間味はあるが、いざ社会にでてその有様に直面してくると、反動的に適応しようとする。しかし、頑張りの根と、世の中や人間への認識、おそらく社会的なもの、社会のなかの人間を動かしているものへの、認識の根本がわからない。人がよすぎるようになるのだ。それで、いいのだろうか?


私を作ったのは両親だが、その私は息子とともにある。父親は認知症を発症しはじめた。この時をきっかけに、社会がその時とどう向き合うのか、どこへ向うのか、どのように向うのか、は、子供とともにある私の生活が考えていかなくてはならない。

2011年7月18日月曜日

二つの時間と、ヒューマンスケール

「最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の三月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」という言う人たちがいる。こういう考え方の前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に忘却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。」(柄谷行人著「週刊読書人」 2011.6/17)


木をみておもうことがある。それは、おおよそ、100年を超える樹木となると、どこかヒューマンスケールを超えて存在しはじめる、ということだ。個人主義的に、単にのぼって、切る、というような私がやっているような作業は、それを超えると、できなくなる、あるいは、そのスケールの違う超越的な存在をまえに、畏怖の感じに捉えられ、気を緩めると、振り落とされてしまうような緊張感を覚えるのである。「まだ100年はたってませんね。80年すぎくらいかな。」先週も、新宿の民家にあった欅の木の剪定で、住んでいるおばあさんとそんな話しをした。「ええ。おじいさんが、子供のころ植えたそうですから。」……しかし、私がその欅をみあげながら、骨折した腫れの残る足をさすりながら考えたのは、人の営みはゆえに、100年を超えられない、のではないか、ということである。しかしここでいう人とは、いまの技術体系を支えているような、個人主義的なもの、となるだろう。大昔ならば、樹齢何百年という樹木を相手にできていたはずだ。それは、そのような支援(世代)体制で事にあたるのが前提になっていたからだろう。大正時代くらいまでも、山から庭へ木を移植するのに、何千人という人夫が動員されている。いまは、はした金を設けるために、おまえやっとけ、というような体制である。しかし、戦後植えた小学校の木なども、そろそろ100年を超え始める。しかも、庭木として手入れしているので、傷みもひどい。よく庭の主人が亡くなると、その植木も枯れてなくなるのだとかいわれるが、それはなにも神秘的な話しなどではなく、狭い庭におさまるよう無理な手入れを続けてきたのが原因だろう。庭木もまた、その時代の人の寿命を後追いしだすのである。暑い日差しのなかで、ふた周りも縮小された屋根を覆う欅をながめながら、もう終るのだな、と私は考えていたのである。


避難所のひとつの体育館の床に寝転びながら、周囲に漂う秩序ある静けさを、私は異様なものとして感じたのだった。「災害ユートピア」というよりも、それは想像を超えた事態に直面した人々の諦念ではないか、と。個人的な誤解なのかもしれない。新聞でのある著名人の感想によると、災害後3ヶ月くらいまでは、生き延びたこと、そのことに対応していくことで一生懸命な感じがあるが、4ヶ月めになると、あきらめやら疲労やらで、元気がなくなってくるのだという。単にそういうことなのかもしれない。が私がおもったことは、もっと長い時間でのこと、それと、この短い時間の関係のことである。日本の文化の基底的態度に、あきらめた情感があるのは、こうした大きな自然災害を繰り返し体験したからかもしれない、が、その長期的な習性が、この間近な直後の時間とどうつながっていくのか、というか逆に、この間近な時間が、どのように長期的な時間を作っていくのか、が腑に落ちなくなってきたのである。あの避難所の雰囲気にふれて。ポルトガルの歴史で、ヴェスビオス火山が噴火し、その災害後、大航海にも繰り出していたポルトガル人の気質が、冒険精神から諦め的な淡白さに変質したとかいわれる。外からみれば、そうなのかもしれない。が、中からみれば、その論理は短絡すぎて、なにか欠落があるように感じられてくるのである。いや外国人からみるならば、普通でさえ大人しい日本人の態度は「異様なもの」としてうつっていることでもあるのだから、それは近すぎる見方で、取るに足りない取り越し苦労な思いなのかもしれない。しかし当事者だったら、この諦念を乗り越えていかなくては、トラウマ的傷を乗り越えていかなくては、前にすすめないではないか? そうやって、当事者がこの間近な短い時間を克服してきたとするなら、その超克の時間と、長い文化的な時間、しかもそこで反復習性されてしまう諦念の構造とは、どのような折り合いのもとで構成されているのだろうか? 公的行政単位での話し合いで、被災した県市町村のトップ会談だけでは、当事者として思考力も気力も回復されていないので、被害にあわなかった行政区の人たちの助言と後押しが必要なのだ、と話す被災地の長がいた。こうした、他者的な団体との網目が、持ちつ持たれつの構造を作っていくということだろうか?


先週の毎日新聞で、「ATM窃盗事件25件 原発事故後、半径25キロ圏」と記事がでている。火事場泥棒の被害総額は約4億2千万円だそうだ。副島隆彦氏の、現地入り報告直後の掲示板からの現地レポートを勘案して推論すれば、これは単独の犯罪ではなく、組織犯罪なのだろう。副島氏によれば、事故後、重機をのせた関西ナンバーのトラックが現地へむけて走ってゆくのが目撃されていたという。それは、山口組が阪神大震災の教訓としてマニュアル化していた、災害後対策によるのだという。こうした現象が、「災害ユートピア」的な人の真実を、裏切っているというわけではないだろう。どちらも、真実なのだろう。この位相の違いが現実的に絡み合う時、その時が社会的な項目を形づくりはじめ、次なる時間へと繋いでいく。一つの時間の終りから始められたものが、もう一つの時間の終りに挿入されることで、その終りの内側に始まりが胎動する。しかしそれは、この私には関係していることなのだろうか? ヒューマンスケールを超えていることなのだろうか? しかしそれも、この私とが、あくまで近代的な個人という枠組みから抜け出ようとしなければ、という話しなのだろうか? ならば、私自身は、誰に繋がってゆくだろう?


最近読んだものに、沖縄のユタの話しをきいて腰痛がなおった、という話しがあった。ならば、私は恐山のイタコの話しをきけば、腰痛がなおるかな、と考えたりしている。同時に、そんな考えを抱いてしまう私自身が気力をなくしているからなのか、とも内省する。私はただ、終りがやってくるのを、黙って見ている事しかできないのだろうか、それとも、この終りに、次なる始まりが胎動しはじめているのだろうか?

2011年7月5日火曜日

「安全か、危険か」を超えていく隙間

武田 福島市長は、おそらく山下さんが100ミリということは、もう事前に聞いてあって、政治的には100ミリって言ってくれることによって福島市民の心の安定を得ようと思ったんでしょう。それで、しかし――。 副島 それで今、逆に福島県に動揺が広がっているんですか。 武田 うん。広がっている。ジワリジワリと。山下さんの言っていることを最初は信用した。福島市の人が僕に送ってくるメールによると、彼は細かく福島市を講演し、住民を説得してまわった。100ミリシーベルト年間は大丈夫だと。それを最初聞いて信じていた人たちは、内閣の参与の小佐古さんが辞めたり、僕が「1ミリ以上は危ないですよ」とか言ったものだから心配し始めた。その波は4月の中旬ぐらいからのことです。心配し出した一つの表れが、郡山市の洗浄作業です。郡山市の人たちが1ミリシーベルト年間を超えてはいけないと思って洗浄を始めたんです。僕はいいことだと思ったけど、このことが周囲に与えた影響が、いいか悪いかという判断は難しい。しかし、庶民はもう少し強いんじゃないか。つまり、かつて有名な労災がありました。ベンジンを使ってスリッパを作る仕事をしていればがんになるということは前から分かっていたけれども、自分はベンジンでスリッパを洗浄しないと生きていけないからベンジンで洗浄したというものです。ぼかにも僕が言う話があります。アルミ缶入りのビールは素晴らしいんだというものです。なぜなら、昔は酒屋の丁稚というのは、重たいビンビールの20本入りケースを運んでいたので、だいたい50歳前後で腰痛になって死んだ。割合と若くして死んだ。しかし、彼らはそれは分かっている。その後、アルミ缶入りのビールができたために、腰痛で死ぬ酒屋の丁稚はいなくなり、その分、寿命が延びた。だから今回の問題は、放射線による害というのを正しく伝えること、主婦が計算できるようにするということが、現地の人たちにとって耐えられないかどうかですね。金持ちしか逃げられないという現実は、まさにその通り。貧乏な人は、どうしてもそこで生きていかなければならない。そういうことはありますからね。……」(副島隆彦vs武田邦彦著『原発事故、放射能、ケンカ対談』 幻冬社)



「今の基準(20ミリシーベルト/年)は、安全か? 危険か?」と帯された上記引用の著作を読んでいても、少しもすっきりしないのは、やはり問題の立て方自体がすでに社会のカラクリにはまっているからではないか、というのが私の理解である。私の理解では、副島氏が科学的根拠として信憑する山下氏の発言にしても、100ミリシーベルト以下は「安全」だと言っているわけではなく、医学的にはわからない、と言っているのが、副島氏自身が根拠として自身HPの掲示板で引用している山下氏の文章からもみてとれ、それはおそらく、顕微鏡で見てもわからない、とかの、現時点の医療技術では突き止めることができない、ということを言おうとしているのだろう、と推論される。がしかし、と山下氏が続けるのは、それでも、原爆を落とされた広島市民や長崎市民のように、福島市民の人々も生きていくことができるのだ、汚染された水を飲み、残留した放射能をあびつづける生活であっても、という社会的な事実が挿入され、ゆえにその教訓として、今の放射能下を生きる人々の人生における自覚の話しに転換されているのである。つまりそれは、あくまで「科学」の話しではなく、むしろ社会の話しなのである。そして、ウルリッヒ・ベック氏の「リスク社会」という呈示によれば、現代は放射能に限らず、副作用社会が前提になっている。そこで事故が起きれば、副作用それ自体において科学的に「安全」な数値などないのであるから、ではいったいどの数値までそれを許容するか、という社会的なコンセンサスの議論が惹起されてくる。平時においてあった前提が、事故時には泥縄式に沸騰するということになる。上の議論のように。つまり、上のケンカ対談は、それ自体がリスク社会の産物であり、症状なのである。ならば問題は、われわれはわれわれを前提とさせているリスク社会そのものから脱することができるのだろうか? という話しになってくるだろう。


昨夜、「なのはなプロジェクト なかのアクション!」主催の、「未来バンク」を運営している田中優氏の「自然エネルギーシフト」への講演をきいてきた。たしかに、自然エネルギー社会が前提させてくるものには、副作用問題は希薄になってくるかもしれない。が田中氏自身が、脱原発から自然エネルギーへ議論を直接うつすことには反対だ、なぜなら、そうするとすぐにその欠点をあげつらう議論に取り込まれてつぶされてしまうからだ(それは副作用、というより、一長一短の話しであるだろう)、だから、それ以前に、現段階での節電、東電の料金体系等をも視野にいれた節電という中間項で現問題が解決できるのだ、ということを示す議論や問題提起を媒介させたほうがいいのだ、と前置きしていたように、われわれもまず、なお「カラクリ」のなかにとどまって議論を煮詰めておく必要があるのだろう、と私も考える。それはひとえに、自分が福島市に生きる子供を抱えた親だったなら、どうしたらいいのか、と想定してみれば、そんな素早く自然エネルギーの話しなどする余裕がなくなるだろうからだ。


しかし、放射能から逃げる、逃げない、という話しだけなら、答えは簡明だ。事実貧乏階級に属しているので、あるいはそこに身を置くことをひとつの思想にしているので、逃げるわけにはいかない、ということだ。3月の事故直後でも、当時の私の知識教養レベルでは、原発が爆発する、ということがどういうことかわからなかっただろう。また今から推論するに、誰もどうなるかわからず、頭には広島・長崎のきのこ雲、原爆のようなイメージしかなかっただろう。そしてそう爆発が大きくならなかったのは、設計ミスのおかげという、不幸中の幸いだったようだ。もしがっちり設計建造されていたものだったなら、原子炉ごと吹っ飛んで、甚大な被害が広範に及んだものと私は思う。とにかくも、原発からの爆風を想像しなくてはならない範囲内に居住していたとしても、私(たち)は逃げ遅れただろう。では、その逃げ遅れた私たち家族が、「安全か、危険か」が騒がれる福島市に残っているとして、私はなにをどう判断するだろうか?


(1)夫婦喧嘩を極力おさえて、子供にストレス影響を与えないようにする……地震津波で離縁する、という夫婦はないと思うが、原発事故後のどうするかをめぐって離婚までいった世帯がいる、ということが私にはよくわかる。たとえばわが女房、最近ようやく水を買うのをやめた、事故直後、私があれほど停電と放射能で水がどうなるかわからないからポリタン買ってためておけ、といっていたのを平気で聞かず、結局は松葉杖の私がホームセンターでタンクを買って水の貯め置きをしたのである。そんな呑気だったのに、もうだいじょうぶだという頃になって、女房わざわざミネラルウォーターを買って料理をしはじめ、私が貯め置いたタンクの水は匂いがいやだから使わない、とほざく。ヨウ素はそのうち減るし、セシウムだって沈殿するから下まで使わなきゃだいじょぶだ、俺たち貧乏階級の分を弁えまえろ、といっても、もともとグルメ穣さんだからいうこときかない。けっきょく貯め置きのポリタンはゴールデンウィークあけのベランダ掃除に使うことになった。てなぐあいで、わが女房はいつも遅れてパニックになる。もう逃げる段階はおわったのに逃げようと考え出したり。しかし貧乏人は帰ることを前提にした逃亡などできない、やるときは移住、ということになるので、私は地震と原発被害の少ないところ、しかもツテのあるところをと調べていた。広島から長崎に逃げてしまった人にならないように。すると、熊本県の一部、と群馬県の一部、とでた。というか、ほとんど日本はだめだから、逃げてもしょうがないのではないか、という結果だったが。しかし、私がどう考えても、そのときの女房が呑気なので、実践は伴わない。そこでの軋轢を、子供はじっとみている。小学2年生にもなってオネショがなおらないのも、すさまじい夫婦喧嘩がトラウマになっているのではないかともおもう。その子供をめぐっての教育法にも喧嘩が生じる。女房はママゴンのように宿題をみて、漢字の書き順がどうのこうのとしつこくいって子供も毎晩のように泣かせている。「けっきょく原発事故の原因ってなんなの?」 とたまに女房がきいてくるが、「だからおまえのような教育を子供にしていくからだよ。文字の操作で現実に対処できるとおもう本末転倒な連中が世の中を仕切るからだろ。東大でてそういう世界にいくのと、途中でおちこぼれて引きこもりになるのはコインの表と裏でおんなじだ。宿題など親がみるな。間違ったら先生に直されればいい。叱られるのになれなきゃだめなんだ。いやならそんな宿題やらなくといい!」しかし一昨日も、学校に漢字ノートを忘れたから宿題できないと泣く子供にわざわざ金だして新しいのを買ってきて女房はやらせる。私は子供には、チラシやカレンダーの裏に漢字を書いてだせばいいだろう、といったのだが、なんでこうもいい子ぶりになるのだ? 俺たちは、貧乏人だろ?


(2)くたばる貧乏人はどこまで迷惑をかけられるのか?……100ミリシーベルトでもだいじょうぶだ、安全かはわからないが、安心できる、と説く山下教授の話しをきくと、武士道とは死ぬここと見つけたり、などという「葉隠れ」の言葉を想起してしまう。かつては、知らぬが仏で放射能世界を生きれたかもしれないが、いまはそんなことを説教するのは、人々を聖人か仙人にでも見立てないと通じないだろう。かといって、科学的根拠など呈示できないのだから、不安をぬぐいさることは根底的にできず、その根底自体が新しく定義しなおされる次なる時代にまで待たないといけない、ということなのかもしれない。だから貧乏人にできることは、くたばる、ということだ。武士道、というと格好はいいが、実際には、端の人にだいぶ迷惑がかかるのである。高倉健やとらさんの映画世界では、その迷惑どころは割愛されている。震災前に、私は木から落ちて入院した。その残りの仕事を、団塊世代の職人さんが代わってやって、やりとげたあと腰痛で入院した。(もともとは、福祉老人介護をしていた娘の腰痛検査の付き添いで病院にいったさい、父親のほうが重症だと発見されてしまったのが端緒なのだが……) 私は退院し、仕事に復帰した。その職人さんは、なお通院し、また手術かもしれない。私には労災がおりたが、その先輩職人におりるかどうかはなおわからない。私には貯金があったが、その職人さんはみんな飲んでしまって一銭もない。高度成長とバブル経済と働いてきているので、金の使い道のない私なら、1億円ぐらい貯金できているかもしれない。が、職人さんは一銭もない。仕事柄、たまに公園で暮らす野宿者の近くで作業することがあったが、職人さんのその人たちをみる目つきは、「俺もやりたいな」、という感じに私にはみえた。はじめから、宵越しの銭はもたない、と職人気勢を示すことわざにもあるようの、そのときはくたばればいい、というのが前提(覚悟)にあるだろう。「ずっと働けるわけないんだから、歳とったっとき、どうする気だったんだい?」と親方はきいたらしいが、おそらく親方にもわかっていて、だから、法的な対処などに従えず、ホームレスにさせるわけにもいかないから、毎月の家賃や光熱費たぐいの生活経費ニ十万円相当を、立て替えて支払っているのである。くたばる、とはそういうことをはらみ、相互扶助とはそういうことを意味し……そんな社会をみてきている私には、いわゆる左翼な共同体論を、鵜呑みにして人間現実に適用してみるわけにはいかないのである。

2011年6月27日月曜日

震災被災地へ――陸前高田市

炊き出しボランティア・パキスタンチームの運転手として、震災地・陸前高田市へむかった。 <避難所の中学校>





















山道を抜けたところでいきなりでますよ、と何回かあちこちへ救援にでかけている日本人スタッフの話しだった。近づくにつれ、みたくない、という気持ちがでてくる。海より10kmほどのまだ山中で、ふと木材の集積、そして小川の土手に横たわった自動車にでくわす。





ここまで津波が到達したという地点。というより、山にぶつかったのだろう。山腹の10m近くまで、屋根のだいぶ上まで波をかぶっている。塩水にふれた部分の木の枝は赤茶けている。それでも日本作りの家屋はたおれない。海岸近くでも、ぽつんと立っている蔵をみかけた。まわりは流されて何もないのに、それは石垣基礎も壁もほぼきれいなままだった。



おそらく次に作業しやすいように、道路側に残骸を堆積させている。










流された自動車。









分別され山積みされた木材。








海に向う河口付近。










一本松がみえてくる。

海近辺、災害現場の中は、一般車両は進入禁止。














































高校あと。ぶじ生徒は避難できただろうか? テレビニュースでみると、すぐ裏山にのぼって逃げればとおもったが、逆にすぐ後に山が迫っていると、おそらく人間心理ではそれを登ろうという気はおきず迂回するだろうと思えてくる。とくに、ここからは建物で海はみえなかったろうから、まず校庭に避難、となれば、その後迂回しながら開けた高台にのぼるコースをとるだろう。その1kmほどの途中で津波に襲われれば、逃げようがない。聞けば、生か死かであって、けが人というのはいないという。



避難場所の体育館。

カレーライスの配膳あとで。

この避難所の、理科室を使った厨房で食事を作る若夫婦の話しによると、海近くで食堂を営んでいた自分たちが生き延びたのは偶然だという。避難場所として指定されていた市民体育館に避難していた母親は亡くなったという。自分たちがそこに行かなかったのは、中学生の娘が心配だったので、そっちへ向ったからだと。奥さんは「あんな遠くまで」と最初もらしたそうだ。だから逆に、「生かされている」とも感じるという。内陸商人の考えが自然な肌になっているインドレストラン経営者のパキスタン人とは、帰り際、まさにこれから自分の生活を作っていくためにどんな援助が欲しいか、いくらかかるか、と必死に情報を交換する旦那さんだった。避難所は、子供がかけまわったりしながらも、静かだった。そして規律があり、清潔だった。落成したばかりの体育館や校舎のためというより、そうした努力とノウハウの蓄積がなじんできているのだろう。しかし夜になるにつれ、そのただっ広い避難所で過ごすことの寂しさが漂いはじめるような気がした。当初1000人が、いまは200人ほどになり、近隣地区からのボランティアスタッフもいた厨房の体制も、7月からは、ほんとに津波で家が流されて避難した人たちだけの世界になるという。そっちのほうがいいのだ、家のあるなしが意識の違いをうむので、自分たちだけのほうが居心地よくなるのだとも、旦那さんはいう。外はどしゃぶりに近い雨だったので、涼しかったが、これから暑くなると、どうなるだろうか? 被災・避難者の沈着振りが、想像を超えた出来事に直面したものの、異常な心理にもおもえてくる。

* 陸前高田市から、東北道にのって車で8時間ほどで東京中野区は上高田まで帰ってきてしまう。いま団地の6階から雨のふる窓外をみても、すぐ向こうにある気がしてしまう。往きも帰りも、ほとんどまともに寝ずに、慣れない真夜中の運転だったので、なおさら夢見心地で、現実感がない。ここでもあすこでも。しかし、被災地の人たちは、東京が遠く感じられることだろう。われわれはここを、身近な感じにさせられることができるだろうか? そのように、生きているだろうか? 3月20日すぎには現場にカレーをもって、単独駆けつけたというパキスタン人たちの、他人事とは感じない能力と実践を、私たちはもっているだろうか? また、普段の仕事も休まずボランティアにくりだす日本人スタッフの人たち。なお怪我が完治していないこともあるが、朝帰りを見込んでさっそくまえもって仕事をさぼる段取りの私には、真似できないことである。だけれども、一生懸命ついていこう、身を寄り添うように生きていこうとするのが、この自然に生かされている人間の務めなのだろうと、考えている。