2020年12月28日月曜日

植木手入れをめぐって

親方のモッコク
私のモッコク

年末の庭手入れで、久しぶりに、親方がずっとみていた植木にのぼって、整枝作業をした。親方の手入れしてきた庭木のあとを手入れするのは、難しい。抜く枝がないからだ。必要な枝だけで、シンプルに整枝されている。一年の間では、枝の発生や伸長も抑えられてあるので、なんとなく伸び、なんとなく混んでいる枝を抜き、詰め、透いて木漏れ日よりは少し光の多い加減で、均等に整枝していくのがむずかしい。今回の木はヤマモモだったが、モチやモッコク、マツといった手の込む庭木は、そうなる。ツバキも、そうなるな。団塊世代の職人さんが切った植木は、次の年にも無駄な枝がたくさん生えてくるので、抜くのはたやすい。というか、どう木を仕立てていきたいのか、その意図がみえない、というか、ない、のだろう。あったとしても、手元に次に使える枝を残しておく、といったマニュアル的な反応だけで、しかも、その残した枝の、先と手元の枝との奥行き感や、芽の左右への方向的なバランスなど、伸びてきたら使えないだろうな、と私などがおもうものがおおい。だから、毎年ばさばさと切り返しの剪定になる。木が、単純問題になって、解答が、簡単すぎる。おそらく、直観的にやっているのだろう。一方、親方のは、論理的だ。翌年その木に登って、その論理をみつけ追いながら、思考訓練してきて、いまはほとんど初めから自分で切り始める腕前になってもう20年以上になるわけだが、久しぶりに、親方の跡をうまく切り抜けられるか、と緊張した。結果は、まだ駄目、だ。すんなりいかない。抜く枝が見つけられないケースが多いので、不用意に手数が多くなって、細部がゴテゴテしてくる感じになる。どれを抜けば、すぱっと解答が得られるのか、親方のようなシンプルな複雑性が縮約されるのか、うまく解答をみつけられないままだった。

来年の私が手入れした木は、ちょっと混み過ぎているだろう。木の伸長は、抑制、制御されてはいるだろうから、根が水を吸い上げる収入と、葉が蒸散していく収支のバランスはとれているだろうが、形として、すっきりしていかないだろう。

翌日には、私がここ数年やってきたモッコクを(もちろんその前は、親方がやっていたわけだが)、親方がやることになった。私はその翌日、マンションのエントランスをはさんで植えてあるもう一本のモッコクを例年どおりやったのだが、それも、なかなか、親方のようにはならない。せめて親方が切り捨てたゴミを見てヒントをもらっておくんだった、など初心者みたく後悔し、『なんでだ、ちきしょう…』とおもいながらやっていると、三角脚立の下で、こちらの手入れの様子をみている男性に気づく。私のカンで、建築の設計者だな、とおもえる。目が合うと、自然樹形とは、みたいな話になって、自宅に「クマシデ」を植えた、と話してくる。放っておけば、そうなるかと切ってないのですが、と言う。「井の頭公園ですね?」と私が質問する。相手はびっくりして「ええ動物園のほう…なんでわかるんですか? やっぱり、あちらの植木屋さんですか?」と聞いてくる。「いやすぐそこの、近所ですよ」と返事しながら、この設計者が、どんなイメージをもっているのかが頭に浮かぶ。まだ四十前後と若いから、子どもの庭も考えたのだろう。遊び空き地のなかに下枝が邪魔にならない樹木、そして黒いクマのような幹肌に垂直に近いストライプの模様が地と空に走る庭(井の頭動物園の森のイメージだ)……「日本の狭い庭では、落葉の高木は、むずかしいいんじゃないですかね。」

でかくなる木を、どうやって抑制していくか、その制御が、日本の植木屋の技術的な要諦になる。盆栽を、実地でできるのかどうか。ミクロな現象を、マクロで生かせるのか、となると、量子論になってしまうが、実際、なんで木のてっぺんにまで、根から吸い上げた水が上昇していくのか、は謎だ。本によれば、葉の蒸散作用、木の呼吸、とか説明があったりするが、ならば、なんでまだ枝葉が生えていない、冬から春先の樹木を切ってみると、幹からどばっとあふれるような水が漏れてくるのか、説明がつかない。まだ、光合成ははじめられていないぞ(呼吸はしているだろうし、人間の呼吸にも、量子現象があるかもしれないという説もでてきているが、それは置いておこう)。だから、まだ謎のままだ、とあった本の一説のほうが正しいのだろうと、私は判断している。が、電子(根から吸い取った水の、あるいはカリウムとかいった放射性物質に近い栄養分の陽子や中性子だとか…)といった、量子が関与しているだろうな、と想像している。量子もつれの、バトン・リレー、波動レベルの粒子が、収束を連鎖させて、いわばテレポートの数珠つなぎで、上に運んでいるのではないか、と予測している。その冬から春へのスイッチの入力も、量子現象が関与しているのではないか。量子時計だ。

となれば、植木屋さんのローカルな身体技術も、原子力と同じで、どう、その人智を超えた量子の振る舞いを制御していくのか、といったフォースの技なのかもしれない。原子力は窯底からの挿入棒操作で、コンピューターは半導体で、量子制御しているとしたら、植木屋さんは、剪定バサミや、素手そのもので、だ。私は普段、腰痛予防に杖をついて歩いているが、いざとなれば、スター・ウォーズのマスター・ヨーダよろしく、杖がなくても平気なのだ。

年末年始に向けて

ようやく仕事もおわり、年末年始へむけて、準備にはいる。

図書館で量子論関連のを借り、本屋にいき、ジャーナリズム関連の本を買ってくる。副島vs佐藤対談『ウィルスが変えた世界の構造』(日本文芸社)、佐藤vs手嶋対談『菅政権と米中危機』(中公新書ラクレ)、橋爪大三郎『中国 vs アメリカ』(河出新書)。

米大統領選では、投票機をふくめ、それなりの不正があったことは確実、と、オリーブの木の党首が、Youtubeで流している。だとしても、誰がなるかという個人をこえて、国家の意志のほうが強い、と上の識者の間では了解されているようだ。まだ読んでないが。

コロナでは、変異のことが世情の話題になっているようだ。一度に12か所、全部で28か所だかの変異部分が発生するのは、自然ウィルスではありえないのでは、という意見もでてきているようだ。新型ウィルスならぬ新型ワクチンにせよ、どうも物質の量子レベルでの関与・振る舞いの操作が要になっているのではないかと、私は推測している。開発途中の量子コンピューターもそうだが。原爆は、高エネルギーの粒子(物質)の性質を、RNAワクチンや量子コンピューターは、そうでもない粒子(波)の振る舞いを利用しようとしているようにみえるが、その制御が、人間に、本当にできるのだろうか? ヒト(生命)が認識するというレベルで取り違え=無理解が発生するのだし、数学とは、生命の認識を単純化したものだろうから、数式の解答が確率的に妥当な線、使える範囲、理解できる範囲、でやってしまうということが、どんな誤解=惨事を引き起こすのか、と予想してしまう。

やるのなら、わかってからやってもらいたいたいが、グローバルに展開されるワクチンなりコンピューターが、他に先取りされたらグローバルな不利益を被るので、ぶっつけ本番並みで実行されていくとしたら、おそるべき新年の夜明けになっていきそうな。

2020年12月19日土曜日

新型ウィルスをめぐって(19)


私もチャンネル登録している「哲学系ユーチューバーじゅんちゃん」が、このブログでも肯定的に評価したといっていい、徳島大の大橋氏を陰謀論者として批判検討しているので、ウィルス・シリーズ(19)として、言及してみることにした。第三波といわれるものがやってきているところでもあるし。

 まず、大橋氏のコロナ・ウィルスに関する評価検討からいこう。

 私の理解というか、受け止め方と、じゅんちゃんのそれとは違うようだ。私は、「コロナ常在ウィルス説」、じゅんちゃんは、「コロナ存在しない説」、と受け止めているらしい。確かに、大橋氏は、当初「コロナウィルスは存在しない」とセンセーショナルなタイトルをつけていたが、話をきいていると、そういうことではない、と私はおもった。それは、日和見ウィルスとして、何かの加減で人に悪さを引き起こす場合がある、と。が、私の理解は他で言及しているので、ここではそれ以上追求しない。

 じゅんちゃんは、参照リンクをはっている「理系院卒の怒り」というnoteに連載されていた個人ブログを引用して、「コッホの四原則」をウィルスにあてはめようとする大橋氏の態度は、基礎的な間違い、素人並みだ、という意見を首肯する。が、そうでもないらしいことは、コメントでも誰かが紹介しているが、ウィキペディアをみると、そこは、大橋氏も見当はずれでもないらしい。

 また、コメント欄にあることだが、大橋氏のようなPCR検査に対する異議申し立て、そして中国論文に対する撤回運動も、初期段階に世界レベルであったらしい。私は、そのMedeical Tribuneなるサイトに登録などしてないので、読んではいないが、私がいいたいのは、そういう水準の反証がでてきたら、この分野での、専門での、大きくは、科学での、どっちが本当なんだ、という判断を、原則的に(専門家も専門外の素人性をもつのだから)、誰もすることはできなくなるだろう、という話になってしまう、ということだ。

 私は、じゅんちゃんが参照している「理系院卒の怒り」を、知的好奇心をもって読んだ。ちょうど、量子論をめぐる読書をしているところだし、量子生物学についてもこのブログで言及したところだから、「分子生物学」にも興味がいっている。翡翠さんは、大橋氏のやってることは「老害」であって、新しい知識や技術をとり入れて適応することができていない、ウィルス抽出作業でも、昔ながらの手作業レベルで今の水準を推論している。2月までだったらまあその説の該当性はあるといえても、5月の赤毛テナガザルだかへの感染実証の論文がネイチャーだかにのったあとでは、もう全く通用しない、嘘になる、……とう、いろいろ、ネタをあげて専門分野的に検証批判していく。で、PCR検査では、まずプライマリーという導入遺伝子の設計が重要なのだが、その新型コロナに対するプライマリー設計で、WHOが、基礎的な間違いをしている、と指摘し揶揄することにもなる。しかし、WHOの研究者は、若くて、優秀だろう。そういう人でも間違えるってことか?(だから、陰陽の結果も変わってくる?) となると、もう、私には、判断できない、というか、文学系ブロガーとしての私としては、「クレタ人の嘘」というパラドックス論理の問題を想起してしまう。つまり、「クレタ人はみな嘘つきだとクレタ人は言った」、ならば、そのクレタ人の発言は嘘なのか真実なのか? 「専門家がその事実は嘘だと専門家に言った」……どっちだい? が、私たちは、そもそも、実は、そういう風に真実を理解しようとしているのか? したいのか? いったいなぜ、翡翠さんは、分子生物学を選び、科学を志向したのか? 科学は、なんのためにあるのか? 専門分野って、なんだ? ガリレオやダヴィンチのときにはなかったみたいだが。なんで翡翠さんは、ブログに書いたの? それは、科学なの? 科学じゃないでしょ、ならば、大橋氏と、やっている営みは、おなじじゃない? なんらかの自分の信念みたいなものへ、科学事実をこえて、実践していこうとしているのではないの?

 *新型コロナのウィルスがきちんと抽出されているのかいなか、という問題でも、それは「分離/精製」されたのではなく、製造されたものだという反論があって、なお遺伝子ソースはわかっていないという話を、「In deep」のオカ氏がリンクをはっている。彼はオカルトがかった陰謀論支持者といえるだろうが、そこには科学的参照もあって、私は全面的には信じていないが、想像力をかきたてられる。

 大橋氏のアップしているYouTubeをみれば、コロナ以前から、いわゆる、陰暴論支持者であることがわかる。私は、陰暴論を否定しない。それは、副島隆彦氏が、世の中に出ている大人たちは、トップの話し合いで物事が決まっていくことをみな知っているではないか、と言っているような、そういう意味延長でだ。私は植木屋だが、そこから類推し、金額のでかくなる世界で、談合がないわけないだろう、とおもう。高校時代の野球部同期で、地元で一番の商業都市の役所で経理のトップをしている者や、WTCの崩壊をニューヨークで直にみていたという金融アナリストなどにさぐりをいれると、にやにやしてたり、よくしってるなあ、とかいわれたりする。もちろん、世界のトップレベルのお話合いのことなど知らないから、だいそれた陰暴論のあるなし判断などしようがないが、苫米地英人氏のようなその近い現場にいた者が、昔はウォール街の人しか知らなかったことが今ではだいぶよその人にも知れるようになっているとの発言を、現場の声なんだろうなと推測する。じゅんちゃんは、陰暴論とは、ものごとを結局はそこへ一元化、単純化していく目的思考だと形式化する。しかしだからといって、真実が相対化されたままの、複雑こんがらがったままのなんでもありでいいということではなく、普遍(的真実)を、目的(エンド、終末)にではなく、始めにもってくるということがいいのではないか、とマルクス・ガブリエルの説をとりあげたりする。柄谷行人を読んできた文学系の者の言葉で言いかえれば、他者(とのつながり=普遍、真実の共有)は認識論的な構えではなく、論理的な前提として必要なんだ、ということになろうか。そしてこの必要は、実践において、生きることの倫理として、ということだ。しかし始原となる普遍とは、いやもうここでは、事実是非を超えた真理ということかもしれないが、その、真理とはなんだ?

 ベンヤミンは、嘘は必要なんだと、『暴力批判論』でいっている。トランプは、嘘つきなのかもしれない、バイデン当選には不正などなかったことを知っており、自分が大統領でなくなったら、借金取りにおわれ、暴行罪で起訴され、亡命でもしなくてはならなくなっているのかもしれない。しかし、そんな個人の動機をこえて、自由という大義名分に藁をもつかむおもいでしがみつき、本当にそれを信じ、ジャンヌダルクのように、遺伝子そのままで人格変貌するかもしれない。あるいは、リバティ大学での講演をきくと、自分をアウトサイダーとして認識する確信犯像もうかがえるから、本当に、ジャンヌダルクになろうとしているのかもしれない。そしてそう、のぞんでいる人の波がある。その波は、陰謀論者の妄想などではなく、小手先の改革で自分のどうにもならぬ現実が変わるものか、という生活の実感=必要がつきあげているのでは、と私は観測している。その波にのって、陰謀論者が空想するトップからの大リセットではなく、下からのリセット、終末思想的な動乱が新型ウィルスの拡散と一体となってビッグ・ウェーブに発展するかもしれないと。いま、いや新年そうそう、私はそうなってほしくはないが、その波はくるだろう、こないわけないだろう、とおもう。トランプがいようがいまいがだ。ソ連崩壊、リーマンショック、9.11、など、まだ小さな破局で……これは願望なのか、現実認識なのか? いやこれまでの社会現実が、そんな願望をつくっており、その目的のない下々の終末論的な波動のなかに、ベンヤミンが肯定して指摘する「神的暴力」が挿入されてくるのではないだろうか?

 しかし私たちは、神の真理を、普遍的な真理を知らない。しかし真実はこっちだという信仰に根拠をおく科学的態度への従属とは、ニーチェが洞察したように(それが正しければ)、遠近法的な倒錯、しかも身体(生体)レベルでのカラクリにはまったままだということになる。ならば、事実是非をこえていく信念が人には必要なのだ、ということではないだろうか? 大橋氏の啓蒙活動とは、そういうものだろうと私はおもうし、その個人の信仰を、私はおちょくる気にはなれない。また、その信者たちを、じゅんちゃんのように、そういう人たちが一定の割合で存在することはなくならない、という生態的理解ですむ問題だともおもわない。ウィルスる(15)のブログで、私はかろうじて陰謀の可能性を認めたジジェクに言及したが、マルクス主義的な原理的思考を忌避しているらしいじゅんちゃんは、では、どうやって、現実に切り込むのだろう? 宇宙の真理を原理的に解こうとする態度は、量子の発見とその振る舞いの不可思議な現実をまえに、棚上げされた。その態度の行くつく先の一つが、原爆であったと、そう理解してもよい文脈があると、私は理解している。

 <古典物理学にとって、決定論と自由意志の間の矛盾が決して解決されないとしても、物理対象に対する量子的確率という形での決定論の喪失が、矛盾をなくしてくれるわけではない。それはあくまでも、誰も答えを知らない問題である。それが答えが物理の領域にあるような問いであるかどうかさえわからない。量子物理学、古典物理学、神学――いくつかの問いは永遠に解けないように思われる。>(『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ』デヴィッド・リンドリー著 松浦俊輔訳 青土社)

 *この世界的な第三波の推移をニュースでみていると、確率的には低いと私は想定してきた、もしかして人為的ウィルスか、という気がしてきた。去年と同様、インフルエンザの入り込む余地がなさそうで。どちらも風邪みたいな自然同士なら、少しはせめぎあってもよさそうなのに。集団免疫も、中国からの亡命者が告発していたように、できない、って気配が。しかし、身近には実感も持てないので、本当にコロナ在るのか、という気もなくならない。翡翠さんは、その説を、提出されたとされている新コロの遺伝子コードの読解から、そこに人為を読むことこそ「不自然」と判断した。また、今の技術では、遺伝子の配列を人工的に操作・製造することは可能だとも言っている。私の知っていた範囲では、科学者のほとんどが、人為はありえない、今の科学技術では無理だから、というものだったが。しかしそう思われていても、アメリカの軍事技術はやったのだ、というのが、副島氏の見立てだった。 

2020年12月13日日曜日

量子論をめぐって(2)


前回ブログで、アメリカの新大統領に、トランプが再選されているアメリカと、バイデンが大統領になっているアメリカと、二つの世界が「並行」しはじめた、とニュース解説した「大紀元」というメディアに言及した。ウィキペディアによると、「法輪功」という中国での新興宗教的団体の参加者が実施しているメディアだそうだ。 弾圧を受けているらしいが、となると、これは、亡命政権的な活動なのだろうか? 日本でのオウム真理教との類似性を指摘している意見も散見したが、中国の歴史をかんがみると、そう社会学的単純さで比較はできないだろう。中国での動乱、革命は、道教的なものと結びついた大衆運動がかかわってくるのが、常態的ともみえるからである。そんな運動が、トランプなのか、トランプ的なるものなのか、を支持している。

日本でも、Youtubeなどが、トランプ賛辞的な報道を削除禁止する方針の報道から、その弾圧が、かつての左翼活動家たちの「転向」問題とパラレルであるかの感として受け取られ、発言されているのが見受けられる。彼らの多くは、一概には、右寄りな言論家、とされている。というよりなにより、トランプ自身がなお権力をもった保守派の大統領なのだから、なんだかよくわからない転倒した事態が起きているとするのが、客観的な見方になろう。いわば、日本におきかえたら、総理なままの安倍晋三とその支持者たちが、メディア弾圧をうけて、転向か沈黙を強いられている、そんな世界が到来しているようなものだろう。

私自身は、今回のアメリカ大統領選、不正があったと解釈するのか常識的だとおもっている。正邪、事実是非の判断は、しようがない。郵便での不在者投票のほぼすべてがバイデンになるなら、郵便物がとどくまえでも、バイデンが優勢であってもよかったとするのが、統計的な確率の現実に依拠することになるのではないか、とおもうからだ。そう選挙中に意見表明した、アメリカの経済学者もいたそうだ。数学的現実にそぐわない結果だ。もちろん、それくらい、トランプは圧倒的に嫌われていて、そういう人たちこそが郵便投票を選択した、という偏向行動も、確率的にないわけではないだろう。量子が、壁を突き抜けて、トンネルしていく確率もあるように。最初に開封されていった用紙に、トランプと書かれたものが偏っていた、という現象も、ありえないわけではないように。選挙が正当だと解釈する人たちは、この偏向した低い確率の現実を観測したわけだ。

私は、この結果を、素直に信じるわけにはいかない。しかしかといって、トランプが、貧しい(白人)労働者たちのために、エスタブリッシュメントに戦いを挑んでいる、というイデオロギーも、突然発生したような、トランプ自身が選挙のためにとった大義名分にすぎない唐突な感じで、本当に信じるわけにもいかない。実際、彼の政策は、金持ち優遇だったろう。が、いま、どちらを取るのか、選ぶのか、と世界が突き付けられているような印象である。エリートにつくのですか、没落大衆につくのですか、勝ち馬にのるのですか、敗者の道をゆくのですか、長いものにまかれるのですか、自分の道をゆくのですか……etc。

とはいえ、私が日本に住んでいるからなのか、日本人だからなのか、そんな騒動、コロナも含めて、としよう――に、巻き込まれているような日常ではまったくない。マスメディアにしろ、ネットやSNS等のメディアであれ、そういう情報を日々確認している知的大衆の間でだけ、観測されるような歴史混沌であろう。もと都知事の猪瀬直樹氏は、東大闘争に参加していたころ、喉がかわいたので東大裏のパチンコ屋にいって景品でコーラを当てて飲んでいたが、このパチンコ屋世界は、すぐ表のインテリ闘争のことなどまったく無知無関心なままなので、この現実を考えてとりこまないと、日本でのことなど考えられず、運動などできないのでは、とネット上のどこかで対談していた。とくに私のまわりは、年寄りな職人世界になってきたので、もう認知症がはじまっているのではないか、と観察されてくる。一緒の現場にいる70歳過ぎのベテランが、どこかずれた作業を繰り返している。たぶん、どうも、今の作業が、20年まえだかの作業を連想させてきて、それを、今の状況の中で固着しだすのだ。その一動作を、熱中して考えている、という感じだ。呼びかけても応じなくなるのは、耳が遠くなったわけではなく、注意力が今にいっているわけではないからだ。私の父もそうだったが、認知症と診断された人のなかには、なぜか掃除をしたがる人がおおい。なにかこだわりのある記憶があって、それを繰り返している。そして、はっとしたように、今にかえるが、そのとき、掃除をしていたという自覚はなくなっている。家にかえると、父は、ゴミをためこんだポケットのことなど忘れていた。

程度の違いはあっても、歳をとれば、言いかえれば、年齢を重ねれば、誰もが今と過去とを重ね合わせて認識していく。「昔はこうだった」、というのが、オヤジ尺度のひとつだそうだが、認知症の世界とは、その現在と過去とが「並行」して存在している事態の肥大化であろう。そして「過去」に言えることは、「未来」にもいえる。それは、現在の状態から過去の規則性をよみとることと、未来の予測をすることとは、同じ能力、計算なのだから。そうやってわれわれは、地球の過去の大気と未来の大気、CO2の増減がどうのと観測しているわけだろう。

以上の話を、もちろん今の私は、考え中、勉強中の「量子論」にひきつけて発言している。SF的な多世界論ではなく、凡庸な、普通の人の多世界論としてである。

2020年12月6日日曜日

量子論をめぐって

 


図書館で量子論に関する本をいくつか借りたついでに、『新潮』12月号の、三浦雅士氏と福嶋亮大氏の最近の文学事情に関する対談を読んだ。さらについでに、ページをぺらぺらめくって、島田雅彦氏の、古井由吉氏の遺作『われもまた天に』の感想を読んだ。そこで、島田氏は、古井氏を量子論的観点から考察している。

私の、古井氏に関する関心も、島田氏のものと重なるところがある。いわば、時間と空間の、マクロ現象では常識的ではないとされる、その量子的なふるまいを文学者側から捕捉しようとしたような営為にである。プルースト『失われた時を求めて』のアジア版、日本語版といおうか。しかし、古井氏の関心が、あくまで、詩的なレベルにとどまっているとするなら、私はもう少し、文学とは切り離された、まずは科学的解析として、より散文的に理解し提示してみたいとおもっている。モデルとしては、ドストエスフスキーが、当時の数学の先端、非ユークリッド幾何学にふれて、それを自身の形而上学的な思想や終末思想にまでひろげながら、多様な主人公を設定して、散文的な議論を闘わせたような営為、になる。

量子論というと、文学的には、マルチバース、多世界論や平行宇宙論など、SF的な関心になりがちだ。島田氏も、そっちへのバイアスが強いようだ。東浩紀氏の『クォンタム・ファミリー』や、このブログでもとりあげた、倉数茂氏の『名もなき王国』もそうだろう。しかし私には、むしろより凡庸なこの世界、波と粒子の二重性という量子の性質でいうなら、波(潜在世界)よりも、粒子(物質世界)にこそウェイトがある。波(潜在性)を現実的に理解するところから、マルチバースになり、スピリチュアリズムの思想がはびこり、逆にその現実性を度外視するところに、俗物的な物質主義が支配的になる。が、大切なのは、<他ならぬこの>、ということだろうと、私は柄谷行人氏の『探究』経由で、量子論を理解しようとしているのだろう。他(可能なる潜在世界の多様性)ならぬ(その肯定による否認)この世界(唯一・固有性)、ということだ。この世界の理解には、量子力学的な波動的観点が必要であるが、それが、統計確率の平均値、ビッグデータみたいに理解されたらもともこうもないだろう。二重スリットの量子実験は、電子ビームを一粒ずつ打って、その多数打った統計的現象として、スクリーンに記録された波模様を観測するわけだから、それは、ビッグデータから一般法則を見だすのと同様な事態なのだ。そして実際に、いまや人間が、三浦VS福嶋氏の対談でも指摘されていたように、主体ではなく、量子的なふるまいをする統計(集団)として処理され、されることを望んでいるようなヴァーチャル世界事態になっているわけだ。AIが解析してネット上に提示される欲望は、明確に集団統計からくるが、それが個人のふるまいを現実化している。ウィルス騒動も、個人の思いを排除し、父母の死に目にもあえず、統計処理に従うよう要請している。

しかし粒子一粒一粒に、実存性や固有性があるわけではないだろう。スピリチュアリズムでは、そう解釈しようとするむきもあるようだが。が、あくまで、粒子と粒子との関係性に、固有な記憶性が刻まれているはずだ。が、その視点は、科学的にはまったく未解明なままである。が、粒子でも、陽子や電子といったフェルミ粒子や、光子のようなボース粒子といった区別があって、そのふるまいの違いと関係構造の考察に、量子関係の固有性をのぞかせる現象がうかがわれているのではないか、という気がしているが、勉強中だ。

夢は、覚めたばかりでも、思い出すのは困難だ。が、事実として収束した記憶は、つまりは経験は、時とともに解釈がかわるとはいえ、そうではない。つまり、潜在的に波としてみたものと、事実的に粒としてみたものとでは、記憶のあり方がちがう。また、ワクチンレベルでDNAの入れ替え治療がおこなわれ、遺伝子が変わって人格もが変わってしまう人もいるのだそうだが、それでも、記憶の同一性はあるようで、別人が同一人物と重なってしまう、というのもあるらしい。さらに、3.11の被害者に、両親から「不思議ちゃん」とよばれていた子供がいて、その子は、なぜか、神社参りして祝詞をおぼえることが大好きだったそうで、そんな現象を理解するには、前世の記憶という仮説を持ち出さないと理解しにくいが、としたら、それは、自然が量子レベルでの関係の固有記憶をリサイクルした、ということになるはずで、それでも、津波という自然の波動は、またシャッフルしたのか、ということになって、なぜなんだ、どうしてそんなことをするのだ、と訴えたくなる。

アメリカの大統領選を報道するネットTVで、アメリカではいま、バイデンの当確と「並行」してトランプ勝利が実現する世界が重なり動いている、と解説するニュースがあった。たしか、「大紀元」とかいう、ニューヨークに拠点する香港だか台湾系のメディアだ。意識的に、「並行世界」などという表現をつかったのかどうか、私にはわからないが、マルチバース論からは、そうなるのだろう。バイデン大統領と、トランプ大統領の世界に、アメリカは分岐した、するのだと。人間の選択が、宇宙(自然)の選択になりうるという、人間中心主義の思想をとることに私はばからしさを感じるが(しかしおそらく、宇宙とは、そんな人間の観測の産物でもあるだろう)、いまは、毎朝、通勤時、その重ね合わせの世界を実感してみようと試みている。引っ越しした借家から、自転車で職場へ向かうのに、先月まで住んでいた団地を通っていくのだ。時刻は七時に団地を出ていたのと、ちょうど同じ時刻に、そこを通過する。近所のお寺の鐘が鳴って、まさに、時間と空間が、そのゴーンという波動とともに重なる感じだ。引っ越ししなかった私と、引っ越しした私が、朝日にむかって、坂を疾走していく。そこから先は、同じ職場が、同じ仕事が待っている。違うのか、同じなのか? 不思議な感覚だ。

以上のような不思議なもつれを、文学的営為として刻みたいとおもっている。


*島田氏は、「ところで、量子のわけのわからなさを如実に示す二重スリット実験というのがある。縦長のスリットを二つ入れた衝立に電子を照射して、それがどのようにスリットを通過するかを確かめる実験だが、電子は人が観察している時は「粒子」として、観察していない時は「波動」として振る舞う。観測が起こると同時に電子は動きを変えてしまうため、観測していない時に何が起こっているのかは知りようがないのである。/なぜこうなるのか、結果の違いを引き起こす「観測」とはそもそもどういう現象なのか、長らく不明のままだったが、量子や原子同士が相互干渉することによって「観測」という事態が生じ、電子の状態が即座に決定されるということが証明された。」と言っている。本当に、「証明」されたのだろうか? というか、上の言いかただと、曖昧すぎてしまう、のではないか? たとえば、機械(観測装置)が反応したままでは、波であるらしいのに、人間が「観測」して、はじめて波が収束する、が、人間も機械も、量子なので、どこに違いがあるのか、ということがわからないので、「証明」になどなっていないのではないのか? つまり、「観測していない時に何が起こっているのかは知りようがない」ままなのではないか? いや、この言いかたも、曖昧だろう。波のとき、シュレディンガー方程式に従うことがわかっているのだから。つまりわからないのは、あくまで、「人間」がわからないのである。電子同士でのもつれも、収束し、波が粒になるが、だからといって、それが人が見て収束し粒として確定する「観測」と同等なのか、不明なままなのではないだろうか? Youtube上での量子論解説には、こうある。―― 「しかし私達自身がこれらの全く同じ粒子から作られているならば、では、私たちが何かを観測する行為が、宇宙の他のすべてのものと根本的に異なるのはなぜなのか? これは史上最大の未解決の科学的哲学的なミステリーの1つです。」

私は、生命というものが、量子の収束した現象なのだと予測し、そのビッグ収束の集まりのなかでも、小さな波のもつれと収束が反復される、という現象が生体内のあちこちで起きているのだろうと予測もする。波動方程式を発明というか発見したシュレディンガー自身が、最後の「生命論」で、そう感じていたようである。だから、生きた猫と死んだ猫が重なり合う曖昧な(多重)世界などおかしいだろう、と、「シュレディンガーの猫」という思考実験を皮肉的に提示したわけだろう。彼は、生命とは出来事なんだ、とみていたわけだ。あれこれではなく、このなんだ、と。が、アインシュタインとともに、その真理追求の科学態度は衰退し、実用科学として、シュレディンガー方程式が利用されてきた。真理追求は、棚上げされたわけだ。が、最近になって、それではすまない状況になり、真理探究的な包括的な理論をめざす動きが若い学者たちの間ででてきている、ということらしい。

2020年11月22日日曜日

よる


 知らない道ではなく、ときおりは通ってきた駅前の商店街ではあるのだが、いざ近所に越してきょろきょろしてみると、はじめて気にとめるような風景や店の並びであるように感ぜられる。めっきり早くなった夜の暗がりばかりにそう映るだけともいえないようだし、いつもは自転車でだったが、いまはゆっくりと歩いてみているからという、その速度の違いともおもわれなかった。やはり、通りすがりの者と、そこに身を落ち着けて暮らし始めた者との、心の有り様の違いが、眼にうつる世界を変えてしまっているのではないかという気がしてくる。行きずりの者にあっては風景でよかったものが、暮らす者にとっては、より具体的な知識である必要があった。ここに、花屋があり、煎餅屋があり、寿司屋があり、バーがあり焼きトンを食わせる飲み屋がある。いまは夕食のために家からでてきたのであるから、食い物をだす店へと目がさぐっていくが、そのうち、違う用で通り過ぎるたびに、違う目的でうろつくたびに、果ては用も目的もなくただぶらぶらさまようはめになってさえも、風景はより必要な情報となり知識となって、眼というよりは脳内を走り回った抽象物となっていくのだろう。しかし、そんなにも、ここに居ついているつもりはなかった。すくなくとも、私にとっては。
 心臓の手術をおえ、血液の硬化をふせぐ薬剤効用の切れるひと月後、今度は盲腸の手術をする手はずになっていた女房は、持病のほうの潰瘍性大腸炎の悪化にともない、その悪性の液腫の可能性もあるという虫垂の切除が11月にまで延期されると、その期間中にと、引っ越しを断行したのだった。ちょうど住んでいた団地の物件を紹介した不動産屋から暑中見舞いのはがきが届いて、手数料が半額になるとも印字されていた。それをもって不動産屋を訪れた女房は、いきなり息子が通っていた小学校の脇にある崖下の中古物件に目をつけて、この家をどうリフォームしたらいいかを説きはじめたのだった。「ほんとうに、ここがいいのか?」おもいこんだらやめられないような性分の彼女の気を、どうなだめたらいいのだろうと、私は思案した。引っ越しはいいだろう、息子が、食卓下で寝ているのだから。早めに実行するのもいいだろう、来年は、受験をむかえるのかもしれないのだから。しかしいくらなんでも、わざわざ再建築不可物件の、崖上の墓下の、洪水時は水没するかもしれない地帯の物件を、格安だからとわざわざ購入する必要があるのか? おそらく、隣地の空き地は、ここから立ち退いていった家の跡地だろう。残りは、突き当りの2件、ひとつは伸び放題の植木のなかにうずもれた二階家、もうひとつは、だいぶ昔の都営アパートによくみられたスレート屋根の平屋で、住人が外壁や物置のようなものを増築させていた。その2件と空き地と女房が目を付けた二階家で、四角形な澱みを作っていた。まるで、最近ヴェネチアで賞をとった監督の映画にでてきた、猟奇的な殺人犯が暮らす映画の背景設定みたいだな、と私はおもった。その映画の犯人は、一家皆殺しの決行の前提として、そんな四角形な空き地と一体となった家並みにこだわるのだった。いやさらに、4メートル幅にはたっしていない路地道の下は、川がながれているのだという。その暗渠となった道は、近所の火葬場の下をくぐり、関東大震災でのがれてきた下町の地区名をもった商店街を抜け、昭和初期まで江戸染め物をこしらえていた職人たちが集まっていた小川へとつづいていた。私の勤める植木屋も、そんな下町風情があったかつての商店街の一角にあるのだが、その職場の二件隣は、「なめくじ横丁」と無頼派の作家、檀一雄が住んでいた長屋を称して呼んだところだった。川沿いのほうには朝鮮人部落があり、崖下のほうには乞食部落があったと、そんな界隈の住人だったもう一人の作家、林芙美子は書き残していた。私たちが住んでいた団地が、地元の人たちが声をひそめていう「乞食山」にあたるのだ。住める隙間があるならばそこに潜り込んで、地を這うようにして生きる……私自身は、そんな世界でしのいできたことになる。おそらく、崖下のあの平屋の住人も、現場の人間だろう。親方の話では、地区でも一番に狂暴だった「火葬場の連中」はいなくなったそうだから、墓守ではないだろう。女房は、そこにある雰囲気に妖しさを感じてとって、惹きつけられるのかもしれない。しかしそのこと自体が、そんな世界と隣接して生きていくことの無理をあかしている。私にも、なお理解できることではないかもしれないが、三十年もそこで生きていれば、認知できた。
「この一帯は、この間みた映画にそっくりだよね。」私は言ってみた。「更地になった一角に三件が向き合っている。俺の実家も、そうだよね。空き地があって、裏には元軍人の屑屋が掘っ立て小屋を作って住んでいた。」女房は、私の実家と自身が選ぼうとしている敷地が似ているとされる評価が生理的に受付けられなかったのだろう、「ババをつかまされたのかもしれない」と、すんなりその物件をあきらめた。そして次に、高台へとかけあがった。川向うの、大会社の社長やかつての総理の邸宅がつらなる一帯の物件である。官僚たちの居住も多いことを、新宿区の少年サッカークラブの理事会にも参加していた私にはわかっていた。息子と一緒に目を付けた物件を見学にいき、「一億円をこえてたよ」と報告する。結局、高台の方面ではなく、水の流れる方ではあっても水没の危険指定ではない一角の借家にはいることになった。それでも、路地の突き当りであり、入り組んだ住宅地だった。

 博多ラーメンを食べて家にもどると、奥のリビングで、女房がなお夕食をとっているらしかった。スマホ操作で、UberEatsから唐揚げ弁当の二人前を頼んでいた息子はみえなかった。なお空けられていない段ボールの山でうずまったキッチンやダイニングの向こうにあるリビングから、テレビの音声がもれてくる。知り合った金持ちからもらったという大画面のテレビは、息子がリモコン操作で設定をすまし、映るようになっていた。その息子は、二階の自室にいって、団地から運んできたテレビの方をひとりでみているか、スマホをのぞいているのだろう。山間の谷間を蟹の横ばいのように進んでリビングまでいってみると、これまた金持ちの知り合いからもらったという八角形の木目のはいった食卓に、ほとんど食べきれていない弁当が残っていた。テレビでは、再選された都知事が、家庭での料理も小分けにして、座席も正面に対面して食事しないようにと呼びかけている。家具のような椅子に腰かけた女房は、持病の具合はよくなってきているらしかったが、この秋になってからぶりかえしてきたウィルスのため、また偽粘液腫の疑いある手術が来年へと延期されたのだった。頼まれていたパン屋からの食パンと、おいしそうにみえたメロンパンやカレーパンのはいったビニール袋をテーブルに置いた。まだ財布や金のはいった封筒が、どこの段ボール箱にあるのかさがせないので、弁当も、明日の朝食も、息子や私がだしていた。いつになったら、片付くのか、もうこちらに来てから二日たっている。病気で力の持続しない彼女では無理があるのはわかるが、このまま山のなかにうずもれて暮らしていくような気がしてくる。まともに動けないのだから、お任せ便にすればいいのに、と私はおもったが、引っ越しは段ボール箱への詰め込みはこちらでする節約便にしたのだった。家を買うとかいっているのに、なんでそこでケチる必要がでてくるのか、私にはわからないのだが、おかげで、とにかく箱に詰めろ、と言われつづけた。「あんたは引っ越しをしたことないのでしょ。熊本から移ってくるときにはそうしないと、もっていってくれないのよ!」と追い打ちをかけられる。いや駅前の長屋住まいみたいなところから団地へと引っ越すことだってやったではないか、あのときは、草野球仲間の運送屋に頼んだのだった。今回は、パンダマークの一番の大手だ。見積もりに伺うという連絡が一番に早く、電話した数時間後の夕飯時に営業マンがやってきた。仕事をおえての風呂からあがったばかりの私は、熱燗を飲んでいた。近所への引っ越しなので、二トン二台が二往復できる。人員は三名。値段をきくと、それ以上やすくなったら人件費がそうとうたたかれるみたいになるから、つまりはすでに相場通りになるのだから、他の業者からも見積もりをとって根切り交渉をするなんてことはやめて、いま段取りを組んでもらったその安上がりになる値段でいい、即決しようと酒を飲みながら女房にすすめる。妹からは、大手は高い、と助言されていたようだが、いくつもの業者と話すのが億劫になるのだろう女房は、すんなりと私の勧めを受け入れた。
「こんなの、段ボールにはいるのか? 入れる必要があるのか?」自分の書籍は、箱に詰め終わっていた。というか、そもそも大半が押し入れに押し込んでおくために、ミカン箱などに詰めこまれていた。子供のサッカーをみていたころに買っていたサッカー関連の本は、近くのブックオフへと売り払っていた。おそらく、この引っ越しをきっかけに、箱に詰めたのをよいことに、大半が古本として出されるだろう。移動が重くなることに、抵抗を感じた。身軽になりたかった。だから、家を買い、定住をしていくという考えの前提も受け入れがたかった。女房は、なお家を購入することを意欲しつづけている。そこに住まなくなったら、売り払えばいい、という。だから、中古の物件を買って、リフォームをしておくのだと。そんな成長が、これからの若い世代での購買力の反復も、私には信じがたかった。高度成長期やバブルのような時代が、近い将来も安泰だというのか? そう信じたい、というより、自分にはその破綻は降りかからないというバイアス的な希望観測にうさながされているように、私にはみえた。その傾向は、藁をもすがる信仰に似た印象を受ける。だからそれは、あくまで個人的な人生上のきっかけが支えているはずだろう。彼女の場合、それは病であり、死の近さであり、その予測からくるあがきなのかもしれない。だとしたらそれは、家族といっしょに過ごしたい、ということになるのだろうか? テレビでは、アメリカの大統領選からIOC会長来日のニュースにかわっている。女房の隣の椅子で、メロンパンを食べ終えた私は、食卓をたつ。手術入院中に、女房と同じ持病を悪化させて、歴代就任記録を更新した総理は自らやめていった。かわってなりあがったばかりの新首相が、東京オリンピックへの決意だか疫病対策だかのような話をしはじめている。病の進行と処置の延期とともに、どたばたと、時代もが動いている。同期している。それは、どちらのほうへ向けてなのか、死か、生きていくことへなのか……。

 11月も半ばをすぎるというのに、暖かい日がつづいていた。仕事でも半そでになったほどだから、掛布団があつくるしく感じられる。ようやく、公共的な産業労働から解放されて、例年どおりの、年末にむけての庭の手入れになって、心の状態は落ち着いてきているはずなのに、なかなか寝付かれない日もつづいていた。新しい住居に、慣れていないせいがあるのだろう。寝室になっているこの部屋も、段ボールの山だ。駅や線路に近いのに、電車がレールをたたく音などは聞こえてこない。静かだった。実家のある群馬の子供部屋では、1キロは先にある電車や県道を走る自動車の空気を切っていく音が、なまあたたかい風とも金属をこすっておきる波動とも伝わってきて、それが不気味に、とくには増築して二階家になったばかりのまだ小学生のころは、不眠をながびかせるほどだった。古い平屋の家がなつかしく、悲しくなった私は、家の間取り図になにほどかの詩をしたためて、腐りにくい鉄質のお菓子の箱にいれて、押し入れの天袋によじのぼり、その天井の薄べニアをもちあげて、開けた屋根裏の暗さ、むきだした柱や梁が不思議な形をつくった空間のひと隅に、そっと置いてきたのだった。いまでも、それはあるはずだった。もしかして、地震で二階の屋根裏から階下へと転落し、中身がちらばっているのかもしれない。そこには、家への思いだけではなく、私の初恋の人への告白した一文もがまじっているだろう。私は結婚してからの、地元での同窓会で、その人とあった。レストランの会場からトイレへいく途中の、窓枠まえの荷物置き場に、中年になりかけのふたりの女性が座っていた。ひとりは、すぐにわかった。そのわかったほうの女性が、隣の女性を指さして、「誰かわかる?」ときいてきた。「わからない」私の返答は、即座であっただろう。一瞬、わからないといわれた女性は、はっとしたような表情をした。私が彼女を思いでの女の子と一致させることができたのは、数日後であっただろう。
 まだ時刻は八時をすぎたばかりだろう。普段よりは、幾分か床につくのが早いかもしれない。目をつむって、先週まで住んでいた団地の寝室の、天井を脳裡によみがえらせる。白い壁紙。今年にはいって、糊がだめになってきたからか、つなぎ目から剥がれはじめていた。それを、白い養生テープで補強してある。さらに、団地のまえに住んでいた木造アパートの天井。もう、しっかりとは思い出せない。さらには、と、実家の子供部屋の天井。薄暗い真夜中の闇のなかで、板がはめこまれている。最初は、弟と一緒に寝ていた部屋のもの。そして、兄が進学のため上京したあとにはいったほうの勉強部屋。布団から、ベッドになった。そのベッドに仰向けになってみつめていた、板天井の木目。眼のようにみえる。私は、見られていた。地元の進学校にはいってまもなく、私は高校にゆけなくなった。夜、天井をみていた。朝、台所で母が用意する食器の音が子守歌にでもなるように、眠りについた。ある朝、父が、呼びに来た。「どうしたんだ?」その父の瞳は、どこをみているともしれず狂っていた。父は、入院した。いまごろ、私の息子は、この西側の寝室とは向かいの東側にある子供部屋で、何をしているだろう?
 私は目をあけて、枕元のスタンドの灯りをつけて、読みかけの本を手に取る。最近この学者は、ノーベル賞をとった。ブラックホールの研究成果によるという。<私は、一つの状態ともう一つの状態の重ね合わせを、不安定な状態――それは崩壊しかかっている素粒子やウラン原子核などに少し似ている――と見なしたい。素粒子などは崩壊すると別のものになるが、その崩壊と結びついた一定の時間スケールが存在する。状態の重ね合わせが不安定だというのは一つの仮説だが、この不安定性は、私たちが十分に理解していない物理学の存在を暗示しているはずである。>(『心は量子で語れるか』ロジャー・ペンローズ著 ブルーバックス)――量子コンピューターでも利用しようとされている「もつれ」という量子の現実は、「不安定」なのだとみる。ということは、あくまで、この「収束」した私たちの現実が安定している、ということだ。量子的な世界では、生きている猫と死んでいる猫が重ねあわさっているという、多世界解釈を受け入れた方が理論的におさまりやすいと指摘されもする。そう理解されてしまうのは、まだ、私たちが宇宙を知らないからだ、生を知らないからではないか……生まれること、それ自体が量子のもつれの収束であるとしたら、問題となる猫とは、まだ生まれてない猫と、生まれている猫との重ね合わせになるはずだ。死は、ありえない。水も記憶し、金属も記憶形状するように、生まれた私たちは生きていく、まだ生まれていないものたちといっしょに。物質が、変化するだけだ。つまり、生が、変化するだけなのではないか……。弟が、父が終末期にはいったようなので、自分が施設長になった老人ホームへと移動させるとラインをよこしたのは、昨夜だった。母は、納戸となった階下の奥まった寝室で、眠りつづけているだろうか。薄闇のなかで、白黒の眼たちが、山になった段ボール箱から漏れてくる。ぎょろぎょろと、見開いた目を、重ねてくる。いくつも、いくつも……押しつぶされるような圧迫が、睡魔に変わる。



*これは、ブログ上で発表しはじめた小説、仮題『いちにち――他ならぬこの世界で』の一部になる。これまでアップしてきたものは、「桜の木の下で」「あさ」「ひる」「買い物」「散歩」「『世界史の抗争』(時枝兆希著 トランスミッション出版)」「ふろ」「夕飯」、になる。おそらく、第二部になる「ゆめ」となるだろうその後は、ブログ形式では無理なので、とりあえず発表せずに、書き溜めていくことになるだろう。

2020年11月3日火曜日

『VIDEOPHOBIA』と『スパイの妻』


宮崎大祐氏が、黒沢清氏の助監督を経験することから映画界に入っていったような経歴があるので、なにか影響関係があるのか、と黒沢氏の作品を借りてビデオ鑑賞しはじめたのがふた月まえほど。若い頃も黒沢作品をみてなかったわけではないが、よく知らなかった。そんな家での鑑賞中に、黒沢氏のヴェネチアでの銀獅子賞のニュースがはいった。ちょうど、『旅のおわり 世界のはじまり』をみて、『TOURISM』と同期しているのではないか、と感想を抱いていた矢先だった。若い女の子が旅をする、一方はウズヴェキスタンへ、もう一方はシンガポールへ。驚いたのは、そんな女性主人公の着る衣装の同期的対称性だ。『旅のおわり―』では赤い体育着のようなスボン、『TOURISM』では、青い体育着のようなスボン……そこまで似るのか、と思わせるところが随所にありながら、どこか、決定的な、いや対立的な差異が感じられる。当初、私は、宮崎氏のほうが、黒沢氏への批判意識があって、意図的にそうでもしているのか、と勘繰ったが、撮影時期が重なるというより、宮崎氏の方が先行しているのだ。2019年公開の『旅のおわりー』に対し、『TOURISM』は2018年である。いやさらに、助監督にはいった2008年の『トウキョウソナタ』から4年後に、宮崎氏ははじめての長編映画『夜が終わる場所』を撮っているのだが、これは、黒沢氏の『クリーピー』を先取りしている。となると、この同期と差異にみられる影響は、師弟関係的なものとは別次元にあるといわねばならない。

そう推定されてきたところに、今回、黒沢氏の『スパイの妻』、そして宮崎氏の『VIDEOPHOBIA』が、ほぼ同時公開された。私は、興味深々だった。そして案の定というべきか、両映画のテーマやシーンなどに、同期生と差異性が、顕著に顕れていた。そこにあるのは、両者の、歴史や世界にたいする対応性の鋭さを共有しながらの、そこでのスタンスにおける、政治的、階級的な立場の自覚的差異、ということになるのだろう。

たとえば、『スパイの妻』は、会社に勤める男たちの風景によってはじめられる。『VIDEOPHOBIA』は、家にいる女たちの前景によって開始される。主人公の女性は、前者がブルジョワの令嬢であるなら、後者は、長屋暮らしを家族とともにしている在日の娘だ。令嬢は9ミリ半で撮影され、娘は8ミリで被写される。ハンサムな社長は、理念を奉じるコスモポリタンとして女性をだます。ハンサムな自称化粧品会社の社長の息子は、欲望に奉じる詐欺師として女性をだます。だまされた女は狂う。令嬢は夜の浜辺を走り、娘は夜の繁華街を走る。前者は亡命を、後者は整形を試みる。男女ふたりが一緒に映画をみるシーンがありながら、資産家のみるドラマと庶民のみるお笑い系の時代物なのか、も対照的だ。もちろん、住んでいる家も、ともに関西が舞台でありながら、一方は神戸の有産都市を、もう一方は大阪の雑居市井を背景とする。劇中劇で作品を構成しているともいえる両者の共有性と差異性は、こうあげていくだけでも驚くべき照応がある。

しかし、私がいま話題にしたいのは、以上のような作品構造レベルの話ではない。より主題的な事柄である。『スパイの妻』が臨場感をもってみえてきてしまうのは、その映画の時代背景、素材背景と現代との偶然的な同時性が発生してしまったからだ。もちろん、コロナ禍といわれるものと、日本軍の931部隊がやったとされる照合性だ。日本軍は、ペスト菌を使った化学兵器をばらまき、感染した中国人患者を収容して人体実験に使用したとされる。主人公の会社社長は、その極秘情報の証拠をアメリカへ引き渡して国際世論を喚起していく企てをたてたわけだ。これは、現在、中国や香港の研究者がアメリカに亡命し、新型コロナが、中国人民軍が中心になって作成した化学兵器であると証拠をあげて告発している様とだぶってくる。自国民がワクチンの被験者として利用されているブラジルの大統領は、われわれはモルモットではない、と告発している。その真偽は不明なままでも、私たちが巻き込まれているグローバルな状況が、昭和時代を舞台にしたこの映画鑑賞に緊張感をもたせてくるのだ。

『VIDEOPHOBIA』も、このコロナ情勢を予言していると指摘されている。しかしそれは、どうも主人公の女性が、化粧マスクをしているシーンがはさまれていたかららしい。しかし私がそこにみるのは、マスクをしない庶民の姿のリアルさである。もちろん、この映画の撮影は、コロナ禍以前、映画中のセリフからは、平成最後の年、とされているのだが、公開がコロナでのびて、その被害状況の最中で大阪の市井の人びとが活写されていくのをみるとき、私は、マスクをしない庶民の姿と重ね合わせてみざるをえなくなる。植木職人の私の身の回り、東京の山の手の新宿でも、その庶民街では、マスクなどつけないほうが自然な風景だからである。世間が騒いでいる最中、親方の家の玄関先の路地道の空き地では、平然とバーベキューをして騒ぐ近所の親子連れの集いが、毎週のように見られた。子供から親まで、マスク姿などない。食っちゃべる。いいのか、と私など驚いてしまうが、そこに、政治性などまったくない。うかがえるのは、ただ生きている力だ。『VIDEOPHOBIA』での祭りに精を出す男たちの姿、世界……それは、マッチョなようでいて、そうは解釈しきれない何事かが蠢いている。それは、在日の主人公アイが暮らす長屋の女たちの、混沌を生き延びてきた母親が語る心底に通じているだろう。

『スパイの妻』はどうか? もちろん、映画では、マスクなどつけてはいないが、マスクをつけていく社会になるだろう。それは、女たちの世界ではなく、男たちの世界である、ということだ。妻夫二人での亡命のはずが、男の練りに練った策略で、貨物船の木製コンテナに潜りこんだ妻は憲兵につかまってしまう。おそらく、夫が密告し、それをおとりに、自分は漁船で逃げ延びる手配だったのだ。妻の方が隠し持っていた、931部隊の蛮行の隠し撮りフィルムは、夫によっていつのまにかすり替えられていて、証拠実見のさい、それは夫が監督をし妻が主人公となったメロドラマの上映会となってしまった。証拠はなくなったが、事態を悟った妻は幕へとよろめき、「お見事!」と叫びたおれ、そのまま精神病院へと処置された。私は、「ありえない」、とおもった。もし、自分の妻が、たとえ愛によるとしても、そのような策略にはめられたとしったら、どう言うだろうか、と考えた。「ふざけんじゃねえ!」、であろう。映画は、神戸空襲の最中、浜辺を走りたおれる女の姿に、「終戦」という字幕、そして、アメリカで生き延びているかもしれぬ夫をおうようにしてか、戦後、女がアメリカへ渡ったことを告げる字幕が現れておわる。こうした最後のシーンは、『文学界』11月号における、蓮見重彦氏をまじえた脚本担当・濱口隆介氏との対談では、黒沢氏本人が脚本に付け足したシーンであることが告白されている。たしかに、絶望感ではおわらない、黒沢氏らしい挿入なのかもしれない。が、これは、とってつけたように、私には感じられた。そもそも、この女の設定が、錯誤だったのではないか? 私は、『死の棘』の島尾敏夫とその妻ミホの間柄のことをおもった。たしかに、映画でも、女性の一途な、献身性が喚起されている。が、それに愛する男がこたえないとき、それでも女は男の考えに従属するようについていくのか? 演歌で歌われる女のように。私には、島尾の妻ミホのように、狂いながら、男を告発していくか、違う生活を決然と作っていこうとするのが、女性的な力として一般的なのではないかと認識する。『文学界』の対談では、この女の狂気もまた、戦時を切り抜けるための芝居の可能性もある、そう曖昧な解釈の余地を残して制作されていることが話されていたりする。しかし、そんな賢しらな男たちの態度など、一顧だにしない盲目性が、女性の力なのではないか?「お見事」? そんな認識は、男たちの錯誤が前提とされているのではないか? そのセリフが、女優本人からの即興であったとしても、それは女性としてというより、映画構成に拘束された女優としての演技にしかならないのではないか? 真実に迫るためのフィクションというより、はじめからの、お芝居に近い。神戸に設定しながらロケ地は千葉県だったり、有馬温泉が、群馬の四万温泉、ジブリの『千と千尋の神隠し』のモデルとなったとされる旅館だったりする。予算とかの現実的都合上、そうなり、特定の場所、時代を志向するというより、象徴的な場所としての映画を試みることにした、というような解説もなされている。なるほど、その象徴性が、コロナ禍の世界へと一般化されもするわけだが、虚構としての強度は弱くなってしまっているのではないか。しかし宮崎氏のドキュメンタリー手法は、逆に幻想としての強度を持つことに近づいているようにみえる。映画が提出してみせるネット社会とは、リアリズムというよりは、どこか形而上的な世界である。ヴァーチャル世界に流布された彼女の淫らなシーンは、ありえない角度からの画像であふれだしはじめる。男に抱かれながら棚におかれた8ミリカメラをのぞいたその一瞬の視線もが、あらぬ視覚から活写される。誰がみていたというのか? もはや、男が隠し撮りしていたという推定は、揺らぎ始めてしまう。ありうるとしたら、神か、幽霊か……いや画像をこえて、映画自体が幻想的、幻覚的な趣をもちはじめる。スマホから突然出現した男の声に、街中にはりめぐされた監視カメラを越え、上空をみあげたアイの十字路での立ち姿は、『TOURISM』での、神隠しにあったニーナがようやく女友だちと再開できたシーン、その背後にながれた子供(妖精)のくぐもった声とが重なってくる。これは、人間の物語なのか? しかしカメラは、うつつと幻を区別しないように、ただ大阪の街並みを連写しつづける。

この不気味な日常のリアルさを支えているのは、『スパイの妻』では錯誤とみえた、女(たち)をめぐる宮崎氏の洞察にあるのではないか、と私は推察する。

『VIDEOPHOBIA』では、アイは、整形をして新しい男との生活をはじめる。この決意は、自分を隠そうとした女性の被害者意識がそうさせた、ということではないだろう。女たちは、そこに心底通じた庶民世界は、そうやって生きてきたのだ。精肉工場に入っていったアイが、もぐりの整形屋なのであろう男に、パスポートとなけなしの現金を提出したとき、私は、彼女が朝鮮へと亡命しようとしているということなのか、と推論した。『スパイの妻』とは違ったわけだが、アイにとっては、整形は、亡命と同義的な決意であったろう。スパイの妻は失敗した。アイは、成功した。それは前者が、あくまで、国を代える他人本位な決意なのに対し、後者は、自分の身体を変えていこうという決意であるからだ。マスクをして、自分に変革を迫る他者を排除しようとするのではなく、それを受け入れざるを得ないのっぴきならない場所で、自分の体ごと変えることができたものだけが、新たなる他者、次なる世界を作っていける。最先端のテクノロジーと、(大阪)庶民の取り残されたような市井の雑居性が同居している。男たちの賢しらな都構想は、一昨日、敗れ去った。テレワークなど実践されようがない日常であっても、自らの身体を変革しえた、遅れ抑圧されたものたちこそが、次なる世紀を作っていくのだ、社会を受け継いでいくのだ――宮崎氏の洞察のなかには、そんなメッセージがたくされているように、私にはうかがえた。

しかしこのコロナ禍、女性の自殺率の急激な増加が統計されている。宮崎監督の、ある意味古典的な、柳田国男のいう「妹の力」のようなもの、ラカン的にいうならば、「全てではない」me too的な連結の力、女たちのネット社会は、はたして、どこまでその潜勢力を保持しうるのだろうか? リアルの根底もが、ゆらぎはじめているのであろうか?