2022年3月14日月曜日

『進撃の巨人』論


<人を喰う話2 『進撃の巨人』論>を電子出版形式でだしてみた。

BCCKS / ブックス - 『人を喰う話 2』菅原 正樹著

epub言語のものをダウンロードしてみると、読みやすくなるようだ。

前回同様、摂津正さんに、表紙を描いてもらった。

以下は、前書きの添付。

※ 仕事帰宅後、昨夜のNHKの進撃アニメの録画をみてからこのブログを書いている。なんと生々しいことか。東浩紀等も指摘しているように、ウクライナとロシアは文化的に兄弟のようなものだ。が、ウクライナのここ10年来の右傾化が、この結果だ。欧米エリート・エスタブリッシュメント側は、もともとウクライナをNATOになど入れる気などなく、中途半端な曖昧状況の方が都合がよかったから、いまも、口先支援で見殺しにするのが判断なのだろう。降伏もさせてもらえないで、ゼレンスキーが追い込まれているように私には見える。日本のマスメディアの見出しをみているだけでも、ウクライナは、ロシアと組んだほうがよかったのだろうと思えてくる。欧米よりの中立化か、ロシアよりの中立化という差異のために、市民が犠牲を強いられている。もともとはゼレンスキーは、欧米仲間にはいりたがったが断られたので(訂正; いや、ロシア側にだったかもしれない。記憶曖昧。)、そのすきに右翼勢力が取り巻いた、といわれている。戦争をやめるのは簡単だ。くだらねえ男のメンツなど捨てて、本当の勇気と覚悟をもって、敵に対すればいい。

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0 はじめに


「威力偵察」の任務をもって潜入していたパラディ島から、ひとり生還した鎧の巨人ライナーは、大陸の帝国マーレの生地レベリオ収容区で過ごしていたある日、銃口を口にくわえた。自殺をはかろうとしたのである。やっと生き延びて来たのに、何故だろうか?

ライナーは、いわゆるPTSD、心的外傷後ストレスと呼ばれる病に襲われたのだろう。

この後遺症は、精神分析学を創始したフロイトが、第一次世界大戦での帰還兵の診察にあたって直面した人間の現実だった。フロイトはその強迫反復される症状分析から、人は、エゴイスティックな生の欲動だけでなく、無機物に還りたいという、死の衝動をも根底に抱えこんでいるのではないかと、推察した。(脚注1)

この「死の衝動」に襲われているのは、ライナーだけではなかった。進撃の巨人のエレンもまた、そうであることが提示される。

人喰いの巨人たちから解放され、平和を取り戻した島国から、海を隔てた大陸の帝国マーレへと潜入したエレンは、戦士として徴兵されるエルディア人の収容区にある病院施設で、「傷痍軍人」に変装する。そしてマーレでの戦闘開始の直前、ライナーを呼び出し、俺もおまえも同じだ、俺はおまえがわかる、と言うのだ。

エレンは、何を了解し、「同じ」だと言ったのだろうか? 何がわかったと言うのだろうか? たんに、同じ病気だね、ということだろうか? エレンは5回、「同じ」だと繰り返すのだが、その都度、この「同じ」の意味が、「PTSD」からそれを乗り越えていく認識に変わっていく。そのライナーとの対話のあと、エレンは世界を「地鳴らし」するために、始祖の巨人の能力を発揮していった。社会心理学的には、これは他人を巻き込んで実行される「拡大自殺」と言えなくもない。

最近の日本社会でも、京アニや渋谷ハロウィン騒ぎ中における京王線での、大阪の精神科クリニックでの放火事件などがある。(脚注2)

おそらく、そんな社会的な出来事の考察もが、この若い作者の思考射程にはいってはくるだろうが、そこにとどまらない広さ、大戦後議論されている哲学的な世界観、戦後の世界を推進させている科学的な自然・宇宙観もが、この作品から読みこめるだろう。



『人を喰う話』は、戦場のイラクへと観光に行き、いまはテロリストと世界から名指されるゲリラに捕捉され斬首された、当時24歳の香田証生さんの事件に刺激されて描かれたものである。(脚注3)

事件を受けてまもなく、私的なホームページ上に掲載されたその絵本に、近未来の破局世界を背景にしたともいえる『新世紀エヴンゲリオン』をめぐる論考を付記して、昨年2021年、電子出版ものとして再提示された。(脚注4)

『人を喰う話2』は、まさに人を喰っている話であるコミックを知るにおよんで啓発されたものだ。テレビでアニメ化された『進撃の巨人』を、中学生の息子と一緒によく見ていたものだ。が今回、高校を卒業する息子が進学なり就職なりと社会へと出てゆくにあたって、初老を迎えた父から、その世代の少青年たちに向け、この10歳から20歳くらいまでの子供たちの葛藤を描いた物語への考察を、世間に落としておきたい衝迫をもった。(脚注5)

香田証生さんの死後、戦場のイラクやインド洋での給油活動へと派遣されていた自衛隊員から、50人を超える自殺者が出ていたことが報道され、国会でも議論された。ライナーやエレンの自殺願望は、他人事でも絵空事でもない、日本に生きる若者にとっても身に迫る、人間や歴史の現実が反映されているのだ。(脚注6)

以下は、そうした社会、歴史的な問題をも加味して考察されたものだが、その背景にある自然科学的な認識も、現在の知見とも対照させて試みてみたものである。世や人の裏側にまで配慮を張りめぐらせる諌山氏の構成力は驚くべきものだが、その基になる構想に、昆虫の捕食生態や、遺伝子・ウィルス的な、生命の根源へとおもむく直観らしきものが提示されているからである。

まだ若いはずの作者に、ここまでのことが洞察できてしまうのか、という驚きには、諌山氏の才能をこえて、それだけ世界や人間の駄目さ加減が目立ってきている、ということのような気がする。だからこの試論は、年長者からの、申し訳なさとしてもなされているのかもしれない。

※原則的に、出版されたコミック本34巻を参照対象にして考察する。引用においては、コミックでは付けられている全漢字の振り仮名は省き、適宜、読みやすいよう、コミックでは付けられていない句読点を、こちらで付記した場合もある。

2022年3月9日水曜日

アイデンティティと逃走

 


〈祖母たちの竹槍よりもはかなかり木の銃構えるキエフの女性〉

(水戸市)中原千絵子(朝日歌壇2022/3/6 )



「勝つか、負けるか、それをぎりぎりの地点で迫られたときは、負けるがよい。負けて、無一物の姿となり、世間の陰を流れて歩くがよい。それが《ケンシ》の道だ。負けるはいや、勝つもいや、それでは世間には生きられぬ。だから世間を離れ一所不住の道をゆくのだ。負ける心、捨てる心、別れる心、それが《ケンシ》の心だとわたしはさとった。哀、よく言ってくれた。この世のすべては、亡ぶときは亡ぶ。山も、海も、川もそうだ。わたしは冥道さんを間違っていると思う。だが彼と争って勝とうとは思わぬ。ただし、手をつかねて負けるのも困る。だから力をつくしてやれる事はやろう。しかし、どうにもならぬ時は、負けるのだ。負けて、すべてを捨てるのだ。講を捨ててよい。一族の未来を捨ててよい。遍浪先生の思い出も、山も、川も、すべてを捨ててよい。人間として生きることさえもだ。われらは非常の民である。非常民の魂には非常識こそふさわしい。」(五木寛之著『風の王国』新潮文庫)



「80年代に自分が逃走を呼びかけたことが間違っていたとは思いません。人は必ず何らかのイデオロギー状況の中で生きるしかないものであるし、旧左翼と新左翼の問題を清算せずに進んでも絶対にダメだったと思うからです」


 「『アイデンティティーへの固執をやめよう』というあのときの提唱自体の大事さは、むしろ当時より強まっているとも思います。現在の重要課題は、アイデンティティー政治の問題だからです」


――かつて左派の「アイデンティティーへの執着」を解毒しようと考えた浅田さんが、今度は右派の解毒を試みているように見えます。


 「アイデンティティーへの固執を解毒するための逃走は、今も必要なのでしょう」


「カギカッコつきの『普通の人々』が、強烈なアイデンティティー政治を始めたのです。そこには『白人である』『男性である』というアイデンティティーへの固執があり解毒が必要ですが、洗脳を解く作業に近い難しさもあって簡単ではありません」

(〈「逃走論」40年後の世界 浅田彰さんは今なお「逃げろ」と訴える〉

https://digital.asahi.com/sp/articles/ASQ285VXYQ27ULZU009.html?iref=amp_rellink_05#comment_area)



「In all cases a group,whether a great power such as Russia or China or voters  in the United States or Britain, believes that it has an identity that is not being given adequate recognitionーeither by the outside world, in the case of a nation, or by other members of the same society. Those identity can be and are incredibly varied, based on nation, religion, ethnicity, sexual orientation, or gender. They are all  manifestations of a common phenomenon, that of  identity politics. 」


「In this book, I will be using identity in a specific sense that help us understand why it is so important to contemporary politics. Identity grows, in the first place, out of a distinction between one's true inner self and an outer world of social rules and norms that dose not adequately recognize that inner self 's worth or dignity. Individuals throughout human history have found themselves at odds with their societies.  But only in modern times has the view taken hold that the authentic inner self is intrinsically valuable, and the outer society systematically wrong and unfair in its valuation of the former. It is not the inner self that has to be made to conform to society's rules, but society itself that needs to change. 」

(FRANCIS FUKUYAMA『IDENTITY  THE DEMAND FOR DIGNITY AND THE POLITICS OF RESENTMENT』)

2022年3月6日日曜日

映画『ドライブ・マイ・カー』を観る

 


当初、新聞の記事などでは、妻を失った男の人生の話、みたいな枠での紹介ばかりだったので、それを映画として上手に撮った作品なのかな、そこに東洋のエクゾチズムみたいのが加味されてカンヌでも評価されることになったのかな、と思っていた。『万引き家族』や『スパイの妻』とかも、そういう印象だったから、その延長なのかな、と。韓国の『パラサイト 半地下の家族』もそうだし、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を映画化した韓国の『バーニング』も、そういう枠にはいるだろう。が、韓国映画は、予定調和的な落ちではなく、自らの思想が世間とずれていても最後まで貫いて終わる、という残酷さみたいなのが徹底しているところが違うから、今回の村上作品を原作とした『ドライブ・マイ・カー』も、その文化的な差異を露呈させて終わるのかな、とその確認でもしようかと、映画館に向かったのだ。

 

が、見事に、裏切られた。上にあげた作品らと比べても、私は、ダントツに推す。それは、映画として職人芸的によりうまく作られているから、ということではない。現実を切りとる見方の思想性において、現実に対応できている、追いついている、と共感できるのだ。

 

映画は最初、演劇演出家の男と、脚本家の妻とのセックスシーンが反復される。妻は、精神的な病を抱えているのか、残酷にも幻想的な物語を、性交中に言い始める。いかにも村上作品的な雰囲気なので、このまま大人のメルヘンみたいなものを三時間近く見せられることになるのかな、とうんざりしそうになる。セリフも長い朗読ふうで、映画をみにきたものとしては、居心地が悪くなる。

 

が、そこに、意味があったのだ。伏線というより、脚本による、カットのつなぎによって、意図がホラー映画か、ミステリー―のように浮き彫り迫ってくるようになっている。

 

若い俳優との浮気を繰り返す妻の、今夜話がしたい、というその話を聞くこともないまま、男は妻にくも膜下出血で突然死された。そこで初めてオープニングの曲と俳優や監督の字幕がでて、映画がはじまったのだった。

 

舞台は東京から、広島に移った。

 

もう、ストーリは、語るまい。決定的なところで、夕やみに浮かぶ原爆ドームがうつる。四歳の娘を失っていた男も、劇場側から用意されたお抱え運転手の23歳の女も、みな傷を負っている。その妻も、運転手のキャバレー勤めの母親も、多重人格的な病を内に秘めて仕事をして、亡くなった。男の演出は多言語で、観客のために、背景に字幕が映写される方策をとっている。口がきけず、手話で演技する女性が、チェーホフの『ワーニャ叔父さん』のソーニャ役をしていて、「苦しくても、生きていきましょう」と、無言で伝えて、映画は最後、運転手の女が、韓国ナンバーにかわっていた男の赤い外車を、手話で演技した女性の飼い犬とおぼしき犬と、一緒に乗って走ってゆく姿で終わる。

 

私は、いまウクライナで起きていることを思った。重なってきた。世界の人々の苦しみは、どこにあるのであろうか?

 

池袋での映画をみるまえ、なお時間が少しあったので、岡崎乾二郎さんの壁画をみにいった。以前、女房と二人でみているが、今回、ひとりで黙ってみていると、みえてきた。エスカレーターをおりて、階段下からみあげて確認した。

 

冒頭の写真がそれだ。

 

反復ずらされてゆく十字架、そこから流されてゆく大量の血の川……

 

フェイスブックに投稿した文章を添付する。

 

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A ghost called a man is wandering around the world

We should look at ourselves before blaming others. I'm Japanese, but I remember the words of Jesus Christ. "Let him who is without sin cast the first stone."

 It's more against humans than against war. Both Biden and Zelensky knew Putin's seriousness. Nevertheless, They  accepted the quarrel. Mankind is involved in the logic of these Yakuza. The logic of crappy men. Putin will use nuclear weapons. And instead of shooting his head with a pistol like Hitler, he would also shoot a nuclear warhead into the Kremlin and self-destruct.

For most of post-historical Europe, the World Cup has replaced military competition as the chief outlet for nationalist strivings to be number one. As Kojève once said, his goal was to reestablish the Roman Empire, but this time as a multinational soccer team. It is perhaps no accident that in the most post historical part of the United States, California, one finds the most obsessive pursuit of high-risk leisure activities that have no purpose but to shake the participant out of the comfort of a bourgeois existence: rock climbing, hang gliding, skydiving, marathon running, ironman and ironwoman races, and so forth. For where traditional forms of struggle like war are not possible, and where widespread material prosperity makes economic struggle unnecessary, thymotic individuals begin to search for other kinds of contentless activities that can win them recognition.〉(Francis Fukuyama,  ”The End of History and the Last Man”

他人を責める前に、自分を見つめたらどうなのか? 私は日本人だが、イエスの言葉を思い出す。「罪なきものがまずこの女に石を投げよ」戦争反対よりも、人間反対だ。バイデンもゼレンスキーも、プーチンの本気をわかっていた。にもかかわらず、その喧嘩を、受けてたったわけだ。このヤクザものたちの論理に、人類が巻き込まれている。くだらない男たちの論理。プーチンは、核を使うだろう。そして、ヒトラーのように、頭を拳銃で撃ち抜くのではなく、クレムリンにも核弾頭をぶち込んで、自爆するだろう。

https://danpance.blogspot.com/2022/03/blog-post.html?m=1

 



I want to appeal to the Ukrainian people. Everyone knows that the Russian Putin has begun to invade this time. So you can surrender with confidence. In the past, the Japanese also fought a thorough fight to prolong the war, and as a result, indiscriminate carpet bombing and two atomic bombs were dropped. I don't want to see other people like that again. On TV, a Ukrainian grandmother sadly says "Surrender to Russia will kill all lives, not just our territory. It was once thought that if the Japanese surrendered to the United States, the men would be killed and all the women would be raped. But that didn't happen. If we had surrendered earlier, many people's lives would have been saved. But Ukraine is still in time. Please survive. Surrender to war is neither the end of life nor the loss. The fight continues. Endure the intolerable, and survive. Please.

私は、ウクライナの人々に、訴えたい。今回、プーチンロシア側か、いっぽう的に侵略をはじめたのは、みなが知っている。だから、自信をもって、降伏してください。かつて日本人も、徹底抗戦して戦争をながびかせ、その結果、無差別絨毯爆撃と、原子爆弾を二つ、落とされた。もう二度と、他の人々に、そんな目にあわせたくありません。テレビでは、ウクライナのおばあさんが、ロシアに降伏したら、領土を失うだけでなく、みな殺されてしまう、と嘆いていました。日本人もかつて、アメリカに降伏したら、男は殺され、女はみなレイプされるのだとおもわされた。が、そんなことにはならなかった。もっと早く降参していたら、たくさんの人の命が助かった。しかしウクライナは、まだ間に合う。どうか、しぶとく生き抜いてください。戦争への降伏は、人生の終わりでも、負けでもない。闘いは、つづくのです。耐え難きを耐え、どうか生き延びてください。

2022年3月1日火曜日

戦争の論理ということでわかりきっていること


 バイデンの話によれば、プーチンがウクライナへ侵攻することはわかっていたというのだから、戦争に本当に反対であるならば、防げたはずである。ウクライナのNATO加盟という議題を棚上げし、ロシアに譲歩すればよかったのだから。が、ほっといた。ウクライナ側も、プーチンの本気度をわかっていたようなのに、戦争を受けてたった。

 

欧米各国は、侵攻がはじまってから、武器は支援する、とか言っている。

 

サッカー日本代表の本田圭佑が、それは変だろうと疑義を呈するツイートをして、炎上がおきた、とニュースになっていたが、私は本田とそこでは同じ意見だ。犠牲者がでてから協議に応じる、とは、なんなんだ?

 

状況が進展するなかでの発言なので、言い方が面倒になるから誤解されて炎上しているようだが、ニュースで受け取るかぎりでの本田の論理とは、以下のようなものだろう。

 

①ウクライナは侵攻されるまえに譲歩すべきだった。

②侵攻され犠牲者がでてから協議に応じる、とは、すでに犠牲になった人はなんだったのか?

③欧米各国も、そうなってはじめて武器供与とかいっているが、それは、他人事としてみている、ということではないのか? もう、死んでるんですよ? と。

 

で、次に、日本も中国との問題があるから他人事ではないんですよ、とつけ加える。

 

私も、むしろ前提的に、隣人との関係を考慮するが、そこにおいて、本田選手と同じような認識・態度なのかは、不明だ。

 

が、日本政府側は、この戦争を契機に、これが現実だ、平和ボケの民衆よ目を覚ませ、世界の出来事は他人事ではないんだぞ、防衛力を増強するぞ、9条なんかじゃ日本を守れないだろう、と出ている。

 

そしておそらく、反戦運動の大勢も、隣人への怯えから、ロシアが侵攻する戦争には反対、ということで、暗黙に、中国が侵攻する戦争には反対、イコール、欧米列強その他のウクライナ支援の戦争には賛成、日本を守る防衛強化に賛成、と心理的になっていく普通の人たちの参加が多くなっていくのでは、と考える。

 

そんな応酬に、現実などない、リアル・ポリティクスなどない、とこのブログで再三言ってきた。人間の現実とは、カントからフロイト、マルクス、そしてラカンへの認識系譜の線で理解していく教養を、私は受け入れている。彼らのリアル・ポリティクスとは、自己妄想の堂々巡り、悪の連鎖・循環だ。

 

もし、ウクライナがロシアを撃退したとしよう。ジャイアント・キリングだ。がそれは、問題をなおさら根深く拡大するだけではないか。悪の循環が反復されるだけだ。ならば、どちらかといえば、負けるべく負けるほうが、弱いほうが、譲歩しなくてはならない。犠牲にならなければならない。

 

サッカーだって、相手が強いとわかっていたら、勝ちなどめざさず、引き分けを狙うじゃないか。本田の感覚も、そういうものだろう。が、戦争は、ゲームではない。フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」にも記述があるように、国家という父権主義的な枠組みのみでなく、資本主義という経済活動さえもが、実は、不合理な男気で駆動している。

 

もうそろそろ、中高生対象の、『進撃の巨人』論を無料電子出版するけれど、作者の諌山氏はよく考えている。そこからすれば、もう、いまのデモ標語は、「戦争反対」ではなく、「人間反対」となるだろう。みんながマンに、つまりマッチョになりたがっている。Mankind、男ってやつに取り込まれていく人類。哲学上は徹底的に批判され、日常的にも空回りがみえてきたけれど、なお私たちは、その亡霊にとりつかれている。

 

プーチンが、進撃の巨人たるエレンよろしく、「地鳴らし」を発動しないことを願うばかりだ。が、その首を落とさないかぎり終わらない、と漫画のようになるとは、つまり相変わらずの茶番としての反復によって、しぼんでいた亡霊がまた息を吹き返し世界を席巻しはじめる、ということだろう。

 

どうやったら、この悪循環から、抜け出せるのか?

 

諌山氏とは違った解として、オードリー・タン氏の言葉を引用しておわる。

 

「私の成長期において、男性ホルモンの濃度は八十歳の男性と同じレベルでした。そのため、私の男性としての思春期は未発達な状態でした。二十歳の頃、男性ホルモンの濃度を検査すると、だいたい男女の中間ぐらいであることがわかりました。このとき、自分はトランスジェンダーであることを自覚しました。

 私は十代で男性の思春期、二十代で女性の思春期を経験しましたが、今述べたように一回目の思春期のときは、完全に男性になるということはなく、喉仏もありませんでした。また、男性としての感情や思考を得ることもありませんでした。二十代で迎えた二度目の思春期には、完全ではないけれどバストが発達しました。結局のところ、私は男女それぞれの思春期を二~三年ずつ経験しているのですが、一般的な男性や女性ほど、完全に男女が分離しているわけではありません。そのため、行政院の政務委員に就任する際、性別を記入する欄には「無」と書きました。」(『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』 プレジデント社)

 

参照ブログ;

 ダンス&パンセ: 「歴史の終わり」をめぐって(1) (danpance.blogspot.com)

ダンス&パンセ: 普遍論争――世界での戦い方(3) (danpance.blogspot.com)

ダンス&パンセ: 世界での戦い方 (danpance.blogspot.com) 

ダンス&パンセ: 9条と論理 (danpance.blogspot.com)

ダンス&パンセ: 戦争を準備する (danpance.blogspot.com)

2022年2月28日月曜日

「春になったら」

 


とりあえず、かつてホームページ上で掲載していた映画感想を添付。

 

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「春になったら」は18歳のチェチェン青年ティムール・オズダミールさんが、99年にはじまった第二次チェチェン戦争を目撃した子供たちの描いた絵をもとにアニメ化した03年の作品。「金色の雲は宿った」は、スラム・マミーロフ監督が、1944年のロシア人とチェチェン人との衝突を、その地コーカサスへと移住しにきたモスクワからの孤児の視点を中心にして描いた89年の作品である。

 

「ディアスポラ特集 ~故郷を追われた人々~」として近所の映画館で組まれたこの上映会とトークショーにいってみようと思ったのは、まずは「チェチェン」という地で何が起きているか知らないからである。ソ連邦崩壊後、91年にかの地が独立を宣言し、94年に第一次の戦争が勃発する。「金色の雲は」は、それ以前からの歴史的軋轢の重層において紛争がつづいてきたことを教えている。しかし、そうした教養的理解とは、なんなのだろうか? ……女・子供もふくめてみんなが庭に引き出され、銃をこめかみにつけられて銃殺された、そのあとで生きているものがいないよう機関銃で一掃された、カラスが群がるなか、埋葬しようと母親から赤ん坊を引き離そうとしてもその手がほどけなかった──とは、ティムールさん本人を交えたトークショーで、彼の母親と当地近辺へと旅する企画を実行した作家の姜信子氏がその生き残りの祖母から聞いたという話である。「きれいな戦争」とかいわれた湾岸戦争は91年の事である。アメリカのパイロットは、朝家族と朝食をとったあとで、いってきますと戦争にでかけ、ピンポイント攻撃と称する爆弾を落として帰宅し、夕食の団欒を家族と楽しむのだ。ティムールさんの母親ザイールさんは、アゼルバイジャンに逃げてきた難民の子供の証言を集めたビデオ記録を撮っているが(「子どもの物語にあらず」)、その中のほんの5歳くらいの子供たちは、戦争とは人を殺し泥棒することだ、と言う。このほぼ同じ時期に起きている「きれい」と「きたない」の落差はなんだろうか? いや、テクノロジーの美名に遅れて、「きたない」戦争の有様がようやくメディアにのってきた、という感じだ。最近では、スーダンでの虐殺がクローズアップされている。私は、その地で起きていることも知らない。メディアではよく、その紛争の背後にある歴史的・文化的な理解を求めることが宣伝されるけれど。

 

トークショーでは、姜氏との企画に同行した映像作家の岡田一男氏が、こう発言していた。チェチェンには、「アダート」と呼ばれる不文律な慣習法があるが、そこでは連帯責任と客への歓待の掟のようなものがある。それ自体が、つまり不文律な文化自体が破壊されてしまっていることが、最近の小学校占拠爆破事件などにいってしまっているのではないか(チェチェンの知り合いでは誰もあの事件を肯ってはいない――)と。ここで把握される「文化」と、メディアが教養理解を求める「文化」とは、正反対なようである。岡田氏がチェチェンで感じた文化には、そもそも他者を客として受け入れるということがもともと折り返されているからである。ならば、戦争が起こるのは文化の違いがあるからだ、という論理は前提的におかしいことになるだろう。

 

密入国した中国人の捜索のため、和歌山県などではいわば山狩りがおこなわれた。が、その地の住民たちは、借金までして日本にきてこんな目にあうとは可愛そうだと、おにぎりを作って訪れるのを待っていたりしたそうだ。あるいは、ティムールさんにしても、新潟県の心ある人たちによって、そこのコンピューターの専門学校に通って今回の映画を作り上映するにいたっているのである。文化の活動とは、本来的にこうした他者との関わりの在り方を内包しているものだろう。そこでは、すでに戦争で何人も人が殺されてきたという、汚い現実が折り返され、それに対処する術が蓄積されてきているのである。ロシア人から親兄弟・親類を殺された子供たちの多くは復讐を語らない、そのうちのひとりの女の子の意見はこうである。大統領を山に閉じ込めて、いつまでも泣いていてもらう、それだけで十分だ。だって、兵士たちは、大統領の子供たちでしょ? 戦争を生き延びてきた子供たちは、すでにして文化的な存在者なのである。

2022年2月22日火曜日

家族のまわり


月曜日の昨日は、千葉市の空き家となっている実家の、整理にいってきた。

若社長の仕事はやらないと親方に言ってあるので、できた暇を利用して、改装工事前の下準備だ。やらないといけないことがたくさんある。家は物置と化しているし、遺品整理もまだなのだそう。女房の大叔父には絵描きだった人もいたということで、その人の描いた油絵や、それなりの値をだして購入したのだろう絵画も飾ってあるままだ。

女房が部屋の整理をしている間、私は、のびほうだいの芝庭の一角に、車がとめられるよう、芝に埋まったコンクリ平板やレンガを掘り起こし搔き集めて、即席の駐車場を作った。それまでは路駐。あとひと月はかかるだろうという向かいの新築中の工事にはいっている業者のダンプや職人の車も路駐してあるので、こちらのリフォーム工事と重なり始めると、路地道は通行できなくなってしまう。そうなるまえにと、芝を抜き、土を均し、転圧し、なんとか一台分は駐車できるスペースを確保した。ありあわせの材料も、ちょうどそこで使い切った。もう一台か二台は突っ込めるが、あとは大工さんが、コンパネで養生でもしてやれるだろう。といっても、そのためにもまだやることが結構あるので、何日かは通うことになる。

腰と背筋がまだ固まっている。今朝は、近所の公園までの散歩や運動をやめて、家の前でのラジオ体操とストレッチだけにしておいた。

 

そもそも、千葉へと移ることが現実的になってきたのは、私の仕事の件以上に、女房の態度が変わってくれたからだ。息子が小学生の低学年まで、東中野の長屋のようなアパートで暮らしていたのだが、そのとき隣部屋のお世話になった老夫婦の行き場がなくなるかもしれないというので、一緒に過ごせる物件がないかと女房はさがしていたのだが、こだわる東京の不動産は高すぎるし、狭いし日当たりもわるいものばかりで、と諦めたのだった。そう言う言葉尻をとらえて、いまがチャンスとばかり、移るぞ、と私がつけ込んだ。

 

千葉の家なら、植木いじりの好きな老夫婦の鉢も、そのまま持っていけるだろう。日当たりも良好だ。が、気兼ねして、多分は来られないだろう、と女房は言う。がまた、老夫婦は、年がいってからの再婚で、奥さんのほうは、息子が田舎の方で一緒に暮らそうと申し出ているが、旦那さんのほうは、独り身だ。だから、オータン、と息子が呼んでいる旦那さんをこちらで引き取る可能性はあって、引き取ってやりたいのだ、と女房は言う。もう八十過ぎのじいさんだ。現実味があるのか、私には不安だ。

 

大学には行かず、警察官になることを選んだ息子は、とりあえず、寮にはいって訓練を受ける。府中のほうと遠いが、オータン、バータンの見守りはできるだろう。しかも、本職なんだから、心強い。息子は、じいちゃん・ばあちゃん子なのだ。もう寝泊まりしてくるということはなくなったが、今でも、月に一度は遊びにいく。

 

「本当の祖父母ではないんですよね?」と、息子と少年サッカーチームに関わっていたころ、よくまわりの若奥さんたちから驚かれていたものだ。親戚でもない他人に子供もあずけ、お風呂もいっしょに入れさせている……私自身は、驚かれたことに驚いたが、考えてみれば、そうだよな、とすぐに思い直した。が、別段なにがあるわけでもないし、高じてきた女房の暴力からの逃げ場がなかったら、息子はつぶれてしまう。東中野のアパートから、駅前開発のためにお互い皆が立ち退きを迫られて、離れ離れになってからも、息子はオータン・バータンのもとへと頻繁に通った。避難しにいった。私たち夫婦二人は、そうとう助かっているはずだ。お互い年いってからの結婚・出産とはいえ、子育ては、夫婦ふたりきりで、できるものではない。

 

東中野アパートの大家さんとも、まだ連絡がつく仲だ。湘南かどこかの老人ホームに夫婦二人で移っていった。大家さんも、赤ん坊の息子をたらいのお風呂にいれるのを手伝ってくれた。もともと、結婚前から私がひとりでそこに住んでいたわけだが、どういうわけか、たぶん、私はそういう感じの人から、関係にはいられやすいのだろうか? 立ち退きで団地に移ってから知り合い、団地から引っ越したあとでもなお、挨拶仲のつづいている老夫婦がいる。いや、床屋さんだった旦那のほうは、亡くなってしまった。奥さんだけが、独り身でくらしている。女房がときおり、電話をして気にかけている。私もときどき、仕事の行き帰りなど、道端で会って挨拶する。老夫婦の床屋を私が選んだのは、団地のすぐ近所ということもあるが、よそよそしすぎず、かといってずけずけはいりこんでくることもなく、他人との関係に、やさしい距離が感じられたからではないか? たぶん、みな、どこか傷をおっている。私自身は、そうした関係を作ってくるだけだが、女房が、それを持続させているということだろう。私だけだったら、場所が変われば、そこで関係は終わってしまっただろう。

 

千葉からの帰り道、息子がバイトするガソリン・スタンドによった。バイトの息子本人が注入するのならば、リッター20円安くなるそう。が、夕方だったので、店は混雑していた。明るい、元気な息子の声が、スタンドにはいってくる車を誘導する。家では、陰鬱気なときが多いのに、ここでは生き生きしていて、さわやかな好青年だ。注入係が息子ひとりでのやりくりになっているようなので、息子は手が離せない。かわりに、事情をきいた年増の従業員がやってきて、ガソリンをいれてくれる。

 

スタンドをあとにするとき、息子は私たちふたりに、手を振ってきた。その表情には、これから社会にでていく若者の不安もうかがえる。が、やはり、じいちゃん・ばあちゃん子によくみかけられる、人懐こいやさしさがあふれている。交番勤務の、いいおまわりさんになるのではないか? そんな感じがすると同時に、いまの日本の社会や組織が、そんな若者の純朴さや期待を、裏切らずに受け入れ育てていける寛容さをもっているだろうか、との心配がよぎる。

2022年2月6日日曜日

コロナの最中で


 息子の陽性疑いが晴れていったと思ったら、今度は私の職場のほうで、クラスターがやってきた。


若社長一家、子供ふたりに奥さんまで、発熱に咳の症状がでて、陽性に。社長も現場仕事を休めないから、一緒にやっている従業員も。バイトの若者もあやしいと。喉が痛くなるそうで。


50歳未満だかは、自主判断で、になったそうだから、こんなくらいでは休まなくてもOK、も通るだろうし、仕事上、検査などしたら厄介になるから、現場に出ているものは、しないのだろう。


で、そんな若衆組へ、私と70過ぎの職人さんが、手伝いにかりだされるはめに。


外仕事だから、密にはならないが、なんともまあ。一緒に仕事して1週間、一家や彼らの症状でてからは、もう2週間はたつから、山はくぐりぬけたのだろう。


無事で何よりだが、世の中では、おさまってはないらしい。ヨーロッパのほうでは、結局、EUの方針転換で動いているようで、フランスでもマスクはしなくていいや、となったと、さっきテレビニュースで、やっていた。


以下は、だいぶまえに、読んだものから。


〈FLCCC(注ー米国の医師らが組織する「新型コロナ救命治療最前線同盟」)は、5月12日付で、WHO、FDAなどの公衆衛生機関がイベルメクチンの新型コロナに対する有効性に関して「変則的な」取り扱いをしており、虚偽情報を広めていることに抗議する公開声明を出しました。声明は、まず、WHOのガイドラインが米国NIHのガイドラインと矛盾していることを指摘しています。その上で、WHOによるイベルメクチンの試験成績に関する評価では恣意的な採用や除外がなされており、結論が歪曲されていると訴えています。特に、イベルメクチンの新型コロナに対する使用に反対するガイドラインの作成時には、委員による投票が行われず、少数の委員の意見で決定された経緯を問題視しています。

 この声明は、科学的データに基づいて決定されるべき事柄が、巨大なワクチン市場や新規医療薬品市場を見込んだ巨大製薬企業が多額の資金を投じて主導する巨大科学(ビッグ・エージェンシー)、巨大学会(ビッグ・アカデミア)、巨大メディア(ビッグ・ジャーナル、ビッグ・メディア)の組み合わせによる非科学的で政治的・経済的な虚偽情報に基づいて決定されていることに警鐘を鳴らしています。〉(『イベルメクチン』大村智編著 河出新書)